Medical Dostoevsky&My Dostoevsky
ドストエーフスキイ広場 No.5(1996)


ムイシュキンの謎
『謎とき白痴』(江川卓 新潮社 1994)を読んで

下原 康子


『白痴』という作品のテーマの一つは「美」で、これが最大の謎だと思う。「美が世界を救う」という言葉には出典がなくて、ドストエフスキーのオリジナルらしい。そうなるとよけいに気になる。「愛が世界を救う」というのはよく聞くフレーズで、わかりやすけれど、なんだかつまらない。もし世界が救われるとしたら、「美」としか呼ぶことのできないものによってかもしれないと、ぼんやり思っているが、その正体はさっぱりつかめない。「謎とき『罪と罰』」、「謎とき『カラマーゾフの兄弟』」に続く江川さんの謎とき第3作目の「謎とき『白痴』」に期待をかけた。

完全に美しい人を描きたいというのがドストエフスキーの構想であった。そしてムイシュキンを創造した。とすれば、ムイシュキンは美を体現した人物で、彼の謎を解けば美の謎も解けるということだろうか。そこでムイシュキンの謎にしぼって江川さんの謎ときを見ることする。

その一。ムイシュキンは、<寒い国へやってきたキリスト公爵>である。これはなっとくできる。ドストエフスキー自身「この世にただ一人本当に美しい人がおります。それはキリストです」と言っている。江川さんの謎ときによればムイシュキンのばかでかいマントはキリストの上着、そして後光を暗示するという。

その二。ムイシュキンは<ドン・キホーテの再来>である。「キリスト教文学にあらわれた美しい人びとのなかで、もっとも完成されたのはドン・キホーテです。しかし彼が美しいのは、それと同時に彼が滑稽であるためにほかなりません」とドストエフスキーは言っている。

その三。哀れな騎士。これはプーシキンの詩に出典がある。理想(姫/純粋な愛)のためにその全生涯をささげた騎士。ドン・キホーテとそっくりだが、滑稽さはない。彼は最後に聖母マリヤに救われることになっている。アグラーヤはムイシュキンを哀れな騎士になぞらえ深い尊敬の念を抱きながらも、ドン・キホーテに似た滑稽さをからかわずにはいられない。 

その四。驢馬。ムイシュキンはいつも唐突に話を始めるくせがあるが、驢馬の話もその一つ。ムイシュキンの好きな驢馬は彼自身によく似ている。おとなしく無邪気で謙虚。そして滑稽。

その五。白痴。ムイシュキンはその無邪気さゆえにたびたび白痴(バカ)と呼ばれる。ラゴージンは彼のことを「神様に好かれる聖痴愚(ユロージヴィ)」だと言う。また彼はかって医学的にも白痴だった。てんかん発作のせいである。物語の最後にはふたたび完全な白痴となる。

江川さんの名前の謎ときでは、レフ・ニコラエヴィッチ・ムイシュキンは小鼠獅子之介となる。<姓と名との間の不均衡はたいへんなもので、「謙虚さはもっとも恐ろしい力」というアフォリズムの不均衡さとあまり変わらない。となれば公爵のうちには「小鼠」と「獅子」、「謙虚さ」と「恐ろしい力」が同居していることになる。>

キリスト、ドン・キホーテ、哀れな騎士、驢馬、白痴。これらが「美しい人」ムイシュキンのイメージを創っていることになる。それではこの人物にドストエフスキーはいかなる運命を与えただろうか。

この「美しい人」は世界を救うどころか破滅してしまうのだ。その破滅はホルバインのキリストによって前もって暗示されている。だだ一人本当に美しい人、その出現が永遠の奇跡である人でさえ、破滅させられるのだ。いったい誰に? 何によって? 冷酷でもの言わぬ暗愚な存在──自然の力によって、なのである。ムイシュキンの病(てんかん)もまた冷酷でもの言わぬ暗愚な存在を暗示している。発作はいつも突然起きて彼を死と隣合わせの不安と恐怖におとしいれる。ルカ福音書の中にキリストがてんかんの子どもをいやす場面があるのだが、そこでキリストは悪霊に向かって「唖と聾の霊、出てゆけ」と命じている。ラスコーリニコフはこの<唖と聾の霊>をネヴァ川の壮麗なパノラマの中に見た。

自身てんかん患者であったドストエフスキーの体験がムイシュキンの発作やその直前のくわしい描写に生かされていると考えられるが、このあたりの描写はいかにも謎に満ちている。エクスタシー前兆(アウラ)は医学的にも論議のあるところだ。「美しい人」ムイシュキンの運命はドストエフスキーによって破滅に追いやられた。これはプランどおりだったに違いない。キリストのように彼も予言どおりに滅びた。しかし彼もまたキリストのように復活して世界を救うであろうか?桁はずれの謙虚さと無邪気さがムイシュキンの特性である。この特性に加えて、彼の持つある一つの能力が「美しい人」の本質の中に存在する、と私は考えている。以下は私の謎ときである。

『白痴』では、大勢が集まる場面が多い。その中心にはたいていムイシュキンがいる。こどものよう無邪気な彼はすぐみんなに好かれるが、それだけではない。彼の言動にみなが注目している。ムイシュキンはとても気になる存在らしいのだ。リザヴェータ夫人は「はじめてかしこい人を見ました」と言うし、ラゴージンはすぐに「おまえが気に入った」と言う。ナスターシャにいたっては「あなたのような人を待っていた」とまで言う。アグラーヤはムイシュキンに対してはなんだかいつも意識過剰気味である。レべージェフは何でもかんでもムイシュキンにしゃべってしまうし、イッポリートにとって、ムイシュキンは特別の存在らしい。アグラーヤとナスターシャは現実問題として、彼を奪い合う。ムイシュキンは出会った人のだれかれとなく関わりをもち、彼らの身を心配する。私はイヴォルギン将軍のことでやきもきするムイシュキンが大好きだ。てんかん持ちで白痴と呼ばれる半病人の人物なのに、これほどまでに愛され、たよりにされている。どこにそのような魅力があるのだろうか。

それは、奇跡とも思える一つの能力せいであると私は考えている。それは<他者に共感できる能力>である。キリストを復活せしめたのはこの能力(奇跡)である。ドストエフスキーの作品の中にはこの能力を備えた数少ない人たちがいる。またこの能力にあこがれる少なからぬ人たちがいる。この奇跡のような能力が「美」と関係があるように私には思われるのである。

神秘家はこの能力を持っているように見える。神秘体験によって対象と一つになり、自己から解放される。それは「美」の瞬間であろう。アリョーシャは幾分神秘家だ。ムイシュキンもそうかもしれない。けれど私は彼をリアリストと考えるほうが気に入っている。

<他者に共感できる能力>は<他者の苦悩がわかる能力>でもある。だから対象と一つになる美の瞬間の実現はあっても、一方で十字架の苦悩がある。破滅と背中あわせなのだ。この美には安定がない。際限がなく、調和もない。しかし、誰もが(私も)ナスターシャのように「あなたのような人を想像して待っている」と言ってみたいのではなかろうか。

死のエピソードで埋めつくされたような、この作品は全体としては確かに暗い印象をうける。けれど私がこの作品を色で表現するとしたら白である。ユトリロの白。ぬりたくった白で、イッポリートの告白のマイエルの壁を思い出させるけど、また一方で、なぜだか透明な感じもして、黙示禄の<いのちの水の川>を連想してしまうのだ。