ドストエフスキーとてんかん/病い


同時代人が語る ドストエフスキーのてんかんと病
 

抜粋典拠:『ドストエフスキー 同時代人の回想』ドリーニン編 水野忠夫 訳 河出書房新社 1966

アンドレイ・ドストエフスキー コンスタンチン・トルトフスキー アレクサンドル・リーゼンカンプ ドミートリイ・グリゴロービッチ ステパン・ヤノフスキー アレクサンドル・ミリュコフ ニコライ・ストラホフ ソフィヤ・コワレフスカヤ フセボーロド・ソロビヨフ アレクセイ・スボーリン アンナ・ドストエフスカヤ

アンドレイ・ドストエフスキー
フョードル・ドストエフスキーの弟。建築技師。
回想の典拠:回想はアンドレイの死の前年1896年に書き終えられていたが、原稿のまま保存されていた。1930年、アンドレイの息子によって出版された。
抜粋:『ドストエフスキー 同時代人の回想』P.36-37

母の死後しばらくして、父は二人の年長の息子をペテルブルグにある工兵学校に入学させようと思い、息子たちを連れてペテルブルグへ旅行しようと真剣に考えはじめた。そのときまで、父はペテルブルグへはまだ一度も行ったことがなかった。
<中略>
父のペテルベルグ行きが延期されようとした理由は、フョードルの病気にあった。フョードルは、これといった原因もなしに喉頭の病気にかかり、声が出なくなり、苦労して、やっとかすかな声をだしても、それはほとんど聞き取れないほどだった。病気はかなりしつこかったので、治療のほどこしようがなかった。あらゆる方法が試みられたが効き目はなく、それまで逆治療法を固辞しようとしていた父も、ほかの医師たちの忠告にしたがって、同種療法を試みようと決心した。それでフョードルはほとんど家族のものと断絶した生活を送らされ、食事のときなども、健康なわたしたちの料理のにおいを嗅がないでもすむようにと、別のテーブルにむかわされたほどだった。もっとも、同種療法によってもそれほどの効果は表れず、少しよくなったかと思うと、またまえよりも悪化したりするのだった。あげくのはてに、ほかの医者たちは、気候の良いときに旅をすれば病人のためによいに違いないと考えて、フョードルの全快を待たずに旅に出るように、父にすすめたのであった。そこではじめて旅行が実現したのだった。しかしいずれにせよ、この病気の跡が、フョードルの声やしゃべりかたをおぼえている人だったら、かれの声がまったく不自然なもので、ふつうよりももっと奥のほうからだす声だったという意見に賛成されることだろう。

コンスタンチン・トルトフスキー
画家。ペテルブルグ工兵学校時代の友人。
回想の典拠:『ロシア評論』誌、1893年1月号で発表されたもの
抜粋:『ドストエフスキー 同時代人の回想』P.49

1849年にドストエフスキがわたしのところに泊まっていったことがあったが、そのとき、かれは寝るだんになると昏睡状態が起こっても三日間はじぶんを埋葬しないで欲しいと、いつでもわたしに頼んでいたものだった。昏睡状態に陥るかもしれないという思いが、たえずかれを不安にさせ、おびやかせていたのである。

アレクサンドル・リーゼンカンプ
医師。植物学者。1838年、医科大学入学のため故郷のレーベルからペテルブルグにきてドストエフスキーと知り合い、一時期同じ家で寝起きを共にした。1843年医科大学を卒業し、外科医の資格を得てシベリアのオムスク陸軍病院に勤務した。55年間にわたって書き続けられた『手記』にはドストエフスキーの回想も書かれているが、その所在は明らかになっていない。
回想の典拠:『ドストエフスキーの伝記のための資料』のなかでミルレルが抜粋したもの。
抜粋:『ドストエフスキー 同時代人の回想』P.52

かれは午前中に将校クラスの講義に出席すると、あとはじぶんの書斎にひきこももって、文学の仕事に没頭していたのである。かれの顔色は土色を帯び、とりわけ朝はたえず空咳に悩まされ、声はひどいしわがれ声となり、さらに顎骨の下の腺には腫物ができて、あきらかに病気の兆候が示されていた。しかしながら、ドストエフスキーはこういったことをみな、他人には絶対に気づかれないようにしていたため、医者のリーゼンカンプでさえも、かれに咳薬を処方することも、ジュークたばこを吸いすぎぬように注意することもできないほどであった。

ドミートリイ・グリゴロービッチ
作家。ペテルブルグ工兵学校時代の友人。1844年から一年間いっしょに住んだ。1846年に『貧しき人々』で文壇にレビューしたときの目撃者。
回想の典拠:晩年に書かれた『文学的回想』(1893)より。
抜粋:『ドストエフスキー 同時代人の回想』P.69

たまたま二人で散歩に出かけたとき、かれが発作に見舞われたことが何度かあった。あるとき、かれといっしょにトロイツキー横丁を歩いていて、葬式の行列に出会ったことがある。ドストエフスキーは急いであとに引き返そうとしたが、数歩も行かないうちに発作にに襲われてしまった。それがあまりにひどかったので、わたしは通りがかりの人の助けをかりて、かれを近所の食料品店まで運んでいかなければならなかった。そこでやっと意識を回復させることができたのだが、こういう発作の起こったあとは、たいていかれは憂鬱そうになり、それが二日か三日はつづくのであった。

ステパン・ヤノフスキー
医師。教師。ドストエフスキーとは1846年に医師と患者の関係で出会って以来親しくなり、逮捕される日まで毎日のように会っていた。お互いに終生変わらぬ友情を抱き続けた。
回想の典拠:『ロシア通報』誌 1885年4月号
抜粋『ドストエフスキー 同時代人の回想』P.81-83

わたしがフョードル・ドストエフスキーと知り合いになったのは1846年のことであった。わたしが内務省医療局に勤務していたときのことである。<中略>わたしの患者のなかにワレリアン・マイコフがいた。ある日、マイコフがだしぬけに、ドストエフスキーが病気をわたしに診てもらいたがっていると言い出した。大喜びでわたしが引き受けたことはいうまでもない。その翌日、午前十時にマイコフがやってきてドストエフスキーを引き合わせてくれたが、その後、ドストエフスキーが逮捕される日まで、わたしは毎日かれと会いつづけていたものである。

いまここに、1846年当時のドストエフスキーの風貌を、できるだけ正確に、忠実に描き出してみよう。背は普通よりも低かったとはいえ、体格はよく、とくに肩幅が広くて、胸は厚かった。頭部は均整がとれていたが、額は異常に発達していて、とりわけ額の上部が突き出ていた。明るい灰色がかった小さな眼は、じつに生き生きとしており、うすい唇はいつもしっかりと結ばれていて、そのため人の善さそうな、また親切そうな表情を顔全体につくりだしていた。髪の毛は明るい色というより、ほとんど白っぽくて、ひじょうに細く、やわらかそうに見え、手のひらや足なんかもめだって大きかった。服装はいつも清潔にしていて、センスよく着こなしていたといってもよかった。かれが身につけていたものは、上等な羅紗地で作った特別仕立ての黒いフロックコート、黒のカシミヤのチョッキ、一点のしみもない洗い立てのオランダ製ワイシャツ、それにチンメルマンのシルクハットなどで、服装全体の調和を壊しているものがあったとしたら、それはあまりかっこうのよくない靴と、軍学校の生徒というより、神学校の卒業生のように鈍重なかれの振る舞いだけであった。精密検査と聴診の結果、肺臓は全然異常がなかったが、脈拍が不規則で、婦人や神経質な人々によくあるようにひじょうに早いということがわかった。

最初のときとそれにつづく三回か四回の診察のときは、わたしたちの仲は、普通の患者と医師という関係にすぎなかったが、二人で会っていた短い時間にも、かれの考え方や、きわめて繊細で深い分析力や、なみなみならぬ心のあたたかさに、わたしは強く惹きつけられたので、その後、病気以外のことでもできるだけ長く話し合えるようにもっと早く来てもらえないかとかれに頼んでみたほどだった。その願いは受け入れられて、ドストエフスキーはいつでも十時にではなく八時半にわたしのところに来るようになり、いっしょにお茶を飲んだりしていたのだが、数か月後には、かれはさらに晩の九時にもわたしのところにたち寄るようになって、二人で十一時まで話続けたり、ときには泊まりこんでしまうことすらあった。そういった朝や晩のことは、わたしにとって忘れられないものとなろう。それというのも、一生のうちであれほど楽しく、またあれほどためにもなった時は、ほかになかったからである。

ドストエフスキーの治療はかなり長びき、腫脹が完全に治ったのは、患者の体内にかなりはっきりと認められていた瘰癧性壊血病の悪体質をなくし、体質を改善するツイトマン煎薬を、三週間ほどかれが飲みつづけてからであった。五月の末にはじまり、七月中旬にまでおよんだ治療期間中、ドストエフスキーは天候が悪くて外出できなかったり、こちらからかれを訪れたりしたときなどをのぞいて、毎日わたしのところにやってきていた。そのころ、かれはポリシャヤ・モルスカヤ通りとマーラ・モルスカヤ通りのあいだのなんとかという横町にある下宿屋に小さな部屋を借りて住んでいた。毎朝、最初のうちは十時ごろ、のちには八時半きっかりに、玄関に呼鈴が鳴ると、すぐにドストエフスキーが応接室に入ってくる。かれは手前の椅子にシルクハットを置き、すばやく鏡をのぞきこんで、ロシア風な髪型をした、亜麻色で、やわらかい髪の毛を手で急いで撫でつけてから、わたしに話しかけてくる。「きょうはまあまあというところです。気分も悪くありません。あなたのほうはいかがです?お見受けしたところ、べつにかわりはないようですな。ところで、舌はどうなっていますか?白味を帯びているようなのが気がかりなのですが。眠ることはよく眠れました。ただ、いまでも幻覚が見えて、頭がぼんやりしているのです。」
こういうふうにドストエフスキーが話はじめる日には、いつでもわたしは綿密に、念入りにかれを診察し、脈拍を調べ、鼓動を聴いてみるのだったが、なんら特別なものも発見できなかったので、「なにも変わったことはありません、幻覚は神経からくるものです」とかれに向かって落ち着きはらって言うと、ドストエフスキーはすっかり満足してつけ加えるのであった。「ええ、もちろん神経のせいでしょうね。つまり卒中ではないというわけですか。それはいい!卒中だけは手に負えないが、ほかのことだったらうまく処理できるのですからね。」
ドストエフスキーは安心すると、すぐ表情を変えて、ふだんのユーモアをとり戻し、思いつめて、驚いたようだったまなざしは消え、一文字にかたく結んだ唇が開くと、健康で、頑丈そうな歯が見えるのだった。かれは鏡のそばに近づいて行ったが、今度はまったく健康なじぶんの姿を映してみようとするためで、そのさい舌を出してみては、こう言ったものである。「えい、たしかに神経のせいだ。黄身を帯びない完全な白は、状態良好というわけだ!」
P.84
ドストエフスキーがわたしの診察を求めてきた最初の病気は、純然たる腫脹だったが、それを治療しているあいだ、かれは特別な頭痛をともなった眩暈がすると言い、それを卒中の一種と思いこんで、よくこぼしていた。わたしも注意深くかれを診察しながら、神経症の現象が幼年時代からしばしば現れていたという話をかれからたびたび聞かされていたので、かれの体質や体格を考慮に入れて、神経症の一種にちがいないといつも想像していたのである。
P.86
ドストエフスキーはカルタをしなかったばかりか、どんな勝負事も知らず、勝負事を憎んでさえいた。ウォトカも、酒宴もまったく受けつけず、しかもそれに加えて、生まれながらのたいへんな心配性で(それはある種の頭痛や、のちにまさしく癲癇というはっきりした型をとって現れたものの疑う余地のない前兆であったが)、そして卒中の恐怖にとりつかれていたので、かれはあらゆる刺激的なものをきっぱり断っていたのである。その心配性は、はたのものの目にはとても滑稽に見えるほどだったが、笑われたりするとかれはひどく腹をたてたものだった。
P.89-90
ドストエフスキーはわたしのところからよく医学書を持っていったが、それは主として、脳や神経系の病気だとか、精神病だとか、古くなったとはいえ、そのころはまだ通用していたガル方式による頭蓋骨の発達などに関する解説書だった。この図解入りの書物にかれはたいへん興味を持ち、晩などによくわたしのところにやってきては、頭蓋骨や脳の構造、脳や神経の生理的機能、ガルが重要な意味を与えていた頭蓋骨の高くなっているところの持つ意義などを論じだすほどだった。かれはわたしの説明することがらを、必ずじぶんの頭の型にあてはめてみて、頭蓋骨の高くなっているところや、くぼんでいるところを、一つ一つ、わかりやすく説明させながら、夜半すぎまでその話をつづけるのだった。ドストエフスキーの頭蓋骨はじつに大きかった。頭全体の大きさにくらべてはるかに広い額、ひときわめだつ額のくぼみ、後頭部の下部のもりあがりが全然ないため、ひどく突き出た感じの眼窩のはしなどを見ると、ドストエフスキーの頭はソクラテスの頭にそっくりだった。かれはじぶんの頭がソクラテスの頭と似ていることにひじょうに満足していて、その類似を発見したのもかれ自身で、その事実を語るとき、かれはたいていこうつけ加えるのだった。「後頭部にこぶがないことはいいことだ。これは好色漢じゃないという意味だからな。ほんとうだ。まったくたしかじゃないか。だってぼくは女の人のスカートなんかには興味ないし、ねえ、きみ、ぼくが好きなのは帽子だ。エブゲーニヤ(ドストエフスキーはじめ、わたしたちがみな、深く敬愛していたマイコフ兄弟の母親)がかぶっているような帽子だけだからな。だから、これはあたっているというわけさ」

アレクサンドル・ミリュコフ
作家・文学史家・批評家。1848年ごろ、ドウロフの家の会合でドストエフスキーと出会った。ペトラシェフスキー家の会合には参加していなかったため逮捕を免れた。ドストエフスキーがオムスクに送られる前、ミハイルとともにペトロパウロフスク要塞に収監されていたドストエフスキーと面会した。シベリアから帰還後は共に文学活動を行った。
回想の典拠:『文学者との邂逅と交遊』1890年
抜粋:『ドストエフスキー 同時代人の回想』P.115

ドストエフスキーは持前の強い気力と、よりよい未来の運命にたいする確信を、一度たりとも失わなかったおかげで、流刑地での生活のために健康を害したとはいえ、さいわいにしてその辛い試練に耐え抜くことができた。よく言われているように、流刑される以前からドストエフスキーには癲癇の発作が起こっていたというのは確かだとしても、それはあまりはげしくなく、ごくまれであったことは疑えない。シベリアから戻ってくるまではすくなくともそうだったとわたしは確信しているが、かれがペテルブルグに帰ってきたときには、もはやその病気は、かれと親しい人々のうちだれ一人として知らないものはなかったというほどになっていた。

ニコライ・ストラホフ
批評家・評論家
ドストエフスキーがシベリアから帰ってきた1860年ごろ出会い『時代』『世紀』の発行にあたって密接な協力関係にあった。『世紀』廃刊とともに疎遠になった。
回想の典拠:ストラホフ『ドストエフスキーの思い出』。ドストエフスキーの死後まもなくして出版された『ドストエフスキー全集』(1883年)第1巻に収められた。
抜粋:『ドストエフスキー 同時代人の回想』P.162

病気──作家の仕事 
ドストエフスキーにとっては、文学の仕事はじつに高くついたものである。あとになってわたしは何度かかれから聞かされたものだったが、癲癇を治療するためには、執筆をいっさい中止することを、医者は重大な条件として提出してきたほどだったのである。もちろん、医者にすすめられたような生活、じぶんの使命と考えたことをできないような生活など、あえて試みようとみずから決心したとしても、それは実行できないものであったことはいうまでもない。そればかりか、たとえ一年間か二年間でも、ゆっくり静養することすら不可能だったのである。わずかに晩年になって、なによりもアンナ夫人のこまやかな配慮のおかげで、かれの仕事はやっと休養できるような状態に整理されたのであったが、死を直面していたかれは、もはや以前ほどじぶんの仕事に執着を示そうという心境にはならなかった。

癲癇の発作はドストエフスキーの場合、たいだい月に一度ずつ起こり、それが通常の周期といえた。しかしごくまれだったとはいえ、ときにはもっと頻繁に発作が起き、週に二度も起きることがあった。それでもまた、外国に行ったときなどは、比較的落ち着いた生活ができたのと、快適な気象のために、四か月のあいだ一度も発作に見舞われなかったこともあった。発作の起きる前にはいつも予感がするのであったが、それが的中するとはかぎらなかった。長編『白痴』のなかには、そういうときに病人が体験する感覚の詳細な描写がある。あるとき、ドストエフスキーがそれほどはげしくない発作を起こしたのを、たまたまわたし自身が目撃したこともあった。

あれはたしか、1863年のちょうど復活祭の日曜日のまえの晩のことだったかと思う。夜おそく、十時過ぎに、わたしのところにかれが立ち寄り、二人で熱中して話し込んだときのことである。なにを話し合っていたのかいまは思い出せないが、それがたいへん重要な、抽象的な話題だったことはおぼえている。ドストエフスキーはすっかり興奮して、部屋のなかを行ったり来たりしはじめたが、わたしはテーブルに向かって腰をおろしたままだった。かれはなにか高尚で、楽しい話をしていた。わたしが少し感想を述べてからその考えを支持すると、かれはものにつかれたような表情をし、最高潮に達した熱意を示しながらこちらを振り返った。かれは思っていることを表現する言葉を探しだそうとでもするかのように、一瞬たちどまって口を開けた。なにかただならぬことを言うにちがいない。啓示のようなものを告げるにちがいないとわたしは予感し、心を張りつめてかれを見つめていた。すると突然、開いていた口から、異様な、長くひっぱるような、意味をもたぬ響きを出すと、かれは気を失って、部屋のまんなかの床に倒れてしまった。そのときの発作はそう強いものではなかった。それでも、痙攣のために全身が硬直するや、唇の端に泡をふきだしはじめたのである。かれが意識を回復したのは三十分ほどたってからであった。それから、わたしは近くにあったかれの家まで歩いて送っていったのである。

ドストエフスキーは何度もわたしに語っていたが、発作のまえには、恍惚となる瞬間がかれに訪れるのだそうである。かれはこう言っていた。「ほんのわずかの瞬間ぼくは、正常な状態では起こりえないような幸福、ほかの人々には理解できないような幸福を体験するのです。ぼくはじぶんのなかにも、全世界にも、完全な調和を感じます。それに、その感じはとても強烈で、甘美なものなので、あの快楽の数瞬間のためなら、十年、いやもしかしたら全生涯を捧げてもかまわないくらいです」

発作の結果としては、ときどき倒れた拍子に打撲傷を負ったり、痙攣を耐えようとするために筋肉の痛みをともなったりした。またときには、顔面が紅潮したり、斑点が顔に現れたりすることもあった。しかし肝心なことは、かれが意識を失ってからのち、二日や三日は、完全に打ちのめされたようになってしまうことだった。そういうとき、かれはひじょうに重苦しい気分になり、やり場のない憂鬱と、とぎすまされた感受性にい苦しめられるのであった。この憂鬱の性格は、かれの言葉によると、じぶんがなにか犯罪をおこしたような感じになることで、じぶんでもわからぬ罪、ひどい罪悪の重荷におしひしがれるように思えるのだそうである。
P.172
ドストエフスキーが周囲の事件や現象にたいして、どのような視点や感情をもっていたかは語るまい。かれ自身が、自己の魂の最良の部分を自作のなかで表現しているからである。ここではドストエフスキーの作品をあまり読んでいない読者のために、かれがもっとも誠実な作家の一人であり、かれの書いた作品は、それが大きな衝動にかられ、夢中になって書き上げられたものでさえ、すべてかれが体験し、実感したものだったとだけ語っておこう。ドストエフスキーは、ほとんどいつでも、じぶんに似せた人物たちを作品のなかに創造しつづけた主観的な作家といえた。かれが完全な客観性にまでたどりついた場合はごくまれにしかなかった。身近にかれを知っていたわたしには、かれによって表現された世界の主観性はあまりにも明白すぎたので、そのため、ほかの読者たちには完全に客観的なイメージとして強い感銘を与えていた作品の印象が、いつも半分ほどは消えてしまうのだった。

ドストエフスキーが、自己の、暗い病的な気分を描き出しているのを読むと、しばしばわたしはひどく驚かされるほどで、そしてかれを心配しはじめたものだった。たとえば、『白痴』のなかには癲癇の発作があのように詳細に記述されているが、そのころ癲癇の患者には、発作のときのことを回想せぬように医者に命じられていたのである。他人の発作の光景を見てじぶんも発作を起こすように、じぶんの体験を思い出しても発作を起こすかもしれぬと思われていたからである。しかしドストエフスキーは、そんなことにはこだわらず、じぶんの描きだすものがどのようなものであれ、自己の対象を創造の真珠かなにかのようにみなして、それに完璧な客観性を与えることができると確信していたのであった。かれはじぶんを完全なリアリストとみなしていて、かれの長編の通常となっている犯罪や、自殺や、あらゆる精神の歪みは、ふつうの現実のなかに、どこでもころがっている現象であり、われわれが不注意にも見過ごしているだけのものなのである、とよく語っていたものだった。そのような信念を抱いて、かれは陰惨な情景を大胆に描き出そうとして、人間の魂のもつ退廃のあらゆる現れのなかに、これまでだれ一人として立ち入らなかったほど奥深くに入り込んだのである。そしてかれは自己の希望を実現し、読者が深い感動を受け、夢中になるほどの真実性と客観性を、自己の作品のなかに創造したのであった。かれの描き出した情景には、じつに多くの真理と、心理的真実と、そして深遠さがこめられていたので、その主題とはまったく縁のないような人々にとっても、それらはよく理解されたのである。
P.131
わたしは二十年間を通じて、ほんのわずかでも酔っぱらったかれの姿を見たことはまったく記憶に残っていない。どちらかといえば、かれは甘党だったが、それにしても概して食べる方はいつも大いに節制していたようだった。

ソフィヤ・コワレフスカヤ
世界的に有名な数学者。亡くなる前年の1890年に出版された自伝の中には、ドストエフスキーが結婚を申し込んで断られたソフィヤの姉アンナ・コルビン-クルコフスカヤが登場する。アンナが『世紀』誌へ投稿したのをきっかけに1865年1月に二人は初めて会った。そのときから、ドストエフスキーは頻繁に彼女の家を訪れるようになり、妹のソフィヤとも知り合った。ある日、姉妹はドストエフスキーから直に「この一瞬のためなら全生涯をささげてもいい」という『白痴』(1868)でムイシュキンに語らせたのと同じエピソードを聞く。一方、ストラホフは、1863年、自宅に訪ねてきたドスエフスキーと話し込んだとき起こった発作を書き留めている。(復活祭の前夜だったという)。ストラホフは、ドストエフスキーから発作のまえには恍惚となる瞬間が訪れるという話を何度も聞いた、と回想している。ドストエフスキー自身の手記や手紙の中にはこれに類するエピソードはみあたらない。コワレフスカヤは1883年に出版されたストラホフの回想を読んでいたかもしれない。
回想の典拠:ソフィア・コワレフスカヤ『幼年時代の回想』1890年
抜粋:『ドストエフスキー 同時代人の回想』P.211-213

ドストエフスキーは構想中の小説の内容を語ってくれたり、またときには、かれ自身の人生の途上で起こった事件やエピソードを話してくれたことがあります。たとえば、銃殺の刑を宣告されたドストエフスキーがすでに目隠しされ、小隊の兵士たちの前に立たされ、「射撃!」という運命の号令を待っていたときに、突然、その号令のかわりに太鼓が鳴りわたり、特赦の知らせがもたらされた瞬間の模様を描き出してみせたのを、わたしはありありと思い浮かべることができます。

さらにもう一つの話も記憶に残っております。わたしと姉はドストエフスキーが癲癇に苦しんでいるのを知っていましたが、わたしたちの目には、この病気があまりにも強烈な恐怖におおわれておりましたので、この問題については遠まわしにほのめかしたりもすまいと決心していたのです。ところが、驚いたことに、かれはじぶんからそのことを語り出し、どういう事情のもとで最初の発作が起こったかを物語ってくれたのでした。のちにわたしは、この点について、ドストエフスキーが流刑地で受けた笞罪(ちけい)のために癲癇にかかったのだという、まったく異なった解釈を聞いたこととがあります。この二つの解釈はまったくくい違っておりましたし、たくさんの医者の語るところによると、癲癇にかかった病人はほとんどみな、どんなふうにして病気がはじまったのかおぼえていず、そのことをたえず幻想しているという典型的な特徴をもっているそうですので、その二つの解釈のうちいずれが真実なのか、わたしにはわかりません。

ともあれ、ドストエフスキーがわたしたちに語ってくれたのはこんなふうなものでした。この病気がはじまったのは、すでに流刑地から駐屯地に移されたころのことだったとかれは述べておりました。そのころかれは、孤独にひどく悩まされ、何か月ものあいだ、まともな言葉をかわせる人とは会えなかったのでした。そこへ突然、まったく思いがけずに、昔の仲間が一人かれのもとにやってきたのです。(その人がなんという名でしたか、わたしはいまでは忘れてしまいました)それはちょうど復活祭の前夜のことでした。けれども、再会の喜びのあまり、時のたつのも、疲労のつもるのも気づかず、じぶんたちの言葉に酔いしれて、夜どおしずっと家で語りあかしたのでした。かれらは、二人にとってなによりもたいせつなものであった文学や芸術や哲学について論じ、ついには宗教の問題にまでおよんだのでした。その友人は無神論者でしたが、ドストエフスキーは信仰のあつい人で、二人とも自己の信念を熱烈に信奉しておりました。

「神は在る、存在するのだ!」ついにドストエフスキーは興奮のあまり、われを忘れて叫びました。まさにこの瞬間に、となりにあった教会の鐘が復活祭の朝を祝って鳴りはじめました。あたり一面に鳴り渡り、空気が揺れ動きはじめました。
「そのときわたしは、空が大地に下りてきて、わたしをすいこんでしまうのを感じたのです」ドストエフスキーは言いました。「わたしは実際に神を悟り、神の存在に充たされたのです。そうだ、神は存在する!」わたしはそう叫びました。「それからさきは、もうなにもかもおぼえてはおりません」
「あなたがた健康なかたたちは、わたしども癲癇患者が発作の一瞬まえに体験するあの幸福、あのような幸福をだれ一人として想像できないでしょう。」ドストエフスキーは続けました。「マホメットは天国に行き、そこを見てきたとコーランのなかで断言しております。あらゆる賢明な愚者どもは、かれをひどい嘘つきで、欺瞞者だと思いこんでいます。ところがそうじゃないのです。かれは嘘を言っているのではありません。かれは、わたしと同じように、癲癇の発作に苦しんでいるとき、じっさいに天国にいたのです。この法悦のためだったら、誓って言いますが、生命の与え得るあらゆる歓喜を投げだしてもよいほどなのです」

ドストエフスキーはこの最後の言葉を、かれ独特の、情熱的で、とぎれがちなささやきで語ったものです。かれの言葉の魅力に完全にひきつけられて、わたしたちはみなすわっていました。すると突然、いまにも発作がかれを見舞うのではないかという考えが不意にみなの頭に浮かびました。ドストエフスキーの口は神経質にゆがみ、顔じゅうがひきつりました。かれはおそらくわたしたちの目に恐怖を読みとったものでしょう。話を急に中断し、手で顔をなでると意地悪く微笑するのでした。
「こわがることはありませんよ」かれは言いました。「あれが起きるときは、いつでも前もってじぶんでわかるのですから」
わたしたちはじぶんたちの思惑をかれに言い当てられてすっかり気づまりになり、恥ずかしくなって、なんと言っていいかわからないほどでした。ドストエフスキーはそれからまもなくしてたち去りましたが、その夜おそくに、じっさいに烈しい発作に見舞われたとのちに語っておりました。

フセボーロド・ソロビヨフ
詩人・作家、批評家。ドストエフスキーの熱烈な崇拝者で、ドストエフスキーの死後すぐに書かれた回想には、かれが1973年はじめてドストエフスキー家を訪ね、心を打ち明けて語り合ったその晩の思い出が熱っぽく語られている。
回想の典拠:『歴史通報』誌 1881年3月号
『ドストエフスキー 同時代人の回想』P.334

ドストエフスキーが癲癇もちだということを聞いていたわたしは、その恐ろしい病気の真偽を確かめたいと思ったが、もちろん、遠まわしにであれ、その問題にふれる気にはなれなかった。ところが、ドストエフスキーはわたしの意向をみずから推測したかのように、その病気のことを話しはじめたものであった。かれはつい最近も発作に見舞われた、とわたしに語ってくれたのである。
「わたしの神経は、若いときからいたんでいたのです」かれは語っていた。「シベリアに送られる二年前、わたしが文壇の不愉快な雰囲気に取り囲まれ、いがみあいに明け暮れしていたときに、一種独特な、耐えがたいほどに責めさいなむ神経の病気がはじまったのです。その不快な感じを物語ることはできませんが、その感覚だけははっきりおぼえていて、じぶんが死ににつつあるのだとよく思ったものでした。そう、たしかに、ほんとうの死がやってきて、それから去っていくのでしたよ。わたしはまた仮死をとても恐れていたものです。それが不思議なことに、逮捕されたときから、この嫌悪を催す病気はぴたりとやんでしまい、シベリアの旅の途中でも、徒刑地でも、それ以後は一度も苦しめられたことはなく、こうして突然、わたしは健康を回復し、じょうぶになり、すがすがしい気分になり、心が落ち着くようになったのでした。・・・・・ところが流刑中に癲癇の最初の発作が起こり、そのときから癲癇がわたしにつきまとうようになりました。この最初の発作に見舞われる以前に身の上に起こったことなら、人生のどんな些細な事件であれ、出会った人々の一人一人の顔であれ、読んだり、聞いたりしたものであれ、すべてわたしは詳細にわたって記憶しています。ところが発作が起こるようになってからのちにはじまったことだと、わたしはたびたびもの忘れするようになったり、ときによると、たいへんよく知っている人々さえもすっかり忘れてしまって、顔も思い出せなくなるようなこともあるのです。懲役に行ってからあとに書いたものはなにもかも忘れてしまい、『悪霊』の続きを書くときなどは、登場人物の名前すらことごとく忘れてしまったので、最初から全部読み返さなければならなかったほどでしたよ」
P.350-352
1976年から77年にかけてと、77年から78年にかけての冬のあいだ、わたしたちはかなり頻繁に会い続けていた。そのころわたしたちは、たがいに町の両はしに住んでいたにもかかわらず、ドストエフスキーはよくわたしのところで晩を過ごしたものだった。

ここで、一つの事件にふれておきたいと思う。もちろんそれは偶然的な事件で、そこにはなんら愉快なものはなかったとはいえ、じっさいはかなり喜劇的な場面を構成する契機となるものであった。ドストエフスキーがわたしのところにやってくるのは、たいてい癲癇の苦しい発作が起きたあとときまっていたので、かれが発作に見舞われたのを知ると、わたしたち共通の友人たちは、そろそろかれがわたしの家をたずねてきてもいいころだなどとよく言っていたものである。

ドストエフスキーは気の毒にも、長年にわたって癲癇に悩まされてきていたため、発作にはもう慣れてしまっていたが、かれの古くからの友人たちもまた、その発作や、それにひきつづいて起こる結果には慣れていて、そういったことを少しも恐ろしいものとは思わずに、よくある現象とみなすようになっていたのである。それでもドストエフスキーは発作のあとには、ときどきまったく耐えきれなくなるようなことがあったが、それは神経が極度にゆさぶられたためで、そのさいのいらだちや奇妙な行為にたいしては、じぶんではまったく自覚がないほどだったのである。

ドストエフスキーがわたしのところにやってくるときは、たいていの場合、黒い雨雲が押し寄せるようにして入ってきたものだったが、ときには挨拶をかわすのもそこそこに、ありとあらゆる口実を探し出しては悪態をついたり、侮辱的な言葉をを発したりすることがあった。そんなときには、かれはあらゆるものに、じぶんにたいする凌辱、じぶんを刺激し、立腹させたがっている意図を見い出したりしたものである。わたしのところにあるものはすべてかれには気に入らず、なにもかもが反対になっているように思えたのである。たとえば部屋のなかが明るすぎるぐらいだと、それが気に入らず、顔の見分けのつかないほど暗くしておかなければならないのである。・・・・・また、いつでもかれは濃いお茶が好きなので、濃いお茶をすすめると、お茶ではなくビールが飲みたいと言い出し、あまり強くない酒をを注ぐと、こんどはお湯をほしがるしまつだったのである。わたしたちが冗談を言ってかれを笑わせようとでもしようものなら、ことはいっそう悪くなる。かれはじぶんが嘲笑されたように思いこむためである。

そうはいっても、ほとんどいつでも、わたしはまもなくかれを落ち着かせれたものである。まず最初は、かれの好きな話題のほうへとおもむろに話をもっていくことが必要だった。そのうちにかれは少しずつ話し始め、元気になっていくので、あとはかれにさからわないようにするだけでよかったのである。すると一時間もすると、かれはもうすっかりよい機嫌になっているのだった。そしてひどく蒼白な顔、ぎらぎらと光っている眼、それに重苦しげな呼吸だけがかれの病的な状態を示しているばかりとなるのである。しかしこのような日に、仲間以外のものが居合わせたりすると、ことは面倒になる。

いつのことだったか、ドストエフスキーがこのような状態で晩に家に来ていたときに、二人の婦人がわたしの妻をたずねてきた。その婦人たちはもちろんドストエフスキーの作品を読んではいたが、かれがどのような人間であるかということについてはなにも知識をもっていず、またかれの奇妙な振舞いに注意を払ってはいけないということも知らなかった。

婦人たちの鳴らすベルが響きわたったとき、ドストエフスキーはそちらのほうをちらりと見るなり、恐怖にかられたようになった。見知らぬ人々が姿を現すと、かれはますますいらだってくるのあった。しかし、わたしはやっとのことでかれをじぶんの書斎に連れていき、そこでなだめることに成功した。万事首尾よく運んだようで、わたしはかれとなごやかに雑談をかわしていた。かれもすでに微笑をを浮かべ、ゆったりくつろいだようすだった。ところが晩のお茶の時間になったときに、わたしの妻は、お茶を書斎のほうに直接運ばせるかわりに、彼女自身がわたしたちのところに入ってきて、お茶を書斎に運んだほうがいいか、それとも食堂でお茶を飲むかとたずねたのであった。
「いったいなぜここでお茶を飲むのです!」癇癪を起してドストエフスキーはわたしの妻に言った。「どうしてわたしを隠しておこうとなさるのです。いやですよ。向こうの、あなたがたのところに行きますよ」

ことは完全にぶちこわしになってしまった。万事休す!ドストエフスキーが暗黒の権化のようになって食堂に入り、なんの罪もない婦人たちを恐ろしい表情で眺めているのを見る羽目に陥ったものだが、婦人たちのほうは、かれのいる前で話してもよいことと、話してはいけないことなど少しも気にかけずに、楽しそうにおしゃべりをつづけていた。

ドストエフスキーはすわりこんで、あたりを見まわしながら沈黙を守っていたが、その一つ一つの身振りから、コップに触れるスプーンの音から、わたしはいまにも雷が爆発しそうな確実な前兆を見て取った。どのような動機からだったかおぼえていないが、婦人の客の一人が、グトゥエフスキー島はどこにあるのかとたずねたときだった。
「あなたはだいぶまえからペテルブルグに住んでいらしゃるのですか?」だしぬけにドストエフスキーはその婦人のほうを見ながら陰気そうに口をはさんだ。
「ずっとこちらに住んでいますわ。わたし、ペテルブルグ生まれなのです」
「それでいてグトゥエフスキー島がどこにあるのかも知らないなんて!・・・・・結構なことですな!こんなふうに周囲のものにたいしていれるのは、おそらくわが国だけでしょう。・・・・・こういう人は一生かかっても、じぶんの住んでいる場所を知らないことでしょう!」

ドストエフスキーはしだいにいらいらしはじめ、最後には弾劾するような調子になったので、その当の婦人も、聞いていたほかの婦人たちも、じつに不快な印象を与えられたものだった。わたしと妻はどうすればよいかわからなかった。さいわい、その婦人は最初のうちは思いがけない結果に当惑させられていたが、じきに、腹をたてるわけにはいかないのを理解し、快活な態度をとりつづけて、かれを少しずつ落ち着かせるのに成功したのであった。

この小さな事件をわたしが物語ったのは、ドストエフスキーについて語ろうとするさい、かれの奇妙な振舞いにふれないでは、かれの肖像をじゅうぶんに描ききることはできないと思ったからである。かれの奇妙さにについてはたくさんの話が伝えられ、その奇妙さを、かれの大きな落度とみなす人々もいる。そのような非難は、かれが死んでしまった現在でさえも耳に入ってくるほどである。

ドストエフスキーが社交的な、客好きの人間ではなかったことはたしかである。ほとんどいつでも孤独のうちに生き、四年間を流刑地で送り、数十年にわたって仕事をしながら、貧困とたたかってきた人間、神経系統が恐ろしい不治の病ですっかりかき乱されてしまった人間に、自分を抑制せよと要求するのは不可能ではないだろうか?このような人間にとっては、大作家にしてロシアの名士といったような調子で対するのではなく、もっぱらかれのあらゆる生活事情を考慮し、異常で病的な肉体の状態のために特別な基準が必要なのである。かれの奇妙なふるまいに激昂できるのは、かれとは無関係で、かれを知らない人々だけである。かれを親しく知っているものだったら、かれの奇妙さに少しも困惑しないし、またけっしてできるものでもなかったのである。そしていま、かれがいなくなってみると、あの不幸な奇妙なふるまいが、なにかしらなつかしく、親しいものとして思い出され、悲しい微笑をさそい、そしてそれもいまは過去のものになってしまったという事実に胸が締めつけられるのである。その奇妙さとともに、予期しなかった死は、あれほどの熱、あれほどの光を連れ去ったのであった。

アレクセイ・スボーリン
ジャーナリスト。1876年以後『新時代』を発行。19世紀末から20世紀初頭にかけてのロシアの社会に大きな影響力を持っていた。チエーホフと親しかった。
回想の典拠:『新時代』1881年2月1日(13日)号に載せた「追悼文」
抜粋:『ドストエフスキー 同時代人の回想』P.383

鼻血が出て、そのあと喀血があったのは、たしか月曜日のことだったと思う。かれは危険が過ぎ去ったときには驚いたようすだったが、それはすぐにおさまる神経性の不安のためといえた。わたしたちはみな無数の神経でできていて、わたしたちの身体はまさにその神経の働きに適するように作られ、それがわたしたちの生きていくのを助けてくれているのである。いわんやドストエフスキーはこれまでの生涯において、きわめて多くのことに耐えてきているので、かれの身体はこういったことに慣れているはずだった。幼いころからかれを苦しめていた癲癇は、かれの人生のいばらの道に、じつに多くの苦難を付け加えたものだった。なにかしら恐ろしい、忘れることができぬ苦しいことが幼年時代に起こり、その結果、癲癇に襲われるようになったのである。近年だったが、その病気は、仕事の上での緊張や、苦闘や、人生上の失敗や、ロシアの生活やロシアの文学の特徴として無数にあるきびしさに応じていつでも起こっていたのである。発作に見舞われそうな予感がすると、かれはいつでもひどく苦しみはじめ、発作のときの死の恐怖、病的なぼんやりした恐怖、明日をも知れぬ危険を思わず心に浮かべずにはいられないものだった。もちろん、人はいつかは死ぬものであり、もしかしたら明日にでも死ぬかもしれないということを、わたしたちはだでれでも知ってはいるが、これは一般的な問題であって、それが人を恐怖におとしいれることはないし、少なくともなにか危険が身に迫っているときでなければこわがらせもしないのである。ところが、ドストエフスキーにあっては、この危険はつねに存在し、かれはたえず死の前夜に立たされているかのようだった。かれが企てた一つ一つの仕事、あらゆる作品、じぶんの気に入っていた観念、苦心して考えだし、頭のなかですっかり組み立てられた大切なイメージ、こういったすべてが、一撃のもとに中絶してしまうかもしれなかったのである。ありふれた病気だとか、よくある死の機会なんかよりも、かれにはもっと独特な事情ともいえる特殊な病気があり、その病気になじむことなどはほとんど不可能なほど、その発作は恐ろしいものだった。痙攣のつづくとき、意味不明のうちに死に、五秒のあいだに死んでいるというこの不断の威嚇のもとに、かれが行っていたように仕事をするには大きな意志の力が必要であった。

このような永遠の威嚇にさらされながら、この世からべつの未知の世界へ移るということは、かれにとってはいわば死の危機、まさしくかれの病気にあっては恐ろしい死の恐怖のようなものが形成されていたのである。発作がおさまると、かれは異常に活気づき、饒舌になったものである。あるとき、ちょうど発作がやんだばかりのかれと出会ったことがある。かれは小さなテーブルに向かってたばこを巻いていたが、まるで酔っぱらっていたみたいで、わたしにはとても異様に思えたものだった。
「驚かないでください。いましがた発作があったばかりなのですよ」わたしを見るとそう言ったのである。このあいだの月曜日に気分が悪くなり、死がさし迫り、その急ぎ足で忍び寄ってくる死を迎え入れる用意をあわただしくはじめねばならなかったときも、なにかそれに似たようなことがかれに起こった。そのとき、かれは懺悔し聖餐を受けたのである。

アンナ・ドストエフスカヤ
ドストエフスキーの二度目の妻。1867年から1881年に至る14年間、物心両面でドストエフスキーを支えた。『回想のドストエフスキー』は、ドストエフスキーの死後三十年たった1911年から1916年にかけて書かれた。それとは別に、結婚した1867年に、4年間の外国生活の最初の年に速記で書かれた『アンナの日記』出版されている。
典拠:『回想のドストエフスキー』『アンナの日記』

結婚後まもなくアンナ夫人の目の前ので起こった発作
抜粋:アンナ・ドストエフスカヤ著 松下裕訳『回想のドストエフスキー』筑摩書房 1973

アンナ夫人が日記に残したてんかん関連とvs.スースロワの記録
抜粋:『 ドストエーフスキイ夫人 アンナの日記』(アンナ・ドストエーフスカヤ 著  木下豊房 訳河出書房新社 1979