ドストエーフスキイ全作品読む会
Medical Dostoevsky & My Dostoevsky


ドストエフスキーと医学 
初出:地域医療ジャーナル vol.8(1)〜(3)  2022年1月号〜3月号

(1)ドストエフスキーのハマり方 /「エビデンス主義」に掉さす『地下室の手記
(2)ドストエフスキーとてんかん
(3)ジークムント・フロイト「ドストエフスキーと父親殺し」をめぐって




ドストエフスキーと医学(1)
初出:地域医療ジャーナル 2022年01月号 vol.8(1)
 

ドストエフスキーのハマり方 

昨年2021年はドストエフスキー生誕200周年でした。同じ年に、連綿と引き継がれてきたわたしたちの「ドストエーフスキイ全作品を読む会」は50周年を迎えました。永続している理由は単純です。いつの時代でも、年齢、職業、身分、性別などを超えて、「すごい!おもしろい!」とハマる人々が後を絶たないからです。

長く読みつづけてきたことに免じて言わせていただければ、ドストエフスキーは、難解かつ深刻に紹介されすぎているきらいがあるようです。「暗い、重い、むずかしい」という先入観に影響されて敬遠したり、観念的・抽象的なイメージにひきずられて紋切型の堅苦しい読み方になってしまうのはとても残念です。まずは、ミステリー、サスペンス、推理、恋愛などがぎっしりつまった、ハラハラドキドキの濃厚なドラマとして楽しむのが一番です。

19世紀当時のヨーロッパ、ロシアの著作の多くは雑誌への連載を経てから後に本として出版されていました。『カラマーゾフの兄弟』も同様でした。連載続行のためには常に読者の関心を惹きつけておかなければなりません。そのためのドストエフスキーならではの創作方法はさておき、当時のロシアの読者たちは(わたし自身がそうであったように)「真犯人はいったいだれ?」「アリョーシャはなぜ事件を止められなかったの?」「カテリーナが愛しているのはミーチャかイワンのどっち?」「この先どうなるの?」などとワクワクしながら読んだことでしょう。

「登場人物が多いし、横道が長すぎる」という理由から挫折する人もいるようです。なるほど、ドストエフスキーは小人物まで一人ひとり名前をつけて、本筋には関係のないエピソードをながながと語ったりします。しかし、読み返すたびに強く納得するのですが、ドストエフスキーにとっては「その他大勢」という「人間の捉え方」はありえないのです。

「登場人物が変人ばかり」といって敬遠する人もあるようです。しかし、ドストエフスキーにおいては「変人」こそが人間の基本型なのです。『カラマーゾフの兄弟』の冒頭に「作者より」という奇妙な短い一文があります。そのなかに、主人公アリョーシャ(彼は変人です)の意義に関連して次のように書かれています。

変人はかならずしも個別にして特殊な存在ではなく、むしろ逆に、変人こそがひょっとすると全体の核心の担い手であって、同時代の他の人々は、例外なく、何かの気まぐれな風の吹きまわしで、一時その変人からはぐれてしまったのだ、ということもありえないではないからである・・・(江川卓訳)

「変人」は「病人」に置き換えることもできる、わたしはそう考えています。

学者や研究者たちが百花繚乱、千差万別の見解を発表する一方で、市井の愛読者の多くがハマるのは小人物も含めた登場人物たちです。彼らのなかに自分自身を発見するのです。

ドストエフスキーは18歳のとき(父の死の2か月後)、兄ミハイルへの手紙に次のように書きました。

人間は神秘です。その謎は解かなければなりません。そのために一生を費やしたとしても、時間を浪費したとは言えません。ぼくはこの謎に取り組んでいます。なぜならぼくは人間になりたいからです。(工藤精一郎訳)

若き日のこの宣言どおり、ドストエフスキーは60年の生涯を「人間の謎を解く」というミッションにささげつくしました。そして、未来永劫、万人の心に直に届く「物語」というかたちで、他に類をみない「宝物」を人類にプレゼントしたのです。わたしにとっての、この宝物の価値は、例えてみれば「万能合鍵」です。文学の枠を超えて、思想、哲学、宗教、科学、医学、そして「いかに生きるか」にまで通用する合鍵のようなものです。『カラマーゾフの兄弟』一冊があれば「世界一周豪華客船の旅」以上の醍醐味と興奮が、何回でも繰り返して味わえます。安価で手軽な超ブランド商品なのです。



「エビデンス主義」に掉さす『地下室の手記』

わたしのドストエフスキー事始めは、二十歳のころ読んだ『地下室の手記』でした。冒頭から即のめりこんでしまいました。

ぼくは病んだ人間だ・・・・・ぼくは意地の悪い人間だ。およそ人好きのしない男だ。ぼくの考えでは、これは肝臓が悪いのだと思う。もっとも、病気のことなど、ぼくはこれっぱかりもわっかちゃいないし、どこが悪いのかも正確には知らない。(江川卓訳)

ドストエフスキー『地下室の手記』(紹介:下原康子)

これは時空を超えた、まさしくブログです。ブログの主はひきこもりの四十男。孤独な空想家でうぬぼれの強い小心者です。全編が貧相なこの人物のモノローグで占められています。人恋しくなって友人の集まりにのこのこ顔を出して無視されたり、娼婦に高尚ぶって説教したら逆に自分の方が哀れまれたりする、そんな滑稽な男のなかに、わたしは自分自身を見出したのでした。一方で、それは、ずっと後になってから明確に認識できたことですが、この男の真骨頂は、エビデンス主義(自然科学、数学、統計学)に噛みつくあっぱれな毒舌にありました。

諸君、二二が四だけ幅をきかすようになったら、もう自分の意志も糞もないじゃないか?・・・わたしはちゃんと知っている。自意識は、たとえば、二二が四などよりは、かぎりもなく高尚なものである。・・・諸君、二二が四というのは、もう生ではなく、死の始まりではないのだろうか。(江川卓訳)

当時二十歳のわたしに深い思索があろうはずもなく、単にこの人物の気まぐれと天邪鬼が愉快でたまらなかった、とどのつまりは相性が良かったというだけのことですが、文学がもつ「アイロニーの力」を強く予感させてくれた、わたしにとっては記念すべき一冊になりました。「ひきこもりのバイブル」として推奨したいと思います。ともあれ、この作品のおかげ世界文学の敷居がぐんと低くなったのは確かです。



ドストエフスキーと医学(2)
 
初出:地域医療ジャーナル2022年02月号 vol.8(2) 

ドストエフスキーとてんかん

1) W.ペンフィールド『脳と心の正体』

わたしは27歳で医学図書館員になりました。このときから「医学と文学の接点」の模索が始まりました。ほどなく、一冊の本と出会いました。医学専門書に挟まれて棚の奥に押しやられていた小さな白い表紙の一般書です。ドストエフスキーの合鍵がその本にピタリとはまりました。

脳と心の正体 ワイルダー・ペンフィールド 著 塚田裕三・山河宏 訳 法政大学出版局 1987
原題:Wilder Penfield. 1975. The Mystery of the Mind. Princeton university Press.


ワイルダー・ペンフィールド博士(1891-1978)は、てんかんの外科治療の先駆者であるとともに、30年にわたって人間の脳の働きを臨床医学の立場から研究して、驚くべき新知見を次々に発表した脳科学者としていっそう有名です。てんかんの患者さんの手術中に、露出した脳に電気刺激をあたえて、反応した体の部分を詳細に記録し、感覚や運動の体性地図(ペンフィールドのホモンクルス)の存在を明らかにしました。これらの豊富な観察と知識に基づいて、最も重要で、究極の謎とされる「心の本体は何か」という問題についても、一元論にそって説明しようと長年にわたって探求を続けました。

『脳と心の正体』は、晩年(83歳)に著した、自らの「脳と心の真理を求めつづけた巡礼の旅」の物語です。次のように述べています。

・この本を書くことは胸が高鳴る挑戦である。

・自分の経験を一般の読者や広い範囲の読者を対象にするために、異なった分野(神経外科医、哲学者、神経学者)の協力を求めた。

・単なる記録以上のものを残すのは科学者の義務であろう。

・現在脳について知られていることだけで、心を説明できるのだろうか?もしできないとしたら、人間は一つの要素から成るという説と、二つの要素から成るという説のうち、どちらの方が合理的だろうか。

・長い研究生活を通じて、なんとかして心を脳で説明しようと試みてきた。そして今、これまでに得られた証拠を最終的に検討しているうちに、人間は二つの基本的な要素から成るという説の方が合理的だと発見して、驚異の念に打たれている。

・二元論を受け入れた後で、私たちはまったく論理的に物理学者の助けを求めることができる。電気エネルギーは二つの形を取りうるのか?心の本体は何なのか?それは構造を持つのだろうか?

・人間の身体と脳は老化する。しかし、心には老化にあたる現象は見られない。人生の晩年に至るまで、心は独自の願望の成就に向かって進み続ける。そして、心がより明らかな理解と、より平衡のとれた判断に達しつつある時に、身体と脳はすでに力やスピードを失いつつあるのだ。

・私がこの本で論じた事実と仮説は、医学はじめ宗教、哲学、物理、化学など、いろいろな専門分野の研究者に示唆を与えることだろう。

・私は次のことを確信している。すなわち、私たちがついに人間を完全に理解したとき、心と心のエネルギーの本性は単純で容易に理解できるものであることがわかるだろう。

・アインシュタインはかってある科学上の解答を得たときにこう叫んだ。“この世界の神秘は、それが理解しうることにある!” 私は心の神秘がもはや神秘でなくなる日が来ることを信じて疑わない。


わたしは、読みながら著者の胸の高鳴りが感染したかのようにワクワクしました。とりわけ、手術中に意識のある患者さんがリアルタイムに話すフラッシュバック現象に魅せられました。

てんかんは「脳の異常放電に基づく反復性の発作であり、脳波異常を呈する慢性疾患」とされています。程度の差はありますが、稀な疾患というわけでもないようです。とはいえ、脳の中で発生する異常ですから、脳の研究において注目されるのは当然でしょう。ペンフィールドは「てんかんにはまだまだ秘密が隠されている。てんかん患者の言うことに耳を傾けるだけで私たちは多くのことを教えられるのである」と述べています。

ドストエフスキーはてんかんでした。また、『白痴』のムイシュキン、『悪霊』のキリーロフ、『カラマーゾフの兄弟』のスメルジャコフはてんかんです。関連する医学論文が必ずあるに違いない、探してみようと思い立ちました。



2) ドスエフスキーの医学文献

わたしが「ドストエフスキーとてんかん」の文献検索を始めた1992年はPubMed一般公開(1996)以前で、当時、私が利用したのは、CD-ROMで提供されていたMEDLINEでした。 “dostoevsky” でヒットしたのは30件前後だったかと記憶しています。2022年1月現在は105件が検索できました。

大半はてんかんに関連する文献で、その中には、恍惚前兆(アウラ)、幻覚、幻視、自己像幻視(二重身体験・ドッペルゲンガー)、夢、臨死体験、依存症(アルコール、賭博)、自殺、ハイパーグラフィア、ゲシュヴィント症候群、神秘体験、てんかんと宗教、宗教家の天啓、医療倫理など、さまざまな興味あるテーマが含まれており、神経科学、精神医学、心理学、看護学などの分野の臨床家や研究者が発表しています。特に多いのは、てんかんの患者さんをじかに診る機会が多い神経科医でした。

英語の医学論文を読むなどという、大それた気持ちが生まれたのは好奇心の力によるものですが、論文の入手が容易な図書館という環境にいなければ思いつくことさえできなかったでしょう。ひるがえって考えてみると、知りたいという思いは、患者にも共通する望みであり情熱です。切迫感において、患者はいっそう勝っているでしょう。

興味を惹かれた論文や関連する書籍を次々に読むことが、すでに折り返しを過ぎていたわたしの人生の楽しみになりました。記憶をインデックスするために、2003年にホームページを開設しました。

ドストエフスキーとてんかん/病 関連資料

2020年8月。コロナ禍一年目の夏に、思い立ってこれまで集めた資料をもとに自伝風の総説にまとめました。

ドストエフスキーのてんかんについて

次号では、この報告の中の「医学論文における見解」でとり上げた論文のいくつかをもう少し詳しく紹介したいと思います。



3) 臨死体験と立花隆さん

昨年、2021年4月30日に立花隆さんが亡くなりました。『ぼくはこんな本を読んできた』(文春文庫)のリストにはドストエフスキーも入っています。また、立花隆『臨死体験』(文藝春秋 1994)の2箇所にドストエフスキーの名前が出てきます。いずれも、臨死体験者が語る「至上の境地」とドストエフスキー文学の中に描かれた「永久調和の一瞬」の類似に関連する記述です。

・臨死体験の恍惚感には、てんかん発作時の恍惚感と麻薬中毒者の恍惚感に近いものがあるというのは実に的確な表現で、現代の研究においても、実際それは感覚の質においてそういうものではないかという説がある。(上119)

・(てんかん専門家の指摘として)一般に臨死体験者は、体験中の気分が、平和で心静かで、至福の境地といってよい喜びに満たされたものだったと述べているが、てんかん患者からはそのような気分は報告されていない。ドストエフスキーの文学の中には、それと似た気分が書かれているが、現実の患者の報告からは出てきていない。脳を電気刺激した場合も同じである。(下383)


当時文献検索でテンションが上がっていたわたしは、この箇所を読んで、途方もないことを思いつきました。てんかん発作の中にはまれに恍惚前兆(エクスタシー発作)のある症例があって「ドストエフスキーてんかん」と呼ばれています。関連論文が複数存在することを(僭越にも!)立花さんに教えてあげたくなったのです。

ここに、追悼とオマージュの思いを込めて(司書の自慢話としても)次のエピソードを書かせていただきます。

1995年(平成7年)の春ごろ、5〜6件の関連論文のコピーに短い手紙を添えて、出版社気付けで立花さんに送りました。平成7年といえば、1月に阪神淡路大震災、3月に地下鉄サリン事件があって、日本の安全神話が根底から揺さぶられた年でした。麻原彰晃が逮捕されたのは同年5月16日のことですが、その同じ日に私は乳がんであることを告げられました。

およそ一か月の入院を経て仕事に復帰した秋ごろのことです。突然、文藝春秋の記者の方から電話がかかってきました。要件は、立花隆さんからの依頼で「 “麻原彰晃とメシア・コンプレックス” というテーマに関連する文献を集めて送って欲しい」というものでした。1997年ごろまではMEDLINEの利用は主に大学図書館などに限定されていたので、さすがの立花さんも文献集めが身近ではなかったのでしょう。

それにしても、あの立花隆さんから文献検索を依頼されたのです!うれしい興奮で、沈んでいた気分がたちまち好転しました。司書であることを誇らしくも感じました。はりきって文献検索に挑んだことは言うまでもありません。余計かもしれない文献まで付け足して送りました。折り返し秘書の方の美しい筆跡の丁寧なお手紙と猫ビルの表紙の立花隆さんの私家本が届きました。今でも折に触れて思い出すとあのときのうれしかった気持が蘇ります。



ドストエフスキーと医学(3) 

初出:地域医療ジャーナル2022年03月号 vol.8(3) 


ジークムント・フロイト「ドストエフスキーと父親殺し」をめぐって 
━「ドストエフスキーのてんかん研究」の変遷 ━


Sigmund Freud.1928. Dostojewski und die Vatertotung
ドストエフスキーと父親殺し/不気味なもの (光文社古典新訳文庫) 中山元 訳 2011/2/9



1) 神経症患者としてのドストエフスキー(心理学/精神医学の立場)

フロイトは、ドストエフスキーとはまた異なる方法で、人間の謎を解く鍵を人類にもたらしました。人間の心に無意識という領域があるという大発見をしたのです。無意識を分析することで、神経症を治療する「精神分析」という方法を生み出しました。その理論は、精神医学の枠を超えて、心理学、哲学、宗教、思想に大きな影響を及ぼしました。そのフロイトがドストエフスキーの精神分析を試みたのが「ドストエフスキーと父親殺し」です。

フロイトが研究対象としたのは、「神経症患者としてのドストエフスキー」でした。

フロイトは、てんかんおよびドストエフスキーのてんかんについて、次のよう考えていました。

てんかんには、器質的なてんかんと情動的なてんかんがある。器質的なてんかん患者は脳に障害があり、情動的なてんかんの患者は神経症である。ドストエフスキーのてんかんは情動的なてんかんである。

確かに、ドストエフスキーの生涯には神経症的なエピソードが少なからず見られます。また、器質的なてんかんは、ほとんどの場合、知的な力が損なわれると考えられていたことも、器質的てんかんを否定した理由になったと思います。

しかし、てんかんに能力の低下が伴うという説は、1978年にフランスのてんかんの権威ガストー博士によって否定されました。

(ドストエフスキーが全般てんかんであったと結論した上で)発作はドストエフスキーの天与の才を鈍らせも損ないもしなかったし、またその才は決しててんかんに基盤を持つものでもなかった。この教訓は発作のために知能が低下したと、いわば問答無用のレッテルをはられている多くのてんかん患者のために、またその例外的な能力がてんかんの副産物と考えてはならない数人のてんかん天才人のために、きわめて強い弁護の砦となるであろう。

Henri Gastaut.Fyodor Mihailovitch Dostoevsky’s Involuntary Contribution to the Symptomatology and Prognosis of Epilepsy.1978.Epilepsia 19:186-201
概要 アンリ・ガストー「ドストエフスキーのてんかん再考 原発全汎てんかん説」 和田豊治 訳  大日本製薬1981



2)てんかん患者としてのドストエフスキー(医学・神経学の立場)

フランスの著名な神経科医Alajouanineの論文(1963)が口火になって「ドストエフスキーのてんかん」関連の論文発表が増えはじめました。

Theophile Alajouanine ドストエフスキーのてんかん

著者はてんかん専門医と神経科医がほとんどで、かれらの研究対象は「てんかん患者としてのドストエフスキー」でした。論文の多くは、医者が初めての患者に対して行うのと同じ方法をもちいて、ドストエフスキーの病気の詳細から彼の病歴を構成しようという試みでした。てんかんとされる歴史上の有名人は少なくないのですが、ドストエフスキーほど個人的な発作の記録が残っている人物は他に例がないのです。またてんかん者が作品のなかにたびたび出てきます。神経科医、精神科医が特別な関心を持つのはうなずかれます。一方で、素人のわたしが、かれらの医学論文を読むという挑戦をする気持ちになれたのは、てんかん患者さんへの思いやりとドストエフスキー作品に対する愛着が感じられたからでした。

「ドストエフスキーのてんかん研究」には主要なテーマが二つあります。一つは病型分類で、「ドストエフスキーは側頭葉てんかんだったのか、あるいは全般てんかんだったのか」という問題です。もう一つはエクスタシー前兆で、『白痴』のムイシュキンと『悪霊』のキリーロフが語る「永久調和の一瞬」がドストエフスキー自身の体験だったのか、という問題です。後者は、側頭葉てんかんとした場合にのみ問われる問題です。

Alajouanineがとりわけ興味を惹かれたのは、後者のエクスタシー前兆で、その部分に多くを割き、以下のように述べています。

たとえそれが作家の創造によって変容されたことを考慮に入れても、エクスタシー前兆の重大性については小説の中で十分に説明されている。また、何といっても、ドストエフスキーにあっては、てんかんが、文学と分かち難く結びついた作家の生活や思想に大きな影響を与えたという点が重要である。



3)ドストエフスキーのてんかんの病型分類

病型分類について、ガストーは、先に引用した1978年の論文で、従来の側頭葉てんかん説を覆して、全般てんかん説を主張しました。

ドストエフスキーの病歴を詳細に検討してみて、確実なものとして信用できるのは、全般てんかんで起こされるものだけであった。側頭葉てんかんでないなら、エクスタシー前兆もない。さらに、エクスタシー前兆には恐怖、悲哀、不安、怒りなどは確かにあるが、エクスタシーのある患者は診たことがない。ムイシュキンとキリーロフの体験は、作家の完全な創作であると考える。

しかしながら、1980年に、エクスタシー前兆を初めて脳波で確認し、「ドストエフスキーてんかん」と名づけた記念すべき論文が発表されました。

F.Cirignotta,C.Vら エクスタシー発作をともなう側頭葉てんかん(いわゆる ドストエフスキーてんかん)

1983年には、オランダのてんかん専門医Voskuilが、残された全発作の記述、頻度、誘因、進行、治療、家族の病歴からドストエフスキーの病歴の構成を試み、部分複雑てんかんの発作が二次的に夜間の全般発作を引き起こしたとする説を発表しました。

Piet.H.A.Voskuil ドストエフスキーのてんかん

ガストーはVoskuilの論文を高く評価しました。1984年に発表した論文では、『白痴』『カラマーゾフの兄弟』『アンナ夫人の日記』などを再読して、ドストエフスキーおよび作中人物のてんかんには明らかに側頭葉てんかんと思われる症状がいくつか存在することに気がついた、と述べています。

Henri Gastaut ドストエフスキーのてんかんについての新しい考察



4)エクスタシー前兆

エクスタシー前兆の体験は、もし人に話したとしても、臨死体験と同様に、なかなか本当にしてもらえないでしょう。実際、そういう症例報告は非常に少ないのです。以下のエッセイは、そんなめずらしい患者さんに出会った神経科医が書いたエッセイです。著者は「慢性疾患の治療には、実質的な医師-患者関係(教師としての医師と生徒としての患者の関係)が必要になる」と述べていますが、このエピソードの中には、診察中に医師と患者が仲よく『白痴』や関連論文を読むなど、「医師と患者が共に学ぶ」素敵な場面がくり広げられています。

ハロルド・L・クローアンズ 楽園への道 

以下の論文の著者は脳神経外科医です。二つの症例(ムイシュキンと、著者が経験した脳腫瘍の患者さん)を比較しています。論文の最後に、患者さんとドストエフスキーにインスパイアーされたことを、率直に述べています。

ドストエフスキーは、てんかんの器質的な側面は無視している。しかしながら、ムイシュキンや他の作品の登場人物を通して、てんかん患者の心や感情へと私たちを導いてくれる。Miksanekが述べるように、ドストエフスキーの『白痴』は、芸術がいかに科学的観察を補強し、推考を助けることができるかを示す好例である。『白痴』や他のドストエフスキー作品のいくつかを読むことによって、不治のてんかん病者との類似を学ぶことができるのだ。このような洞察は、最良の神経病学または脳神経外科学の教科書の中でさえ、提示されたことがない。

Howard Morgan ドストエフスキーのてんかん:ある症例との比較


フロイトにもどりましょう。

フロイトはドストエフスキーの永久調和の一瞬をどのように分析したでしょうか。フロイト論文の肝とされる部分です。

発作の前駆症状(アウラ)のうちで、至高の恍惚状態が一瞬だけ訪れるが、それは父親の死の知らせをうけとったときの勝利と解放の感覚が固着したものだろう。この恍惚の瞬間の直後に、残酷な罰が待っているのであった。このように凱歌に悲哀がつづき、お祭り騒ぎのような満足に悲哀がつづくのだが、原始部族の父親を殺害した息子たちもこうした状態を経験した、とわたしたちは考えている。

個人にとっても人類にとっても、最初の犯罪、そしてもっとも重大な犯罪が父親殺しであるという理論はよく知られている。これが罪悪感の主要な源泉であるのはたしかである。

ドストエフスキーは父親を殺そうと考えたことによって、良心に痛みを感じたのであり、この痛みから生涯にわたって解放されることがなかったのである。



5)ドストエフスキーと「ゲシュヴィンド症候群」

医学分野の論文には、フロイト論文の実質的な引用はあまり見られません。その中で、「ゲシュヴィンド症候群」に名前を残すアメリカの行動神経学者ノーマン・ゲシュヴィンドがフロイトを引用しているのが注目されます。以下に引用します。

フロイドはドストエフスキーの発作に対してhystero-epilepsyという用語を使った。用語の通常の意味において、ドストエフスキーがヒステリー性てんかんであったという可能性を否定する材料は数多く残っている。定型的なてんかんは倒れて口から泡をふくが、実際、ドストエフスキーはしばしば発作で倒れて泡をふき、怪我をすることもあった。これはヒステリー性てんかんでは起こりえないことである。さらに、高い知性を備え、てんかんの臨床についてはとりわけ注意深かったドストエフスキーにおいてそれは考えられない。フロイドの著作を注意深く読むと、彼はドストエフスキーのてんかんがヒステリー性の疑似発作であると言っているのではなく、彼が使ったhystero-epilepsyという用語は心因性てんかんを示唆しているように思われる。たとえば、未だ解明できない内的葛藤に起因する器質性のてんかんである。この可能性を完全に否定することはできない。てんかんの心身相関についての文献は乏しいからである。

Norman Geschwind ドストエフスキーのてんかん

ゲシュヴィンドは「心因性てんかん」の可能性を示唆しながらも、ドストエフスキーのてんかんについては、古代から「たおれ病」と呼ばれた定型的な(器質性の)てんかんであったことを明確に述べています。

一方で、気になったのが「ゲシュヴィンド症候群」です。天才と関連してしばしば言及される症候群です。

「ゲシュヴィンド症候群 (Wikipediaによる)
Gastaut-Geschwind syndromeとも呼ばれる。側頭葉てんかんを有する一部の人々において明らかな一連の行動現象である。1973年から1984年にかけてこのテーマを集中的に発表したノーマン・ゲシュヴィンド(Norman Geschwind)にちなんで命名された。しかし、これが神経精神障害であるかどうかをめぐっては論争がある。側頭葉てんかんは穏やかに慢性化し、しだいに発作間欠時の人格変化を引き起こす。ゲシュヴィンド症候群には5つの主要な変化が含まれる。ハイパーグラフィア(書字過多)、宗教への強いこだわり、性欲減退 、まわりくどさ、精神生活への過度の傾斜である。これらは症状のすべてではないが、てんかんまたは側頭葉てんかんを有する一部の人々によく見られる特性である。


ゲシュヴィンドはフロイトの精神分析を借りて「ゲシュヴィンド症候群患者としてのドストエフスキー」を分析しています。そのいくつかは(訳者の注に書いたように)納得できませんでしたが、「ハイパーグラフィア(書字過多)」と「宗教へのこだわり」は、ドストエフスキーの鍵穴にピッタリとはまり、新たな展開をもたらしてくれました。

以下の本は、ハイパーグラフィアとライターズブロックの両方を経験した神経科医が、患者としての体験を語る一方で、それらが起こる脳の状態を解説しています。第1章の冒頭はドストエフスキーのエピソードで始まっています。

Alice W.Flaherty『書きたがる脳 言語と創造性の科学』



6) ドストエフスキーの父親殺しの真相

参考:L.グロスマン『ドストエフスキー全集 別巻:年譜』(伝記、日付と資料)/ 江川卓訳『カラマーゾフの兄弟』解説

ドストエフスキーの父親の死の真相は興味を惹かれるテーマですが、この事件について確実にわかっていることは少ないのです。本当はどのような父親であったかについても、研究者の中で異論反論があるようです。比較的知られている解説をかいつまむと次のような事情です。

ドストエフスキーの父ミハイルは、領地に引きこもって飲酒にふけるようになり、百姓たちを鞭で打ち据えるなど性格も粗暴になっていた。女癖の悪さも目に余るほどだった。息子のフョードルがペテルブルグの工兵士官学校に在学していた18歳のとき、持村の農奴に惨殺された。埋葬に行った継祖母が、隣人夫妻に聞いたところによれば、数名の農奴が地主に対する反感と個人的な怨みから行った犯行のようだったが、本当のことが知れると村の男たちは全員が懲役にやられ、結局は遺族が困るだけなので、継祖母は隣人夫婦から、事を荒立てないようにという忠告を受けた。

殺された日付も推定で、ドストエフスキーが父の死をいつ知ったか、その時どうふるまったかなど確実なことはわかっていません。一方で、ドストエフスキーの娘エーメの「家ではドストエフスキーがてんかんの発作を起こした最初は、父の死を知らされた時と言い伝えています」という証言については、裏付けがないとされながらも、フロイトが重要視したことから一人歩きしているようです。



7)フロイト論文に対するわたしの貧弱な感想

「ドストエフスキーと父親殺し」と聞くと、たいていの読者は『カラマーゾフの兄弟』を思い浮かべるのではないでしょうか。ドストエフスキーの生涯を知れば、ドストエフスキーの父親の死を連想するかもしれません。『カラマーゾフの兄弟』はまさしく父親殺しが軸になっている物語です。そのなかには、わざとのように、二つの父親殺しが重なり合うことに気づかせるような、気になる符合があります。殺されたカラマーゾフの父親にドストエフスキーが自分と同じフョードルという名前をつけたこと、ドストエフスキーの父親の持ち村と同名の領地がキーワードになっていること、腹違いの息子が真犯人で、てんかん者だったことなどです。

しかし、(わたしの期待に反して)、フロイト論文における『カラマーゾフの兄弟』への言及は多くはありません。

フロイトはドストエフスキーの四つの<顔>を上げて、それぞれを分析しています。「詩人としての顔」「神経症患者としての顔」「道徳家としての顔」「罪人としての顔」です。

詩人としての顔については、
シェイクスピアと比較しても遜色がない。『カラマーゾフの兄弟』は世界文学の最高級の小説であり、作中の「大審問官の逸話」は最高傑作である。しかし、こと精神分析には、詩人という<顔>を分析するには、手がかりがないのである。

道徳家としての顔については
あれほどの高い知性と人類愛にめぐまれたドストエフスキーが道徳的な闘いにおいて到達したのは、結局のところ、ツァーとキリスト教の神だった。彼は人類の教師や解放者になり損ねて、人類の牢獄の看守になり下がったのである。

罪人としての顔については
ドストエフスキーは作品のなかで、暴力的な人間、人殺し、我欲に満ちた人間などをとくに好んで描いているのであり、心のうちにこうしたものを好む傾向があったのではないかと考えられる。また、ドストエフスキーの人生の経歴のうちにも、こうした傾向をうかがわせる事実をいくつか挙げることができる。賭博癖と未成年の女性を強姦した事実があるのである。

「罪人としての顔」のなかに、わたしには見過ごすことができない指摘がありました。フロイトが事実としてあげている「賭博癖」と「未成年の女性への強姦」です。

賭博癖については、ドストエフスキーがある時期、ドイツでルーレット賭博に耽溺したのは事実です。フロイトは「賭博は彼にとっての自己処罰のひとつの形式で、賭博に負けて自分を処罰することで、自分の罪悪感を満足させると、執筆を妨げていた原因が取り除かれて執筆に戻ることができた」と分析しています。

一方で、フロイトは触れていませんが、私が不思議でならないのは、ある日を境に、ドストエフスキーの激しい賭博熱がぷっつり醒めたことです。依存症からの回復は簡単ではないはず。ドストエフスキーは妻アンナへの手紙に「大きな事件がわたしの身におこった」と書いています。いかなる事件だったのかは語られることなく謎として残っています。当時のアンナ夫人には夫の言葉は信じられませんでした。しかし、後に「“賭博の幻想”は魔力か病気のようなものだったが、突然、そして永久に治ってしまった」と回想しています。

「未成年の女性を強姦した」というのは事実ではありません。信頼できない参考資料を採用しており、近年のドストエフスキー研究者たちは否定しています。

以上3つの<顔>の分析は合わせても全体の6分の1程度で、フロイト論文のメインは何といっても「神経症患者としての顔」です。

一読したときは、ドストエフスキーが、フロイトの手術室で、問答無用のメス(「去勢コンプレックス」「エディプス・コンプレックス」など)で解剖されているように感じて拒否反応がおこりました。けれど、何度か読み返してみて、私にとってはかっこうの「フロイト入門」になったような気もしてます。一番の収穫は、ドストエフスキーには強い両性的な素質があったという指摘です。ドストエフスキー独特の女性の描きかたの謎に迫るヒントをもらえたと思います。

最後に、もし、ドストエフスキーがてんかんでなかったら、医学図書館員であったとはいえ、わたしがフロイト論文や、英語の医学論文を読むことはありえなかったし、「地域医療ジャーナル」に書かせていただくこともなかったでしよう。ドストエフスキーにはもうしわけないけれど、てんかんであったことに対しても感謝したい気持ちです。また、ドストエフスキーの作品が、後世のてんかん研究に大きな貢献をしたことは断言してよいと思います。