Medical Dostoevsky&My Dostoevsky
ドストエーフスキイ全作品を読む会 読書会報告 (2020.8.29報告)

ドストエフスキーのてんかんについて
 
(参考HP:ドストエフスキーとてんかん/病い 関連資料
http://dokushokai.shimohara.net/meddost/shiryo.html

下原康子


目 次
はじめに
1.てんかん発作とは
2.ドストエフスキーのてんかん
3.医学文献
4.てんかん発作の記録
5.小説のなかのてんかん者
6.スメルジャコフの詐病てんかん
7.あらゆる種類の発作
8.医学論文における見解
9.“ロマンティック・リアリズム” と “ロマンティック・サイエンス”
おわりに



はじめに


最初に私がてんかんに興味をもつようになったいくつかのきっかけと発見についてお話したいと思います。

@「唖と聾の霊」の発見

一つ目の発見は、ラファエロの「キリストの変容とてんかん」(バチカン美術館所蔵)に描かれた福音書のある一節に関係があります。この絵は、福音書の二つの章──上半分が「キリストの変容」下半分が「てんかんを癒す」という物語です。下半分の物語でイエスは、汚れた霊に「
唖と聾の霊、この子から出て行け、二度と入るな!」と命じて子どもを癒します。

ラファエロの「キリストの変容とてんかん」(バチカン美術館所蔵)

唖と聾の霊」でピンときたのが、『罪と罰』でラスコーリニコフが見るネヴァ川のパノラマです。「そのパノラマから言いようもない冷気が吹いてきて、彼にとってはこのはなやかな画面が「唖と聾の霊」に満たされている」(第2部2)とあります。もう一つが『白痴』のイッポリートの告白です。「自然というものが、なにかしら巨大などんらんなあくなき唖の獣のように感じられる」(第3部6)とあります。私は、ドストエフスキー文学の謎を象徴するような「唖と聾の霊」というワードが福音書に由来しているという発見に深く魅せられました。

それからずっと後になりますが、もう一つの発見をしました。『悪霊』のエピグラフに掲げられた福音書「ゲラサの豚」です。「イエスに許されて、悪鬼どもは取りつかれた人から出て豚の群れに乗り移った。すると群は気がちがったように湖になだれこみ、溺れて死んだ」というエピソードです。私は、この「悪鬼につかれた男」からてんかんを連想せずにはいられませんでした。 臨終のステパン氏は、聖書売りのソフィアにこの部分を朗読させ、あの連中(ピョートルたち)を「病人から出て豚に入った悪霊ども」になぞらえ、自分があの連中の先頭を行く親玉だったかもしれない、と興奮して語ります。
福音書の中のてんかんとドストエフスキー

A「ドストエフスキーとてんかん」関連医学文献の発見

私は長年、大学医学部の図書館で司書をしていました。コチコチ文系の私が医学の分野で関心を持つことができるテーマが二つありました。一つは「医者と患者」もう一つが「脳と心」です。

「脳と心」に対する関心がドストエフスキーにつながるきっかけになった二つの出会いがありました。一つはワイルダー・ペンフィールドというカナダの脳外科医が書いた『脳と心の正体』(文化放送1977)という本です。ペンフィールドはてんかん患者の手術の最中に露出した脳に電気刺激を与えるというすごい方法で、脳の働きに関する数々の大発見をしたことで有名です。ペンフィールドはこの本の中で「てんかんにはまだまだ秘密が隠されている。てんかん患者の言うことに耳を傾けるだけで私たちは多くのことを教えられるのである」と述べています。

もう一つは、そのころ生理学教室で睡眠の研究をされていた鳥居鎭夫先生との出会いです。じかにお話を聞く機会がありました。『行動としての睡眠』(青土社1984年)『夢をみる脳』(中公新書1987)という本を書かれましたが、その中に何回か文学作品からの引用が出てきます。つまり、医学の説明に文学の表現が使われていたのです。これは私にとって大きな発見でした。「文学と医学」というテーマが新たに広がりました。

1990年代からドストエフスキーの医学文献検索を始めました。検索結果の大半はてんかんに関連のある論文でしたが、その中には、恍惚前兆(アウラ)、夢、幻覚、幻視、自己像幻視(二重身体験)、臨死体験、依存症(賭博)、自殺、ハイパーグラフィア、Geshwind症候群、神秘体験、てんかんと宗教、宗教家の天啓、医療倫理などさまざまなテーマが含まれており、神経科学、精神科学、心理学、看護学などの分野の研究者が発表していました。特に多いのがてんかんの患者さんをじかに診る機会の多い神経内科医でした。1994年、文芸評論家の横尾和博さんのおすすめで、読書会で「ドストエフスキーとてんかん」という報告をしました。これではずみがついて、今に至るまで、楽しみながら情報検索を続けています。今日の報告のネタは読書会ホームページのなかの「ドストエフスキーとてんかん/病い 関連資料」というページに集めていますので、興味を持たれた方はごらんになってください。

ここからは、読書会通信に載せた「報告メモ」にそって話をすすめさせていただきます。



1.てんかん発作とは

脳全体あるいは脳の一部で神経細胞が異常放電を起こした状態である。(電気器具がショートしたイメージ)異常は発作時だけ。現在ではほとんどが薬でコントロールできるが、ドストエフスキーの時代には治療法がなかった。
★ドストエフスキー(てんかんについて「てんかん列伝」より)(愛知県青い鳥医療福祉センター 青い鳥ウェブ講座 てんかんについて)aoitori-center.com/tenkan/dostoyevski.html 

てんかん発作は脳内の神経細胞網に異常な電流が流れて起きる症状です。脳をもっている限りどんな人にもてんかん発作は起こりえます。「人間はてんかん発作を起こす生き物である」と定義したてんかん学者もいるそうで、全人口の10%程度が、自覚はなくても、誰でも一生のうちで一回以上はてんかん発作を起こすと推定されています。てんかんは、大きく、全般てんかんと部分てんかんに分けられています。全般てんかんは脳全体が興奮している状態で、軽いものから重いものまで、その症状もさまざまです。重いものでは意識を失うことも多く、ムイシュキンがラゴージンのナイフを見てホテルの階段で起こした発作やマルファが目撃したスメルジャコフの発作がこのタイプです。

一方、部分てんかんは局在関連てんかんとも呼ばれ、脳の特定の場所から異常放電が起こります。場所とその広がり方によって、さまざまな症状が現れます。さらに部分発作は発作中に意識が保たれているかどうかによって2種類に分けられます。意識が保たれている場合を単純部分発作、保たれていない場合を複雑部分発作と呼んでいます。意識があれば、発作がすぎてからそのときの感覚を説明することができますが、意識がない場合は、記憶に残らないので発作中のことはまったく覚えていません。また、意識があっても、本人もはっきり表現できない異様な感覚もあって、ムイシュキンの恍惚前兆(アウラと呼ばれます)が、それであったとされています。

てんかんの診断は、脳波ではっきりしますが、発作はいつ起こるか予測できないものなので、発作の起きる時をねらって脳波を記録することはできません。それではどうするかといえば、発作を目撃した人、そして、発作を起こした本人から発作に関する情報をできるだけ聞くしかありません。ドストエフスキーほど、自らの記録や目撃証言を後世に残した著名人は他にいません。その上、作品の中で多くのてんかん者を描きました。てんかん学者や神経科医がドストエフスキーに注目するのは当然なのです。



2.ドストエフスキーのてんかん

 脳の一部から起こり脳の全体におよんだとされる。発作は一日に2回から4か月に1回までの変動がある。平均すると、月1回の発作がおよそ35年間続いたと考えられる。遺伝的素因があった可能性もある。
★Piet.H.A.Voskuil 著 ドストエフスキーのてんかん(1983)
http://dokushokai.shimohara.net/meddost/voskuil.htm

★同時代人が語る ドストエフスキーのてんかんと病 
(『ドストエフスキー 同時代人の回想』ドリーニン編 水野忠夫 訳 河出書房新社 1966)http://dokushokai.shimohara.net/meddost/dojidaijin.html

★アンナ夫人が日記に残したてんかん関連とvs.スースロワの記録
http://dokushokai.shimohara.net/meddost/annakiroku.html

子どものころの病歴は、弟のアンドレイの回想にわずかに残るだけです。「フョードルは、これといった原因もなしに喉頭の病気にかかり声が出なくなった。病気はかなりしつこく、あらゆる方法が試みられたが効き目はなかった。この病気の跡がふつうよりも奥のほうからだす声に残った」と回想しています。

工兵士官学校時代のドストエフスキーは、空咳、ひどいしわがれ声、顎骨の下の腺の腫物などに悩まされていたようですが、まわりに絶対に気づかれないようにしていたことが、友人の医者リーゼンカンプの日記(日記の所在は明らかになっていないが、ミルレルが回想に記している)に書かれています。下級生だったコンスタン・トルトフスキーは、回想記に1849年(逮捕の年)にドストエフスキーが来て泊まったとき、「もし昏睡状態になっても三日間は埋葬しないでほしいと頼まれた。昏睡状態に陥るかもしれないという思いが、たえずかれを不安にさせ、おびやかせていたのである。」と書いています。

ドストエフスキーのてんかん発作の最初の目撃証言とされる記述を、工兵士官学校の友人グリゴローヴィッチが回想に記しています。「かれといっしょにトロイツキー横丁を歩いていて、葬式の行列に出会ったことがある。ドストエフスキーは急いであとに引き返そうとしたが、数歩も行かないうちに発作に襲われてしまった」(1844〜45年ごろ)。

同じころ、ドストエフスキーを診たヤノーフスキイ医師の回想記には、当時のドストエフスキーの風貌が医師ならではの正確さで描写されています。また、「彼は特別な頭痛をともなった眩暈がすると言い、それを卒中の一種と思いこんでいた。神経症の現象が幼年時代からしばしば現れていたという話をたびたび聞かされていたので、彼の体質や体格を考慮に入れて、神経症の一種にちがいないと想像していた」と書いています。ヤノーフスキイ医師は1847〜1849年の間にドストエフスキーの発作を3回目撃しています。ドストエフスキーとはふつうの医者・患者以上に親しい間柄で、長く話し込むことが多かったようです。ドストエフスキーは、しばしば主として脳や神経系の病気や精神病関連の医学書を借りていったと回想しています。

シベリア時代の記録として残っているのは、1854年にオムスクから兄のミハイルにあてた手紙の中に「ぼくはよく病気になって入院しました。神経の不調のためにてんかんが起こったのですが、しかし、時たまです」とあり、1857年、兄ミハイルと友人のヴランゲリ男爵にあてた手紙には、最初の結婚直後に起こった発作の時に診てもらった医師の見解について、「医師は(学識と経験の深い人です)、これまでの医師たちのすべての診断を退けて、これは本当の癲癇であって、いずれはこのような発作の際に、喉の痙攣で窒息し、ほかならぬそのために命をおとすことを覚悟しなければならない、とぼくに明言しました」と書いています。重要とされる記録は、1857年12月16日、シベリアの第七歩兵大隊の医師エルマコフ が作成した診断書で、「1850年の初てんかん発作以来4か年間、発作の都度治療を受けたが、依然おさまる気配がない。このゆえに勤務続行は不可能と認める」とあります。

その後のドストエフスキーの生涯についてはおおまかには次のとおりです。
最初の結婚(1857)、ペテルブルグに戻って雑誌「時代」創刊(1861)、妻の死・兄の死(1864)、二度目の結婚(1867)、外国旅行(1867〜1871)、スターラヤ・ルッサに滞在(1872〜1875)、ペテルブルグに戻って「作家の日記」創刊(1874)、エムスでの療養(1874〜1879)、呼吸器疾患による死(1881.1.28)。
この間(36歳〜59歳)のドストエフスキーのてんかん発作についての記述は、「4.てんかん発作の記録」に上げた「書簡」「手帖」「日記」「回想記」等のあちこちで見られます。

『カラマーゾフの兄弟』には、スメルジャコフのてんかん発作は平均して月に1回ほど起こったと書いてあります。発作の程度はさまざまで、激しいことも軽いこともあったとあり、これらはドストエフスキーと同じです。ドストエフスキーのてんかんで記録が残っている発作の大半は全般発作です。ドストエフスキーは明け方近くまで仕事をする夜型の人間で、発作はたいてい入眠直後に起こっています。

ドストエフスキー自身が残した記録のほとんどはメモ程度の短いものですが、その中にめずらしく長いものがあります。それは、複雑部分発作の代表的症状の一つとされる自動症の記録です。自動症というのは、無意識のうちに様々な動作を行ってしまう症状で、てんかん患者にみられる症状です。ドストエフスキーは後世の研究に資するために記録したのだと思いたくなります。


ドストエフスキー自身が書き残した自動症の記録

1875年4月8日、深夜の零時半に発作。夕方から、いや昨日も強い予感があった。煙草を巻いて小説をせめて2行でも書こうと思って、机に行きかけたとたんに、ふわっと体が浮きあがったことを記憶している。40分ほど倒れていた。気がついてみると、煙草を巻きかけたまま坐っていた。どうしてそうなったかおぼえていないが、手にペンをにぎっていた。そして、そのペンで煙草ケースを引き裂いていた。自分を刺すこともありえたわけだ。この一週間、じめじめした天気で、今夜ようやく月が出た、外は厳しい寒さらしい。4月8日満月。

N・B 発作後一時間すぎに喉が渇いた。一気ににコップ3杯の水を飲んだ。頭は痛いが、激痛というほどではない。今は発作からほぼ一時間過ぎた。これを書いているが、言葉が乱れてまとまらない。死の恐怖は過ぎはじめたが、それでもまだはげしい恐怖が残っていて、じっとしていられない。わき腹と足が痛い。もう40分もたってからアーニャを起こしに行ったが、ルケーリヤから奥さんはお出かけですと聞いてびっくりした。いつ、どんな用で出かけたのかと、詳しくルケーリヤに聞きただした。発作の30分前にopii banzoedi(アヘン溶液)を40滴水にたらして飲んだ。完全な忘我の間中、つまりもう床から起き上がって、坐って煙草を巻いていた間で、数えて4本巻いたが、正確ではない、そしてあとの2本のときは、はげしい頭痛を感じた、しかし自分に何が起こったのか長いこと理解できなかった。ルケーリヤのところへ行くまで。
★「手帖」(新潮社刊・決定版ドストエフスキー全集 第27巻:創作ノートU)(P.350)


3.医学文献

PubMedという医学論文データベースでdostoevskyの検索(タイトル&抄録)を行うと77件がヒットした。そのうち44件がてんかん関連であった。(2020年7月24日現在)。論文の著者は、てんかん専門医、神経科医、精神科医など。いずれも文学者とは目のつけどころが違う読み方をしている。 

PubMedというはアメリカ国立医学図書館が提供する世界最大の医学論文データベースです。インターネットで無料公開されているので誰でも使えます。病気の検索が主ですが、文学者の名前で検索すると毛色の変わった論文が発見できます。論文数で多いのは、シェイクスピア、チェーホフ、ゲーテ、ディケンズなど。モーツアルト、ゴッホも多いです。多くは抄録がついており、中には全文にアクセスできる論文もあります。

ここで、PubMed以上に記憶に留めていただきたいのは、Google Scholar(学者版グーグル)です。Dostoevskyと入力すると、全分野の本と論文が引用数が多い順に表示されます(PubMedデータも含む)。全文論文へのリンクがみつかればラッキーです。検索結果の最初に出てくるのはたいていフロイトの「ドストエフスキーと父親殺し」です。フロイトはてんかんという病気はを知能が低下する病気であると思っていました。だから、天才ドストエフスキーがてんかんのはずはない、発作はヒステリーに起因するものである、としました。現在、その説はおおかた否定されていますが、だからといって読み応えのある重要な論文であることに変わりはなく、ドストエフスキーの医学論文の多くでも、参考文献の筆頭に君臨しています。



4.てんかん発作の記録

「書簡」手帖」「アンナ夫人の日記」「同時代人の証言」などにてんかん発作の言及が見られる。また、「シベリアの第七歩兵大隊の医師エルマコフの診断書」が残されている。後年、ドストエフスキーがてんかんをわずらっていることは周知の事実になっていた。

@書簡
ドストエフスキーは生涯を通して長い手紙を頻繁に書きました。(新潮社版全集で全4巻)。送り先は、妻アンナ、兄弟/妹、男&女友だち、作家、編集者たちです。特に兄ミハイルと妻アンナに送った手紙は分量が多く、往復書簡も残っています。ドストエフスキーは自分の精神状態や体調、発作についてもちょくちょく触れています。兄や妻の手紙からは日常的に発作を心配していた様子がうかがえます。
★新潮社刊・決定版ドストエフスキー全集 第20〜23巻(書簡)

A手帖
ドストエフスキーは創作ノートやその他のノートのあちこちに創作プラン、お金の計算、発作の回数などのメモをランダムに残しました。没後、まとめたかたちで「手帖」として出版されました。てんかん発作についても、発作の日時と程度(中、かなり強、大発作など)や特記事項などを書き留めています。また、「手帖」にはベッドに入っている時起こってだれにも気づかれないことがあった、というメモもあるので、記録には残さなかった軽い症状も含めると実際の発作はもっと多かった可能性があります。
★「手帖」(新潮社刊・決定版ドストエフスキー全集 第27巻:創作ノートU)
ドストエフスキーてんかん発作の記録 /エムスでの療養日誌 http://dokushokai.shimohara.net/meddost/tenkankiroku.html

Bアンナ夫人の日記
ヨーロッパ滞在の最初の年の7か月間の日記です。アンナ夫人は速記で書きましたが、後に反訳されて公開されました。ドストエーフスキイの会代表の木下豊房先生が訳されています。アンナ夫人は、12回の発作の日時、始まった時刻、持続時間、その時の様子を克明に書き留めています。若干20歳のアンナ夫人の気丈さとケアの能力はたいしたものです。(記録を残すについてはドストエフスキーの指示があったかもしれません)。ジュネーヴ滞在中、アンナ夫人は日々の日記を記すかたわら、1年前の最初の出会いの回想をつづっています。(この部分は同じアンナ夫人の手になる『回想』にそっくり使われています)。この中に、結婚後まもなく夫人の目の前で起こった発作の詳しい記述があります。
★『ドストエーフスキイ夫人 アンナの日記』(木下豊房 訳 河出書房新社 1979)
★アンナ夫人が日記に残したてんかん関連とvs.スースロワの記録
http://dokushokai.shimohara.net/meddost/annakiroku.html


C同時代人の証言
ドリーニン編『ドストエフスキー 同時代人の回想』にまとめられています。後年ドストエフスキーがてんかんをわずらっていることは周知の事実になっており、18人中11人の回想記にてんかんについての言及が見られます。アンナ夫人を除けば、医師ヤノーフスキイとつきあいの長かったストラーホフの回想が情報量が多く重要です。一方で、私は若い友人ソロビヨフの哀悼に心打たれました。医学論文においては、ストラーホフとコヴァレフスカヤの回想にある、ドストエフスキーから直に聞いたという「永久調和の一瞬」が、恍惚前兆(アウラとも呼ぶ)としてよく引用されます。二人の証言は似ています。それはまたムイシュキンが語った「瞬間」とそっくりです。有名なてんかん専門医のガストー博士は、これをドストエフスキーの創作としました。それも無理からぬことで、それまで、恍惚前兆の臨床報告はなかったからです。後になってそういう患者が少しずつですが、報告されるようになり、(Cirignotta、Klawans、Morgan、Cabrera-Valdivia、松井 等)それからは恍惚前兆を伴う発作のことを「ドストエフスキーてんかん」と呼ぶようになりました。
★同時代人が語る ドストエフスキーのてんかんと病 
(『ドストエフスキー 同時代人の回想』ドリーニン編 水野忠夫 訳 河出書房新社 1966)http://dokushokai.shimohara.net/meddost/dojidaijin.html

★F.Cirignottaraら エクスタシー発作をともなう側頭葉てんかん(いわゆる ドストエフスキーてんかん)(1980)  http://dokushokai.shimohara.net/meddost/cirignotta.html


5.小説のなかのてんかん者

 『主婦』ムーリン、『虐げられし人々』ネルリ、『白痴』ムイシュキン、『悪霊』キリーロフ、『カラマーゾフの兄弟』スメルジャコフ 他。
★Piet.H.A.Voskuil 著 ドストエフスキーの小説におけるてんかん(2013)
dokushokai.shimohara.net/meddost/voskuil2.html

論文の中で引用の多い登場人物は、『白痴』のムイシュキン、『悪霊』のキリーロフ、『カラマーゾフの兄弟』のスメルジャコフ、そして『分身』のゴリャートキンです。

ムイシュキン
医学論文でもっとも引用されるムイシュキンには全般発作、いわゆる大発作と、複雑部分発作の症状である「夢様状態」(夢幻状態、Dreamy state:神経学の父ヒューリングス・ジャクソンが初めて認知し名づけたの体験があったと思われます。「夢様状態」になる前には何らかの前兆──胃部不快感や不安感、恐怖感などがあり、何か起きそうな予感を感ずる場合が多いそうです。前兆に続いて、意識の変容──夢を見ているような、自分が別の世界にいるような錯覚、かって経験した昔の記憶がよみがえってくるような感覚が起こります。『白痴』第2編第5章で、ムイシュキンがラゴージンと十字架の交換をしたあと、ペテルブルグの街をうろつく場面があります。何度読み返しても不思議な印象を受ける箇所ですが、このときのムイシュキンが陥っていたのが「夢様状態」だと思われます。ここで、例の「永久調和の一瞬」(恍惚前兆)が語られます。やがて、ホテルの階段でラゴージンのナイフを見た瞬間に、意識消失と大発作が起こります。
また、臨死体験を研究する脳神経学者ケヴィン・ネルソンは、死に瀕した人の恐怖感が霊的体験(至福感)に移行する臨死体験とドストエフスキーがムイシュキンに語らせた処刑直前の恍惚の5分間の体験(ドストエフスキーに生涯を貫く信念を与えた)の類似を指摘しています。

★「ドストエフスキーとてんかん/病い 関連資料」収録の複数論文に引用あり
ケヴィン・ネルソン 著『死と神秘と夢のボーダーランド 死ぬとき、脳はなにを感じるか』(2011年)
http://dokushokai.shimohara.net/meddost/nelson.html

キリーロフ
てんかんであることを示唆する具体的な記述はありませんが、キリーロフが、シャートフに語る「永久調和の一瞬」はムイシュキンの体験と瓜二つです。ドストエフスキーは、シャートフに「気をつけたまえ、キリーロフ、てんかんの初期はそんなふうだと聞いたことがある。」と言わせています。
★「ドストエフスキーとてんかん/病い 関連資料」収録の複数論文に引用あり

スメルジャコフ
スメルジャコフは医学的にもはっきりてんかん者とわかるように描かれてます。身体的な全般てんかん発作の様子や前兆などが具体的に書き込まれています。喉の震えは、現在のてんかん患者でも見られる発作の前兆で、ドストエフスキー自身の体験でもあったと思われます。スメルジャコフの精神は謎に満ちています。クラムスコイの『観照する人』が引き合いに出されているので、彼にもムイシュキンやキリーロフのような「夢様状態」があったことが想像されます。
★「ドストエフスキーとてんかん/病い 関連資料」収録の複数論文に引用あり

ゴリャートキン
『分身』は当時も今もあまり人気がありませんが、ドストエフスキー自身はこの作品にはかなり思い入れがあったようで、後年、改作プランを書き留めています。(「手帖より」P.317-319)。ロシア語の原題、ドヴォイニークは、ドイツ語のドッペルゲンガー(Doppelganger)、英語ではダブル(double)、医学用語ではオートスコピー(Autoscopy)、日本の医学論文では「二重身体験」と索引されています。私は「シックス・センス」という映画がきっかけで、新ゴリャーキンの存在はゴリャーキンの二重身体験(自己像幻視)であると気づきました。そのことを念頭に置いて読み直したら、がぜんおもしろくなりました。神経科医の古川哲雄が「ドストエフスキー自身に二重身体験がなければ、これほどの記載は不可能であろう」と述べています。また、オリバー・サックスが、もっと奇妙で複雑な自己像幻視「ホートスコピー(heautoscopy)」を紹介しています。それは本人とその分身のあいだに相互交流がある自己像幻視です。相互交流は友好的な場合もありますが、敵対的なことのほうが多く、どちらが「オリジナル」でどちらが「分身」なのかに関して、ひどい混乱が起こり、最後には自殺に追いやられることさえあります。ドストエフスキーにとって重要に違いない(と私は思います)この「分身」のテーマは後の作品の中で様々なバリエーションで受け継がれています。
★古川哲雄:自己幻視 <原典・古典の紹介 <抜粋> ドストエフスキィ『分身』(2008)
http://dokushokai.shimohara.net/meddost/jikogenshi.html
Oliver Sacks著『見てしまう人々 幻覚の脳科学』 第14章 ドッペルゲンガー (2012)
http://dokushokai.shimohara.net/meddost/sacks2.html


スタヴローギン (医学論文での言及は僅少ですが、あげておきたいと思います)
フランスの神経科医Alajouanineが1963年に「Brain」(神経学の先駆者ヒューリングス・ ジャクソンが1878年に創刊した有名な雑誌)に書いた論文は、後に続くドストエフスキーのてんかん研究のもっとも重要な貢献のひとつで、議論の発火点になっています。Alajouanineは、その中でスタヴローギンにもてんかんによる症状があったとしています。スタヴローギンの衝動的な奇行──ガガーノフの鼻をつかんで引きまわして大騒動になった事件ですが、スタヴローギンは「許していただけるでしょうね・・・どうしてふいにあんな気持になったのか、ほんとに、さっぱりわからない」と言っています。この場面について、Alajouanineは、これはドストエフスキー自身が体験した自動症を思いだして描いていると述べています。また、『悪霊』第二部にリザヴェータ夫人が、まるで魂のない蝋人形のように身じろぎもしない麻痺状態のスタヴローギンを見てぎょっとする場面があります。この症状は(医学論文での指摘は確認できていませんが)てんかん発作を連想させます。
★Theophile Alajouanine 著 ドストエフスキーのてんかん (1963)
dokushokai.shimohara.net/meddost/alajouanine.html



6.スメルジャコフの詐病てんかん

 スメルジャコフは本物のてんかん発作と偽発作の両方を使い分けていた。

アメリカの神経科学者 DeToledoは 「アリバイ工作に使われたスメルジャコフのてんかん発作に関する考察」という論文の中で次のように述べています。 
「スメルジャコフは本物のてんかん発作と偽発作の両方を使い分けていた。ドストエフスキーは、時として発作が利用できることを明確に認識しており、スメルジャコフによってそのことを明らかにした。25年前の兄への手紙に書いたようにドストエフスキー自身が<あらゆる種類の発作を起こした>ことを、死がまじかな最後の小説の中で、我々に思い出させようとしたのかもしれない。」
★John C. DeToledo,MD 著ドストエフスキーのてんかん アリバイ工作に使われたスメルジャコフのてんかん発作に関する考察(2005) http://dokushokai.shimohara.net/meddost/DeToledo.htm

この論文で著者が強調しているのは、「あらゆる発作を起こした」という点です。Geshwind症候群(側頭葉てんかんの患者に特有の行動パターン。ドストエフスキー症候群と呼ばれることもある)を発表したゲシュヴィントという神経科学者も「ドストエフスキー自身はすべての発作がてんかん性というわけではないという事実にも気づいていた」と述べています。今日の熟練した臨床医でも、その発作がてんかん性かそうでないかを区別するのは難しいそうです。ゲシュヴィントは偽てんかん発作の例として『ステパンチコヴォ村とその住人』のフォマーを上げています。最後に悪事が露呈したフォマーは突然、固まって一時間もの長い間ぼんやりと宙を凝視したような状態になり、それから目を覚まして、その間に起こったことについてはまったく覚えていないといいはります。
★ Norman Geschwind 著 ドストエフスキーのてんかん (1984)
http://dokushokai.shimohara.net/meddost/geschwind.html


ドストエフスキー自身がてんかんという病気を有効利用したという指摘もあります。軍医エルマコフを通して新皇帝のアレクサンドル2世(ドストエフスキーの死のすぐ後に暗殺されました)に病気を理由に退役を願い出ました。有力な友人のヴランゲリ男爵の助けもあり、エルマコフの診断書は、新しい皇帝の治世下でモスクワ王立医学アカデミーの承認やその後の承認に関して効力を発揮しました。
★Ivan Iniesta著 ドストエフスキーにおけるてんかん(2013)
http://dokushokai.shimohara.net/meddost/iniesta.html



7.あらゆる種類の発作

発作の分類
全般発作(突然意識を失って倒れる大発作)/ 部分発作(意識がある軽い発作。多彩な症状)
身体的な前兆
発作を予感させる症状:頭に強いショック、強い眠気、頭が重く、歩くのがおっくう、手、特に爪がむずがゆい。(アンナの日記)。全身の震え(ムイシュキン)喉の震え(スメルジャコフ)
H.ガストー「ドストエフスキーのてんかんについての新しい考察」(1984)
特異な前兆・症状(これ自体が部分発作という解釈もある)
夢様状態、恍惚前兆(アウラ)、幻視、二重身体験(自己像幻視)、意識の二重性、自動症 他。
後遺症
頭痛、書く・話す混乱、発作後の欝。最近のことがらを記憶する機能の混乱。 
 

ドストエフスキーは周囲に自分がてんかんであることを隠しませんでしたし、病気を恥じることもありませんでした。発作後に陥る健忘症のせいで起こる誤解を避けるために、むしろ知っておいてもらいたいとさえ思っていました。てんかんを自らの体験として書き残したのは「手帖」のメモだけですが、そのかわり、小説の登場人物の中に自らの体験を描きこみました。あらゆる種類の発作の中の「特異な症状」を持つ登場人物と、アンナ夫人が記録した発作後のドストエフスキー自身の精神状態を以下にまとめました。

特異な前兆・症状(これ自体が発作とも言える)と登場人物

夢様状態:ムイシュキン、キリーロフ、ゴリャートキン、スタヴローギン、『おかしな人間の夢』の主人公、ネヴァ川の幻想(『ペテルブルグの夢』、ラスコーリニコフ)

恍惚前兆:ムイシュキン、キリーロフ

幻視(幽霊)
(統合失調症、てんかん、レビー小体型認知症、アルコール・薬物中毒などの症状として現れることがある)★オリヴァー・サックス著『見てしまう人々 幻覚の脳科学』2012 
特注:( )の幽霊を「幻視」と指摘した医学文献はない。下原の想像的類推である

『罪と罰』のスヴィドリガイロフ(妻マルファ、下男のフィーリカ、ぐしょぬれの少女)
『白痴』のイッポリート(ラゴージン)
『悪霊』のスタヴローギン(マトリョーシャ)
『カラマーゾフの兄弟』のイワン(悪魔)

ドストエフスキー自身の幻視体験らしき証言が『アンナの日記』に残っています。
「フェージャはドレスデン領事館の若い役人の見下したような態度に腹を立てた。もちろん平生だったら、フェージャも自分をおさえたたかもしれないけど、発作のあとの彼はいつもとてもいらだちやすいので、役人の調子に我慢できなかったのである。その晩はずっと、フェージャはさきほどのことをたえず思い出しては、たけり狂い、これには私も恐れをなしてしまった。そのあとで、彼は私にこう話した。領事館の事務室にいた時、突然、ミーチャ兄さんの姿が見えた──ドアのかげから、不意に頭と肩が現れた。もしかしたら、自分は気が狂いはじめているのではないだろうか、と。」

二重身体験(自己像幻視)ドッペルゲンガー、ドヴォイニーク(ロシア語のдвойник )、ダブル( double):
ゴリャートキン 他
★Peter Brugger 著 ホートスコピイ、てんかん、および自殺(1994)
http://dokushokai.shimohara.net/meddost/brugger.html

ドッペルゲンガーが出てくる日本の小説があります。
芥川龍之介 「二つの手紙」
梶井基次郎 「Kの昇天」 「泥濘」

自動症:スタヴローギン


発作後のドストエフスキーの精神状態 (アンナの日記)

「彼はいつも発作のあとには、ひどく気持が沈み、気むずかしくて、まるで誰かの葬式に参列しているかのようである」 「フェージャは発作のあとではいつも苦しむ──とても陰気で気短かになり、何かにつけ腹をたて、つまらないことに神経をとがらせる」「この頃は発作のあとの意識障害がひどくて、4, 5 日間は正常にもどれない」 「発作後のフェージャは数日間陰気な気分で過ごすので、そんな時私は彼をいらだたせないように、私はつとめて彼を一人にさせておく」


8.医学論文に見られる見解

@てんかんはドストエフスキーにとって、文学のみならず、人生や世界への態度、哲学・思想にまで大きな影響を与えた特別の体験だった。パスカルはかって『病の善用を神に求める祈り』を語った。ドストエフスキーもまたてんかんを善用したといえるであろう。
★Theophile Alajouanine 著 ドストエフスキーのてんかん (1963)
dokushokai.shimohara.net/meddost/alajouanine.html


Aドストエフスキーは発作をくりかえしても知能の低下は来たさないことを自ら証明した。
★Henri Gastaut著ドストエフスキーの意図しなかったてんかん学への貢献(1978)
http://dokushokai.shimohara.net/meddost/gastaut1.html


Bてんかんがドストエフスキーの創作における主題、登場人物、ストーリーなどに影響を与えた重要な源泉の一つであることは明らかである。
Norman Geshwind 著 ドストエフスキーのてんかん (1984)
http://dokushokai.shimohara.net/meddost/geschwind.html


C芸術が科学的観察を補強し、推考を助けることを示す好例である。
★Howard Morgan著ドストエフスキーのてんかん:ある症例との比較(1990)
http://dokushokai.shimohara.net/meddost/morgan.htm


D自身の病気を文学作品の中で知的に利用する方法を見出した。
★Ivan Iniesta著 ドストエフスキーにおけるてんかん(2013)
http://dokushokai.shimohara.net/meddost/iniesta.html


Eドストエフスキーは作品のなかにてんかんのある人物を登場させ、発作前の前駆症状や発作直前の前兆をみごとに表現している。
★松浦雅人 著 てんかんからみる人物の横顔 異論異説のてんかん史:ドストエフスキー(2011) 

F精神科に入ったら1〜2年は精神医学の文献なんかよりもドストエフスキーを読みなさい。(今村新吉・初代京大精神科教授)
★『ドストエフスキー』 荻野恒一 著  金剛出版 1971

Gドストエーフスキイは今日の医学的研究に知られる範囲内で天才及傑出人中に見出される唯一の確実な癲癇の症例である。従って希少価値から言っても貴重なのであるが、病気についての精密な自己描写、更にそれについての思索、信念に至っては全く類例を見ない貴重な資料を残したのである。その意味で、変な言い方かもしれないが、創作家としてのみならず、癲癇患者としても天才的であった。
★赤田豊治著 精神病理学の立場から (ドストエーフスキイの世界 荒正人編著 河出書房新社 1963)
http://dokushokai.shimohara.net/meddost/akada.html

9.“ロマンティック・リアリズム” と “ロマンティック・サイエンス”
  ドストエフスキーと二人の神経科学者


私のドストエフスキー探求において副読本として愛読している二人の神経科医が著した本を紹介しておきたいと思います。うれしいことに彼ら自身のスピーチ(TEDなど)をYouTubeで見ることができます。

オリバー・サックス (Oliver Sacks 1933- 2015)
『レナードの朝』『妻を帽子とまちがえた男』『火星の人類学者』『見てしまう人びと』
V.S.ラマチャンドラン( V.S.Ramachandran 1951- )
『脳のなかの幽霊』『脳のなかの幽霊、ふたたび』『脳の中の天使』

共に脳神経学の分野でよく知られた研究者ですが、卓越したストーリーテラーとしても有名です。一般のひとに向けて書かれたこれらの本は養老孟司さんが絶賛しています。とにかくおもしろくて刺激的でワクワクすること請け合いです。読めば読むほど「脳の研究」が科学者の専売特許ではありえない、人間の探求において科学と人文学をへだてる溝など存在しない、科学と芸術・文学の地平はつながっている、そのことが強く納得されます。

サックスとラマチャンドランのライフワークは「脳と心と体の謎めいた結びつきを解きほぐすこと」です。「人間は謎です。その謎は解かなければなりません」と言った17歳のドストエフスキーの決意に通じるものを感じます。また、研究方法と創作方法においても興味ある類似が見られます。二人の神経科医の研究方法は、「患者の病歴を具体的に詳細に聞き取り観察しそして叙述すること」と「奇妙なもの、あるいは異常として無視されていた症候群(疾患/患者)を研究すること」です。「患者」を「登場人物」に置き換えれば、そのままドストエフスキーの創作方法になります。

「どんな分野でも、いちばん奇妙なことを探し出して、それを探求するといい。
──ジョン・アーチボルト・ホイーラー」サックスとラマチャンドランは、このことばをそろってエピグラフにしています。一方、ドストエフスキーは『カラマーゾフの兄弟』の中で、「変人はかならずしも部分であったり、孤立した現象とは限らないばかりか、むしろ変人こそが全体の核心をはらみ、同時代のほかの連中のほうが、何か急な風の吹きまわしでしばしその変人から切り離されている」と書いています。彼らは「事実は小説よりも奇なり」という創作原理を共有しています。したがって、患者(登場人物)の多様さは必然なのです。

「患者の病歴を具体的に詳細に聞き取り観察しそして叙述する」。これは19世紀の医師がふつうに行っていた方法ですが、テクノロジーが発達した現在では忘れられがちになっています。ソビエト時代の神経心理学者アレクサンドル・ルリヤは、「ロマンティック・サイエンス」という用語を使って、人間の研究にはこの方法が不可欠であることを強調しました。個別的・具体的な長期にわたる症例を描いた2つの著作『偉大な記憶力の物語: ある記憶術者の精神生活』(1968)と『失われた世界: 脳損傷者の手記』(1971)は、ロマンティック・サイエンスの金字塔とされています。サックスとラマチャンドランはこの研究方法の力強い継承者です。

一方、ドストエフスキーの文学批評において「ロマンティック・リアリズム」という用語が使われることがあります。そこでは、「人生を実際よりも美しく面白く表現しながらも、すべての現実を、私たちが感じる日常の存在よりもさらに説得力のある、現実そのものとして描きだす方法」と説明されています。

ドストエフスキー自身が、N.N.ストラーホフにあてた手紙(フィレンツェ 1869年2月26日)に、次のように書いています。(米川正夫訳・抜粋)

小生は現実(芸術における)というものについて、自家独特の見解を有しています。大多数の人がほとんど幻想的なもの、例外的なものとみなしているものが、小生にとっては時として現実の真の本質をなすものであります。現象の日常性や、それに対する公式的な見方は、小生にいわせると、まだレアリズムではありません。むしろ、その反対なくらいです。毎号の新聞を見ても、きわめて現実的な事実と、きわめて奇怪な出来事の報道が載っています。わが作家連にとっては、それは幻想的なものです。また彼らは、それを相手にしません。ところが、それが現実なのです。なぜなら事実だからです。いったいだれがそれを認め、解明し、描写するのですか?そういう事実はのべつ毎日あって、例外ではありません。

附:
ドストエフスキーの「特徴的な表現方法」について:「読者への返信」から

また、晩年、ドストエフスキーが自分のリアリズムについて述べたメモが残っています。


完全な、リアリズムをもって人間の内なる人間を見出すこと。・・・・私は心理学者だといわれる。が、間違っている、私は要するに最高の意味のリアリスト、つまり人間の魂のあらゆる深遠を描くのである。
(M.バフチン『ドストエフスキイ論』より引用)
オリバー・サックスが自らになぞらえた 「人間経験のはるかな極限の地まで往診する医者」を連想します。

フロイトと同じオーストリアのユダヤ系作家のツヴァイクは次のように書いています。

ドストエフスキーの世界はおそらく世界中でもっとも完全な幻覚の世界であろう。それは霊魂のみが見る深い予言的な夢であり、現実を越えて天翔ける夢であろう。しかし、それでいながら、彼の本質はあくまでリアリズムである。その本来の分限を越えて空想の域にまで達するリアリズムなのである。あらゆる限界をふみ越えてゆく超現実主義者ドストエフスキーは現実を描写などはしなかった。彼は現実というものを現実の境界を越してはるかに高めたのである。
(「ドストエフスキー:リアリズムと空想」『ツヴァイク全集3:三人の巨匠』所収 1928)

セミパラチンスクでいっしょに暮した若き友人ウランゲリ男爵は次のように回想しています。

かれはその当時、自然の風景にはまったく無関心で、それに感動したり、興奮したりすることは少しもなかった。かれはもっぱら人間の解明に没頭していて、その長所だとか、弱点だとか、苦悩にしか興味がなかったのである。それ以外のものはなんであれ、かれにとっては重要なものではなかった。ドストエフスキーは偉大な解剖学者の腕前をもって、人間の精神のもつきわめて微妙な問題に、格別な注意を払っていたのであった。
(『同時代人が語る ドストエフスキーのてんかんと病』) 

坂口安吾「ドストエフスキーとバルザック」は、「ロマンティク・リアリズム論」として読めます。

ウィリアム・ジェイムズ『宗教的経験の諸相』はドストエフスキーを強く想起させられます。

第一講「宗教と神経学」より

この章の最後に、『脳の中の幽霊』第9章「神と大辺縁系」のエピグラフになっている──ドストエフスキーとの親和性を強く感じさせる、アインシュタインのことばを引用しておきます。

この[宇宙信仰]感情を、それがまったくない人に説明するのは非常にむずかしい・・・・・。あらゆる時代の宗教上の天才は、この教義をもたない宗教的感情によって特徴づけられる・・・・・。私の見解では、芸術や科学のもっとも重要な機能は、この感情をよびさまし、感受性のある人たちのなかでそれを生きつづけさせることだ。──アルバート・アインシュタイン


おわりに

Howard Morganという 神経外科医は、側頭葉脳腫瘍からエクスタシーてんかんを来たした患者とムイシュキンとの比較を試み、症例報告として発表しました。論文の最後で次のように述べています。

「ドストエフスキーは、てんかんの器質的な側面は無視している。しかしながら、ムイシュキンや他の作品の登場人物を通して、てんかん患者の心や感情へと私たちを導いてくれる。Miksanekが述べるように、ドストエフスキーの『白痴』は、芸術がいかに科学的観察を補強し、推考を助けることができるかを示す好例である。『白痴』や他のドストエフスキー作品のいくつかを読むことによって、不治のてんかん病者との類似を学ぶことができるのだ。このような洞察は、最良の神経病学または脳神経外科学の教科書の中でさえ、提示されたことがない。」

てんかんという病気は生涯ドストエフスキーを苦しめました。この病気と10年間のシベリアがなかったらもっと多くの作品を残せたでしょう。一方で、ドストエフスキーはこの苦しい奇妙な病気を受け入れて、冷静に観察し記録し、できるかぎりの知識を収集してその原因を探求しようとしました。なによりも登場人物たちに自らの体験を表現させたことで、人間の研究に(人文学のみならず科学にも)大きく貢献しました。

私にはてんかんではないムイシュキン、キリーロフ、スメルジャコフは考えられません。ドストエフスキーにはもうしわけないけれど、てんかんでよかったと思わずにはいられません。この苦しい奇妙な病気を抱えながら、他に類を見ない過酷な体験──処刑目前体験と10年間のシベリアを生き抜き、作家として復帰したのです。とはいえ、その後の生涯においても、仕事、家族、健康などをめぐる数々の不幸や問題が絶えまなく続き、死の直前まで平穏で安定した生活には恵まれませんでした。長い煉獄と呼ばれるほど苦悩に満ちた生涯でしたが、一方で、倦むことなく「悲しみのうちに幸せ」を求めた尊い一生であったと思います。その運命に思いを馳せるとき、死して多くの実を結んだ一粒の麦のイメージが重なります。

もちろん、ドストエフスキー自身は、治療を受けて病気から解放されたいと心から望んでいました。高名な医者に診てもらうことがヨーロッパ旅行の目的の一つであるとツルゲーネフへの手紙に書いています。

「小生は重いてんかんを病んでいまして、それが次第に募っていくので、絶望に陥っているくらいです。どうかすると発作のあとで、二週間も三週間も、ご想像もできないような憂愁に襲われるのです!実際のところ、小生はできるだけ近いうちにベルリンとパリに向けて出発します。それはただただてんかんの専門医の診察を受けるためなのです(パリではトルソー、ベルリンではランベルグ)ロシアには専門医がおりません。小生は当地の医者たちから、互いに矛盾撞着した診断を与えられるので、彼らに対してまったく信頼を失ったほどです」(書簡 1863年6月17日) (米川正夫訳)

しかし、診察を受けることはありませんでした。現在なら薬で十分にコントロールできる病気ですが、当時の医学にできることはなかったのです。

晩年のドストエフスキーを苦しめた病気はてんかんよりも呼吸器疾患で、直接の死因もそうでした。当時の医師からは肺気腫と診断されています。晩年の4年間は毎年約一か月間、ドイツの鉱泉保養地エムスで鉱泉を飲むという療養に、不信感を抱えながらも真面目にしたがっていました。家族と離れてつらかったようです。アンナ夫人に熱烈なラブレターを頻繁に書いています。ドストエフスキーは発作を誘発させるというので、飲酒はしませんでしたが、呼吸器疾患には害毒になる煙草は死ぬまで吸っていました。
★高橋 正雄 著 肺気腫患者としてのドストエフスキー 
http://dokushokai.shimohara.net/meddost/haikishu.html


『カラマーゾフの兄弟』が出て1年足らず、59歳で亡くなりました。作家としての名声は頂点に至っていました。葬列の野辺送りの人出は5〜6万を数えたと、「グロスマン年譜」に書かれています。せめてもう2年か3年か生きて、『カラマゾーフの兄弟』の第二部を書いて欲しかったと思います。でも、死後1か月ちょっとで皇帝暗殺が起きたことを考えあわせると複雑な気持ちにもなります。



謝 辞

来年2021年はドストエフスキー生誕200年に当たります。そして、ドストエーフスキイ全作品を読む会読書会は50周年を迎えます。組織も会員も会則も機関誌もない、その時かぎり「場」。年齢、職業、身分、性別なども気にしません。参加者の 共通点は「ドストエフスキー」のみ。それ以上でもそれ以下でもありません。そんな風にして連綿と続いてきました。この場で出会い、また別れたなつかしい「ドストエフスキーの人々」。多くの方々から教えられたこと、受け取った感銘、示唆、メッセージは数え切れません。改めて心からなる感謝をお伝えします。

新型コロナ禍の夏に。 2020.8.29   下原康子(読書会世話人)