ドストエーフスキイ全作品読む会
ドストエフスキー作品メモ



「注」がささやく細部とポリフォニー
【詳注版】カラマーゾフの兄弟(杉里直人訳 水声社 2020)【注・解説・年譜篇】より


下原康子
 


『カラマーゾフの兄弟』を何度も読み返してきましたが、「注」については本文中にある短い記入を読むのがせいぜいでした。文学というものはおもしろく読めばそれでいいという考えで、物語に入り込むことさえできれば、少々の疑問やひっかかりは気になりませんでした。あるとき、江川卓訳『カラマーゾフの兄弟』を再読しました。読んだ直後に初めて巻末に長い「後記・注解」があるのに気づきました。「おもしろければそれでいい」という考えはあい変わらずですが、ドストエフスキーについては「注」もなかなかにおもしろいという発見をしました。

このたびの杉里直人訳『詳注版 カラマーゾフの兄弟』には「注・解説・年譜篇」(255頁)が別巻になっており、約1300項目の「注」が収められています。29冊にもなったという詳細なノートがこのたびの「注・解説・年譜篇」出版に結実したことは、一般読者にとってもたいへんうれしくありがたいことです。「注」に関係のある分野は非常に広く多岐にわたります。ざっとあげてみます。

@旧約聖書、新約聖書、福音書、聖書外伝 A教会と国家、修道院、教会用語 B文学(多数) Cロシアの状況、社会、身分制度、教育制度、暮らし、風俗、フォークロア D事件(新聞)報道 E司法制度、裁判用語 F『作家の日記』『創作ノート』『手帖』  G『アンナ夫人の証言』『回想』『書簡』 H原語の含意、俗語、囚人の隠語(シベリア・ノート)I原文の構文解釈 Jドストエフスキー特有の言語用法 その他。
*B文学者等の引用としては、シラー、ゲーテ、プーシキン、ゴーゴリ、シェイクスピア、ヴォルテール、ユゴー、ネクラーソフ、ベリンスキイ など。

記憶に留めておきたい「注」のいくつかを以下に書き抜きました。あくまでも個人的な興味と一般読者の理解がおよぶ限りで選んだものです。また、各「注」の引用は全文そのままではなく、ロシア語など原語の部分はすべて省略しています。また、引用の文章部分についても大きく省略している場合が多々あります。 
( )の数字は「注」の番号。茶色の部分は下原の追加

  第1編 ある家族の歴史   
 1 (61) コゼーリスクのオプチナ修道院 カラマーゾフ執筆直前(1878)に哲学者ソロヴィヨフとともにオプチナ修道院を訪問。長老アンブローシーに面会した。
  第2編 場所柄をわきまえない会合   
 2 (3) ばねつき四輪馬車/四輪幌馬車 「ばねつき四輪馬車」は貴族のステイタス・シンボルでミウーソフが修道院に乗り付けたのはこの馬車。カラマーゾフが乗り付けたのは四輪幌馬車で同じ貴族でも層が違うことを明示している。(第10編で、イリューシャの診察に訪れたモスクワの名医が乗って来たのがホフラコワ夫人に借りた「ばねつき四輪馬車」だった。その他の場面でも馬車はよく出てくる。モークロエに疾走したのはトロイカだった)
 3 (49) 息子が不憫、あとほんの三月で三つになるところでしたのに・・・・・ アンナ夫人の証言に「これは1878年に亡くなった息子アリョーシャを反映している。この年にカラマーゾフが書きはじめられた」とある。(本書にはアリョーシャの写真が載せてある)
 4 (57) 祈ってあげよう・・・・・旦那さんの健康も祈ってあげよう アンナ夫人の証言「オプチナ修道院から戻ってきた夫からこの言葉を聞いた。 亡くなったわが子を思って嘆き悲しむ夫に、長老アンブローシーがこのとおりの言葉で約束してくれた、と感激して話した」
 5 (59)  ワーセンカという息子がいて・・・・・ アンナ夫人の証言「私たちの子どもの乳母にワーセンカという息子がいてシベリアに行っていた(正確には流刑)。まる一年便りがないので、乳母は息子の魂の冥福を祈りたいと夫に助言を求めた。夫はそれを思いとどまらせて、ワーセンカはまもなく手紙をよこすから、と説得した。すると実際に1〜2週間後に手紙が届いた」
 6 (144)   ワーニャ  イワンの愛称。末弟アレクセイがほとんどアリョーシャ、長兄ドミートリーも多くの場合、ミーチャと愛称で呼ばれるのに対し、イワンが親しみをこめてワーニャと呼ばれるのは、700頁を超える原文でここ一か所だけである。そのほかに(どちらかと言えば幼児向けの)ワーネチカが三回、卑称のワーンカが一回使われるだけである。
([第2編G]の最後近くフョードルがイワンをワーニャと呼ぶ。また、[第3編好色な男たちH]でフョードルが、[第7編アリョーシャA]でラキーチンがイワンをワーネチカと呼んでいる。またワーンカは、第11編注(69)を参照)
  第3編 好色な男たち   
 7 (11) リザヴェータ・スメルジャーシチャヤ ドストエフスキーの弟アンドレイの回想「父の持ち村には、≪阿呆のアグラフェーナ≫と呼ばれる不幸な20〜25歳の女がいた。強姦されて出産したが、その子はすぐに亡くなってしまった。アグラフェーナは墓地に葬られた赤ん坊の思い出をたえず口にしていた。兄の長編を読んだとき、彼女のことを思い出した」
 8 (75) 風呂場の湿気から湧いてでたんだ ドストエフスキーは1876〜77年の手帖に、この表現は「死の家の死者たち」(=囚人)がいかがわしい素性の人間を罵るときに用いる罵言」と書き留めている。
  9 (80) 去勢者 訳者の説「スメルジャコフを去勢派教徒とする説は魅力的だが論拠に乏しい。彼はイワンの理論の信奉者であり、骨の髄まで無神論者である」
 10 (84) クラムスコイに『瞑想する人』と題する傑作がある クラムスコイは移動派の画家。 ドストエフスキーはその才能を高く評価しており、スヴォーリン邸で会見している。 ドストエフスキーの死の翌日、作家宅を弔問して素描「死の床のドストエフスキー」を残している。
  第4編 病的な興奮(ナドルイフ)  
11 (1)  病的な興奮  第4編の鍵語の一つ。「何らかの衝撃、過酷な心的経験の結果生じる精神と体力の急激な減退」(『アカデミー辞書』)あるいは「何らかの感情や状態のヒステリックで病的な表われ」(『ウシャコフ辞典』)。既訳は「破裂」「感情の激発」「激情の発作」「病的な興奮」「うわずり」「錯乱」など。
 12 (47) どうか悪く思わないでください 原語は現代の標準語辞典には「長い別れ、永遠の別離に際しての挨拶」として「さようなら」の意味しかのっていない。しかし、もともと別れに際しての謝罪「もし何か悪いことをしていたら、赦してくれ」(『ダーリ辞典』)が込められていた。第9編(67)の「赦してちょうだい」も同じ。「詫び」として使う例は、このほかにも何度かある。
  第5編  プロとコントラ  
 13 (22) あなた アリョーシャはスメルジャコフに対してты(おまえ)ではなくВы(あなた)を用いている。地主の子息が下男に対してあなたを用いるのは異例である。
 14 (30)  そんな公理は・・・・・になってしまう ドストエフスキーはロシアの知的貧困を繰り返し非難している、たとえば、『作家の日記』1868年5月第1章第3節には、「我が国にはいかなる尺度もないという点こそが問題なのだ。西欧ではダーウィンの理論は天才的な仮説だが、我が国ではとうの昔にすでに公理になっている」とある。 
15 (47) 教養あるインテリの紳士・・・・・細枝の鞭で殴った話 1876年1月23日〜24日にペテルブルグ地方裁判所で審理され、新聞・雑誌で物議をかもしたクロネベルグの幼児虐待事件がもとになっている。ドストエフスキーは『作家の日記』同年2月第2章で、この事件と裁判を取りあげており、被告人陳述や弁護人陳述を引用しながら、その理非曲直を遡上に載せ、事件の残酷さ、論証の理不尽さを批判している。「教養あるインテリ」とあるが、クロネベルグは実際、ワルシャワとブリュッセルで大学教育を受けた法学士だった。この事件の弁護を担当し、ドストエフスキーがその三百代言ぶりをきびしく批判した辣腕弁護士スパソーヴィッチは『カラマーゾフ』第12編に登場するドミートリーの弁護人フェチコーヴィッチのモデルとされる。
  第6編 ロシアの修道士   
16 (5)  不思議なことに・・・・・精神的な面ではあまりにもよく似ているように思われる アンナ夫人の回想。1873年の冬、ソロヴィヨフがわが家を訪ねてくるようになった。若く学業を終えたばかりだった。夫は会って話せば話すほど彼が好きになり、しっかりした彼の知性と教養を高く評価するようになった。あるとき、夫は彼に「あなたを見ると、ある人を思い出すのです」と言った。「私が若いころ多大な影響を受けた、シドロフスキーという人ですがね。顔だちも性格もそっくりなので、彼の魂があなたに乗り移ったんじゃないかと思うくらいです」。
ドストエフスキーがシドロフスキーと知り合ったのはまだ工兵学校在学中のことで、当時シドロフスキーは、財務省勤務のかたわら、後期ロマン派的な詩を書いていた。その後ハリコフに帰り、ロシア教会史の研究に専念するが、結局、断念した。1850年代に修練士として修道院に入り、キエフに巡礼したりもするが、修道生活にも飽き足らず、スヒマ僧を辞して帰郷した。その面影は、初期の中編『主婦』の主人公オルディノフに反映しているとされ、ドストエフスキーはたびたび彼の思い出を語っている。
(ソロヴィヨフはカラマーゾフ執筆直前(1878)にドストエフスキーがオプチナ修道院を訪問したときに同行した人物。『ドストエフスキー 同時代人の回想』の中で、晩年のドストエフスキーの面影を愛情深く生き生きと伝えている。)
 17 (12)  『旧約・新約聖書からの百四の聖なる物語』 アンナ夫人の証言「この本によって夫は読み書きを習った。この本はドストエフスキー博物館に保管されている」ドストエフスキーの弟アンドレイの『回想』にも、兄弟がみな最初に読んだ本として言及がある。
  第7編 アリョーシャ  
 18 (22 /40) タマネギ  従来「葱/ねぎ」と訳されている。「長ネギ」を想起するが、原語ではタマネギのこと。ロシアでは長ネギを栽培しておらず食する習慣もない。収穫前のタマネギは鱗茎が地中にあり、30〜60センチの細長い葉が地上に出ているので、葉と鱗茎をいっしょに引き抜き、鱗茎部分を火の池にさしのべて、そこに女がつかまったと考えれば、何ら問題はあるまい。
  第8編  ミーチャ  
 19 (1)  三千ルーブリ 約600万円
 20 (46)   きみ ここから、ミーチャのペルホーチンに対する二人称が、相手に距離を置いた丁寧なВы(あなた)から、ты(きみ)に完全に切り変わる。心理的な関係の微妙な変化、揺れが見える。一方、ペルホーチンの方はこの段階ではまだВы(あなた)を用いている。(第6編で、謎めいた訪問者が告白の前日における二度目の訪問のとき、ゾシマを初めて「きみ」と呼ぶ。また、第11編でアリョーシャはカテリーナがイワンを「あんた」と呼ぶのを聞いて「それほどの間柄」になっていたとわかってギクリとする場面がある。)
 21 (48)  まあ、料亭ならいいか・・・・・行くつもりだったんでね  ここからペルホーチンも ты(きみ)に切り替える。
  第9編  起訴前の取調べ  
 22 (46) 最低の下種 既訳では「卑劣漢」が多い。 『カラマーゾフ』の鍵語のひとつで、形容詞や副詞も含めれば180回出てくる。とくにミーチャがよく使う。『ダーリ辞典』では「自分の目的の達成のためには下劣なおもねりも辞さず、名誉心、自尊心のかけらもない人物」のほかに「(階層、身分が)賤しい、下賤な、下層の、奴隷的な」の意味もある。反対語は「高潔な」で、これもやはり、出自に関わる「高貴な生まれの、貴族的な」を含意する。
  第10編  少年たち  
 23 (35) 『ムハンマドの縁者、あるいは霊験あらたかなる瘋癲』  1785年にロシア語訳が出版された。ひょんなことからコンスタンティノポリスを訪れたフランス人が体験したさまざまな性的冒険の物語。コーリャは亡き父の書棚からこの本をみつけて官吏モロゾフのところで目をつけていたフロンズの大砲と交換した。
 24 (37) 本物の火薬はそんな作り方はしない ペテルブルグの中央工兵学校の卒業生ドストエフスキーは、在学中に砲術、化学、地雷敷設術などの授業を受けており、この方面の専門家でもあったはずである。ちなみに工兵学校在学中(1838年)のドストエフスキーの砲術の成績は10点満点中8点だった。
 25 (50) もし神が存在しなければ、神を考えださねばならない ヴォルテールの書簡詩『三人の詐欺師に関する書の著者への書簡』からの引用。この有名な言葉を、すでにフョードルがパロディとして(第1編第4章)、イワンがまじめに引用していた(第5編第3章)。
  第11編  兄イワン・フョードロヴィチ  
 26 (10)  フェチュコーヴィッチ・・・・・たくさん取るんだろう フェチュコーヴィッチ弁護士のモデルは、当時の大物弁護士スパソーヴィッチとみなされている。7歳の幼女を鞭で折檻した銀行家のクロネベルグ事件の弁護を担当しており、ドストエフスキーは『作家の日記』(1876年2月)でその三百代言ぶりを酷評している。フェチュコーヴィッチという姓は「気難し屋、不平家、やかまし屋」(『ダーリ辞典』)、「ぼんやり、怠け者、阿呆、とんま(『十七巻辞典』)を意味する俗語から作られている。
27 (18)  心身喪失 アフェクト。通常は「(怒り、恐怖、絶望などの)発作、興奮、激情。一時的な精神錯乱」の意だが、この場合は「人が自己の行為の認識能力、自制力を喪失してしまうほどの病的な精神衝撃」を指す。司法改革後の刑法では、アフェクトが責任能力の完全な欠如に達していると判断された場合、刑罰の軽減あるいは免罪になった。
 28 (21)  十二歳くらいの子ども・・・・・本当に放火してしまうんです アリョーシャがリーザに言った言葉。ヴェトロフスカヤは、1867年に起こった地主の娘オリガ・ウメーツカヤの放火事件を念頭に置いているのだろうと推測している。十五歳の少女は両親の不和、育児放棄、虐待に反抗して自殺未遂し、 四度自宅に放火した。この事件・裁判はドストエフスキーの多大な関心を引いて、『白痴』執筆の契機の一つとなり、これをめぐって彼は多くの覚書を残している。
 29 (33)  クロード・ベルナール フランスの生理学者(1813〜78)。生理学に実験的方法を導入、中枢神経の運動作用に注目し、動物と植物の活動をつかさどる共通原理の発見につとめた。代表作『実験医学序説』(1865)は、ドストエフスキーの盟友ストラーホフの手で1866年に翻訳された。『カラマーゾフ』執筆当時、ベルナールの死去にともない、内外の新聞・雑誌に多くの追悼記事が出た。(チェーホフは『実験医学序説』を熟読していた)
 30 (35) 賢い人間はザリガニ捕りがうまい 原文のほぼ直訳。「シベリア・ノート」第273番に「サリガニ100匹もらったっていやだよ。今ためしにザリガニ200匹寄越してみなよ。たしかに、いやだって言うからさ」という言いまわしがある。全集第4巻の注釈によると、「サリガニ」は「10ルーブリ紙幣」の隠語(このお札が赤い紙に印刷されていたので)。
 31 (52) くるりと廻れ左してしまう 日本語の感覚からすれば「廻れ右」だが、原文に忠実に訳せば左。ヨーロッパ諸語では右を意味する語が「正しい」という意味をもつ以上、「左」には(どの辞書にも反対の意味を持つと明記されてはいないが)「不正の、間違った、不吉な」を含意していると考えられる。現に『カラマーゾフ』には意図して「左」に意味を含ませているとしか考えられない例が散見される。たとえば、第5編第5章でイワンは「異端審問長官」をアリョーシャに聞かせたのち、料亭の前で別れる際、「おまえは右、僕は左だ」と言うし、その直後、父の家に戻ったイワンが庭先でスメルジャコフに会った際、イワンに向けてウィンクした(とイワンが思った)のは彼の左目だった。スメルジャコフの《左性》は3度にわたるイワンとの会見においても顕著である。(スタブローギンはマリヤに会いに行きがけに突然現れたフェージカを追い払おうとして「おれは左だ、おまえは右だろう。橋は終わったぜ」と言う。『悪霊』第2部@)
 32 (69) ああ、ワーンカはピーテルに行ってしまった、/あたしはあんな男を待ったりしない! この曲の原典は現時点ではまだ究明されていないが、ポリーソワは、これはペテルブルグへ冬の間の稼ぎに行った農民の間で歌われた俗謡の一つだろうと推測している。ピーテルはペテルブルグの俗称、ワーンカはイワンの俗称。テラスは、この歌の歌詞はイワンに、無意識にではあるが、惨劇前夜に家を出たイワン自身と彼の帰りを待てなかったスメルジャコフの姿を認めさせる効果があるのではないかとうがった見方をしている。([第12編誤審D] でイワンがこの歌詞を口にする)
 33 (74)  『シリアの聖イサクの言葉』 この本はグリゴーリーの愛読書だった。スメルジャコフがこれをどんな経緯で入手し、そこに何を読み取り、いかなる影響を受けたかなどの点につき、テクストのどこにも一言のことわりもなく、解きがたい謎のままである。
 34 (75)  細部だぞ、肝心なのは細部だからな イワンがスメルジャコフに発するこの言葉についてアンナ夫人は「主人は何ごとかに関心を持ったときに愛用した」と述べている。
 35 (82)  譫妄症 原語は「慢性アルコール中毒による興奮、妄想、幻覚、うわごとなどを伴う振戦せん妄症」。日本語の既訳には「譫妄症」(米川、原卓也、江川)、「酒客譫妄」(原久一郎、小沼、北垣、池田)のほか「幻覚症」(亀山)がある。 
 36 (140) 『地質学的変動』 ヴェトロフスカヤはこの題名をルナン『イエス伝』の次の記述に関連させる。「イエスが待ち望んだような革命は、地質学的あるいは天文学的原因でしか起こるはずがないし、さような原因が、道徳的な事柄とどんな関係を持つのか、かつてそれを確かめた人はない」さらに、この主題とストラーホフ『全一体としての世界。自然をめぐる学より』の一章「惑星の住人」の若干のモチーフとの関連も指摘する。
  第12編 誤 審   
37 (82) 虹色札  百ルーブリ紙幣、約20万円。
38 (93) 思想の姦通者  評論家マルコフが1875年2月初旬に『声』紙に発表した「十九世紀のソフィスト」で司法制度改革で花形職業の一つになった弁護士を《思想の姦通者》と呼んで痛烈に批判した。『カラマーゾフ』のフェチュコーヴィッチのモデルのスパソーヴィッチもこの語には因縁浅からぬものがあった。彼はペテルブルグ弁護士会のパーティでの乾杯の辞で、「思想の姦通者が十九世紀のソフィストたちの健康を祝して乾杯いたします」と挑発的なスピーチをした。
 39 (117)  判決の宣告は明日に持ち越された  午前10時に開廷され、人定尋問、起訴状朗読、罪状認否、証拠調べ、証人の尋問、検察側論告、弁護側最終弁論、裁判官による事件の要約、陪審員の評決まで一日で一気に審理を進め、深夜一時近くに結審、翌日に判決という即決ぶりは、現代の感覚からするとあまりに非現実的な印象を与え、ここに作家の虚構性を読み取る向きもある。だが、当時の刑事裁判記録を見ると、特異なことではなく、『カラマーゾフ』で言及のあった一連の事件、クロネベルグ事件、ランツベルグ事件、ザイツェフ事件、カイローワ事件はどれも、開廷から判決まで1〜3日ほどの短時日で行われていた。ちなみに、地方裁判所での殺人事件の陪審裁判を重要な題材とするトルストイ『復活』でも、朝始まった公判はその日の午後5時ごろに判決が出るというスピード審理だった。『復活』では『カラマーゾフ』で省略されていた陪審員の評決にいたるまでの協議の模様が生々しく描かれている。
 40 (118)  二十年は鉱山の匂いを嗅ぐことになるな ロシア帝国刑法では尊属殺人は鉱山での無期懲役労働だった。ドミートリーのモデルであるイリインスキーもやはり懲役20年の刑に処せられたが、このように無期刑が有期刑に軽減されるのは、罪を軽減する諸事情が審理の過程で明らかになり、法廷がそれを勘案する場合だけだった。
 41 (144) 誰をも咎めないため・・・・・命を滅ぼす スメルジャコフの遺書のこの文面は『悪霊』の、やはり縊死したスタブローギンの遺書「誰をも咎めることなかれ、私みずからなり」と響きあっている(田島章子さんのご教示による)。「滅ぼす」の原語は「根絶する、絶滅する」という強い意味の動詞で、この動詞を「みずからを滅ぼす(=自殺する)」の意で特異な使い方をするのは『カラマーゾフ』の特徴である。イワンがアリョーシャに自殺の可能性をほのめかす場面でも使われている。『作家の日記』の「ふたつの自殺」、「柔和な女」でもこの特異な表現が使われている。
    解 説  
 42 (1)   [父ミハイル・アンドレーヴィチ] これまでの伝記で強調されてきた「怒りっぽく陰気な猜疑心の強い吝嗇家で、一家は暗く陰鬱な生活を強いられ、息子たちはそのような父を嫌っていた」というドストエフスキーの父親の見方が近年の研究で見直されてきている。子どもに対する要求が厳しく、晩年は妻の不貞を疑うような嫉妬深い一面があったとはいえ、社会的には上司からも患者からも信頼される有能な医師であり、私生活では妻を深く愛し、子どもの成長と教育を第一に考える夫・父親であって、決して粗暴で傲慢な暴君でも、無責任な父親でもなかった。当時、貴族の家庭では当然のように行われていた鞭による折檻について、自分たち兄弟は一度も受けたことがないと弟のアンドレイが証言している。
 43 (5) [スタブローギンの悪魔] 悪霊の「ロシア報知」版にはあって、単行本からは削除されたスタブローギンに関する注目すべき箇所。「スタブローギンがダーシャに向かって、自分のところを3か月ぶりに訪れた悪霊について訴えかける場面である。それは、1860年代風のいかにも自己満足した、下僕根性丸出しの愚鈍な神学生に身をやつして現れ、これ以上ないほどにおぞましいやつだとスタブローギンは言う。彼は悪霊がみずからの分身であることをよく知っているが、悪霊自身は独立した存在だと言い張って、スタブローギンに自分の存在を信じるよう執拗に要求するという」。これは言うまでもなく、イワン・カラマーゾフが幻覚でみる悪魔の前身にほかならない。
 44 (31)   [《罪深い女》グルーシェンカの《実践的な愛》] その具体例を三点あげておこう。@グルーシェンカの庇護者だったサムソーノフはいよいよ死期が迫ると、彼女を門前払いし、もう自分のことは忘れてくれと絶縁を宣言するが、彼女はかってみなに爪弾きにされて孤立無援だった自分に救済の手を差しのべてくれた老商人への恩を忘れず、彼の家に毎日使いをやって容態をたずねさせている。A身寄りもない宿無しで病みがちの老マクシーモフを、ただもっぱらかわいそうだという理由で、自宅に引き取って面倒をみている。B彼女が金持ちになったことを知ってよりを戻そうとし、ふたたび深い幻滅を味わわせた「昔の男」ムシャウォヴィッチが乞食同然の貧乏暮らしを強いられているのを知ると、あれこれと不満を述べながらも、金銭的援助を惜しまず、食べ物まで届けさせている。 


参 考

ドストエフスキーのおもしろさはディテールに宿る 杉里直人氏「『カラマーゾフの兄弟』を翻訳して」を聞いて