ドストエフスキーとてんかん/病い
ドストエフスキーのてんかん
ノーマン・ゲシュヴィンド 著 下原康子訳
Geschwind N.
Dostoevsky's epilepsy.(PP325-33)
In Psychiatric Aspects of Epilepsy,edited by Dietrich Blumer,
American Psychiatric Press, Washington, D.C., 1984
この著述は、1961年3月16日のボストン精神医学・神経学学会、および1972年2月16日のジョンズ・ホプキンズ医学校における講義に基づく。
訳者による参考
ノーマン・ゲシュヴィンド(Norman Geschwind)(1926年1月8日-1984年11月4日)
アメリカの行動神経学者。病変解析に基づく断絶モデルによる行動神経学の先駆的な研究で有名。ニューヨークのユダヤ人家族の家庭に生まれた。ハーバード大学で神経学的機能不全の分野における失読症、大脳の左右非対称性の神経解剖などの研究とならんで失語症とてんかんの研究を行った。側頭葉てんかんの患者に見られる発作性行動パターン(Geshwind症候群)を発表している。(Wikipediaによる)
ゲシュヴィンド症候群 (Wikipediaによる)
Gastaut-Geschwind syndromeとも呼ばれる。側頭葉てんかんを有する一部の人々において明らかな一連の行動現象である。1973年から1984年にかけてこのテーマを集中的に発表したノーマン・ゲシュヴィンド(Norman Geschwind)にちなんで命名された。しかし、これが神経精神障害であるかどうかをめぐっては論争がある。側頭葉てんかんは穏やかに慢性化し、しだいに発作間欠時の人格変化を引き起こす。ゲシュヴィンド症候群には5つの主要な変化が含まれる。ハイパーグラフィア(書字過多)、宗教への強いこだわり、性欲減退 、まわりくどさ、精神生活への過度の傾斜である。これらは症状のすべてではないが、てんかんまたは側頭葉てんかんを有する一部の人々によく見られる特性である。
ゲシュヴィンド症候群 (いまむら脳神経クリニック院長のつぶやき 2013-11-11)
ゲシュヴィント症候群は別名 「感覚・辺縁系過剰結合症候群」とも言われ、過剰書字(たくさん文章を書かずにいられない)、過剰な宗教性、道徳性、真面目さ、過度の粘着、過大な情動などいくつかの特徴を示し、しばしば天才的な才能を示す。側頭葉てんかんと関連づけられて語られることが多く、病跡学では画家ゴッホ、作家ドストエフスキー、 南方熊楠などは側頭葉てんかんに伴うゲシュヴィント症候群だったといわれているが、疑問視する向きもある。近年、ゲシュヴィント症候群自体を懐疑的にみる意見もある。ゲシュヴィント症候群は心理学の仮説としてはありかもしれないが、安易に実際の診察に取り込むのは注意を要する。側頭葉てんかんは一括りにできるものでなく、多種多様な症状があり、個人差が大きい。非専門医が不十分な検討で側頭葉てんかんと短絡的に診断してしまうことは軽率であり、忌むべきだ。ひとりひとりの症状、脳波、血液検査を医学的に分析していくことが重要で、そこに先入観、偏向が介在してはいけない。ゲシュヴィント症候群という用語自体が廃れつつあるだけになおさらだ。
歴史上の人物で多かれ少なかれてんかん性とされた有名人は少なくないが、ロシアの偉大な作家ドストエフスキーのように個人的な記録が数多く残っている人物は他に例がない。また、てんかんはたびたび文学にも出現するが、作品のなかでこの障害に重要な役割を担わせた作家はドストエスキーおいてはいない。必然として、彼の作品は神経科医および精神科医に特別な興味を抱かせる。
しかし、回想に残されたドストエフスキーのてんかんの記録や彼自身が日記や手紙に書いた説明や分析をそのまま信じ、自由な思索を展開させると誤る恐れがある。また、ドストエフスキーの性格および彼が登場人物たちのてんかんにどのような役割を与えて演じさせたかを念頭におかなければよりいっそうの誤りをまねきかねない。このテーマについては65年前に、神経科医Pierre Marieが、"Le Progres Medical"の記事で提示した。もっと最近では、Theodor Alajouanine(Marieの優れた学徒の一人)が、同じテーマの論文を書いている。もっとも議論をまきおこしたのは、フロイドの有名な著作「ドストエフスキーと親殺し」であろう。
ドストエフスキーの生涯
フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキーは1821年に生まれ1881年に没した。誕生から死に至るまで長い煉獄と呼ばれたほど苦悩に満ちた生涯であった。ドストエフスキーが手紙のなかで厳しく冷酷だったと書いた父は医者で小地主でもあったが、ドストエフスキーが18歳で工兵士官学校の学生だったときに農奴に殺害された。ドストエフスキーは卒業して勤務についたが、23歳のとき文筆の道に邁進することを決めて退職した。まもなく政治活動に巻き込まれる。28歳のとき、逮捕され銃殺刑を宣告されたが、刑執行の直前に皇帝の慈悲を伝える伝令が到着し、4年の徒刑とその後シベリアでの兵卒勤務を命じられた。シベリア追放中にドストエフスキーは最初の結婚をしたが、幸せな関係ではなかった。38歳のとき恩赦が与えられ、10年ぶりにペテルブルグに帰還した。それから5年後の1864年に、妻が、それから仲の良かった兄ミハイルが相次いで死亡した。ミハイルの二人の遺児と多額の負債が残された。
1866年、45歳の時、最初の大作『罪と罰』が出版された。その後10年間、次々と偉大な作品を書いた。1867年、二度目の幸せな結婚をした。結婚後の4年間はおもにドイツで過ごした。借金からのがれるためであったが、ギャンブルへのたび重なる耽溺によって借金返済の試みは破綻した。
1971年にロシアに帰ってからの最後の10年間は、名声が上がり経済的に安定し比較的幸せな年月であった。しかしながら、1878年5月16日、幼い息子アリョーシャが3時間のあいだ何回も繰り返したてんかん性の発作で死亡した。ドストエフスキーは1881年60歳の時、喉から出血したのちに死亡した。葬儀にはあらゆる階層の人々が参列した。作家としての成功が認められた。
フロイドは「ドストエフスキーと父親殺し」の冒頭の部分で、作家としてまた人間としてのドストエフスキーをみごとに要約した。作家としての彼はシェイクスピアに匹敵し、『カラマーゾフの兄弟』は、古今東西を通じてもっとも偉大な小説の一つであるとしている。一方で、ドストエフスキーのモラルについては極めて批判的である。次のように書いている。
ドストエフスキーが倫理的苦闘のすえ到達した最終的な結果にしたところで、決して賞賛に値するようなものではない。個人の欲動の諸要求と、人間社会のもろもろの要求とを宥和させようとして、悪戦苦闘のすえに彼が到達したところのものは、相も変わらず、世俗的ならびに宗教的権威のもとに身を屈すること、すなわちツァーおよびキリスト教の神に畏敬の念を捧げ、偏狭なロシア的ナショナリズムに沈潜することであって、この程度の結果に到達するためには、ドストエフスキーほどの天才はいらないのであるし、また彼が閲したほどの苦労もいらないのである。(『フロイト著作集 第三巻 「ドストエフスキーと父親殺し」』
ドストエフスキーの生涯におけるてんかん
ドストエフスキーの発作がいつ始まったかについては入手可能なデータの間に矛盾があるのではっきりしていない。しばしば言われるのが、父の殺害のときからという説である。一方でドストエフスキーはロシア皇帝に恩赦を願った手紙に発作はシベリアで始まったと書いている。また幼年期にまでさかのぼるという説もある。いずれにしろ、てんかんはシベリア流刑の前から起こっていたと思われる。ドストエフスキーは皇帝の温情を期待して手紙には事実を変えて書いたのだろう。
数日から数か月の間隔で発作を起こすドストエフスキーのてんかんは厳しいものだった。長びく発作重積はなかったが、発作は繰り返して起こった。薬は服用していなかったと思われる。また専門医の診察を受けた証拠もない。ドストエフスキーが没した1881年、神経学は西ヨーロッパにおいてさえ若い学問分野だった。ドストエフスキーがドイツ滞在中に当時ロシアで知られていたドイツの医者を探したという記録は残っていない。一方で、彼は数人の医者にかかっていたし、よく医学書を読んでいた。発作は彼の死の4年前の1877年には止まっていた。結局、かれはこの病におよそ40年間苦しんだといえる。
ドストエフスキーの発作の記述は、本人自身が、また友人や妻が残している。彼の発作で特徴的なのは、一瞬のあいだ訪れる名状しがたい前兆である。それは差し迫った発作の予兆だが、このような報告は類のないものとされていた。この発作の目撃者はドストエフスキーの様子を次のようにコメントしている。インスピレーションの輝きは一瞬で消え、彼は叫び声をあげて倒れた。はげしい痙攣がおこり泡を吹いた。倒れた拍子に怪我をすることもあった。意識をとりもどしたあとには、激しいうつと罪の感覚におそわれ、それが数日続いた。
ドストエフスキーは発作の前と後の感覚を比べている。発作が起きる直前にはその一瞬のためなら十年、あるいは全生涯を捧げてもかまわないと思われるほどの魂の至福の感覚があった。一方で発作の後は、なにか恐ろしい犯罪を犯したかのような気持ちに陥るのであった。
小説に描かれたてんかん
ドストエフスキーは少なくとも4人のてんんかん者を描いた。とりわけ興味ある一人が『悪霊』のキリーロフである。彼は同じく主要人物のシャートフに「ある数秒間がある、それは一度にせいぜい五秒か六秒しかつづかないが、そのときだしぬけに、完全に自分のものとなった永久調和の訪れが実感される」と語る。「キリーロフ、それはしょっちゅうなのかい?」とシャートフが聞くと、キリーロフは「三日に一度、一週間に一度」と答える。「きみ、てんかんの持病はないのか?」シャートフが重ねて聞くと、キリーロフは否定する。「じゃ、いまにそうなるよ。気をつけたまえ、キリーロフ、てんかんの初期はそんなふうだと聞いたことがある」とシャートフは言う。そのとき自殺を決意しているキリーロフは「その暇はないさ」と静かに苦笑する。
てんかんがもっとも重要な役割をはたしている作品はもちろん『白痴』である。主人公のムイシュキンはてんかんである。ムイシュキンの発作はドストエフスキーの個人的な体験と非常に似通っている。ムイシュキンは突然、脳髄にせん光を受け、あたかもすべての感覚が最高度に活動しはじめたように感じる。この瞬間のムイシュキンはドストエフスキーが自身の体験として語った至福と調和を感じている。彼はこの一瞬を思い返し、一種の病気ではないかと思い悩むが、結局、個人的な感覚が最高度の洞察に達したという事実を認めることにする。
一方で、ドストエフスキー自身はすべての発作がてんかん性というわけではないという事実にも気づいていた。てんかんと非てんかん性の発作の区別は、鑑別診断における古典的な問題である。ドストエフスキーの時代においては二つの区別はよりいっそう困難であったに違いない。実際、今日の熟練した臨床医でもいくつかの発作においてその区別が依然として問題にされている。『ステパンチコヴォ村とその住人』の主要人物であるフォマー・フォミッチは突然、固まって一時間もの長い間ぼんやりと宙を凝視したような状態になる。それから目を覚まして、その間に起こったことについてはまったく覚えていないといいはる。(訳者注:この箇所はエピローグにある)。この部分を読んだ読者は、著者に対して、この不幸な人物に同情的になることを期待するかもしれない。しかながら、ここで描写のトーンに突然の変化が生じる。著者は、フォマーのこの状態は彼がまわりの人たちの注意をひきつけ感銘を与えたいと望んで自ら演じた巧妙な芝居であることを明かす。これは鋭くも貴重な一臨床例である。今日、このような発作に対しててんかん性という視点を持つ神経科医は稀であろう。
ドストエフスキーの臨床的な洞察力は『カラマーゾフの兄弟』において再びはっきりと現れる。ドストエフスキーの最高傑作といわれるこの小説では、残忍な殺人が実行される。物語の終局にカラマーゾフ兄弟の父はてんかんを患っている義理の息子スメルジャコフに殺されたことが明らかになる。この展開はドストエフスキーの父が農奴によって殺されたことを思い出させる。殺人の前に、スメルジャコフは2番目の息子のイワン・カラマーゾフに、まず間違いなく明日、長いてんかんが起きるに違いないと伝える。イワンは発作が予期できるはずはないと迫る。スメルジャコフはその点には同意しながらも、まさしく明日、発作が起こると言い張る。スメルジャコフは仮に発作のふりだとしても、それを起こすことは難しくはないことをイワンに仄めかす。まさしくその日にスメルジャコフは発作を起こし、カラマーゾフの父は殺害される。監察医は殺された老人よりも、現場近くにいた珍しい発作をくり返すてんかん患者の方に興味をもった。とはいえ、もちろん、効果的な治療法もなくスメルジャコフの状態は数時間から数日の間にますます執ようになっていったに違いない。
発作がくり返したためスメルジャコフは病院に入った。面会にきたイワンにスメルジャコフは老人を殺したのはドミートリーではなく自分であると告白し、犯行のときには一連の発作を装っていたこと、翌朝病院に運ばれるときには本当の発作が起きていたことを語った。
ドストエフスキーのてんかんの性質
ドストエフスキーが患っていたてんかんのタイプの話題にもどろう。フロイドはドストエフスキーの発作に対してhystero-epilepsyという用語を使った。用語の通常の意味において、ドストエフスキーがヒステリー性てんかんであったという可能性を否定する材料は数多く残っている。定型的なてんかんは倒れて口から泡をふくが、実際、ドストエフスキーはしばしば発作で倒れて泡をふき、怪我をすることもあった。これはヒステリー性てんかんでは起こりえないことである。さらに、高い知性を備え、てんかんの臨床についてはとりわけ注意深かったドストエフスキーにおいてはそれは考えられない。フロイドの著作を注意深く読むと、彼はドストエフスキーのてんかんがヒステリー性の疑似発作であると言っているのではなく、彼が使ったhystero-epilepsyという用語は心因性てんかんを示唆しているように思われる。たとえば、未だ解明できない内的葛藤に起因する器質性のてんかんである。この可能性を完全に否定することはできない。てんかんの心身相関についての文献は乏しいからである。
ドストエフスキーにおいては側頭葉てんかんの診断が重要である。ドストエフスキーの歓喜を伴う前兆については論争が続いている。しかしながら、そういう症例は非常に稀である。実際には、側頭葉てんかんによってもたらされる感情には不愉快なものが多く、例えば恐怖や怒り、漠然とした不安などである。とはいえ、強烈な感情の発生そのものは辺縁系組織の焦点の関与を強くうかがわせるものだ。しかし、歓喜の感覚は自発発作においても中頭側頭葉組織の興奮においても、その報告は極めて少ない。辺縁系組織で生じるいかなる種類のてんかんにもあてはめにくい。
側頭葉てんかんに共通するとされる性格特徴については、ドストエフスキーにも備わっていたというかなりの証拠が残っている。この性格特徴は珍しいものではないが、かといって一般的ではなく、ドストエフスキーのように際立った特徴が多く現れるわけでもない。典型的なモデルを想定するのは極めて困難である。そのなかにあってもっとも大きな特徴とされているのが、ドストエフスキーの読者ならだれしも気づく哲学的および宗教的問題に対する強い執着である。その他にもドストエフスキーは側頭葉てんかん患者の間でしばしば見出されるいくつかの特徴を明らかにしている。たとえば、彼は道徳規範と適切な行為に強迫的に執着したが、実際の人間関係においてはそれとは反対の言動が目立ったという点である。フロイドは「道徳家としてのドストエフスキーを批評するとき、もっとも深い罪の領域を通ったことのある者のみが、もっとも高い倫理の段階に到達するということを論拠として、彼を倫理的に高く評価する態度は、重大な疑点を通過しているといわざるをえない」と述べている。ドストエフスキーは十九世紀ロシアの偏狭なスラブ主義と皇帝崇拝という最悪の立場に組した。しばしばつまらない口論に巻き込まれる傾向があったという証言が残っている。ドストエフスキーはツルゲーネフに借金をしていたにもかかわらず、ドイツ滞在中ツルゲーネフと口論し自分を避けるように仕向けた。(1)。 また、彼はシスティナ礼拝堂でミケランジェロの絵を近くから見たくなり、絵の前に椅子を置きその上に立って、それを止めようとした係員といさかいを起こした。(2)。
ユーモアの欠如もドストエフスキーの特性としてあげられる。伝記や日記、また彼の作品のなかのどこにも陽気な気分は見出せない。ドストエフスキーにあっては、できごとのすべてが重要性を持ち、ささいなできごとなど存在しないのである。数少ないユーモアの場面でさえも奇妙なものである。例えば、『白痴』の登場人物は、知事になにか耳打ちするとみせかけて彼の耳に噛みつくのである。(3)。
さらに興味をひく特徴はドストエフスキーの性と女性美に対する関心の欠如である。トルストイの『アンナ・カレーニナ』や『戦争と平和』の情熱的で詳細な描写と対比させるとその傾向はより際立つ。肉体的な美および性的情熱は、ドストエフスキーの作品のなかでは大きな役割を果たしていない。女性とのつながりは精神的なレベルを主としている。この女性に対する尋常ではない態度について、ドストエフスキーの娘が父には青年時代につきあった女性は一人もいなかったことを指摘している。許嫁も情婦も浮気相手もいなかった。性欲減退は側頭葉てんかんに共通する特徴としてよく知られている。ドストエフスキーは結婚して父親になったものの、彼が生涯にわたって性欲に対して淡泊であったことは彼の作品や日記、また娘の回想が証明している。(4)。
さらに、注目すべき特徴は、登場人物にしばしば現れる、ちょっとした挑発にもすぐに腹を立てるという態度である。先に述べたとおり、これはドストエフスキー自身においても認められた傾向であり、彼の主要な行動特性であることが確信できる。(5)。
ドストエフスキーは小説のなかでこれらの性格特性を利用したが、それはドストエフスキー自身のなかにも見出される特性であった。哲学、宗教、および道徳的な問題に対する強い執着や他人への不寛容さおよび極端な怒りの爆発などである。興味深いのは、ドストエフスキーがこれらの特性を作品の中の様々な登場人物に振り分けて描いたということである。ムイシュキンのてんかん発作の描写とドストエフスキーが自らの体験を語った言葉は本質的に同じだが、かといって、ドストエフスキーがムイシュキンのような人物であるとは認められない。二人は宗教と倫理に対する深い関心を共有している。しかし、ムイシュキンは人々の欠点に対して同情的で、限りない寛容さを備えた気高い人物である。一方で、同じ小説の他の登場人物はドストエフスキーの別の性格を反映している。フロイドが言及したような道徳に対する不寛容さと、ささいなことにすぐに怒りを爆発させる人物である。このような人物はくりかえしドストエフスキーの作品の中に見出される。彼はいくつかの人物に彼自身の理想であるところの気高さを振り分けた一方で、不都合な特徴を他の人物に担わせた。分裂した個人の意識をそれぞれ別の人物に振り分けて単一化した。
ドストエフスキーの死後、彼について多くの本が書かれたが、てんかんについてはまったく言及されないか、触れたとしてもごく簡単な扱いなのは奇妙なことである。文芸評論家や美術批評家が芸術家の才能に病気が関わっているという説明に対して慎重になるのは理解できないことではない。しかしながら、研究者はドストエフスキーの創作が影響を受けた最も重要な要素の一つを見逃してはならない。いまだ天才の適正な理論はまったくなく、偉大さの源泉については、医学的事実または芸術家の生の別の様相、そのどちらに基づくにしても決定的な議論はなされていない。側頭葉てんかんの患者をよく知る人々は、彼らの多くがハイパーグラフィアの傾向があることに気づいている。それらは、しばしば哲学的、宗教的な広範囲にわたる文書の生産である。ドストエフスキーが残した大量の作品や記録は、文学的価値の有無にかかわらずハイパーグラフィアの特徴を備えている。(6)。てんかんへの言及は作品の批評を助ける。しかし、それで作家の天才が説明できるわけではない。
批評家や伝記作家たちのドストエフスキーのてんかんに対する完全な無視または関連への否定的な態度は学者としての弱点を露呈している。創作の源泉がそのまま彼の天才を説明するわけではないにも関わらず、文学史家はしばしばこの一点に情熱を傾ける。コールリッジの詩『Kubla Khan』の源泉を追跡するためだけに一冊の本が書かれたほどだ。(訳者注:1897年に書かれた『Kubla Khan』の前書きで、コールリッジはこの詩は麻薬の吸引によって生じた幻覚を目覚めてから急いで文章にした、と告白している)。ともあれ、てんかんがドストエフスキーの創作における主題、登場人物、ストーリーなどに影響を与えた重要な源泉の一つであることは明らかである。
ドストエフスキー作品におけるてんかんの重要性は他の作家のそれに比べても群を抜いている。才能に恵まれていない者がてんかんの体験を描いても優れた文学にはならないが、側頭葉で生じるてんかんは、その異常な神経活動が感情をつかさどる神経系の構造の多くに影響するという点においてユニークであり興味深い障害といえる。この悲劇的な病気が天才にもたらされたとき、彼はそれによって他のいかなる源泉からも得られることがなかった深い人間理解に至ることができたのである。ドストエフスキーのてんかんとプルーストのぜんそくは比較できない。この偉大な二人の作家はともに病に苦しんだ。その苦しみをとおして人間への洞察を深めた。ドストエフスキーの場合は、最も根源的で力強い人間行動の源泉への探求を可能にした。ムイシュキンがてんかんによるエクスタシー体験が病気であってもかまわないと認めたとき、彼は作家自身に代わって人々にそれを伝えたのである。
References
1.Alajouanine T. Dostoiewski′s epilepsy. Brain 1963;86:210-8.
2.Freud S. Dostoevsky and parricide. In: Dickson A, editor. Penguin Freud Library. Art and Literature. Vol. 14. London: Penguin; 1985. p. 441-60.
訳者注記
(1)ツルゲーネフとの関係について
1846年25歳のとき『貧しき人々』で華々しく文壇レビューしたドストエフスキーと、2歳年長で当時すでに有名作家だったツルゲーネフ(1818-1883)の出会いは「お互いにほれ込んだ」関係から始まった。しかし、ドストエフスキーのいら立ちやすい性質とのぼせ上った高慢な態度はたちまち文壇サークルの嘲笑をさそい、かっこうのいじめの的になってしまう。とくにツルゲーネフは、わざと論争に巻き込んでドストエフスキーをぎりぎりのところまで興奮させた、とパナーエフ夫人が回想している。そのころのドストエフスキーは耐えがたいまでにこうじた神経症状に苦しんでいた。N.マイコフの紹介でヤノーフスキイという医者と親しくなり、1849年に逮捕されるまで、治療もかねて頻繁に会っていた。後年(1872年)、ドストエフスキーはヤノーフスキイに宛てて「貴兄は小生を愛してくだすって、精神病をわずらっていた小生の(今では自分でもそれを認めます)めんどうをみてくださいました。小生はシベリヤに行くまでは精神病患者だったので、向こうでやっと癒ったのです」と書いている。(『ドストエフスキー 同時代人の回想』ドリーニン編 水野忠夫 訳 河出書房新社 1966)。
シベリアから帰還後の1860年代当初は大作家同志の真に文学的な対話があったようだ。しかし、その後、雑誌の編集長としての立場からツルゲーネフに宛てた手紙には「有名作家」の原稿欲しさのための見え透いたお世辞がめだつ。やがて、両者の文学的立場にははっきりした相違が現れた。とくに1867年、長編『煙』をめぐってバーデン・バーデンで両者の間に激論があって以来、二人は絶交状態になった。これには1865年にドストエフスキーがツルゲーネフから借りた50ターレルも微妙にからんでいる。『悪霊』に登場する文豪カルマジーノフはツルゲーネフの完全なる戯画である。(新潮社版ドストエフスキー全集第22巻書簡V:作家、編集者への手紙 江川卓訳)
(2)システィナ礼拝堂でのいさかいについて
これは1867年6月14日、アンナ夫人がドレスデンの美術館でのできごととして日記に残したものが根拠になっていると思われるが、いくつかの事実誤認がある。その日の早朝、ドストエフスキーはてんかん発作を起こしたため気持ちが沈んでいた。アンナ夫人は次のように書いている。
フェージャは聖シストの聖母をまだよく見たことがなかった。というのは遠くにあるので見にくかったし、彼はロルネットも持っていなかったからである。それで今日、フェージャは聖母をよく観るために、この絵の前の椅子の上に立つことを思いついた。もちろん、ほかの時ならば、フェージャはこんな突拍子もない無作法はやる気にならなかっただろうけれど、今日はそれをやってのけたのだ。私が止めても無駄だった。フェージャのところに係員がやってきて、そんなことは禁止されています、と注意した。係員が部屋から姿を消してしまうと、フェージャは、外に連れ出されてもかまわないから、もう一度、椅子に登って聖母を見るのだ、と言い張り、もしおまえがいやな思いをするのなら、他の部屋へ行っててくれ、といった。私は彼をいらだたせなくなかったので、そのようにした。数分たって、フェージャは聖母を見たよ、といって、やってきた。・・・・・フェージャは発作をまた心配している。ああ、なんということだろう!当地でも発作が続くのだろうか。私はこれがたまらなく悲しい。どうしたらいいかわからない。彼の健康が急速にわるくなっていくのをどう考えたらいいのだろうか。どうか私のために、彼が長いこと元気でいてくれますように!
『 ドストエーフスキイ夫人 アンナの日記』(アンナ・ドストエーフスカヤ 著 木下豊房 訳河出書房新社 1979)
(3) 数少ないユーモアの例とされた『白痴』の場面について
『白痴』のなかには登場人物が知事の耳に噛みつく場面はない。『悪霊』のスタブローギンと取り違えていると思われる。スタブローギンは帰郷してからたて続けに三度の奇行(ガガノーフ老人の鼻引き回し、リプーチン夫人へのいきなりのキス、知事の耳噛みつき)を引き起こし町中のうわさになった。Alajouanineの論文のなかでは、このスタヴローギンの最初の奇行をひいて、これは、ドストエフスキーにはてんかん性の精神運動行動の体験があり、それが起こったときのことを思いだして描いているという見解が述べられている。
Theophile Alajouanine 著 ドストエフスキーのてんかん
(4)生涯にわたって性欲に対して淡泊であったという見解について
アンナ夫人にあてたドストエフスキーの次のような手紙を読めば、性欲減退という見解は変わるのではないだろうか。(ただし、青年時代に限っていえば、娘の証言のとおりであったかもしれない。)
1976年7月24日エムスにて。
ぼくが夫として男性としてきみをこんなに愛しているのに、どうしてきみは驚いたりするんだろう?だって、誰がきみみたいにぼくを甘やかしてくれるだろう。誰がいったいぼくと一心同体になってくれるだろう?それに、あの点についてもぼくたちの秘密はみんな共通のものだからね。だからこそ、ぼくはきみの原子の一つずつをあがめたてまつって、いつものように、きみの体じゅうを飽くことなく接吻せずにはいられないのだ。だってきみはあの点についても自分がどんなにすばらしい女房であるか、自分じゃわからないだろうからね!しかし、帰ってから、何もかも証明してみせるよ。まあ、かりにぼくが情欲の強い男性だとしても(いや、情欲のつよい男だけれども)これほど飽くことなく一人の女性を愛することができるなんて、きみは考えてみたことはないのかね。ぼくはもうそのことを千べんも証明してみせたじゃないか。たしかに、これまでの証明はすべて──ないも同然だ。しかし、今度帰ったら、ぼくはきっときみを食べてしまうだろうよ(この手紙は誰にも読まれないだろうし、きみも誰にも見せやしないね)
1879年8月16日 エムスにて
ぼくを愛してくれているというきみの可愛い言葉を夢中になって読んだよ。「私を愛してください」なんて書いているけど、ぼくがきみを愛していないとでもいうのかね?言葉で言うのがいやなだけなのだ。きみ、自分でわかるだろうに、わかることができないのは残念だ。夫婦生活の上で、きみに対して常に変わらぬ(どころか年がたつにつれてますます激しい)恍惚をおぼえることからだけでも、いろいろのことがわかりそうなものだけど、きみはそれがわかりたくないのか。それとも経験がないため全然わからないのか、どちらかなんだろう。結婚してからもう十二年もたっているぼくたちの夫婦生活と同じくらい激しくこんなふうなことができる夫婦がいたら、ひとつ教えてもらいたいものだね。ぼくの恍惚感、ぼくの歓びは無尽蔵なのだ。そんなことは一面的なものだ、しかもいちばん下品な面だ、ときみは言うだろうね。どんでもない、下品どころか、実際のところ、残りのすべてはそれにかかっているのだよ。ところが、これこそきみがわかりたくないと思っていることなのだからね。この長話を終えるにあたり、きみの足の指の一本一本に接吻させてもらいたいと切に願っていることを証言しよう。今にその目的をとげるからね。いいかい、もし誰かがぼくたちの手紙を見たらどうしようだって?そりゃそうだ。でも見せとけばいいよ。勝手に羨ましがらせておけばいいのだ。(新潮社版ドストエフスキー全集第23巻書簡W:妻アンナとの往復書簡 木村浩訳)
(5)ちょっとした挑発にもすぐに腹を立てるなど、ドストエフスキーの特性とされた態度について
晩年に親しくつきあった若い友人フセボーロド・ソロビヨフが、ドストエフスキーの奇妙な誤解を受けやすい言動について書いている。
ドストエフスキーは気の毒にも、長年にわたって癲癇に悩まされてきていたため、発作にはもう慣れてしまっていたが、かれの古くからの友人たちもまた、その発作や、それにひきつづいて起こる結果には慣れていて、そういったことを少しも恐ろしいものとは思わずに、よくある現象とみなすようになっていたのである。それでもドストエフスキーは発作のあとには、ときどきまったく耐えきれなくなるようなことがあったが、それは神経が極度にゆさぶられたためで、そのさいのいらだちや奇妙な行為にたいしては、じぶんではまったく自覚がないほどだったのである。
ドストエフスキーがわたしのところにやってくるときは、たいていの場合、黒い雨雲が押し寄せるようにして入ってきたものだったが、ときには挨拶をかわすのもそこそこに、ありとあらゆる口実を探し出しては悪態をついたり、侮辱的な言葉をを発したりすることがあった。そんなときには、かれはあらゆるものに、じぶんにたいする凌辱、じぶんを刺激し、立腹させたがっている意図を見い出したりしたものである。わたしのところにあるものはすべてかれには気に入らず、なにもかもが反対になっているように思えたのである。たとえば部屋のなかが明るすぎるぐらいだと、それが気に入らず、顔の見分けのつかないほど暗くしておかなければならないのである。
・・・・・また、いつでもかれは濃いお茶が好きなので、濃いお茶をすすめると、お茶ではなくビールが飲みたいと言い出し、あまり強くない酒をを注ぐと、こんどはお湯をほしがるしまつだったのである。わたしたちが冗談を言ってかれを笑わせようとでもしようものなら、ことはいっそう悪くなる。かれはじぶんが嘲笑されたように思いこむためである。そうはいっても、ほとんどいつでも、わたしはまもなくかれを落ち着かせれたものである。まず最初は、かれの好きな話題のほうへとおもむろに話をもっていくことが必要だった。そのうちにかれは少しずつ話し始め、元気になっていくので、あとはかれにさからわないようにするだけでよかったのである。すると一時間もすると、かれはもうすっかりよい機嫌になっているのだった。そしてひどく蒼白な顔、ぎらぎらと光っている眼、それに重苦しげな呼吸だけがかれの病的な状態を示しているばかりとなるのである。しかしこのような日に、仲間以外のものが居合わせたりすると、ことは面倒になる。
<中略:突然のご婦人の来客で、気まずい状態になったときのエピソードが語られている。詳しくは 同時代人が語る ドストエフスキーのてんかんと病
かれの奇妙さにについてはたくさんの話が伝えられ、その奇妙さを、かれの大きな落度とみなす人々もいる。そのような非難は、かれが死んでしまった現在でさえも耳に入ってくるほどである。ドストエフスキーが社交的な、客好きの人間ではなかったことはたしかである。ほとんどいつでも孤独のうちに生き、四年間を流刑地で送り、数十年にわたって仕事をしながら、貧困とたたかってきた人間、神経系統が恐ろしい不治の病ですっかりかき乱されてしまった人間に、自分を抑制せよと要求するのは不可能ではないだろうか?このような人間にとっては、大作家にしてロシアの名士といったような調子で対するのではなく、もっぱらかれのあらゆる生活事情を考慮し、異常で病的な肉体の状態のために特別な基準が必要なのである。かれの奇妙なふるまいに激昂できるのは、かれとは無関係で、かれを知らない人々だけである。かれを親しく知っているものだったら、かれの奇妙さに少しも困惑しないし、またけっしてできるものでもなかったのである。そしていま、かれがいなくなってみると、あの不幸な奇妙なふるまいが、なにかしらなつかしく、親しいものとして思い出され、悲しい微笑をさそい、そしてそれもいまは過去のものになってしまったという事実に胸が締めつけられるのである。その奇妙さとともに、予期しなかった死は、あれほどの熱、あれほどの光を連れ去ったのであった。(『ドストエフスキー 同時代人の回想』ドリーニン編 水野忠夫 訳 河出書房新社 1966)
(6)ハイパーグラフィアについて
参 照
『書きたがる脳 言語と創造性の科学』 でドストエフスキーをとりあげている。
(アリス・W・フラハティ著 吉田利子訳 ランダムハウス講談社 2006)
ドストエフスキーの原稿 『悪霊』カラマーゾフのカラマーゾフの兄弟の第五章のドフトエフスキーのノートカラマーゾフの兄カラマーゾフの弟の第五章のドフトエフスキーのノーカラマーゾフの兄弟の第五章のドフトエフスキーのノ