ドストエフスキーとてんかん/病い



宗教的経験の諸相 上・下
James, William 1901-02 The Varieties of Religious Experience,
ウィリアム・ジェイムズ 著 枡田 啓三郎 訳
岩波書店  1969

本書はウィリアム・ジェイムズがイギリスのエディンバラ大学から招聘されておこなったギルフォード講義(1901〜1902)である。

解説(枡田 啓三郎)より

この講義においてジェイムズが何を語り、何を訴えようとしたのか、その論点について、1900年4月13日、「毎朝、ベッドのなかで少しずつ走り書きし、第三講の448ページに達した」ことを伝えたモースヘの手紙でこう書いている。
  
「私が自分に課した問題は困難な問題です。第一には、『哲学』に反対して『経験』を弁護し、それが世界の宗教的生活の真の背骨であることを論ずること、第二には、聴衆あるいは読者に、私自身が信じざるをえないことを、すなわち、たとえすべての宗教の特殊なあらわれ(つまりその教条や理論)は不条理なものであったにしても、しかし全体としての宗教の生活は、人類のもっとも重要ないとなみであることを、信じさせることです。ほとんど不可能に近い課題で、私には果たせないかもしれません、けれども、やってみるのが私の宗教的な行為なのです。」

また第一課程の講義の最終回の前日、1901年6月16日、ランキン(Henry W. Rankin)にはこう書き送っている。

「いま、第一課程の講義の終わりにきて、私は私の『問題』がいっそうはっきりした形をとるにいたったように思います。……この講義で私のとった立場は次のとおりです。すべての宗教の母なる海と水源は、神秘的という言葉をごく広い意味に解して、個人の神秘的経験のうちにあります。すべての神学やすべての教会主義は、上積みされた第二義的な産物です。そういう経験は、その経験をする当人の知的な先入観と容易に結びついてしまうので、それ自身の個有な知的表現をもたないと言ってもよいくらいですが、知性の住むところよりもより深い、より肝要で実践的な領域に属しています。そのために、神秘的経験は知的な論証や批評によって論破されることもできないのです。

私は神秘的あるいは宗教的意識を、神託が侵入してくる薄い隔膜をもった広い識閾下の自己というものをもっていることに結びつけて考えます。私たちは、私たちの通常の意識よりもいっそう大きくていっそう力強い、それにもかかわらず私たちの意識が連続している、ひとつの生命圏の現前を知らされずにはいられません。そこから私たちが受けとる印象や刺戟や情緒や興奮は、私たが生きていくのに力をかしてくれます、感覚のかなたにひとつの世界のあることを、いやおうなく確信せしめます、私たちの心を動かし、あらゆるものに意義と価値を与えて、私たちを幸福にしてくれます。みずからそれを経験した個人はそうなり、他の者はそういう人々に従うのです。

宗教はこうして不滅なものです。哲学や神学は、この経験的な生命の解釈を供するばかりです。識閾下の領域の周辺は、まだ知られてはいませんが、それは、先験的観念論によっては、私たちがその一部分と一つに結び合っている絶対的精神として扱われ、キリスト教神学によっては、私たちに働きかける独特な神として扱われることができます。私たちの直接的な自己でない何ものかが、私たちの生命に働きかけるのです!キリスト教の説明をあっさり片づけて、しかもキリスト教が生まれてくるより一般的な基礎を弁護する私は、聴衆にはおそらくいいかげんな論をなすものと見えることでしょう。こう簡単に述べたのでは、誤解されることになるかもと思いますが、致し方ありません!本が出ました、ら少しはよくわかってもらえるでしょう。」


これら二通の手紙のうちに、ジェイムズがこの書において述べようよしたことの核心は語りつくされていると言える。(訳者)