Medical Dostoevsky&My Dostoevsky


ドストエフスキーの作品におけるゲーテの「ファウスト」の役割

Predrag Cicovacki 著
   下原康子 訳

論 文 名: The Role of Goethe’s Faust in Dostoevsky’s Opus
著 者 名: Predrag Cicovacki
著者所属: College of the Holy Cross, Worcester, Massachusetts
掲載雑誌: Dostoevsky Studies, New Series, Vol. XIV (2010), pp. 153-163

ドストエフスキーは、ゲーテの人間かつ芸術家としての偉大さを心に留めていた。ゲーテをシェークスピアと並べて必読リストに選んでいる。中でも最も深い印象を受けたのが『ファウスト』だった。彼はこの本を17歳の時に初めてドイツ語で読んだ。ロシアの同時代人たちのほとんどは「ファウスト第二部」対して否定的な見方をしていたが、ドストエフスキーはこの作品を全体を通して高く評価していた。彼はいくつかの小説、特に『罪と罰』『悪霊』『未成年』『カラマーゾフの兄弟』でゲーテのファウストについて明示的あるいは暗黙的に言及した。

中でもイワン・カラマーゾフとの関係が顕著である。イワンは「ロシアのファウスト」、また逆に「ロシアの反ファウスト」とも呼ばれている。ある箇所ではファウストとイワンの類似点を示し、別の箇所では違いに触れている。これらの箇所はいずれも重要な意味を持っているが、二人の人物の関係についてこれまで十分に論じられているとは言えない。そうした理由から、私はこのエッセイにおける中心的な関心を、ファウストという人物の本質、より一般的には、西洋文明の象徴としてのファウストの特性と、それに対するドストエフスキーの反応に置いた。セクションTでいくつかの予備検討を行った後、「ファウストの呪い」と呼ばれるものに焦点を当てる。ゲーテとドストエフスキーは、人間の状態をほぼ定義すると言ってよいこの逆説的な緊張関係をどのように解決しようとしたか?ドストエフスキーの気性はゲーテの精神に近かったのか、それとも彼は偉大な先輩に背を向けたのか?

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ゲーテは、ファウストの精神を捕らえた観念がたった一つであることを否定したが、多くの評論家は、この傑作の本質が人間の奮闘努力(striving,Streben)のアイディアにあると信じている。ファウストの奮闘努力に関する3つの基本的な質問がある。
@この奮闘努力を推進させるものは何か。
Aそれは何らかの形で抑制されているか。
Bこの奮闘努力は何に向けられているのか。
この3点である。

ファウストの奮闘努力── おそらくすべての人間の奮闘努力は、生存を維持しようとする純粋な動物的衝動だけではなく、個人のアイデンティティと存在意義に対する深い困惑によってもつき動かされている。ファウストは当初、数々の才能と膨大な知識から、自分を神に似る者と信じていた。しかし、霊に「お前は、お前の会得する霊に似ているので、おれには似ておらぬ」(Du gleichst dem Geist、den du begreifst、Nicht mir)と言われ、完全に打ちのめされる。

彼のアイデンティティーはどこに向かうのか?。ファウストは自己実現に向けて奮闘努力する人間の象徴である。ゲーテの言葉によれば、「すべての美徳に勝るのは、常に上を向き、自分自身と闘い、純粋さ・知恵・善・愛をもって前進しようとする飽くなき欲求である。」

この奮闘努力は二つの基本的な形式を想定している。一つは、世界についての包括的な知識の探求(本来のファウスト)であり、もう一つは、根本的に課題を再構築し、最終的に世界を会得する(プロメテウスとしてのファウスト)である。イワンは、この両方の意味における奮闘努力に駆り立てられている。彼の奮闘努力を後押しするのは、彼が「生への渇望」と呼ぶものであり、彼は正義に向けて、罪なき人の苦しみがなくなる世界のための奮闘努力を主張する。イワン自身は本来のファウストと同じなのだが、変化を必要とするときには、大審問官(彼の思想)とスメルジャコフ(彼の都合)をも備えている。

また、彼にはメフィストフェレスもいる。イワンの部屋に訪れる悪魔がそれである。しかし、イワンの悪魔はイワンが行動に乗り出す前に現れたわけではなく、ファウストの場合のように悪魔と契約を結んで研究から抜け出すためでもなく、事件が起こってしまった後に現れる。

この違いの神学的意味を考えなければ、悪魔の存在は、最低限、ドストエフスキーもゲーテと同様に人間性の計り知れない二重性を認識していたことになる。ファウストが「悲しいかな、二人の魂が私の胸に住んでいる」と言ったとき、それはメフィストフェレスとの関係の反映を意図している。イワンもファウストと同じことが言えたはずだが、この二元性は彼の「ユークリッド的知性」とうまく調和しない。イワンは否定しようとあがく。しかし、この箇所にはドストエフスキーが読者へ向けた何か特別重要なメッセージが確かにある。

ドストエフスキーは、『罪と罰』『悪霊』という二つの小説で、ファウストとメフィストフェレスの関係をすでに探求していた。ラスコーリニコフは若く情熱的なファウストであり、彼のメフィストフェレスはスヴィドリガイロフである。彼がラスコーリニコフの屋根裏部屋に最初に現れたとき、自分自身のことを、ファウストのメフィストフェレスのように「常に悪を欲して、しかも常に善を成す、あの力の一部分です」と紹介することもできただろう。しかしながら、ゲーテのファウストとの大きな違いはすでにこの作品で始まっている。ラスコーリニコフは自殺したメフィストフェレスによってではなく、ソーニャ(=グレートヘン)によって救われる。

『悪霊』では、ファウストとメフィストフェレスの関係がさらに改変されている。スタヴローギンがファウストであり、ピョートル・ヴェルホーヴェンスキーが彼のメフィストフェレスである。物語の終わりに、ピョートルは逃亡するが、スタブローギンは救済されずに自殺する。さらに重要なことは、否定の精神を象徴する真の悪魔はピョートルではなく、スタブローギンの方だったことだ。彼の家庭教師のステパン・ヴェルホーヴェンスキーは、父親のいないスタヴローギンを最高の理想を目指して育てた。スタヴローギンは心身ともに卓越した才能を持つ若者に育った。熊と格闘できるほど大胆不敵で、やりたいと思ったことは必ずやり遂げる人物であった。彼はまさしくラスコーリニコフが夢想したスーパーマンだった。

しかし、物語の終わりで明らかになるように、スタブローギンは精神的不具者であった。彼の強力で邪悪な影響力のため、スタヴローギンと彼の周りの人々は、ルカ福音書の豚の群れのように破滅に向うことになった。自らを「異教のゲーテ」と称したステパン先生の「理想」が人々を助けることはなかった。彼は死の床で「理想」はイエスが説いた愛と謙譲によってのみ提示されていることに気づく。

スタブロ−ギンの創造において、ドストエフスキーはファウストのアイディアが、西洋文明の中心的な謎であり、単なる中心的なテーマというだけではない理由を明確に示した。ドストエフスキーは次第に確信を深めていった。真の危機は、善に仕えることになるかもしれないし、ならないかもしれない、というような、ちっぽけな否定の悪魔ではない。本当に深刻な問題は、自らの人生、努力、夢を、人類の進歩や社会の解放、ひいてはすべての人々の幸福の名の元に据えていると信じ込んでいる人たちである。 古いことわざにあるように、「地獄への道は善意で舗装されている。」

この悪魔の力で伝えられていることわざは、『カラマーゾフの兄弟』でさらに印象的に示されている。イワンは、ファウストおよび悪魔の姿の改良版である。なぜなら、彼は前作のスタヴローギンよりも豊かな人間性を保持しているからだ。イワンはまた、生きたいという強い願望を持ち、自殺することで現実から逃れようとはしない。「悪魔 イワンの悪夢」の章におけるイワンの悪魔はメフィストフェレスとは異なる立場をとっている。
イワンの悪魔は語る。

「メフィストフェレスはファウストの前に現れたとき、自分は悪を望んでいるのに、善ばかりしてしまうと確信したそうだ。まあ、これはあいつの勝手だが、ぼくなんかまったく反対だね。おそらく、ぼくはこの自然界で、真実を愛し、心から善を望んでいる唯一人の人間かもしれないぜ。・・・でも、ぼくが《ホサナ》を叫んだら、この世の一切はたちまち消滅して、なんの事件も起こらなくなるだろう。そんなわけで、ただただ自分の職務上の義務とぼくの社会的社会の地位ゆえに、ぼくは自分に訪れたまたとない機会を自分で押さえつけ、けがれた仕事をつづけることになるんだ。・・・ ぼくは仏頂面をして、歯をくいしばりながらも、自分の任務を遂行するんだ。一人が救われるために、何千人を滅ぼすという任務をね。」(江川卓 訳)

『ファウスト』の終わりに「数千」が破滅したのちに、ファウスト自身は救済された。イワンの悪魔が使う「けがれた仕事」と「一人が救われるために、何千人を滅ぼすという任務」という表現は、ゲーテの結論に対するドストエフスキーの不満を明確に表している。

ファウストが救済されたのはなぜか?ドストエフスキーは多くの批評家と同様に、「力を尽くして努力する人は救われる」というゲーテの中心的な思想は受け入れていただろう。それは、第二部の終わりに天使たちによって次のように歌われた。
「この炎に取り囲まるる者は、この世にありて善き人と共に、さきく過ごさなむ。諸共に満ちて、称えよ。風は清らかなり、霊よ、安かれ。」(高橋義孝 訳)

ウォルター・カウフマンによれば、ゲーテの描いた世界には地獄と罰の場所はない。ドストエフスキーは、この視点に納得しないだろう。地獄と罰がなければ、天国と救済もないはずだ。さらに重要なことは、ドストエフスキーはファウストのの奮闘努力に賛成ではなかったということである。その奮闘努力が残忍で不道徳な行為につながることはなかったにしろ、奮闘努力そのものは救済にとって不十分である。グレートヘンの運命を思い起こして欲しい。ドストエフスキーは奮闘努力に反対しているわけではない。ファウストに対する批判は人間の本性の本質的な部分であるからこそ重要なのだ。十分に意図された奮闘努力でも救いには十分ではない。そうでなければ、ムイシュキン公爵が最初に救われたはずだ。

ファウスト自身はともかく、少なくとも著者ゲーテはこの点に同意していた可能性がある。「ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』で、ゲーテは、限界のないの(ロマンチックな)奮闘努力と、限界のある限定された奮闘努力を明確に区別している。「限界のないの奮闘努力の限りにおいて人が幸せになれるのではない。」

ファウストでは、ゲーテは主人公にイワンが得意ではないもの、つまり行為と行動に焦点を合わせた。ファウストは、彼のモットーを「Im Anfang war die Tat!」(「初めに業ありき」)としている。ドストエフスキーはそれに対して、ヨハネ福音書の「初めに言葉ありき」と言う。行為の人ファウストの栄光をドストエフスキーは嫌った。これが西洋文明の衰退のまさに根源であり、そこに人類を破滅に導く悪魔の誘惑を認めたのだ。私たちの奮闘努力に限界がない場合、より正確には、そのような限界に対する敬畏がなければ、私たちが限界のないの願望について単に考えているのか、行動しているのかには大きな違いはない。(イワンは事件のとき遠くにいたにしても、父親殺しに対してスメルジャコフと共犯者であることを認識していた。)

ゲーテが神に近づくための高貴な努力と見たファウストの奮闘努力は、ドストエフスキーにとってはそれは人間の傲慢であり神に対する不遜であった。キリストではなく、反キリスト。救済ではなく、自己の破滅。これがドストエフスキーがファウストの神聖なる証明を受け入れることができなかった理由である。ファウストの運命はイワンにも訪れるはずのものだった。イワンの運命はゲーテのファウストの誤りの修正である。ドストエフスキーは、ゲーテの誤りは偶然ではなく、むしろ現代の西洋文明で展開されている、より一般的な、宗教と神に背を向ける傾向の兆候であると考えていた。

ゲーテの『ファウスト』は「舞台の前曲」から始まり「天上の序曲」につづく。その後の展開は聖書の物語をほとんど無視している。しかし、ドストエフスキーに言わせれば、私たちの奮闘努力に決定的な限界を与えたのは「ヨブ記」に他ならないのである。ヨブは、ファウストとイワンに劣らず、義のための奮闘努力にとらわれている。しかし、つむじ風からの声を聞いたヨブは手で口を蔽いそれ以上話らない。彼は静かになり、「わたしは自らを恨み、ちり灰の中で悔います」と認める。「ヨブがその友人たちのために祈ったとき、主はヨブの繁栄をもとにかえし、そして主はヨブのすべての財産を二倍に増された。」ヨブはファウストとは正反対の人物である。ドストエフスキーによれば、ヨブこそが自己実現のモデルであり、私たちの奮闘努力の究極の目標である。

ファウストが救済されるべきではなかったように、イワンも救済されなかったとしたら『カラマーゾフの兄弟』の中で救済される人物がいるだろうか。ドストエフスキーが冒頭の「作者より」に書いたように「続編」においてアリョーシャが救済されるという展開が予想できる。「本編」においてはアリョーシャの救済場面はないが、それは、彼が自分を見失うことがなかったからだ。しかし、ゾシマ長老の死後、アリョーシャにも危機があった。彼のメフィストフェレスであるラキーチンに誘われて、アリョーシャはあやうく悪魔との協定を結びかける。しかし、グルーシェンカと彼女が語った「一本の葱」によって危機を免れた。(ゾシマ長老の人生の物語は、後にアリョーシャがどのように転落し、そして救済されるかについての別の暗示かもしれない。)

アリョーシャを除けば、救済にはドミートリイというオプションもある。彼はイワンやアリョーシャよりはるかに強く生への渇望(カラマーゾフの力)と格闘している。物語の最初から、彼はすでに悪魔との協定に署名したかのように振る舞っている。彼は限りなく犯罪──実の父のフョードルと父親がわりに自分を育ててくれたグリゴーリイの血を流す状況──に接近していく。

ファウストに劣らず、ドミートリイのアイデンティティは混乱をきたしている。「熱き心の告白」の章で、ドミートリイはアリョーシャにゲーテの詩「神性」の冒頭「人よ、心を高くもて!」を、また自分を虫けらになぞらえて、シラーの「歓喜の歌」を引用する。そして「高潔な人間がマドンナの理想を抱きながら、往々にしてソドムの理想に終わる・・・人間の心はあまりに広すぎる」という困惑を打ち明ける。ドミートリイの詩的な魂は、イワンのユークリッド的知性が決して受け入れることのできないもの、つまり「対立するものの一致」(coincidencia oppositorum)と人間存在の逆説的な性質を受け入れた。そのことを祝福するようにさえなる。彼の魂がどん底にあったまさにその瞬間、ドミートリイは、ドストエフスキーが最高の知恵と救済をもたらす唯一の道と考えた自己超越の境地に至った。グルーシェンカに対するドミートリイの新たな態度は、小説に掲げられたヨハネ福音書の知恵に私たちを連れ戻す。
「よくよくあなたがたに言っておく。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。(ヨハネによる福音書第12章24節)」

グルーシェンカの獲得に失敗したドミートリイは、彼女の幸福の邪魔にならないよう立ち去ろうと決意する。まさにその変化によって彼はグルーシェンカの愛を勝ち取るのだ。神のより大きな知恵と彼に向けられた運命を最終的に受け入れたヨブのように、ドミートリイは信仰を、「地面に落ちて死ぬ」という運命を受け入れ、「多くの実を結ぶ」。ドミートリイは救済され、新たな機会に恵まれる。ファウストの「業」(Tat)ではなく、聖書の「言葉」(Slovo)こそが、私たちの奮闘努力の道、自己実現への困難な道を照らす光なのである。

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ドストエフスキーの宗教的見解を提示するにあたって、「信じるか、信じないか?」、これこそが作家が生涯をかけて追及しようとした最大のテーマであったことを忘れてはならない。彼は友人のマイコフへの手紙に書いた。「意識的にしろ無意識的にしろ、私が作品の多くの部分で扱った主要なテーマは、私が生涯を通して苦しんだ神の問題でした。」また、シベリアの監獄を出た直後、33歳のドストエフスキーはフォンヴィージン夫人への手紙に書いた。「私は世紀の子です。今日まで、いや、それどころか棺を蔽われるまで、不信と懐疑の子です。この信仰に対する渇望は、わたしにとってどれだけの恐ろしい苦悶に値しているか、わからないほどです。」

ドストエフスキーの小説の主人公たちの多くは、イワンとアリョーシャという二つのタイプに分けられる。すなわち、絶え間なく奮闘努力して、常に許容可能な境界を探るファウストのタイプと信頼と忍従にすがる子どものような信仰を持つタイプである。ドストエフスキーの小説の主人公たちは神を裁判にかけたが、アウシュヴィッツの有名な囚人のように、彼らは神に有罪を宣告したあとで、まさしくその神に祈るのである。

神に対する人間の関係を哲学的な方法で提示しようとすれば、次の3つの可能性に区別して考えることができる。
@ 懐疑的・虚無的な伝統(ドストエフスキーにおいては「神がいなければすべてが許される」という宣言に象徴される)
A人文主義的世俗概念(世界の神秘化と世界を支配しようとする試みとの組み合わせ)
B宗教的形而上学(religiometaphysical)の概念(ある種の超越的または超越的な力が中心的な役割を果たすという認識)
私は、この最後の概念である宗教的形而上学が、ドストエフスキーの人生と文学において先の2つよりも優位であると主張する。ドストエフスキーの中にある世界の不可知性の要素を認識することは非常に重要である。この点で、ドストエフスキーはゲーテに近いが、とはいえ、それは、ファウストの不可知性の要素に対する理解と同質のものだろうか? この質問に答えるために、2人の著者の見解におけるいくつかの類似点と相違点について議論してみよう。

基本的な類似点は3つある。第一に、ゲーテとドストエフスキーは、神を創造物から完全に分離(または分離可能)するという意味において、神を超越的であると考えていない。2人の著者の作品と見解では、神と人間、または神と自然の厳密な分離はあり得ない。

第二に、ゲーテとドストエフスキーは現実を動的に理解している。彼らは世界を力の観点──現実のすべてに浸透する空気のような霊のようなエネルギー(ギリシャ人はプネウマと呼ぶ)の観点から考える。このメタファーを極限まで伝えるために、神は動詞であり、名詞ではないとする誘惑にかられるかもしれない。あるいは、生は名詞としてではなく動詞として理解されるべきであると促されるかもしれない。生きることとは、闘うこと、苦しむこと、努力することを意味する。奮闘努力することが生きるということだ。ゲーテとドストエフスキーはともに、そのような奮闘努力の宗教的形而上学的側面に対して本質的な興味を抱いていた。

第三に、ゲーテとドストエフスキーはともに、人間の創造物としての現代の真理の概念を拒否する。それどころか、真実は一種の復活として理解されるべきであると考える。 (Goethe: “Das Wahre war schon langst gefunden.”) 彼らは価値に関しても同様の見解を持っていた。価値は創造するのではなく、常に新たに再発見すべきものである。二人とも、神の創造は完成しておらず、人間の本質は神や他の力によっても完全には決定されていない。人間は自らの成長を成し遂げるために奮闘努力すべきだと信じている。

それでは、人間の成長はどのように正しく成し遂げられるべきか?この問題点においてゲーテとドストエフスキーの大きな違いが明らかになる。しかし、ここに焦点を当てる前に、まず人間の本質における一つの根本的な緊張関係の重要性を指摘しよう。それは二人の著者にとって等しく重要な問題であり、「ファウストの呪い」と呼ばれることもある。この「呪い」は、カント派哲学の二律背反の形で提示できる。テーゼでは、最高の理想(および価値)に向かって努力すると言う。一方、アンチテーゼは最高の理想(および価値)は実現できないと言う。

カントのような哲学者、またはフロイトのような心理学者は、この種の困惑の解決策を見つけたいという衝動を感じるだろう。(カントは、テーゼは超越的な意味で真実であり、アンチテーゼは経験的であると主張する。一方、フロイトは、テーゼが提唱する子供じみた有害な努力は放棄すべきだと確信している。)哲学者や心理学者とは異なり、芸術家は、この誘惑に抵抗し、未解決の緊張関係の両側に留まることができる。ゲーテとドストエフスキーがそうだ。両者がこの命題を非常に真剣に受け止め、決して放棄されるべきではないと信じていることに疑問の余地はない。「現実のチェック」も「実用的なリアリズム」も、人々が最高の理想に向かって奮闘努力することを思いとどまらせはしない。にもかかわらず、さらに探っていくと、2人の著者の間にあるいくつかの大きな違いが明らかになる。

その第一は、個人的な奮闘努力と集団的な奮闘努力に関してである。ゲーテには、ドストエフスキーの作品に浸透している人々に対するみなし児的な感覚がまったくと言っていいほどない。ファウストの奮闘努力は場面場面で説明されているが、彼には両親も妻も子供も兄弟もいない。イワンには父親と兄弟がいる。しかし、彼らを軽蔑し、恥じてさえいる。イワンはファウストのようになりたいと思っている。一人で充足しているようだ。しかし、彼は自らの孤独に耐えることができない。イワンは、ラスコーリニコフのように、信頼できる誰かを見つけることができるのか? 彼は自分のソーニャを見つけることができるのか?イワンの最も忠実な腹心は誰だろう? その腹心はファウストの場合と同様に、悪魔の一味だったことが明らかになる。

これらが、ドストエフスキーがファウスト(およびイワン)に対して疑念を抱いている主な理由である。さらに、ファウストは誰かを愛しているだろうか?彼は今まで哀れみを感じたことがあるだろうか?彼は何かを信じているだろうか?ファウストは良心の声を聞いていないようだ。彼には愛情はない。彼には同情心がない。彼はイワンの大審問官のようだ。彼は、実際には知りもしない、気にもかけない人々を助けたいと思っているのだ。

「一体全体、どのような愛だろう?」ドストエフスキーはそう尋ねていないだろうか?。イワンが父親と兄弟を愛せないのなら、彼は、そして彼の大審問官は、これら反抗的で弱く獣のような生き物をどうやって愛することができるのだろう?このような生き物を愛し、彼らの幸福のために自分自身を犠牲にする必要があるのか? イワンと大審問官が正しいのなら、そのような価値のない生き物である人間は愛するよりも滅んだほうがよいのではないか。彼らには、永久につづく墓地の平和がふさわしいのではないか?(イワンがロシアから去って訪れたいと語った場所のような)。そのほうが選ばれた人間にとっての幸いではないだろうか?勇敢で才能ある賢い人たちだけが世界の所有者なのだから。

さらに、ドストエフスキーには重要な懸念がある。最高の理想に向かって奮闘努力することは、神に向かって奮闘努力することになるのか?という疑問だ。彼の答えは明確にノーである。ファウスト、イワン、大審問官はノーである。ヨブ、ゾシマ、アリョーシャはイエスだ。ゲーテにおいては、宗教形而上学的な奮闘努力は、人間性の完全な成長と自己完結に向けられている。ドストエフスキーにおいては、それは自己超越、自己献身にある。ドストエフスキーの中心的な探求は、少なくとも彼の最後の小説では、小説の題名に隠されているかもしれない。どうやって人類と兄弟になればいいのだろう?われらの父である神を受け入れることなく、人類を愛することができるというのだろうか?

ゲーテとドストエフスキーはともに西洋の伝統の誇張された主知主義に対して警告を発している。さらに、ドストエフスキーは、知性の過大評価だけでなく、世界に対して決定的な介入を試みたいという人間の欲求の高まりを懸念している。ドストエフスキーの最大の恐怖は、西洋のファウストのような奮闘努力に向けられている。そのような奮闘努力は、神の役割と力を奪うように人間を誘惑するからだ。

ドストエフスキーは、ファウストが救われたことから、ゲーテがファウストの奮闘努力の危険性を見くびっていると考えた。愛と哀れみに導かれていない奮闘努力は、神と兄弟愛には向かわない。ドストエフスキーはファウストの「業」(Tat)への傾斜には多くの問題があると考えた。そこから習得できるのは、分離、崩壊、破壊の力である。癒しと成長のプロセス、憐みと行動の力について、私たちはまだほとんどわかっていない。 兄弟のようになって生きる方法をまだ知らない。 兄弟の番人になる方法をまだ学んでいない。

奮闘努力することで、私たちは今まで以上に、これまでしてきたことを超えようとしている。このプロセスにおいては、より多くを求め、新しいものに向かって急上昇する。そのとき、すでに持っていたものが失われる。過去や伝統、家族や兄弟、父と母との真の象徴的な関係などが失われる危険がある。ゲーテ以上に、ドストエフスキーは、良心と哀れみ、愛と信仰がなければ、再生と復活の可能性はないと確信している。イワンと同様に、ファウストは救済に値しない。ファウストの神は彼を救済したが、ドストエフスキーにとってはその救済は疑わしいものだ。

『カラマーゾフの兄弟』では、神はキャラクタではなく、曖昧な影の存在だ。ドストエフスキーの主人公たちの多くが神の存在について心を悩ませている。ドストエフスキーは、イワンを救うべきではないとした。イワンは兄弟の番人として失敗した。しかし、ドストエフスキーは同時にイワンの反逆──罪なき人々の苦しみに対する告発を沈黙させられないことも知っていた。なぜ、神は罪なき人々の無意味な苦しみに対して黙しているのか?なぜ、神の御子を守ってくれないのか?それなら人間がそうできないからといってなぜ罪になるのだろう?

ドストエフスキーは生涯ゲーテを賞賛した。彼の作品の多くは偉大な前任者との継続的な対話である。ゲーテは約60年にわたってファウストと闘い抜き、亡くなる直前にようやくこの傑作を完成させた。ファウストの第2部が完成したとき原稿を封印した。ドストエフスキーはゲーテほど恵まれなかった。突然の死によって『カラマーゾフ兄弟』の「続編」の可能性は断たれた。作品を完成させ、少なくとも彼自身の絶え間ない奮闘努力の一応の決着を見出す幸運には恵まれなかった。しかし、おそらく読者にとってはそれでよかったのだ。
一方では閉幕と死、そして他方では生と闘争との間にいくつかの不思議な関連性がある。

私たちを人間にし、生かすものは、閉幕や目的地ではない。それは私たちの旅、私たちの闘争、私たちの奮闘努力である。人生の意味を絶えず探求しながらも、私たちの旅と闘争と奮闘努力とは、生きているという経験そのものなのである。それが、ファウストの結論が他の偉大なドラマと完全に一致していないように見える理由である。それが、イワンもアリョーシャもドストエフスキーの傑作の真の主人公になれない理由でもある。このドラマに主人公がいるとしたら、それはドミートリイ以外にはない。

参考:
Predrag Cicovacki(著) Dostoevsky and the Affirmation of Life