古川哲雄:自己幻視 <原典・古典の紹介>(抜粋)
神経内科53:566-571,2000

自己幻視は古くより知られていたが、1891年Charles Fereにより医学の対象として取り上げられるようになった。人間の精神現象を考える上では極めて興味ある特異な幻視であるが、未だ文学のテーマではあっても医学が取り扱いかねている現象の一つである。文学作品中に見られる自己幻視の代表格はドストエフスキーの『分身』であろう。この作品は、主人公のゴリャートキンが自己幻覚につきまとわれるものであり、自己幻覚そのものが主題になっている。 (中略)この作品は発表された時は評論家ベリンスキーも失敗作であると断定したほど評判は悪く、現在でもそう読まれる作品ではない。この現象を経験したことのない人にとっては幻想的な駄作としか考えられないであろうが、経験した人にとっては興味深いものであろう。ドストエフスキーがこれを自信をもって発表したのは彼自身この体験があったからではなかろうか?そうでなければこれほどの記載は不可能であろう。ついでながら、彼の記載はクローン人間を考える上で参考になる。筆者自身は幸か不幸かこの体験はなく、医学的な興味で読んでいるのである。 自己幻視は全身のこともあり、身体の一部、とくに顔面のこともある。その意味でゴーゴリの『鼻』も自己幻視を扱った文学の一つに入れるべきではなかろうか?

古川先生は神経内科医で『天才の病態生理 片頭痛・てんかん・天才』(医学評論社 2008)の中でドストエフスキーのてんかんについて書かれています。