闘病文学のページ



  文学の中の医師

ノーマン・カズンズ編


NORMAN COUSINS ed
THE PHYSICIAN IN LITERATURE
THE Saunders Press,1982


Literature Arts Medicine Database - NYU(ニューヨーク大学メディアカルセンター)
http://medhum.med.nyu.edu/view/11947


ノーマン・カズンズによって編集されたアンソロジー『文学の中の医師』は、世界文学の中の医師たちを紹介し、彼らがどのように描かれているか説明することを目的としている。次のテーマのもとに選ばれた文学作品の抜粋が収集されている。

@研究とセレンディピティ A医師の役割 B神と悪 Cいかさまと道化 D文学中の臨床記述 E医師と学生 F実地診療 G女性と癒し H狂気 I死ぬこと J患者 K永続する伝統。含まれる作家は、トルストイ、メルヴィル、カミュ、シェイクスピア、ディケンズ、バーナード・ショウ、チェーホフ、オーウェル、ドストエフスキー、ヘミングウェイ、トーマス・マン、フローベール、コナン・ドイル、ウィリアム・カーロス・ウィリアムズなど。テーマにそって81の作品が収録されている。
 
CONTENTS

序文

ノーマン・カズンズ  (下原康子 訳)

アイスキュロスからウォーカー・ パーシーまで、ほとんどの小説家や劇作家が医師についてなんらかのことを書いている。作家は人間の経験の普遍性を描く。ただ生き続けるだけでなく、最大限に生きるための人間の奮闘は普遍的なもののエピセンターである。

医師は治療や薬の処方を行うだけではなく、人を不死に変えうる可能性の象徴である。我々は永遠に生きることはできないのに、医師が死を遠ざける無限の科学と技術を準備していると思い込まずにはいられない。そして、医師から病気だけでなく人生の一切合切について指揮してもらわないかぎり説得されることがない。患者の心臓に聴診器をあて、かすかな心拍や心音からその意味を引き出し、血の数滴から生理機能のバランスを認識し、電気的マーキングを身体の化学的複雑性の正確な知識に変換する。これらは医師とっては科学かもしれないが、患者にとってそれは神からもたらされる力でなのである。

作家は患者の身になってみるまでもなく、患者の弱さ、不安、さみしさ 医師になんとかしてほしいと願う気持ちをよく知っている。作家はほとんどといっていいほど病に苦しんだ経験がある。彼らは医師の黒い診療カバンになじみがあり、医師との関係の重要性とその癒しの力を知っている。

想像と創作は共に歩みを進める。心気症の基本成分は想像である。作家はあらゆる病気の症状を想像することができた。プルーストの場合は、窓を閉ざしブラインドをしっかり引き、めったに外出しなかった。彼の住まいは病気を増強する生息地であった。器質性の病気はそれほどでもなかったが、症状のすべてが彼の想像力の燃料になった。健康に対する不安が大きいほど作家の医師に対する関心は高まる。

そんなとき、作家たちが医師をどのように描写するかは観察に値する。作家が患者になったとき、医師へ依存する気持は他の人たちよりも大きい。医師への期待は厳しくなりがちだ。多くの作家が危機的な場面に駆けつける医師の姿を描いた。ベッドサイドに集まった家族たちは、この先どうなるのかという不安におびえている。しかし、医師の到着によって奇跡的な変化が起きる。もちろん、医師がいつでもこうした魔法が使えるわけではない。希望と現実が衝突し感情が高まるこうした場面の描写は作家としての技量が試される。

作家が医師の中に文学的資源を見出し、それを利用するのは自然なことである。医師の人間性や哲学は、一人ひとり大きくちがう。それでも、彼らはすべて作家に豊かな材料を提供する。ヴォルテールは『カンディード』の中で、性病 ─それは悦びの代償でもある─ に直面した医師の無力感を冷静に書いた。アレクサンダー・ポープは、パラドックスを巧みに使って、医師に神のような慈悲を期待すべきではないという見解を述べた。ロシアの文学的伝統に忠実なボリス・パステルナークは、医師は人間の悲喜劇が生み出すあらゆる感情の具現化と見た。こうした態度や反応は標準化されたものではないが、決してこれらを軽視することはできない。すべての医療が作家に無限の材料を提供しているのだ。

すべてのロシアの作家の中で、トルストイほど医師を鮮やかに描いた作家はいない。イワン・イリッチの医師は作家によって見事に皮肉られている。医師は優秀で無敵、自信にあふれている。一方で、患者はたよりなく、ためらいがちで、明らかに敗者である。ドストエフスキーの『罪と罰』にもいくぶん似通った見方がある。病気の苦しみの描写は、医師による思いやりの表明よりもはるかに記憶に残る。

ツルゲーネフの『郡医者』のように、医師が患者に恋しているときでさえ、医師と相手との関係にはあきらかな距離がある。これは、医師が患者との間に一定の距離を保とうとするを伝統的な習性のあらわれだろうか? (医学生はウィリアム・オスラー卿による Aequanimitas『平静の心』を思い起こすだろう)それとも、『狂人日記』でゴーゴリが厳しく描いた、人間の魂の永遠の孤独の現れだろうか?

ロシアの作家が私たちに伝えたいことは、おそらく、人間は決して孤独を打ち負かすことはできず、医師はその魔法がどんなものであれ、その救いの力は限られているということである。この一般的事実は不健全なものではない。とりあえずの勝利であっても、緩和と回復の道は常に存在しており、人生の改善と延長が達成可能な褒賞であり持続的な現実でもあるという発見があるからだ。

英国の小説では、医師は人としてではなくタイプとして扱われる傾向がある。エミリー・ブロンテの『嵐が丘』では、医師は患者の激しい感情の対象となるのを避けるために職業的な距離をとる。医師は無神経ではないが、あくまでも医師のタイプとしてふるまっている。ウィルキー・コリンズの『月長石』では医師のねじれた権力者意識がみごとに描かれている。 トーマス・ハーディの『森林地の人々』のフィッツピアーズ医師は、自分に対するヒロインの愛情が医師という職業に負うところが多いと感じている。 医師のタイプについてのサミュエル・バトラーの観察は、他の同時代人よりも風刺的ではないかもしれないが、奥底にある医師に対する憤りが、医師がときどき患者に対して見せる気取った態度の描写にうかがえる。

医師についての誇大な英雄的な役割についてはどう考えればいいだろう? すべての文化において、医師の役割はどこまでも本質に大きいものとされる。作家が医師の半神イメージに抵抗する場合、それは彼らが医師の高邁な役割に無頓着だからではなく、逆説とあら捜しが作家の甲斐性だからである。たとえ作家がいくぶん理想主義的であったとしても、現実は矛盾によって最もよく描かれるという信念を自らの作品の中で明らかにする。医師は、政治家たちや人々を操縦しようとする者たちがうらやむような方法で、人々の人生を取り仕切ることが可能である。生死を握る医師は必然的に理想化され、その権限にふさわしい美徳を備えるべきとされる。しかし、作家は、医師像を確かなものにするため、彼らの性格の多面性と複雑さを見落とさないように注意を払っている。

いずれにしても、世界中の作家が医師ついて書き続けてきた。現代アメリカの小説も例外ではない。例えば、ヘミングウェイは、短編と長編の両方で、医師の息子としての自らの知識を利用している。彼の作品の中の患者の孤独と絶望は、医師の高尚な立場と著しいコントラストをなし、患者の絶望と従順が医師の意志を際立たせている。ウィリアム・フォークナーの医師像はヘミングウェイの医師よりも哲学的かもしれない。彼らは病気だけでなく患者の人生にも目を向ける。ジョン・スタインベックも同じ傾向があった。

『疑わしき戦い』のバートン医師は、身体の働きだけでなく社会に対しても好奇心を示した。身体と社会の相互作用を描いたとして評価されている。『キャナリー・ロウ』で描かれた、不安定で欠点のある医師でさえ、人々を癒す役割を果たしている。医師であるウォーカー・パーシーは、『廃墟の愛』の中で医師の人間としての弱さを描く一方で、医師の中に内在する人々に生きる活力を与える生命の輝きと力強さをも見ている。人物の性格や言動を巧みに描写したリング・ラードナーが描く医師は、死の仲介者ではなく、仲間たちから簡単に騙され馬鹿にされる弱い庶民の擁護者である。

現代の世界小説の中で、ボリス・パステルナークほど医師に高邁な性質を与えた作家はいない。ドクトル・ジバゴは、病室でも、自宅のベッドサイドでも、戦場でも、どんなときでも自分が見た苦しみから学び成長する。苦しみに無関心になることなく、感受性と人生観を深める。

ドクトル・ジバゴから、私たちは責任ある医師は困難な診断を行う科学者だけではないことを教えられる。医師は病気の知識と同じように人生の知識をも備えていなくてはならない。適切な治療を行うためには一人ひとりの個性を知り、その人の可能性のすべての要素を感じとることができなくてはならない。詩を処方箋にを置き換えることはできないが、詩は人間の見方を広げてくれる。よい医師を育てるためには科学とリベラルアーツの融合が必要だ。世界の偉大な文学から学ぶことができる。病気の対処にあたっては、医学的・技術的援助と同じくらい、人間特有の捉えにくい側面の知識が医師にとって欠かせないのである。

何年もの間、リベラルアーツは医学教育では無視されてきた。学部教育においては学生に対してバランスのとれた教育が、また大学院では専門的な学問に集中することが前提とされている。しかし、バランスのとれた教育が実施されているとはいえない。医学部に進学しようとする学部学生はリベラルアーツから遠ざかる傾向がある。彼らは、医学部で学ぶことにより科学の卓越性が強化されるという信念のもとにそうしている。その結果、学問的エネルギーの大部分が定量化可能な問題を扱う研究にあてられる。彼らが学ぶ医学部は教育不均衡の状態にある。また、医学の進歩に伴う知識のすべてを統合しようとする傾向が強く、リベラルアーツ教育の余地がほとんどない。

その結果、多くの卒業生は得られるべき文化遺産を奪われている。 これはささいな喪失ではない。このことは個々の患者が表現する複雑な方程式を扱う医師の全能力に影響を与える。病気というのはしばしばその人の生き方の結果でもある。従って、医師は患者の精査のための文脈を構築しなければならない。彼は病気を診る際に患者の置かれた環境について評価する必要がある。つまり、賢明な医師は現代社会における患者の不安を理解し、家族や社会での人間関係におけるストレスを理解し、失望、拒絶、閉塞を理解する。そして、人間としての患者の尊厳の回復を喜ぶのである。

世界の偉大な文学が医学について私たちに教えていることは、患者の精神面への配慮ほど大切なものはほとんどないということだ。ヒポクラテス、ガレノスなどの昔の医学者たちは、エンドルフィン、エンケファリン、ガンマグロブリン、アドレナリン、インターフェロンなどという、多様な神経伝達物質は知らなかった。しかし、彼らは人間という生き物の全体性とそのすべての部分の相互作用についてよく知っていた。ガレノスは、憂鬱症に罹患した女性に悪性腫瘍が発生した症例を観察した。人生の展望、特に病気に向き合う態度は、病気の発症および経過の重要な要素となりうる。賢明な医師は、予後の観察において、感染や腫瘍の大きさに注目するだけでなく、患者の生きる意志と有益な生化学的変化に効果をもたらすような精神的な要素をも慎重に考慮する。

ディケンズ、ハーディ、トルストイ、ドストエフスキーなどの作家は、登場人物たちが危機的な情況に追い込まれる場面を何度も繰り返して描いた。それは、彼らの著作が雑誌への連載を経てから後に本として出版されていたという事情にもよる。連載を続行するためには読者の関心を惹きつけておかなければならなかった。登場人物は、現実ではとうてい耐えられないような過酷な試練に何度も遭遇する。ストレスに対する人間の耐久力について小説から教わる必要はないが、これらの作品は、病気や危機的状況の如何に関わらず、人が難局をのり超えるときにどのような姿勢で臨んだかを描き、人間存在の重要な要素を教えている。

小説のなかの病気の描写は、実生活において、医療に関係する逸話(アネクドート/患者の語り)を見聞きしたとき、人々が感じる恨みや怒りといった誇張された感情を払しょくさせる効用がある。現代医学は、逸話を自動的に拒否する傾向が強い。同じ病気を抱える人々が関心を持っても、周囲からは、逸話は一つの例にすぎず、重要視すべきではないと聞かされるだろう。しかし、逸話への反発は行き過ぎる傾向がある。みきわめがが必要だ。

個々のケースにおいて必ずしも唯一の確立した治療法があるわけではない。推奨される新しい治療法は、幅広い検査と根拠に基づいていなければならない。しかしながら、医師と患者の間で起こったたった一つのエピソードの記述でさえ、重要な意味を持つ可能性がある。それは医師にとって、優れた教育的価値を持つものかもしれない。その内容は一般的な経験に移すことができる。医師に情報伝達のアートが欠如しているために患者がショックを受けたとき、我々はそのことを「逸話にすぎない」と片づけてはならない。その多くは繰り返されるからだ。それを避けるためにはたった一つの事例で十分なのである。

作家は生まれついての逸話の作り手である。当然そうあるべきだ。逸話は作家の商品である。私たちはこれらの逸話を吸収して、そこから学ぶ。 私は現在、医科大学の医師のコースにおいて、作家のセンスで医師たちに教えている。この過程において、私がこの上なく興味深く思ったのは、彼らが実生活の事例よりも文学の中の逸話の方を真剣に受け止めたことだ。 幸いなことに、コースの終わりには、 彼らの多くが人々のそれぞれの体験についても顧みることができ、それらが重要であることを認識するようになった。作家は、個々の出来事を描くことによって、統計的に考える過度の傾向から医学生を救い出すことができる。

以下は、アメリカの有名な医師で医学の哲学者の一人であるオリバー・ウェンデル・ホームズが 、医師に向けた永遠の問いである。

君の今の知識はどのていどのものか?
忘れてもいいものは何か?
これから学ぶべきものは何か?

今や変化の風がアメリカ医学に吹きわたっている。最も有望な徴候の一つは、優れた医学教育には科学以上のものが関わっているという認識が高まっていることだ。ホームズ博士の「問い」は本質的に哲学的なものである。なぜなら、人間の知的および科学的発展の歴史を振り返り、自身の教育と職業を社会の要求と照らし合わせ、過去と未来を指し示す羅針盤の針の先を見なければ、ホームズ博士の「問い」に答えることはできないからだ。つまり、人文科学と総称される一連の知的訓練をある程度受けないかぎりこの問いに答えることはできない。その訓練には、人間の日常的経験の範囲だけでなく、創造的芸術、および人が人生に対処する方法まで含まれるのである。

科学は調査と検証可能な事実に重点を置いている。芸術と哲学は創造性と価値に重点を置いている。その価値というのは人生の記憶から出てくるもので、人間であることの重要性と関係がある価値であり、人間の方程式の未知の要素を意識的に尊重する価値である。臨床医学における最近の発見のひとつは、人間には、生まれながらに治癒力が備わっているという事実である。その力を最もよく働かすことができるのは、科学的効率ではなく、人と人とのコミュニケーションと絆によってなのである。

決して変わらない事実こそが教育の基本である。しかし、その事実は立ち止まってはいない。医学生が現在正規の科学教育で学んでいることの多くは、卒業後10年または2年以内に時代遅れになるだろう。 病気の性質や病気の治療に関する新しい知見に応じて、事実上の医学の基盤が着実に変化していることは明らかな真実である。

たとえ知識そのものが脆弱であったとしても、科学的知識を教えるためのシステムは変化に耐えられる。私たちは常に科学的方法を参照する。新しい事実が発見され、開発される方法。 これらの事実が精査され、テストにかけられる方法。 要するに、理論を実践に変換する方法である。これらは科学の本質であり、科学的方法の尊重はあらゆる医学教育において不可欠な要素である。

科学的方法を尊重することと、医学教育に人間の価値を扱う科目を加える必要があることは矛盾しない。人間の価値は変化を超越した倫理体系を構成する。その価値が十分に強く良好なときは、科学の変化を人々の生活に適合させることができ、人々を変化に合わせる必要はない。医師が患者にどう接するかは、患者のからだに行う処置におとらず重要である。つまり、科学者としての医師の実力は、芸術家や哲学者としての資質 ─ 個人の人間性や器量に対する無形の信任状─ と深く関わっている。

科学と人文科学が真実を求めて取った別々の道は、新しい発見がもたらした気づきによって収斂(コンバージェンス)しつつある。人類の生存は、自然に対抗する能力よりも自然と共存する能力にかかっている。また、我々を圧倒する恐れのある知識の増殖と拡散をコントロールする能力にかかっているかもしれない。収斂は学問分野を横断して新しい統合をもたらしている。

新たなサイエンティフィック・ヒューマニストとヒューマニスティック・サイエンティストが増えつつある。科学の発見の社会的意味や責任に対する認識が広がっている。この傾向は、公への倫理的発言を控え、科学的な理論や発見と自らの間に距離を置く従来の科学者たちの認識とは一線を画するものだ。給料をもらったり仕事を助成してくれるお偉方よりも、自分たちの方が科学の発見の社会的意味や重要性についてよく知っていると主張する科学者が増えている。

科学者が分かれているように、人文科学研究者も人間の価値について今までとは違った論点をもつようになっている。今や、本当の分裂は、自然科学と人文科学 ─ C.P.スノーがふたつの文化と読んだもの ─ の間にあるのではなく、人間の生活を最も重要と考える人と自分の学問分野を絶対的なものとする人間の間にあるのだ。

過去数十年にわたる科学知識の爆発的増殖は、知識人たちに、それらが不安定で不確実で制御不能とさえ感じさせている。 自分たちの未来、人類の未来、そして、患者の生活の質にかかわる諸問題に触れることなく進められた従来の教育に対して、医学生が疑問を持つのは当然のことである。

科学と人文科学に共通しているのは、世界と人間とのつながりを理解しようとする人間の衝動である。歴史に汚点を残した失敗の多くは、その時代の哲学の貧困から起こった。人間は科学技術や知識をさらに拡大していくだろう。しかし、大きな問題を考えるときの自分の立場が本質的に主観的であるという根本的事実を変えることはできないのだ。

科学と医術の合流点においては、医師は、伝統的な詩人がそうであったように、人間の全体性に根本的な関心をもつようになる。クロード・べルナールは書いている。「生理学者と詩人と哲学者とが、みな同じことばで語る日が来ることを私は確信する」

追記(2021年8月)

この翻訳を公開したのは2018年10月のことです。その後、コロナパンデミックさなかの2021年8月、図書館で借りた以下のノーマン・カズンズの著作の中にこの序文が収められているのを発見しました。下原の翻訳の不確かな部分の該当箇所を参照し修正を行いました。

ノーマン・カズンズ『ヘッド・ファースト─希望の生命学 』上野圭一、片山陽子訳 春秋社 1992
第14章:文学に描かれた医師像
原題: Head First : the Biology of Hope,1991