ドストエフスキーとてんかん/病い

[イワンのせん妄症と悪魔の幻覚
]


抜粋引用(下原康子)

謎解き『カラマーゾフの兄弟』
江川卓 著 新潮選書 1991
XW 実在する悪魔

スメルジヤコフとの三度目の面談を終えて家に帰ったイワンは奇妙な紳士の来訪を受ける。部屋に入ったときには確かにまだいなかった人物である。それは一人の紳士、というより、よくあるタイプのロシア式ジェントルマンで、年はかなりの年輩、フランス人が「そろそろ五十に手の届く」と言いならわしている年頃だが、かなり長く、ふさふさとしている黒っぽい髪の毛にも、くさび形に刈りこんだ顎ひげにも、まだそれほど白髪は目立っていなかった。

どちらかというとこのジェントルマンは、農奴制はなやかなりし頃に栄えた、一昔前の高等遊民的地主の部類に属する感じだった。かっては上流の社交界にも出入りし、さまざまな縁故も持ち、いまでも、おそらく、その関係を絶やさずにいるのだろうが、青春の楽しい生活が終り、最近になって農奴制も廃止されてみると、しだいしだいに落ちぶれてしまい、やがて気のいい昔なじみの家を転々として歩く一種の上品な居候になりさがるが、旧友たちのほうでは、人づきあいのいい、これといって難のない彼の人柄を見込んで、そんな彼に出入りを許しているのである。

イワンが憎々しげに黙りこくって、話しかけようともしないので、客はじっと坐って待っている。それでも主人のほうから口を切ってくれさえすれば、どんなおべんちゃらでも即座にはじめられる用意はできているらしい。

この客が実は「悪魔」なのだという。いかにもぱっとしない悪魔で、服装も流行おくれだし、ワイシャツは薄汚れ、ネクタイもよれよれになっている。どうしてこんな田舎じみた居候の姿で悪魔を登場させねばならなかったかはひとつの謎だが、これは悪魔がイワンによって「ぼく自身の分身」と規定されることと関連があるらしい。最初から「悪魔」はイワンと「きみ・ぼく」の言葉づかいで話しだす。つまり、イワンとはなんのへだても遠慮もない旧知の間柄なのである。

しかし「そろそろ五十に手の届く」この居候とイワンとの間に、これまでどんな接点がありえたのだろうか。イワンは現在二十三歳である。二十歳代はじめの青年が五十歳に近い初老の紳士をつかまえて、「ぼく自身の分身」と呼ぶことは、明らかに不自然である。しかし、もしこの居候がイワン自身の二十数年後の姿であるとしたら。

アリョーシャとの料亭「みやこ」での話のさい、イワンは、「三十歳になるまでは、確信があるんだが、ぼくの若さがすべてに打ち勝つよ。どんな幻滅にも、人生に対するどんな嫌悪感にもね」と強調する。だから「ぼくは生きたい、論理に逆ってでも生きるんだ。たとえぼくが事物の秩序を信じていないとしても、ぼくには春に芽を出すあの粘つこい若葉が貴重なんだ、青い空が貴重なんだ。……ここには知性もなければ、論理もない。ただもう身内からつきあげてくるように、腹の底から愛するんだ、自分の若々しい青春の力を愛するんだ」。しかし、それも三十歳までである。三十歳を過ぎたら、「狂おしいばかりの、おそらくはあさましいまでの生への渇望という……意欲も起きなくなるだろうがね。なんだかそんな気がするよ」とイワンは達観する。イワンが三十歳になるまでにあと七年、それから二十年もするうちには、イワンもいっさいの意欲を失って、田舎じみた居候のようになっているかもしれない。

しかしイワンは、そのような形で彼の前に現われた悪魔の実在をあくまで否定する。「ほんの一瞬だって、きみが現実の存在だなんて思っちゃいないぞ。きみは虚偽さ、ぼくの病気さ、幻影なんだ」イワンの否定はさらに進んで、ついには相手が自分自身であるとまで強弁する。「ぼくはこの前と同じように、きみの姿がときどき見えなくなるし、声まで聞えなくなることがあるが、きみがしゃべくることは、いつだって見当がつくんだ。なぜってこれは、ぼくが、ぼく自身が言っていることで、きみが言っていることじゃないんだからね!ひとつわからないのは、この前ぼくが眠っていたのか、それとも現にきみの姿をい見ていたのかなんだ。いまだって、タオルを冷たい水で濡らして頭に載せてみたら、きみはふっと蒸発してしまうんじゃないかな」

イワンは実際に部屋の隅に行って、濡れたタオルを頭に載せて部屋の中を行きつ戻りつしはじめる。しかし、このタオルは実は濡れていない。ほどなく訪ねてきたアリョーシャにそのことを指摘されて、イワンは混乱する。
「いや、ちがう、ちがう! あれは夢じゃなかった! あいつはここへ来て、ここに坐っていたんだ、ほら、あのソファの上さ。おまえが窓を叩いたとき、おれはあいつにコップを投げつけた……このコップを……持てよ、この前もおれは眠っていたっけ、でもあの夢は夢とはちがう。この前もそうだったんだ。ぼくはね、アリョーシャ、このごろよく夢を見るんだよ……でも、あれは夢じゃなくて、現だな。歩いたり、話したり、ものを見たりする……でも眠っているんだ」

イワンは明らかに混乱している。自分の見ているものが夢であるのか、幻影であるのか、それとも現実であるのか、彼は決めることができない。どうやらこれは病気のためらしく、この章(第十一編九章)の最初に語り手は次のような断り書をつけている。

「私は医者ではないが、いまこそイワンの病気の特質について、多少なりと読者に説明しておくことが、どうしても欠かせない時期であると感じている。先まわりして一つだけ言っておくと、彼はこの夜、せん妄症発病寸前の状態にあった。つまり、久しい以前から変調を来しながらもなお病気に対して頑強な抵抗を見せていた彼の身体組織が、ついにこの病に完全に冒されてしまったのである。医学にまったく不案内な私がこのような推測をするのはおこがましい話だが、彼はたしかにおそろしいほどの意志力を発揮して、一時的には病気の進行を遅らせることに成功したらしい。むろん、彼が病気の完全な克服を夢見ていたことは言うまでもない」

せん妄症とはわかりやすくいえば、アルコール中毒のことである。脳変性疾患、高熱疾患が原因で起こることもあるらしいが、ほとんどの場合はアルコール中毒が原因であるらしい。イワンの場合もそうなのではないかと思われる。

そうだとすれば、このイワンがアルコールを口にする場面は、かなり微妙な意味合いをもってくるはずである。少くともきびしい自制のたががはずれてしまうだろう。アルコール中毒にかかっている者が自制をやめると、ほんの少量でも酪酎してしまうと言われている。では、イワンの場合はどうだろうか。第三編の「好色な人たち」で、フョードルがイワンに「コニャックをやるか?」とすすめ、それに対してイワンが「ください」と答える場面がある。このあと、イワンがほんとうにコニャックの杯を口にしたかどうかについては、テキストには何も言われていない。しかし、コニャックに満たされた杯を目の前に置いていたら、いかにイワンでも、手をのばしたと考えるほうが自然ではないだろうか。しかもコニャックは、アルコール度四十度を越す強い酒であり、またロシアでの飲酒習慣からすると、一気に呑みほすのがふつうである。アルコール中毒のイワンとすれば、コニャックー杯だけでもかなりの酪酎状態に陥ったと見てよいだろう。

とすると、これにつづいて、フョードルと、イワンと、アリョーシャの間でかわされる会話は、しらふのアリョーシャと、酔っぱらったフョードル、それに病的な酪酎状態にあるイワンの間の会話と見なければならないことになる。

まずフョードルが、「神はあるのか、ないのか?」とイワンに問いかける。
「ありません、神はいませんよ」とイワンの答えはにべもない。
「アリョーシャ、神はあるか?」
「神はあります」
「イワン、じゃ不死はあるのか、まあ、どんなのでもいい、ちょっぴり、ほんのちょっぴりでもいいんだが?」
「不死もありません」
「どんなのもか?」
「どんなのもです」
「とすると、まったくのゼロか、何かがあるか、どちらかということだな。もしかすると、何かはあるんじゃないのか? やはりまったくの無ということはなかろうが!」
「まったくのゼロです」
「アリョーシャ、不死はあるのか?」
「あります」
「すると、神も不死もか?」
「神も不死もあります。神の中に不死もあるのです」
「ふむ。どうやらイワンのほうが正しいらしいな」

この会話は、「カラマーゾフ論」となればかならず引用される有名な会話である。しかし、この会話の参加者が二人までも酪酎状態にあるとしたら、いったいどう考えればよいのだろう。すべてを酒の上の無責任な放言と受けとめるべきだろうか。しかし、ここまでのところ、イワンの答えは「神も、不死もない」という彼自身の確信をくり返しているだけであり、酔っているかいないかには、ほとんど関係がないように思われる。問題はその次にあるようである。

フョードルは、神はありやなしやといった問題に何千年も精力をむだに注ぎこんできた人間が、だれかに愚弄されてきたのだと考えて、「じゃ、だれが人間を愚弄しているんだ、イワン?」とあらためてたずねる。
「悪魔でしょうよ、きっと」とイワンはにやりとする。
「じゃ、悪魔はいるんだな?」
「いや、悪魔もいません」

結局のところ、イワンは、神の実在も、悪魔の実在も認めることができない。一瞬、自分の存在が宙に浮いてしまったように感じて、その不安から、「もし神を考え出さなかったら、文明というものもまったくなかったでしょうよ」とイワンはつけ加える。しかし、神とか悪魔とかいう絶対的観念を文明などという相対的観念にすりかえることで、イワンの不安はおさまるわけもない。

「(神がなかったら)コニャックもなかったでしょうね」とイワンはつけ加える。すでに酪酎状態に陥っていたイワンの口にこの言葉がのぼることは、まことに特徴的である。病的に酔ったイワンにとつては、自身の酪酎状態が唯一実在のものと感ぜられるはずである。「神がなかったら、コニャックもなかったでしょうね」ということは、コニャックのおかげで自分は酔っている、この酔った状態が実在だとしたら、神も実在する、という論理を間接的にせよ認めたことになるのではないか。イワンは自分の不信に強度の不安を感じているのである。

つづいてドミートリイがなぐりこんで来る。そのドミートリイにとびついて行った父親フョードルが、床に叩きつけられる。ドミートリイほどの腕力はないイワンが、兄を両手で抱きかかえ、力まかせに老人からもぎ放した。アリョーシャも心もとない力をふりしぽって、前から兄に抱きついて加勢した。

この一件がなんとかおさまったあと、イワンはアリョーシャに耳打ちする。
「畜生め、もしおれが引き離さなかったら、ひょっとすると、あのまんま殺しちまったかもしれないぜ。イソップ爺さんじゃ、手間ひまも要らないからな」
「なんて恐ろしいことを!」アリョーシャが嘆声をもらす。
「なにが恐ろしいことだい?」憎々しげに顔をひきゆがめ、あいかわらずのひそひそ声でイワンはつづける。「蛇か蛇を食い殺すだけさ、二人ともそれが当然のむくいなのさ!」
アリョーシャはぎくりとする……。

アリョーシャがぎくりとするのも当然だったろう。イワンは父のフョードルと兄のドミートリイを二人ながら蛇と呼び、二人の食い合いが当然だと言っているのだ。もしイワンが冷静な状態にあったならば、これほどあからさまな言葉は出てこなかっただろう。明らかにこれは、イワンがふつうの精神状態ではなかったこと、一種の酪酎状態にあったことを物語っているように思われる。イワンはこのあと、「おれはちょっと庭に出てくる。頭が痛くなってきたんだ」と言い残して、庭へ出て行く。頭が痛くなってきたというのも、アルコール中毒症状の継続かもしれない。

イワンがアルコール飲料を自分から希望する場面が、長編にはもう一個所語られている。料亭「みやこ」でアリョーシャとめぐり合ったとき、イワンは唐突に言いだす。
「アリョーシャ、シャンパンを一本注文してさ、ぼくの自由のために乾杯しないか。いや、ぼくがどんなにうれしいか、おまえにはわかるまいな」

イワンは、カチェリーナと手が切れて、ほんとうに自由になれたことを喜んでいるのである。しかし、このときはアリョーシャが反対する。
「いいえ、兄さん、お酒はやめたほうがいいですよ。それにぼく、なんだか気がふさいで」

どうしてアリョーシャが反対したのか、ここには書かれていない。おそらく、この前、コニャックをすこしばかり口にしたときのイワンの言動をアリョーシャは記憶していたのだろう。この前は、アリョーシャはぎくりとしただけだったが、それにしても兄の異常な言動が思い合わされて、二度と酒をすすめる気にはなれなかったのだろう。

アリョーシャの心配は杞憂ではなかったらしい。料亭「みやこ」での長時間の話し合いが終って、二人が別れたとき、アリョーシャは兄イワンの奇妙な歩き方に気がつく。イワンの歩き方が、「妙によろよろした感じで、後ろから見ると、右肩が左肩よりいくぶん下がり目になっているのに気がついた。それは、これまでにはついぞ見かけなかったことだった」という。明らかにこの頃からイワンは体調も万全ではなかったらしい。

ドストエフスキーがイワンの病気を重要視していたことは、『カラマーゾフの兄弟』を連載していた「ロシア報知」の編集担当者リュビーモフに宛てた一八八〇年八月十日付の手紙からも、はっきりと読みとれる。なおこの手紙には、悪魔が登場するこの独自の章について、ドストエフスキー自身のたいそう興味深い考察も記されている。

「さて、今度お送りした原稿のことですが。第六、七、八章(イワンとスメルジャコフの三度の面談の章)は、自分でもうまくいったと考えています。しかし、尊敬するニコライ・アレクセーヴィチ、貴兄が第九章(イワンと悪魔との対話の章)をどのように見られるかはわかりません。貴兄はあまりに独自すぎると言われるかもしれません!しかし、まったくのところ、私は奇をてらったのではありません。ただ、貴兄にお知らせしておくことを義務と考えますが、私はずっと以前から医師たちの(それも一人ではなく)意見を徴していたのです。彼らは、あのような悪魔はもちろん、幻覚もまた《せん妄症》の前にはありうることを裏づけてくれました。私の主人公は、もちろん、幻覚も見ますが、彼はそれを悪夢と混同しているのです。この場合には、人間がときとして現実と幻覚の区別を失いはじめる肉体的(病的)な特徴ばかりでなく(これはほとんどの人間が一生に一度くらいは経験することです)、主人公の性格と一致する精神的な特徴もが現われています。幻覚の現実性を否定しながら、彼は、幻覚が消えると、その現実性を主張します。彼は、神への不信に悩んでおり、それと同時に(無意識のうちに)幻覚がたんなるファンタジーではなく、実在する何かであてほしいと願うのです」

この手紙は、重要な指摘を含んでいる。一つはせん妄症の症状について、ドストエフスキーが複数の医師から意見を聞いていたことである
(*引用者注)イワンの場合、せん妄症の決定的な発作は第十二編の裁判の場で、彼自身の供述中に起るのだが、すでにその以前に悪夢ないし幻覚がありうることを、ドストエフスキーは確かめていた。しかもイワンが見るのは幻覚であって、それを悪夢と混同しているのだ、と断言されている。つまり、イワンが目にした悪魔は夢の中の出来事ではなく、イワンが醒めているときに現実に現われたものだということになる。だからイワンは、悪魔が去り、金縛りの状態から解放されたあと、「あれは夢じゃない! ちがう、誓ってあれは夢じゃない。あれは確かにいまあったことだ!」と叫ぶのである。

悪魔は幻覚としてたしかに実在した、とイワンは考える。しかもイワンを訪れて来だのは、これが最初ではない。「ぼくはこの前と同じように、きみの姿がときどき見えなくなるし……」とイワンは告白する。「ひとつわからないのは、この前ぼくが眠っていたのか、それとも現にきみの姿を見ていたのかなんだ。いまだって、タオルを冷たい水で濡らして頭に載せてみたら、きみはふっと蒸発してしまうんじやないかな」

イワンのこの疑問に対して、悪魔は次のような論拠をもち出す。
「まあ、待て、待て、ひとつきみの痛いところを突いてみせるよ。さっききみは街灯の下でアリョーシャに食ってかかったとき、『それはあいつから聞いたんだな! あいつがぼくのところに通っていることをどうして知っているんだ?』とどなったじやないか。あれはてっきりぼくのことを言ったんだろう?してみれば、ほんの一瞬間にもせよ、ぼくが確かに実在することを、きみも信じたわけじやないか、いや、確かに信じたのさ」

見るとおり、悪魔の論理は筋が通っており、イワンは追いつめられる。
「なに、あれは人間のもって生れた弱点というやつでね……ぼくにはやはりきみの存在を信ずることはできなかったんだ。この前のとき、自分が眠っていたのか、起きて歩いていたのかも、ぼくにはわからない。ことによると、あのときは夢にきみが現われて来ただけで、現のことじやなかったのかもしれない……」イワンの反論はまことに自信なげである。

それでもイワンは、「自分の幻覚を信じてしまい、決定的な狂気に落ちこまぬように」必死で抵抗していたという。悪魔が零下百五十度のエーテルの中の斧の話をはじめたとき、「でも、そんなところに斧かあるものだろうか?」と気のない、いやらしそうな様子で口をはさんだのもそのあらわれであった。幻覚の悪魔の話になんとかけちをつけようとしたのである。

しかし悪魔は平然と、こともなげに答える。
「空間の中で斧がどうなるって? Quelle idee! (なんという考えだ!) もうすこし遠くまで行ったら、衛星みたいに、なんのためとも知れず、地球のまわりをぐるぐるまわり出すだろうさ。天文学者たちは斧の出没時間を計算するだろうし、ガッツークはカレンダーに書きこむだろうね、それだけさ」

ガッツークというのは、一八七〇年〜八〇年代にモスクワで絵入りの週刊カレンダーを発行していた出版社だが、人工衛星が盛んに打上げられた一九五〇年代以降ならともかく、その七十年も前の一八八〇年に、斧の出没時間が暦に記載されることを予見したドストエフスキーの先見性には感嘆させられるしかない。ツィオルコフスキーが人工衛星の理論をはじめてまとめるのも一八八三年である。しかし、イワンはそんな先見性などまるで意に介しないふうで、片意地になって言う。

「きみは馬鹿だよ、ひどい馬鹿だ! もうすこし気のきいた嘘をついたらどうだ。さもないと、もう聞いてやらないぞ。きみはリアリズムでぼくを叩きつぶそうと思って、きみが存在することを信じ込ませようとしているが、きみが存在するなんて、だれが信じてやるものか!信じるもんか!!」

せっかく悪魔に先見的な言葉が托されたのに、イワンの反応はいかにもつれないが、当時の科学技術の水準では、むしろこれがまともな反応だったかもしれない。ともかく悪魔の存在を全否定しようとするイワンの決意は固いように見える。

「きみがそうむきになって反論するところを見ると、きみはやはりぼくの存在を信じているんだという確信が深まるねえ」悪魔はさらに追いうちをかける。
「とんでもない、百に一つも信じているものか!」
「でも、千に一つくらいは信じているさ。白状したまえ、一万に一つくらいは信じているって……」
「一瞬たりと信ずるものか!」イワンは憤然として叫ぶ。「もっとも、きみの存在を信じられたらとは思うよ!」と彼は突然、奇妙な調子でつけ加えた、とある。おそらく、この「奇妙な調子」が、リュビーモフ宛の手紙に言われている、「幻覚がたんなるファンタジーではなく、実在する何かであってほしいと願うのです」という結論の根拠になっているのだろう。しかし、リュビーモフ宛の手紙には、「彼は神への不信に悩んでおり」とも言われていた。イワンにとって、神は人間の知性が考え出したもののはずである。そのような神への不信に悩むとは、当然、人間の知性への不信を前提にしていなければならない。病気にかかって、自分の知性に自信がもてなくなったというのなら、わかる。しかし、狂気一歩手前のそのような状態で、神への信とか不信とかに悩むことができるものだろうか。

悪魔は意地悪くイワンをじらす。
「ぼくは信と不信との狭間にきみを彷徨させてみせるよ。それにはぼくなりの思惑もあってね。なに、新しい方法なのさ。つまり、きみはぼくの存在を完全に信じなくなったとたん、今度はぼくを目の前に置いて、おまえは夢じゃない、現実に実在しているんだと、逆にこのぼくを説きつけにかかるという寸法なのさ。なに、きみはそういう男なんだよ。そこでぼくは、首尾よく目的達成ということになる」

しかし、正当に悪魔が指摘するように、「もし悪魔の実在が証明されたからって、神の存在が証明されたことにはまだならない」。してみれば、「幻覚がたんなるファンタジーではなく、実在する何かであってほしい」というイワンの願望がかりに実現したところで、神はいまだにイワンにとって、実在するとも実在しないとも、はっきり決着のつかない存在でしかないことになる。

ここで、イワンが病に冒される以前の彼の論理に立ち返っておこう。彼は子供たちの受けたあがなわれない苦しみを根拠に、神の創った世界を認めようとしない。「ぼくは神を認めないんじゃない。アリョーシャ、ぼくはただ入場券をつつしんで神さまにお返しするだけなんだ」おそらくイワンの長い話の要諦はこの点にある。そしてそのかぎりでは、筋がとおっている。なるほど、アリョーシャはイワンのこの結論に対して、「それは反逆です」と断定する。

「反逆? おまえからそんな言葉を聞くつもりはなかったな」イワンはしみじみとした調子で言った。「反逆なんかで生きていけるかい。ぼくは生きていたいんだぜ」

おそらくここには、料亭「みやこ」での兄弟の長い会話のはじめに、イワンが「ぼくが愛するのは粘つこい春の若葉なんだ、青空なんだ。ここには知性もなければ、論理もない、ただ身内からつきあげてくるように、腹の底から愛するんだ。……生の意味よりも生そのものを愛するんだ」と語ったこととの関連を聞けるだろう。そういう生を愛する精神は知性的、論理的な「反逆」とは相容れないものである。

母親の目の前で犬に八裂きにされる少年の話を語って、それを命じた将軍をどうする、銃殺にすべきかね?とイワンはアリョーシャを問いつめる。そして「銃殺にすべきです!」というアリョーシャの答えを聞くと、イワンは有頂天のような声で叫ぶ。
「ブラボー!おまえがそう言うとなると、こりゃもう!いや、たいしたお坊さまだよ!してみると、おまえの胸のうちにも、ちょつとした悪魔の子供ぐらいはひそんでいるんだね、アリョーシャ・カラマーゾフ君!」

口がすべったようにして言うイワンのこの言葉は重要である。神の創った世界を認めようとしないイワンにして、「悪魔の子供」の存在は認めているらしいからである。なるほどアリョーシャはすぐに気がつく。
「ぼくはばかげたことを言いました、しかし……」
「それそれ、その『しかし』なんだ」とイワンはただちにアリョーシャの言葉尻をとらえる。
「いいかい、お坊さん、この地上ではそういうばかげたことが絶対不可欠ときているのさ。こういうばかげたことの上に世界も成り立っていて、それをなくしたら、ことによると、この世界に何ひとつ起らないかもしれないくらいなんだ」

たしかにそうかもしれない。この世界には人智では絶対に理解不可能なことがあり、それに対しては、「銃殺にすべきです!」と興奮にまかせて言うしかすべのないようなことがあまりに多すぎる。だからイワンも、「ぼくは事実にとどまるつもりだ。もうずっと前から、ぼくは理解なんかすまいと決めてしまったんだ。何かを理解しようなんて気を起すと、たちまち事実を柾げにかかるからね。だから事実にとどまろうと決心したのさ……」と語るのである。

それにしても、アリョーシャの「胸のうち」にも「ちょっとした悪魔の子供ぐらいはひそんでいる」としたら、この世界に生きる者の「胸のうち」には、数えきれぬぐらいの悪魔がひそんでいるのではないだろうか。イワンも例外ではない。現に彼の創作にかかる「大審問官」では、大審間官自身、「おまえ(キリスト)とではなく、やつと手を握った」ことを確言している。とすれば、イワンにとっても、悪魔を認めること、彼の実在を信じることが、救いのいちばんの早道のはずである。イワンの狂った知性は彼にこうささやく。だから法廷の場で、次のような光景が展開されるのである。

「ぼくには証人はいないんですね……もっとも、一人だけはいないわけじゃないですがね」
「証人というのはだれです?」
「尻尾のあるやつですよ、閣下、これじゃ手続きにふれますな!悪魔は存在せずですからね。気にせんでください。なに、やくざな、ちっぽけな悪魔ですよ。あいつは、きっと、この辺をうろついていますよ、ほら、あの証拠物件をのせたテーブルの下あたりに。やつの居場所は、そのあたりにきまっていますね」

せん妄症の突然の発作である。モスクワから来た医師は、「患者がきわめて危険なせん妄症の発作を起しており、即座に連れ去る必要がある」と法廷に報告した。また「患者がおととい診察を受けに来て、そのとき急性せん妄症の危険があることを警告したのに、患者が治療を受けようとしなかったこと」なども確認した。

こうして医学的には、この問題には決着がついた。しかしイワンが苦しんだ肝心の点、悪魔が実在するか否かの問題には何の決着もついていない。私の考えでは、イワンにとっては、明らかに悪魔は実在したのである。これは狂ったイワンの頭脳が生み出した幻影といったものではない。悪魔が部分的にスメルジャコフと重なり合うこともある。それよりこの悪魔は、三十歳をだいぶ過ぎた頃のイワン自身の姿なのだ。

だからイワンは、ひどくまじめな、秘密でも打ち明けるような調子で、アリョーシャに訴えるのである。
「ぼくはあいつがほんとうにあいつで、ぼくでなければいいのにと、どんなに思っているかしれないんだ!」
「兄さんはずいぶん苦しめられたんですね」同情の目で兄を見やりながら、アリョーシャが言う。
「ぼくをじらすんだよ!それがさ、実に巧妙なんだ。『良心!良心なんてなんだ、そんなものは自分で作るものさ。じゃ、どうして苦しむのか?習慣でだ。七千年来の全世界的な人間の習慣でだよ。そんなものからは足を洗って、神になろうじゃないか』これはあいつが言ったことなんだ、あいつが言ったことなんだ!」

実を言うと、これはイワンがかつて書いた叙事詩「地質学的変動」からの引用であり、「あいつが言ったこと」ではなく、イワン自身の言葉である。それでもアリョーシャは、兄の言葉を信じて言う。
「じゃ、兄さんじゃ、兄さんじゃないんですか? じゃ、あいつのことなんかほっておおきなさいな、うっちゃって、忘れてしまうんですよ!兄さんがいま呪っているものを、全部あいつに持って行かせて、もう二度と来させなければいいんです!」

イワンを慰めることのできるのは、アリョーシャだけのようである。アリョーシャは、イワンをやっと寝かせつけ、二時間ほどもそばにつき添っていた。そして安らかな寝息を立てるイワンの傍らで、自分も床につきながら、神に祈る。彼にはイワンの病気が理解できてきた。
『誇り高い決心の苦しみ、深い良心の苛責なのだ!』彼が信じていない神と、真実とが、いまだ従おうとせぬ彼の心に打ち勝とうとしているのだ。

スメルジャコフが死んでしまったいまとなっては、もうだれもイワンの申し立てを信じはすまい。けれどイワンは法廷に出て、証言するだろう。「神が勝利されるのだ。真実の光明の中によみがえるか、でなければ、自分の信じていないものに仕えた遺恨を、自分に対して、万人に対して晴らしながら、憎悪のうちに身を滅ぼすかなのだ」アリョーシャは痛ましくこう言い添えると、ふたたびイワンのために祈った。

「自分の信じていないものに仕えた」とは、おそらく悪魔のことを指すのだろう。しかし、イワンにとっては、やはり悪魔は実在したのである。それが神を信じない者にとっての宿命であった。

*引用者注 イワンの幻覚に関しては読者から批判が出たので、ドストエフスキーはBlagonravovという医師の見解を求めた。医師は「せん妄症においては幻覚はありえる」と保証した。その手紙の返事にドストエフスキーは次のように書いている。

当地では、小生が神と国民性を宣揚しているために、極力小生を地球の表面から抹殺しようとしています。貴兄が医家として賞賛せられた『カラマーゾフ』の中の一章(幻覚)のために、小生は退歩主義者と極印を打たれ、とうとう「悪魔」まで書くようになった狂信者とののしられました。彼らは無邪気にも、「何だって?ドストエフスキーが悪魔のことまで書きはじめたって?ああ、なんという俗物だろう、ああ、なんて発達の遅れた男だろう!」とみんなが異口同音に叫び出すものと想像しているのです。しかし、どうやらそれはあてはずれのようです。貴兄には、とくに医家として、小生が描いたあの人物の精神病が正確であるというお言葉に、感謝の意を表します。専門家の意見は小生を勇気づけてくれます。それに、ご異存はないことと思いますが、あの人物(イヴァン・カラマーゾフ)は、あの状況にあっては、あれ以外の幻覚を見ることができないのです。小生はあの一章を後日、未来の『日記』の中で、自分で批判的に説明したいと思います。(米川正夫訳『書簡』 1880年12月19日)