ドストエフスキーとてんかん/病い

ドストエフスキーのてんかん


Theophile Alajouanine 著 下原康子 訳

論 文 名:Dostoiewski’s epilepsy
著 者 名:Theophile Alajouanine
掲載雑誌:Brain 86:209-218,1963
Lecture delivered at the joint meeting of French Neurological Society and Neurological Section of the Royal Society of Medicine,London,May 4,1962

Theophile Alajouanine (1890-1980)フランスの著名な神経科医。 モントリオールには名前を冠したTheophile-Alajouanine研究所がある。この論文は1962年4月、フランス神経学会と英国学士院神経学部門のジョイントミーティングにおけるレクチャーが基になっている。


19世紀前半に生きたロシアの文豪ドストエフスキーのてんかんには興味をそそられるが、同時に、彼のような症状を持つてんかん患者は世界中さがしてもめったにお目にかかれない。とはいえ、次の点から注目に値する。ドストエフスキーが偉大な作家であること、また自身の発作を注意深く観察し分析していたこと、さらに、いくつかの小説の登場人物に自らの体験を語らせたこと、加えて、ドストエフスキーにおいてはてんかん体験が人間と世界の概念に重要な意味をもたらす契機になった思われること、以上の4点である。
私がドストエフスキーのてんかんに関心をもった理由は以下の3点である。
1.ドストエフスキー自身が書いた手紙と日記、また友人や家族の回想記の中に発作の記載が残っている。それらから作家が側頭葉に障害をもったてんかんを患っていたことが推測される。
2.いくつかの小説にてんかんを患った人物が数人登場する。特にその中の一人はロシア文学にあってもひときわ奇妙な人物で、特異な発作を持っている。その発作の描写は作家自身の体験を写したものと思われる。
3.てんかん体験とりわけ心理感情的な前兆(アウラ)はドストエフスキーのヴィジョンに独自の色彩を与え、ひいては彼の思想や哲学に重要な役割を果たしたと思われる。
この3点について簡潔に検討を行う。

1. ドストエフスキーのてんかん
兄ミハイル、妻、数人の友人へあてたドストエフスキーの手紙の中に発作の記載が見られる。また、手記、特に1860年以後の手記には発作の起こった日時が記され、時には発作の詳細および発作後の状態が付記されている。また、発作を目撃した二人の人物がそのときの様子を描写している。一人は二人目の妻アンナ・グリゴーリエヴナ、もう一人は友人のストラーホフである。また、重要な資料の一つとして、ソフィア・コヴァレフスカヤの回想記「子どものころ」の中にドストエフスキーがエクスタシー前兆について彼女に語った時の記載がある。興味深いことに、この打ち明け話は『白痴』のムイシュキンが語った表現とそっくりである。

私と同僚のDr.Jack Graveleauはフランス語に翻訳された作家の手紙や伝記の中からてんかんに関連のある箇所を抜き出す作業をそれぞれが別々に行った。小説についても同じ方法をとった。以下に述べる小説からの引用はフランス語訳を私が英訳したもので、文学的価値は有しない。(訳者注:ここでは、日本語の翻訳を引用した)。その他にロシア語のテキストのいくつかが、パリの東洋語学校の図書館にあった。私たちの試みに関心を持ったBriceとNatacha Parainによってそれらの翻訳が提供され、私たちの研究に大きく貢献した。その他、ロシアには未だ出版されていない関連資料がいくつか存在する。その中から発作のより詳しい記載が見出せるかもしれないが、それらは入手できなかった。しかし、私たちの現在の知識に付け加えるものが多いとは思わない。

主だった情報源から抜き書きした箇所の引用がこの論文の要になる。私たちはこれらの引用を通してドストエフスキー自身に語らせようと思う。はじめに研究の主たる目的である発作の特徴を探るために、発作の発生の頻度について簡潔に述べる。

ドストエフスキーのてんかんがいつ始まったのかについては様々な見解があって明確ではない。はっきりしない原因はドストエフスキー自身にもある。というのは、ドストエフスキーはシベリア流刑とそこで費やされた年月について独特な考え方をしていた。シベリア体験は彼にとって生活を一変させるほどの決定的かつ有益な意味を持っていた。(オスカー・ワイルドが『獄中記』に書いた心境に似ている)このことは、彼が最初の発作が起こったのが流刑の終わりごろであったとソフィア・コヴァレフスカヤに語ったことと符合する。とはいえ、多くの伝記作者はドストエフスキーの最初の発作は7歳の時であったとしている。最初の伝記作家のオレスト・ミラーは次のように書いている。「ドストエフスキーの病気が幼いころ家庭内で起こったなにか恐ろしい出来事に関係があるという説が従来から存在している。私はこの事実を作家の家族に近い信頼できる人物から聞いたのではあるが、この噂を実証する材料がないので、ここにその説を正確に伝える勇気がない。」レオニード・グロスマンが作家の2番目の妻のアンナにこの件について尋ねたが、彼女はこの不快な出来事について話すのを断った。

ドストエフスキーがシベリアのセミパラチンスク刑務所に移送される前、28歳のころ、まれに痙攣性の発作があったようだ。医者でもあった友人のヤノーフスキイはこの時期のドストエフスキーには穏やかなタイプのてんかんがあったと主張している。いくつかの伝記的文献によれば、最初の発作に続くその後の20年間におよそ10回の発作があったとされる。その後、シベリア流刑から帰ってきてから発作は頻繁に起こるようになった。1860年からは作家自身が発作を記録するようになったので、頻度に関する詳しい情報が残るようになった。1869年のメモによれば、前年には3週に1回程度の発作があり、稀には短い間隔で次の発作が続くこともあった。

ドストエフスキーの発作は大発作からそれとは異なるタイプまで様々であった。大発作に関しては二人の目撃証言が残っている。アンナ夫人は初めて見た大発作を次のように記述した。
「フョードル・ミハイロヴィチは殊のほか元気で、姉と楽しそうに何か話していた。すると突然、何か言いかけて、真っ青になったかと思うと、ソファから体を浮かすようにしてわたしの方にもたれてきた。すっかり変わってしまったその顔つきを見てわたしはぎょっとした。急に、おそろしい、人間のものとも思われぬ叫びが、というより悲鳴がひびきわたって、彼は前にたおれはじめた。」(アンナ・ドストエフスカヤ著 松下裕訳『回想のドストエフスキー』筑摩書房 1973)

友人のストラーホフもまた、大発作を目撃し、次のように記述した。
「かれは思っていることを表現する言葉を探し出そうとするかのように、一瞬たちどまって口を開けた。なにかただならぬことを言うにちがいない、啓示のようなものを告げるにちがいないとわたしは予感し、心を張りつめてかれを見つめていた。すると突然、開いていた口から、異様な、長く引っ張るような、意味をもたぬ響きを出すと、かれは気を失って、部屋のまんなかの床に倒れてしまった。」(ドリーニン編 水野忠夫訳『ドストエフスキー同時代人の回想』河出書房 1966)

ドストエフスキー自身も手紙や手記に様々な発作を書き留めた。1865年の兄ミハイルへの手紙には「私はあらゆる種類の発作を経験しました」と書いている。発作後の自動症の記録が残っている。1870年2月20日「後になって何が起こったのか思い出せず、覚えもなかったけれども、私は火のついたろうそくを無事に運び、その後でやっと発作があったのだと気づいた。」1875年4月8日「私は部屋の真ん中に投げ出され、そのまま40分間も床に倒れていたが、その間完全に意識がなかった。それから意識を取り戻し、煙草を手に持って座った。私は座ったまま煙草をまき続けた。数えると4本あったができが悪かった。」1870年5月「意識を回復してから頭がはっきりするまで長い時間がかかった。私はホテルのあちこちで出会った人たちに発作の話をしようとしていたことを覚えている。」

発作後の症状としては、自動症の他にも「長い間しゃべることができなかった」「書く時にもたびたびことばを取り違えた」というメモから言語障害があったことが示唆される。

しかしながら、ドストエフスキーのてんかんにおいてとりわけ臨床的な興味を惹くのは発作に先行して起こった感情を伴う奇妙な前兆(アウラ)である。ソフィア・コヴァレフスカヤの回想記の中に、姉と二人でドストエフスキーから聞いた奇妙な発作についての記載がある。そういう発作はこの時が初めてだったとドストエフスキーは語っている。それは、彼がシベリアに追放されていた時のことだった。思いがけなく昔の親友が訪ねてきた。復活祭の夜だった。根っからロシア人の二人の友は嬉しさのあまり夜通し神について語り明かした。突然、ドストエフスキーは「神はいる。いるのだ」と叫んだ。その瞬間、真夜中のミサを告げるお寺の鐘が鳴り渡った。ドストエフスキーは言った。
「空気は荘厳な音で満たされ、私は身うごきしました。天が地上に下りて来て、私を運んで行ったような気がしたのです。“神さまはある”と叫ぶとともに、私は正気を失ったのです。あなた方のような健康な人たちは、発作の起ころうとする瞬間に私が感ずるような天福はとても想像できません。マホメットはコーランの中で自分は天国にいたと言っています。愚人やわからず屋は彼を嘘つきだとか詐欺師だとか呼びます。決してそうじゃない。マホメットはうそを吐きません。彼は私のようにてんかんを病んでいたのです。その発作が何秒つづくか、それとも何か月つづくか言えないが、どんな幸福な生活をくれたってそれと取り代えっこはしません」(『ソーニャ・コヴァレフスカヤ 自伝と追想』野上弥生子 訳岩波文庫 1933)

別の機会に友人のストラーホフに表現を変えて語っている。
「ほんのわずかの瞬間、ぼくは正常な状態ではおこりえないような幸福、ほかの人々には理解できないような幸福を体験するのです。ぼくは自分のなかにも、全世界にも、完全な調和を感じます。それに、その感じはとても強烈で、甘美なものなので、あの快感の数瞬間のためなら、十年、いやもしかしたら一生涯を捧げてもかまわないくらいです。」(ドリーニン編 水野忠夫訳 『ドストエフスキー同時代人の回想』河出書房 1966)

ドストエフスキーのてんかん体験の極致のようなエクスタシー前兆の描写の後で、コントラストを際立たせるためではないにしろ、発作後にきまって陥っていたうつ状態を強調する必要はないかも知れない。とはいえ、彼は、多くの手紙の中で、発作後に生じるそこはかとない悲哀、疲労感、とりとめのない瞑想状態、無力感などについてたびたび触れている。

これらの引用から、てんかんはドストエフスキーに大きな悲嘆をもたらしたが、彼は創造の力によってそれを大きく変容させたという解釈が可能である。そして、その手掛かりがまさしくエクスタシー前兆にあるのは間違いない。その影響の深さの証拠が優れた小説の中に見い出せる。

2.小説の中に描かれたドストエフスキーのてんかん
ドストエフスキーのてんかんの意義はミルトンの盲目またバイロンの内反足がそうであるように医学や個人に限定されるものではない。作家は自身の障害を不安と共に注視し続けていた。いくつかの小説でてんかんの登場人物を描いたという事実が作家の関心の深さを表している。読者は小説の中にてんかん患者がたびたび登場するのに驚かされる。女性よりも男性が多く、後期の作品になるほど重要人物として描かれている。初期の小説『主婦』の中にさえ、二人のてんかん者と一人の心神喪失者が登場している。

その中でもとりわけてんかんが重要な役割を果たす小説が『白痴』である。主人公のムイシュキン公爵と作家の発作は類似していた。小説の中では次のように描かれている。
「彼のてんかんに近い精神状態には一つの段階がある。(ただし、それは意識のさめているときに発作がおこった場合のことである)それは発作の来るほとんどすぐ前で、憂愁と精神的暗黒と圧迫を破って、ふいに脳髄がぱっと焔でも上げるように活動し、ありとあらゆる生の力が一時にものすごい勢いで緊張する。生の直感や自己意識はほとんど十倍の力を増してくる。が、それはほんの一転瞬の間で、たちまち稲妻のごとく過ぎてしまうのだ。そのあいだ、あらゆる憤激、あらゆる疑惑、あらゆる不安は、諧調にみちた歓喜と希望のあふれる神聖な平穏境に、忽然と溶けこんでしまうかのように思われる。しかし、この瞬間、この後輝は、発作がはじまる最後の一秒(一秒である、けっしてそれより長くはない)の予感にすぎない。この一秒が堪えがたいものであった。・・・・・こうした一刹那の感じは、自己意識の、もしそれを一語で言い表す必要があるならば、自己意識であると同時に、最高の程度における直裁端的な自己直観の、異常な緊張としかいいようがない。」(引用:『白痴』第2編5 米川正夫 訳)
ムイシュキンはラゴージンに語る。
「この一刹那に、ぼくはあのヨハネの黙示禄第10章の“時はもはやなかるべし”という警抜な言葉がなんだかわかってくるような気がしたよ。」続けてソフィア・コヴァレフスカヤに話したのと同じマホメットのたとえを語る。「あのてんかん持ちのマホメットがひっくり返した水瓶から、まだ水の流れ出さぬ先に、すべてのアラーの神の棲家を見つくしたというが、おそらくこれがその瞬間なのだろう。」この数ページ後に、ムイシュキンは彼に向かって振りかざされたラゴージンのナイフを見る。「なにかしらあるものが彼の眼前に展開した。異常な内部の光が彼の魂を照らしたのである。こうした瞬間がおそらく半秒くらいもつづいたろう。けれども、自分の胸の奥からおいのずとほとばしり出た痛ましい悲鳴の最初の響きを、彼は意識的にはっきり覚えている。それはいかなる力をもってしても、とめることいができないような叫びであった。つづいて瞬間に意識は消え、真の暗闇が襲ったのである。」(『白痴』第2編5 米川正夫 訳)

『白痴』には他にもさまざまな発作が描かれているが、ある奇妙な章(第2編5)をあげておこう。この章全体が次のような描写で占められている。トランス状態(etat second)に陥ったムイシュキンはぼんやりと何かを探しながらペテルブルグの通りをあちこち何時間も歩きまわったあげく、最後に、宿の階段でラゴージンと出会った瞬間に発作に襲われる。モスクワで暮らしていた6か月の間に、ムイシュキンは重苦しい不安にかられてしきりに発作の再発の瞬間を恐れるようになっていた。思考がゆがめられてさまざな妄想が生じた。さらに自動症の前駆症状と意識の衰弱がまじりあった。彼は突然に「自分が何か目的を持って歩いているという考えにとりつかれた」やがて、意識が混濁して悲惨な痙攣に至る・・・そして、「彼はデモンに引き渡された」。

他の章に、(ドストエフスキー自身はそれがてんかんに関連するとはしていないが)てんかん性の現象と思われる記述がある。
「この薄暗く息苦しい廊下にいるうちに、奇妙な感じが彼の全幅を領した。その感じは、なにかまとまった懸念に移ろうとして、必死にもがくのであったが、その新しい想念がはたして何であるか、正体をとらえることができなかった。」(『白痴』第4編2 米川正夫 訳)

『白痴』に続いて、偉大な小説『悪霊』が書かれた。ここにもエクスタシー前兆に関連する重要な記述がある。キリーロフが彼の奇妙な思想を語る場面だ。キリーロフは明らかにドストエフスキー文学の魅力と作家の思想を体現した人物の一人である。キリーロフはシャートフに語る。
「ある数秒間がある、それは一度にせいぜい五秒か六秒しかつづかないが、そのときだしぬけに、完全に自分のものとなった永久調和の訪れが実感されるのだよ。これは地上のものじゃない。といって、何も天上のものだと言うのじゃなくて、地上の姿のままの人間には耐え切れないという意味なんだ。肉体的に変化するか、でなければ死んでしまうしかない。これは明晰で、争う余地のない感覚なんだ。ふいに全自然界が実感されて、思わず『しかり、そは正し』と口をついて出てくる。神は、天地の創造にあたって、その創造の一日が終わるごとに、『しかり、そは正し、そは善し』と言った。これは・・・感激というのではなくて、なんというか、おのずからなる喜びなんだね。人は何を赦すこともしない、というのはもう赦すべきものが何もないからだ。人は愛するのでもない、おお、それはもう愛以上だ!何より恐ろしいのは、それがすざまじいばかりに明晰で、すばらしい喜びであることなんだ。もし、五秒以上もつづいたら、魂がもちきれなくて、消滅しなければならないだろう」シャートフが「きみ、てんかんの持病はないのか?」と尋ねるとキリーロフは否定する。シャートフは続けて「じゃ、いまにそうなるよ。気をつけたまえ、キリーロフ、てんかんの初期はそんなふうだと聞いたことがある。ぼくはあるてんかん持ちから発作前の予兆的な感覚をくわしく話してもらったことがあるが、そっくりきみと同じだ。彼もやはり五秒間とはっきり時間を切ってね、それ以上はもちこたえられないと言っていた」(『悪霊』第3部第5章5 江川卓 訳)

『悪霊』の中には、また、ニコライ・スタヴローギンというもっとも謎めいた人物が登場する。彼はあるとき非常に奇妙な行為をした。あるパーティーでのこと、おおぜいの人がいる前で、突然、ガガーノフという尊敬すべき老人の鼻をつまみ、広間の中を2,3歩ひきまわしたのである。
「これは、純然たる子どもじみたいたずらと解することもできたのだが、後に伝えられたところによると、彼はこの荒療治の瞬間にも、それこそ思いに沈んだような顔をしていて『まるで気でも違ったよう』であった。もっとも、これはだいぶ時がたってから、記憶をたよりにあれこれ考えあわせてそう落ち着いたわけで、激昂した一同が最初に記憶に焼き付けたのはそのつぎの瞬間、つまり、たしかにもういっさいのことをありのままに理解していたにちがいないニコライが、当惑の色を見せるどころか、反対に毒々しい楽しげな微笑を浮かべて、『いささかの後悔の色も見せなかった』瞬間のことなのである。恐ろしい騒ぎが持ちあがり、みなが彼を取り囲んだ。ニコライはだれに答えを返すでもなく、大声をあげてわめいている人たちの顔をもの珍しそうに見つめながら、しばらくそのあたりを行きつ戻りつし、あたりを見回していた。そのうち、ふいにまた思いに沈みでもしたように(すくなくともそう伝えられている)眉をひそめると、侮辱を受けたガガーノフ氏のほうへしっかりした足取りで歩み寄り、いかにもいまいましそうな様子で早口にこうつぶやいた。『むろん、許していただけるでしょうね・・・・・どうしてふいにあんな気持になったのか、ほんとに、さっぱりわからないんですよ・・・・・ばかげたことです・・・・・』」(『悪霊』第1部第2章2 江川卓 訳)

スタヴローギンの衝動的な奇行の解釈がどうあれ(実際、多くの解釈が存在する)この場面は、ドストエフスキー自身にてんかん性の精神運動行動の体験があり、それが起こったときのことを思いだして描いていると思われる。

他の小説の中にもあちこちにてんかんに関連がある様々な現象や行動が書き留められている。てんかん者とはされていない人物においても典型的なてんかん性活動の記述がある。おそらくそれらは作家自身の経験が写されていると思われる。例えば、意識を失ったまま動き回る自動症、まるで映画のように鮮明な幻覚が引き起こす精神的混乱、『分身』に見られる夢様状態、「彼は一種の瞑想状態に落ち込み、考えをまとめることができなかった。目の前にいくつもの顔が、ぼんやりと時には鮮明に浮かんだ。また、すっかり忘れていたできごとが、くり返し記憶によみがえってきた。」

1880年9月7日のドストエフスキーの日記には、ヒューリング・ジャクソンによって夢様状態と呼ばれたのと同様の体験が記述されている。「今朝、8時45分に、私の思考は中断し別次元に運ばれた。夢、夢のような状態、夢見心地・・・・・罪の意識」

3. ドストエフスキーの精神に与えたてんかんの影響
ドストエフスキーのてんかんの様々な徴候の中には側頭葉の障害を示唆するものがある。いくつかの発作の後には言語障害が生じていたので、左側頭葉が関係したかもしれない。しかしながら、ドストエフスキーにおいてもっとも注目すべき特徴は、感情発作、とりわけエクスタシー前兆なのである。私たちはよく似た種類の症例のいくつかを観察した。1950年のフランス医学会の発表「精神感情的てんかんの放心状態について」の中で2つの症例報告がなされた。一人は私の患者で、驚くべきことに、自分の体験をドストエフスキーのアウラと同じ表現で説明したのである。「まるで天国にいるようでした。たましいの解放と大きな幸福を感じました。」と彼は語った。EEGは両側頭葉の三相波を示していた。

たとえそれが作家の創造によって変容されたことを考慮に入れても、エクスタシー前兆の重大性については小説の中で十分に説明されている。また、何といっても、ドストエフスキーにあっては、てんかんが、文学と分かち難く結びついた作家の生活や思想に大きな影響を与えたという点が重要である。初期のリアルな小説から後期の深遠で偉大な小説への変貌は驚異的である。『白痴』『悪霊』『カラマーゾフの兄弟』はドストエフスキーが最後の長編として意図していた壮大な小説「大いなる罪人の生涯」のプランが基になっていると言われている。

ドストエフスキーは『白痴』のムイシュキンに自分のてんかんから生じたエクスタシー前兆の意味とそれが精神にもたらした変化について語らせている。
「いったいこの感覚がなにかの病気ならどうしたというのだ?この感覚がアブノーマルな緊張であろうとなんであろうと、すこしもかまうことはない。もし、結果そのものが、感覚のその一刹那が、健全なとき思い出して仔細に点検してみても、いぜんとして志純な諧調であり、美であって、しかも今まで聞くことはおろか、考えることさえなかったような充溢の中庸と和解し、志純な生の調和に合流しえたという、祈祷の心持ちに似た法悦境を与えてくれるならば、病的であろうとアブノーマルであろうと、すこしも問題にならない!」(『白痴』第2編5 米川正夫 訳)
この強烈な歓喜と至福を伴う世界の美と調和の感覚は、奇しくもキーツの晴らしい詩の一節 “美しきものは永遠の喜び・・・” を連想させる。

このような至高の体験は、その人の人間性や考え方を完全に変えてしまうような力を持っている。『作家の日記』の中にある小説『おかしな人間の夢』はそのような体験を描いている。自殺を決心した男の物語である。まさに自殺をしようとしたとき、彼は深い眠りに陥る。そこで見た夢が彼の人生を完全に変えてしまう。ドストエフスキーは主人公に次のように言わせた。「人々は夢に過ぎないと笑うだろう。だが、私にとって真実であればかまうことはないではないか?たとえ、彼らにとってはそうであっても、私は真理を見たのだから」明らかに、おかしな人間の夢とドストエフスキーのアウラは同じである。明かされた真理は論理に勝る。パスカルは「神の存在は頭ではなく心で感じられる」と述べた。

てんかんがドストエフスキーの思想、倫理、哲学に決定的な影響を与えたことは、これまでの引用からも明らかである。彼の後期の小説では善と悪が重要なテーマになっている。その中心には神の問題があった。『悪霊』の中でキリーロフは「神は生涯にわたって私を苦しめた」と言った。ドストエフスキー自身も1854年にN.D.フォンヴィージン夫人への手紙に次のように書いている。
「わたしは世紀の子です。今日まで、いや、それどころか、棺を蔽(おお)われる まで、不信と懐疑の子です・・・・・とはいえ、神様は時として、完全に平安な瞬間を授けてくださいます。そういう時、わたしは自分でも愛しますし、人にも愛されているのを発見します。つまり、そういう時、わたしは自分の内部に信仰のシンボルを築き上げるのですが、そこではいっさいのものがわたしにとって明瞭かつ神聖なのです」(書簡:米川正夫 訳)

それから20年後、彼は友人のマイコフへの手紙に書いた。「意識的にしろ無意識的にしろ、私が小説の多くの部分で扱った主要なテーマは、私が生涯を通して苦しんだ神の問題でした。」

また別のあまり知られていない『ペテルブルグの夢 詩と散文』(1861)という風変りな小品の中に、真冬のある日、ドストエフスキーにおとずれたある種の啓示が記されている。
「とつぜん、何かしらふしぎな思想が、わたしの心の中にうごめきはじめた。わたしはピクリとした。その瞬間、わたしの心は、泉のごとくほとばしる血にまみれたような気がした。それは不意に煮えたぎった、力づよい、しかもそれまで知らなかった感触のなすわざなのである。わたしはその瞬間、今まで心の中にうごめいていたばかりで、まだ意味のつかめなかったあるものを悟った。それはさながら何か新しいあるもの、ぜんぜん新しい未知の世界を洞観したかのようであった。その世界はただ何かぼんやりしたうわさによって、なにか神秘的なしるしによって、かすかに知っていたものである。ほかならぬその時以来、わたしの存在が始まったものと考える・・・・・」(『ペテルブルグの夢 ─ 詩と散文 ─』米川正夫 訳)
このネヴァ川の夢がてんかん性の現象であるという証明はできないにしても、未知の世界からの啓示に近いなにかであったと思われる。この風変りな光景は一分間ほど現れて、太古の神秘的な記憶を呼び覚ました。

てんかんがドストエフスキーの天才にとって必須の要素であったと考えるのは単純すぎるであろう。しかし、てんかんが作家の独創的なビジョンの表現に寄与した特別な体験であったことは確かである。実際、てんかんはドストエフスキー自身の中に“分身”を創造させた。(『分身』という小説がある)実際家と空想家、彼らはそれぞれに本領を発揮したが、次第に空想家が優勢になった。これで連想するのはアンドレ・ジイドとの比較である。ジイドの場合は逆で、神秘主義から理性主義に変わった。ジャン・ドレイによれば、人生の終わりにジイドは「理性とそうでないものの間には常に苦闘がある」と語った。

ここではドストエフスキーが経験したてんかん性のエクスタシー前兆の徴候と偉大な神秘家(聖テレサや十字架のヨハネなど)の法悦との関連は議論しない。私自身は、この二つは精神生理学的には異なるデータだが、神経学的には似通った状態ではないかと考えている。別の機会に双方のエクスタシーの中から類似するファクトのみを集めて評価したいと思っている。例えば、理由もなく突然起こる別世界の啓示、なにかの証によって明かされた真理、信仰の神秘によって完全に満たされた心、などについて。

最後に再び、ドストエフスキーのてんかんが彼の文学のみならず、人生や世界への態度、倫理と哲学へ大きな影響を与えたという私の見解に賛同していただきたいと願う。ドストエフスキーは同時代のロシアの作家たちの中にあっても、独自のひときわ高い位置を占めていると私は考えている。パスカルはかって『病の善用を神に求める祈り』を語った。ドストエフスキーもまたてんかんを善用したといえるであろう。