Medical Dostoevsky&My Dostoevsky
典拠:『ドストエーフスキイ広場 No.11』(2002)



ありがとう、ステパン先生 
― 新谷敬三郎先生七回忌によせて ―


下原康子


「新谷敬三郎先生を偲ぶ会」がご命日の十一月六日まじかの平成十三年十一月三日(土)午後四時から高田馬場のレストランを借り切って開かれた。ときわ奥さまをはじめ大学、学会、ドストエーフスキイの会などから、先生ゆかりの関係者三十名ほどが集って、生前の先生を偲んだ。会からは木下先生の奥さま(木下先生は外せない予定が重なってやむなく欠席され、奥さまがメッセージを代読された)、井桁貞義氏、岩浅武久氏、渡辺好明氏、福井勝也氏、冷牟田幸子さん、下原康子が出席した。小山田チカエさんは、会の半ば過ぎに西荻窪まで来られていたのだが、残念ながら間に合わず欠席された。

佐々木寛氏が司会をされた。最初に木下先生のメッセージを奥さまが読みあげられた。一九六九年のドストエーフスキイの会発足以来三十余年に及ぶ新谷先生との思い出と感謝の思いがしみじみつづられていた。その後もひきずられるように、次々と出席者のスピーチが途切れることなく続いた。思い出が溢れ出し止まらないようだった。自身の父親と重ねて話ながら涙ぐむ人もいた。先生の存在の大きさを改めて痛感し、もっともっと長生きをしていただきたかったと思った。ドストエーフスキイの会から渡辺さんと福井さんがスピーチをされた。お二人の話に共通していたのは、新谷先生は研究者には厳しかったが、一般会員にはいつもたいへん優しく接してくださったことだ。本当にそのとおりだった。おそらく多くの人が同じ感謝の気持ちを抱いていると思う。

私にとって新谷先生は親しみやすい反面、ドストエーフスキイとダブルイメージの謎多き人でもあった。しかし、先生がドストエーフスキイの会に対していかなる理念をお持ちだったかについては確信がある。『場 ドストエーフスキイの会記録T』のあとがきで木下先生が「内にも外にも開かれた出会いと対話の精神 」と表現されているその理念を新谷先生の肉声で再現してみよう。早稲田大学小野講堂で開かれた第九回総会(一九七八・六・二四) での『挨拶』と題する講演の冒頭の部分である。(会報五二号)

「ドストエーフスキイの会は今年で十年目を迎えました。その間さまざまな人々が集まり、また別れていきました。別れていってそのままになった人もいれば、またひょっこり現れる人もいました。現在会員は百十八名だそうですが、例会ごとに新しい人々が参加し、何ごとかを語り、しばらく一緒に歩いたり、またふっとどこかへ行ってしまったりしました。そういうことが大変のんきにできる会なのですが、でもいつのまにか何となくある人々がひとつの場をつくって、こうした営みをつづけて、いつのまにか九年たったのでしょう。有難いことです。
 この会はこうした出会いの場所、そこにはしかし、いつもドストエーフスキイがいるはずなのですが、実は私たちはまだその人を見たことがない。おそらくそのせいで、しきりに彼の噂をして、出てくるのを待っている。あるいは無駄なことをしているのかもしれません。確実なこと、有用なことでなければしないという人にとってはきっと意味のない場所に違いありません。でもおかげでちゃんと続いているのでしょう。あるいは私たちはかくれて見えないドストエーフスキイに踊らされているのかもしれません。ちょうど彼の作中人物のように。そう考えるほうがでも楽しいですね、彼を踊らせて見せ物にしようなどと企むよりは。」
(「会報五二号」より)


新谷先生、ごらんのとおり、発足から三十余年たった今でも、会は意味を問わない場所で、でも、おかげでちゃんと続いています。ちょっぴりニヤッとしてうなずかれるお顔が目に浮かぶ。

新谷先生は独特のスタイルを持った方だった。文体と書体はすぐにそれとわかった。特に会報掲載の追悼文が印象に残っている。中でも「野田栄一氏を悼む」(会報四一号・一九七六)は忘れがたい。

「野田栄一さんが亡くなられたと聞いてびっくりした。去年の夏であった。最近例会にお顔をお見せにならなくなったので、如何おくらしですか。あなたがお出にならないと、会がさびしくて仕方ありません。とお便りしたら涼しくなったら、また出かけます。というご返事だったのに、その後もご出席がないので案じていたところであった・・・」

野田栄一さんは、報告が終わるといつもまっさきに三つの質問をなさるのが印象的な白髪の紳士だった。新谷先生は野田さんが会にみえなくなったのを気づかっておたよりをなさっていたのだ。

平成七年、阪神淡路大震災とオウム事件で日本の安全神話が崩壊したその年の四月二十日、古い会員の一人で私の無二の親友だった伊東佐紀子さんが癌で逝った。下原敏彦が新谷先生に訃報をお知らせし、追悼文をお願いした。伊東さんへの追悼文が会に寄せられた新谷先生の最後の言葉になろうとは予想だにしなかった。それから半年も経たずして先生は亡くなられた。それほどお加減が悪かったのに、無理なお願いをした上に、伊東さんが亡くなって二ヵ月後、私が乳癌にかかり入院していたことまでお知らせしご心配おかけしていた。読書会通信のお礼を述べられたおはがきの最後にあの独特の書体で「奥さま、お身体をお大事に」と書かれていた。七月末のある夜、突然電話をいただいた。特に用件があったわけでもなく、敏彦が最近の読書会のことなどをとりとめなくお話したら、「会場が変わったんだねえ、行ってみようかねえ」とうれしそうに言われたという。お礼の一言も申し上げないでお別れしたのが残念でたまらない。

楽しかった思い出が浮かんでは消えてゆく。コンサートホール時代の読書会(一九七五・二〜一九七九・二)。ラスコーリニコフの屋根裏部屋のような場所だった。そのころの参加者は十数名くらいだったが、新谷先生はたいてい参加されていた。あまり発言はされず端の方の席で楽しげに議論に耳を傾けておられた。それだけで、心地よい刺激がその場の雰囲気を盛り上げ、熱気が増した。自信のない発言者も先生がうなずいてくださることで励まされた。先生は二次会にも必ず参加されていた。

田中幸治さんのお誘いで、読書会のメンバー、しかし世間的には奇妙な組合せの男女六名(新谷、田中、木下、伊東、外山、佐伯)で埼玉県寄居の少林寺五百羅漢にハイキングに行ったこともある。佐伯(下原)が記している(会報二九号・一九七三)。草津の天狗山ペンションでの泊りがけの読書会も忘れられない。米川先生の北軽井沢別荘をお訪ねし、米川夫人とご長男の哲夫氏に歓待していただいた。伊東さんが記している(会報三四号・一九七五)。伊東さんのシャンソン発表会も聞きにきてくださった。

伊東さんや私たち女性だけで作っていた文学同人誌『ぱんどら』の五号から十号(最終号)の表紙のデザインは新谷先生の作品である。コンピュータグラフィックを先取りしたような洗練されたデザインに同人一同目をみはった。五号には女性のペンネームで新谷先生の一編の詩が載っている。多彩な才能にめぐまれた方だった。一九九○年代初期にすでにパソコンを愛用なさっていたし、コンピュータゲームを楽しむ感性も持っておられた。

早稲田の最終講義をワープロで復元しコミュニティカレッジの製本教室に通って私家本を作られた。そのいきさつを書かれたものを、亡くなられた後、ときわ奥さまがかわいいフロッピー本(フロッピーと同じサイズの豆本)に製本されたのを送っていただいた。職人の仕事場にあこがれ、それがかなった喜びが素直に記されている。穏やかな晩年がしのばれる。

通信技術の変革がコミュニケーション手段の一形態である文学や芸術に大きな影響をもたらすであろうことを先生は予言しておられた。現在、インターネットをきっかけに例会や読書会に参加する若い人たちが増えてきている。読書会で報告した若い女性は『貧しき人々』はメール交換で『六通の手紙に盛られた手紙』は「インターネットの掲示板」と称した(読書会通信七○号・二○○一)。「そのとおりです」そう言って先生は大きくうなずかれるに違いない。

「偲ぶ会」の最後はときわ奥さまの心にしみるご挨拶でしめくくられた。「しら鳥はかなしからずやそらの青海のあおにもそまずただよう・・・主人はこのしら鳥のような人でした」と言われた。それをうかがって、「我信ず、信なき我を救いたまえ」という先生が好きだと言われた言葉が思い出され、先生の姿が『悪霊』のステパン氏の最後の姿と重なった。

ありがとう、なつかしいステパン先生。いつまでも私たちを見守っていてください。