ドストエフスキーとてんかん/病い



宗教的経験の諸相 上・下
James, William 1901-02 The Varieties of Religious Experience,
ウィリアム・ジェイムズ 著 枡田 啓三郎 訳
岩波書店  1969

本書はウィリアム・ジェイムズがイギリスのエディンバラ大学から招聘されておこなったギルフォード講義(1901〜1902)である

第二十講 結論 「著者の仮説」より

一.自然とより高い領域とを仲介するものとしての潜在意識的自己 (下P.378)

そこで私は一つの仮説としてこう提唱したい。すなわち、私たちが宗教的経験において結ばれていると感ずる「より以上のもの」は、向こう側では何であろうとも、そのこちら側では、私たちの意識的生活の潜在意識的な連続である、という仮説である。このように承認されている心理学的事実を私たちの基礎として出発するならば、私たちは普通の神学の欠いている「科学」との繋がりを保つことができるように思われる。同時に、宗教的人間は外的な力によって動かされているという神学者の主張も支持されることになる。なぜなら、客観的な外観をとって、当人に外部から支配されているような暗示を与えるのが、潜在意識圏からの侵略の特徴の一つだからである。宗教的生活においては、この支配は「より高い」ものと感ぜられるが、しかし、私たちの仮説によれば、支配しつつあるのは、もともと、私たち自身の精神のなかに隠れているより高い能力なのであるから、私たちを超越する力との合一の感じは、けっして単に見かけだけでなく文字どおり真実な或るものの感じなのである。

この戸口を通って問題に入って行くのが、宗教科学にとって最善の道であるように私は思う。なぜなら、この戸口は多くのさまざまな見方の仲をとり持つからである。しかしそれは戸口にすぎないのであって、私たちが一歩この戸口を通って踏み入るや、そして、その向こう側をさらに進んで行けば私たちの超限界的な意識は私たちをどこまで運んでゆくのかと尋ねるやいなや、たちまちいろいろな困難があらわれてくる。ここで過剰信仰は始まる。すなわち、ここで神秘主義と回心の恍惚状態とヴェーダンタ哲学と超越論的観念論とは、彼らの一元論的な解釈をもち出してきて、有限な自己が絶対の自己と再びいっしょになるのであるが、それはつねに神と一つであり、世界の魂と同一であったからである、と私たちに告げるのである。ここで、さまざまなすべての宗教の預言者たちが、彼らめいめいがもったと考えている幻視、幻聴、恍惚状態、その他の啓示をもち出して、自分の独特な信仰が本物であることを立証しようとするのである。

二.より高い領域、あるいは神 (下P.382)

過剰信仰はしばらく措いて、一般的、共通的なものだけに限ってみると、意識的人格は救いの経験をもたらしてくれるより広大な自己と連続している、という事実こそ、宗教的経験に関するかぎり、文字どおり客観的に真であると私に思われる宗教的経験の積極的内容をなすものである。そこでいま私たちの個性のこの広がりのはるか向こうの限界に関する私自身の仮説を述べようとするに当たって、私は私自身の過剰信仰を提供することになろう。──これが諸君の或る方々には、悲しむべき信仰以下のものと見えるであろうことを私は知ってはいるが、──それに対して私は、逆の場合に私か諸君に与えるだろうと同じ寛大さを示されるよう、あらかじめお願いするばかりである。

私たちの存在のはるか向こう側の限界は、感覚的に知覚される、そして単に「悟性で知られる」世界とは全くちがった存在の次元に食い込んでいるように私には思われる。それは神秘的領域と名づけてもいいし、超自然的な領域と名づけてもかまわない。私たちの理想的な衝動がこの領域に起源するかぎり(そして、私たちの理想的な衝動はほとんど全部この領域に起源するのである。なぜなら私たちはそういう衝動が私たちにはっきり説明できないような仕方で私たちを支配していることを知っているからである)、私たちは、私たちが目に見える世界に属しているのよりもはるかに本質的な意味で、この領域に属している。なぜなら私たちは私たちの理想の属しているところにこそ、もっとも本質的な意味で属しているのだからである。けれども、問題のこの目に見えない領域は決して単に理想的なものではない。なぜならそれはこの世界のなかに現実的効果を生み出すからである。私たちがこの領域と交わるとき、現実的に業が私たちの有限な人格の上におこなわれるのである。なぜなら私たちは新しい人間に変わるからであり、そして、私たちの再生的変化に続いて、その結果が、自然的世界における行為の上にもあらわれるからである。ところが、他の実在のなかに効果を生み出すものは、それ自身一つの実在と呼ばれなげればならない。だから、目に見えない、あるいは神秘的な世界を非実在的と呼ぶべき哲学的な理由を、私たちはなんらもたないように私は思う。

三.神は自然界に真の効果をつくり出す (下P.386)

私たち自身の限界外の自己のこちら側から出発して、その向こう側の限界において私たちが交わるにいたる神が、絶対的な世界支配者でなければならないとするのは、もちろんはなはだ著しい過剰信仰である。しかし、それは過剰信仰ではあるけれども、ほとんどあらゆる人間の宗教の一箇条である。私たちはたいていなんらかの仕方で私たちの哲学の上に過剰信仰を接ぎ木しているつもりでいるが、実は哲学自身こそ、この信仰の上に接ぎ木されているのである。ということは、宗教は、その機能をもっとも遺憾なく発揮する場合、すでにどこかで与えられている事実の単なる照明ではなく、また、愛情のごとく、事物を薔薇色の光で見る単なる情熱でもない、と言っているのにほかならない。私たちが十分に見てきたように、事実そのとおりではある。しかしまた、宗教はそれだけのものではなく、それ以上の或るものである。すなわち、新しい事実の要請者でもあるのである。宗教的に解釈された世界は、唯物論的な世界を言いかえただけのものではない。それは呼び名の変更以上に、唯物論的な世界がもっているものとは或る点て違った自然的構造をもっているに相違ない。したがって、そこでは異なる種類の出来事が期待されうるし、また異なった態度が要求されなければならないのである。

このまったくプラグマティックな宗教観は、普通、一般の人々には当然のことと見なされているものである。人々は自然の領域へ神的奇蹟を挿入した。彼らは墓の彼方に天国を建設した。自然になんら具体的なものを付加することなく、また自然からなんら具体的なものを控除することもなく、ただ自然を絶対精神の表現と呼ぶだけで、自然を現にあるより以上に神的なものとすることができると考えるのは、超越論的な形而上学者ばかりである。私は宗教をプラグマティックに解する方が、いっそう深い見方だと信じている。この見方は宗教に魂と同時に肉体を与える、すべて現実的なものが要求せざるをえないように、この見方も自分自身の領分として或る特有な事実の領分を宗教に要求させる。信仰状態や祈りの状態においてエネルギーが実際に流れ込んでくるという事実のほかに、それ以上に特有ないかなる神的事実があるのか、私は知らない。しかしそのようなものが存在していると信ずるのが、私がそれに一身を賭していかなる危険をもあえて辞さない過剰信仰なのである。

私が身につけた教育全体から確信するにいたったことは、私たちの現在の意識の世界は、存在している多くの意識の世界のうちの一つにすぎないこと、そして、これら別の世界は、私たちの生活に対しても或る意味をもつような経験を合んでいるに相違ないこと、そして、大体においてそのような世界の経験はこの世界の経験とはどこまでも別個のものではあるけれども、或る点において両者は連続し、それによってより高いエネルギーがしみ込んでくる、ということである。この過剰信仰に対して乏しいながらもできるだけ私が忠実であることによって、私は自分自身がより健全で真実でいられるように思われる。

もちろん、私とても派閥的な科学者の態度をとることも、感覚の世界と、科学的法則および対象の世界とが全部なのかもしれない、といきいきと想像することもできる。けれども、そういう態度をとるたびごとに、私にはW.K.クリフォードがかって書いたあの心の中の戒告者が「馬鹿な!」と囁くのが聞こえるのである。たわごとは、たとえそれが科学的な名をもっていようとも、どこまでもたわごとである。そして私が客観的に眺めるとき、人間的経験の全表現はどうしても私をして、せまくるしい「科学的」な境界を超えさせずにおかない。確かに、現実の世界は、自然科学が認めているのとは違った性質のものである、──よりいっそう複雑にできているのである。このようにして、客観的意識からも、主観的意識からも、私は私が述べたような過剰信仰に達せざるを得ない。個人個人が、この世界においてそれぞれ自分自身の貧弱な過剰信仰に対して忠実であることが、やがて神ご自身の大いなる事業に対してそれだけいっそう忠実であることになって、現実に神のお役に立つことになるかも知れないのである。