Medical Dostoevsky&My Dostoevsky
ドストエーフスキイの会会報 No.62(1980.4.17)

ドストエーフスキイ夫人 アンナの日記』
アンナ・ドストエーフスカヤ 著  木下豊房 訳  河出書房新社 1979 

下原 康子

ドストエフスキーとアンナが結婚したのは1867年2月。その年の4月、二人は外国旅行に発った。はじめ2,3か月の予定だったが、結局4年の長きにわたった外国生活の最初の年に書かれたのがこの日記である。アンナは速記で書いたが、後に反訳され複雑な経緯を経て公開された。ドストエフスキー研究上の重要な資料でもあるが、私にはむしろ日常のドストエフスキーはどんな人物だったのか、アンナはどんな奥さんだったのかに興味があった。

この日記が書かれた1967年4〜12月の間に、二人が滞在した都市は、ドレスデン、バーゼル、ジュネーヴである。ルーレットに熱中したバーデン・バーデンには3か月いた。ここでの生活は異常だったが、それ以外はほぼ単調な毎日で、散歩、読書、食事、手紙、経済的気苦労、ちょっとしたいさかい、仲なおり、健康への気づかいなどの繰り返しである。はじめは退屈な感じがしたが、読み進むにつれて非常におもしろくなってきた。というのは夫婦のありかたについて考えさせられてしまうのである。二人の生活はいつも経済的にひっ迫していて暗たんたる状態なのだが、日記からはそれほど暗い感じはうけない。それは外国にあって二人きりでお互いに愛し合っているからである。ドストエフスキーは気むづかしい反面すごく優しい。小さなことで妻を喜ばせるのがとてもうまい。アンナもまたその思いやりの一つ一つに感激し夫に感謝する。

日記中でもっともおもしろいのはルーレットに熱中したバーデン・バーデンだろう。日記という形式のため、一寸先もわからない状態で書かれていてすごく迫力がある。それにしてもこの時のアンナは偉い。新婚早々の夫が旅先で妻の持ち物まで質に入れて賭けに熱中するなんてがまんできるはずがない。ところが彼女はしょげかえる夫に「こんなことはなんでもないことよ」と言う。たいへん勇気がある。泥沼にはまり込んだような毎日にも絶望しない。散歩や読書や日記をつけることで気分を転換させるコツを心得ている。彼女にとって恐ろしいのは夫の愛が冷めることだけなのである。彼女は夫のルーレット熱を彼の持病の発作と同じ受け止め方をしている。つまり病気なのであり、おさまるのをじっと待つほかはないのだ。彼女は夫を哀れんでさえいる。

日記にはドストエフスキーの創作活動について具体的なことはあまり書かれていない。しかしアンナは夫の原稿はもちろん、ノートにまで目を通していたようである。二人はよく読書をしており、アンナは夫の指導でバルザック、ジョルジュ・サンド、ディケンズなどを読んでいる。また二人で『罪と罰』を読み返したり、福音書を読んだりもしている。アンナはこう書いている。「彼がコーヒーだの砂糖だのといったありきたりのことばかりでなく、もっと重要な抽象的なことを私と語り合ってくれるとき、わたしはいつもうれしい」。

ドストエフスキーの次のようなことばをアンナは書きとめている。「自分はかならずや生まれ変わるだろう、なぜならおまえはぼくにいろんな新しい感情や考えを与えてくれたので、ぼく自身よい方向に向かいつつあるからだ」またこうも言っている。「おまえのような人のためにキリストはお出ましになったのだ。こんなことをぼくがいうのはおまえを愛してのことではない。おまえを知ってのことだ。ソーニャが生まれると二人の天使がここにできる。おまえとソーニャの姿をぼくは思い浮かべる。なんとよい光景だろう」。

ジュネーヴにおいてアンナはその日の日記をつけるかたわら、1年前の最初の出会いの回想をつづっている。この部分は同じアンナ夫人の手になる『回想』にそっくり使われている。この日記を読んでドストエフスキーをより親しく感じるようになった。