ドストエフスキーとてんかん/病い

<抜粋>

ロシアとヨーロッパ ロシアにおける精神潮流の研究 V

T・G・マサリク/石川達夫・長與進訳 成文社 2005.08 

トマーシュ・ガリッグ・マサリク(1850-1937)はチェコの社会学者・哲学者・政治家で、チェコスロヴァキア共和国の初代大統領(在任:1918-1935)


第3部 第2編 神を巡る闘い
――ロシア問題の歴史哲学者としてのドストエフスキー


第9章 殺人と自殺

1.


我々は、ニヒリズム的無神論の最も重要な論理的帰結に近づく。即ち、カラマーゾフ主義によって一定期間支えられるのでなければ、無神論者は自殺するか、あるいは誰か他人を殺してしまうが、しかし結局はやはり、「生きるべきか、死ぬべきか」という最後の問題に行き着くのである。無神論の論理が、容赦のない徹底性をもって勝利する。

最初に、我々にとって明らかでなければならないのは、無神論の「論理的」帰結と、個々のケースにおけるこの帰結の心理学的動機づけとの間の相違である。もちろん、無神論の論理的帰結は、無神論をどのように理解するかによって、判断される必要があるだろう。そして我々は、自殺というものを、倫理的・宗教的にだけでなく、また人生の最後の問題──「死とは、生とは何であり、何を意味するか」−として、形而上学的にも判断するだろう。いわゆる不自然な死とは、何を意味するか? 殺人―─自殺は、何を意味するか?この問いへの解答は、我々が殺人──自殺を、心理学的にいかに理解するかにかかっている。そして我々は、個々の行為を、心理学的にだけでなく社会学的・歴史的にも、つまり既存の社会的・歴史的事実として判断し評価するだろう。

こうした方法論上の保護措置は、詩人の分析においては愉快なものではないので、それらを更に拡大することはやめて、この側面からそれだけ一層鋭く、議論の方法に注意しなければならない。

偉大な反ニヒリスト(ドストエフスキー)の基本思想と論拠の方法を、基本的指導理念を、私は彼の作品群の中から、形而上学的骨格として摘出した。しかしこの骨格は、生きて行動する人々の肉と骨を支え担っており、基本思想は、個々の登場人物と彼らの生活状況の社会的充溢の中で、心理学的・歴史的に現れていて、論理的に現れるわけではない。ドストエフスキーも自作においては、論理的三段論法ではなくて、行動する人々を描き出している。理念は全体から抽象化しなければならないし、そうすることができる。このことはもちろん、あらゆる詩人について当てはまる。ドストエフスキーの場合にそれが容易なのは、自作の長編小説において、理念についても抽象的に論じているからで、それ以外にも『作家の日記』の中に注釈がある。

ドストエフスキーは、自らの主要テーマを、多種多様な方法によって変える。その通り、ドストエフスキーにはシベリア以後のすべての長編小説において、ただ一つのテーマがあるだけだが、それでもそれが同一ではないのは、状況、人物、および彼らの理念と目的が変わるからである。ドストエフスキーは、社会的で社会学的な詩人であり、ロシアの社会生活を歴史哲学の観点から観察して、自分の時代の意味と意義、特に、ピョートル〔大帝〕から現代に至るまでの、大きな歴史運動としてのニヒリズムの意味と意義を理解したいと望む。ドストエフスキーは信仰と不信仰との闘いを、壮大な規模で描こうと努め、人々の生活の中で、人々の中で、具体的には個々のケースと個々の時点において、論理的に見通しのきかない多種多様な行為の中で、偉大な思想がいかに粉々に砕け散るかを示している。ドストエフスキーは人類の生活、特にロシアの生活を、一定の歴史哲学的カテゴリーや理念に変換したが、しかし、この生活の描写が提示するのは、「純粋な」理念ではなくて、個々人と大衆の心理学的形象、あるいは精神病理学的形象である。心理学的・歴史的現象における論理の探究は、ドストエフスキーの芸術を際立たせるが、しかし、それが非常に重苦しくて深刻であるという印象も与える。

ドストエフスキーは『作家の日記』(1876年)に掲載された評論『宣告』の中で、「論理的自殺」を唯物論的無神論の理念から導き出し、それが常に論理的に実行されるものではないことを、明らかに意識している。ドストエフスキーはそもそも、社会史的理念の性格についての説明を、まさに「論理的自殺」との関連性において提示しようと試みる。1876年の『作家の日記』には、『宣告』への若干の補遺がある。ドストエフスキーが諸問題について熟考する方法と、それを公式化する方法については、短編小説『やさしい女』が非常に教訓的だが、この小説は同じ時期に執筆されて、『作家の日記』(1876年)の11月号に掲載された。自殺した女性の夫は、行為の直後に妻の自殺の意味を見出そうとして、思考を一点に集中し、不幸な行為を解明しようと試みる。ドストエフスキーは、論理的にも感情の点でも矛盾がある思想の速記録を提供すると、述べている。彼は、この小説を形式面では「空想的」と名付けるが、しかし、事実面では最高度に「リアル」だと言う。ここでの「空想的」という言葉は、ドストエフスキーの場合、ストーリーの心理学的側面のための表現で、その「意味」や「説明」──理念──が探究されるのである。

心理学的・理論的側面のこの対立を、ドストエフスキーはすべての自作の中で念頭に置く。例えば『カラマーゾフの兄弟』においては、ニヒリズム運動の「空想的」側面を特徴づけるようにという、検事〔の主張〕を用いる。非常にしばしば、全く軽率で、まさに非合理的で理解しがたい殺人と自殺が行われる(これらには、ハムレット的な問いかけが全く欠如している)。だが、彼はロシアの状況を、道徳的基盤がいかに根本まで損なわれているかを記述し、そこから個々の非合理な(「空想的」)行為を導き出す。検事は心理的側面において、全くドストエフスキーの意味において行動する。恐らく個々のニヒリストと無神論者は、自分の目標理念を、多かれ少なかれ曖昧で不徹底にしか理解しないか、あるいはそれを理解することも熟考することも全くできず、恐らく自分が行動する際には、他人に指導してもらうか、他人の行動を模倣して、説明もできないまま運動に奉仕するのだろう。─―だが、大衆的形態におけるニヒリズム理念、歴史的プロセスとしてのニヒリズム理念は、そのようなものなのである。もちろん、ドストエフスキーが、理念自体を正しく鮮明に理解したかどうかを、調べる必要はあるだろう。──いや、そもそももう調べる必要などない。なぜなら、我々が既に見たように、ドストエフスキーの公式は不正確なものだからである。

2.

今度は、ドストエフスキーの自殺と殺人の理念を、後で理念自体について最終的判断を下せるように、心理学的側面からより詳細に説明するように試みよう。

何よりも、ドストエフスキーが最初に、遥かに詳細に殺人を分析している事実を確認するが、この事実は以下で見るように、非常に重要である。自殺は、いかなる独立した長編小説のテーマにもならず、短編小説『やさしい女』が取り上げているだけだが、この小説は『作家の日記』の『宣告』という評論の中で、三段論法の形で提出されたように、理念の絵解きとして理解される。彼は殺人を、最初の反ニヒリズム的長編小説『罪と罰』において検討する。このテーマについては後年、より簡潔に、『悪霊』と『白痴』と『カラマーゾフの兄弟』の中で扱われる。『悪霊』では二種類の自殺(キリーロフ、スタブローギン)が描かれ、長編小説『未成年』ではクラフトの自殺が『カラマーゾフの兄弟』では殺人者スメルジャコフの自殺が記述された。ドストエフスキーの概念が特異なのは、殺人と自殺を、哲学的・論理的な殺人と自殺として理解する点にある。例えばゾラは殺人を、隔世遺伝か遺伝的野蛮さであるかのように、本能と気質に帰すが、ドストエフスキーは両方の行為の中に、世界観と人生概念の現れを見る。同時にドストエフスキーは、ゾラに譲歩して、個々の行為を、非論理的・非哲学的で「空想的」なモチーフの共同作用によっても条件づける。『悪霊』のある個所では(キリーロフ)、「理由のある」自殺と、「いかなる理由もない」、単に「自らの意志による」自殺との間の相違が記述される。ドストエフスキーは更に論を進めて、論理的理念も「空想的」に実現されることを示す。決定的行為は全く機械的に、大きな憤激のうちに、強い意志を欠いたまま行われる。理念を理解するのは容易だが、しかし行為を行うことは難しい。──自分の内部における葛藤は、犯人をほとんど病的状態に追い込み、この状態の中で、行為は全く機械的に、実行する際の熟考もなく行われる。

キリーロフとピョートル・ステパーノヴィチ〔ヴェルホヴェーンスキー〕の会話の中で、キリーロフが理念を「飲み込んだ」のではなくて、理念が彼を「飲み込んだ」と語られている。こうした自然主義的な表現方法によって、強迫観念の心理学的事実が仄めかされる。キリーロフだけでなく、ラスコーリニコフやイワンも、そもそも理念のすべての担い手が、「飲み込まれた者」として描かれる。ラスコーリニコフがどのような心理状態において、自らの理念を行為に移すか、ちょっと見てみよう! 彼は何も見ず何も聞かず、自分が選んだ犠牲者を殺すだけでなく、偶然に居合わせた彼女の妹にも襲いかかるのだが、入念にプランを練り上げたにもかかわらず、ドアを開けたままで犯行に及ぶ。

こうして我々は、『カラマーゾフの兄弟』において、いくつの手段によって老カラマーゾフの殺害が準備されるのかを──つまり意識的で考えて望んでいる殺人犯において、殺害が準備されるのを、研究することができる。特にこの場合、理念は意識的・無意識的に暗示される。

殺人(と自殺)の苛立たしい影響を、ドストエフスキーは大衆的気分としても描く。『悪霊』においてはシヤートフの殺害の後、ほとんど上流社会全体がヒステリックな発作に陥る。そして行為への準備が、秘密結社のメンバーたちを死の恐怖によって非常に興奮させたので、誰も決定的行為に敢えて踏み切れなかった。殺害部隊の指導者ヴェルホヴェーンスキーは、自分が立てたプランが実行されるべきであるなら、自ら関与しなければならない。しかしヴェルホヴェーンスキーは、ラスコーリニコフとは全く性格が異なる。──彼には、冷たい理性的悪意が認められる。冷静に熟考するヴェルホヴェーンスキーも、もちろん固定観念の力に従う。場合によっては、「従順さの狂信者」という表現が(将校のエルケリについて)用いられるが、それはこうして固定観念の作用を示すためである。

似たようなヒステリックな発作は、短編小説『やさしい女』にも認められる。(『悪霊』の中でも)意味もなく叫ぶ集団の一つが、特に注目される。『白痴』における殺人は、性愛と憎しみと残酷さとの間の病理学的類似性から導き出される。ロゴージンも理念に「飲み込まれた」が、しかし彼の殺人は、ラスコーリニコフの殺人とは全く違った風に、心理学的に動機づけられる。

ドストエフスキーにおける殺人の心理学の手短な分析は、これで終わりにするが、細かく見れば、他にも多くのことを指摘する必要があるだろう。更に、ここでも効力を持つ、ドストエフスキーの主意主義にだけは、注意を促しておきたい。信仰と不信仰が我々の意志に反して、しかし最も秘められた願望との関連において生じるように、殺人と自殺への決断は、人格の最も本質的な側面の表明として説明される。強迫観念とは、運命的な性格的傾向の理性的名称にすぎない。『悪霊』で殺人は、直接に「私の自由意志の最も低い現れ」とされるが、自殺の方は「最高の現れ」とされる。つまり、こう言うのは自殺者キリーロフである。それに対して、殺人者ヴェルホヴェーンスキーは、自らの自由意志を示すために、自分自身ではなくて誰か他人を殺すと言う。

ラスコーリニコフとすべての殺人者たちの心理状態の描写は、見事である。とはいえ我々は、心理学的説明に完全に同意することはできないだろう。私には、強迫観念があまりに強迫的であるように思える。犯人だちと彼らの周囲の人々の興奮も誇張され、ドストエフスキーにおいて、かくも運命的な役割を演じる潜在意識について、私はそもそも疑念を抱いている。

それ故に私は、ドストエフスキーにおける殺人と自殺の理念にも賛成できない。個々の行為を、より厳密に心理学的側面から順番に検討してみると、ドストエフスキーが自分の固定観念を、自らの主人公たちの固定観念の上に基礎づけなかったことが確信できる。

ドストエフスキーの公式は、批判に耐えうるものではない。最初のニヒリストであるラスコーリニコフを例に取ってみよう。ラスコーリニコフは、社会主義者、バザーロフ的な意昧でのニヒリスト、哲学的無神論者だろうか? ナポレオンの多数の人命の犠牲を、「シラミ」一匹の殺害から、純粋に心理学的に区別できない者が、一体どんな哲学者だというのか? ラスコーリニコフの行為のどこに、超人性があるのか? ソーニャとのある会話の中で、ラスコーリニコフはこう白状する。「・・・・・僕は独善的で、羨ましがりやで、悪人で、忌まわしくて、復讐心が強くて、そう・・・・・それに恐らく狂気への傾きがある」。その先の自己分析においてラスコーリニコフは、大学では勉強せずに、自活できなかったが、一方で他の者たちは、似たような状況で勉強し自活したと認めるのである・・・・・。何日間も自分の呪わしい穴の中で、クモのように過ごした。─―「僕は勉強したくなかったし、食べることさえしたくなくて、ずっと横になっていた」。

これが無神論者の特徴だろうか? 哲学的無神論者の? かりにラスコーリニコフが無神論者だったとしても、確かにニヒリストではなかった。例えばカラコーゾフ(ドストエフスキーは自分の長編小説が出版された1866年に、この実例を目の当たりにした)は、無力な老女を殺して強奪することを望まなかった。あらゆる行為は動機によって倫理的に判断されるが、広く受け入れられている区別によれば、ラスコーリニコフは、政治犯ではなくて刑事犯である。

つまり、ドストエフスキーの理念と公式は、非常に漠然としていて曖昧である。例えば『カラマーゾフの兄弟』では、ゾシマが「理念」を経済状況と結びつけている。豊かな者は孤立して、精神的自殺に身を委ね、貧しい者は嫉妬に苛まれて殺す、というのである。つまり、唯物論などの帰結としての、「理念」の帰結としての殺人・自殺でもあるわけだが、しかし、貧しい者の殺人は現実の野蛮な殺人で、豊かな者は「精神的に」自らを殺すのである!―─「精神的な」自殺は物理的な自殺よりも常に悪いことを証明するような論拠を、ドストエフスキーが自己流で、非常に手軽に集めたのだと言っても、私か彼を不当に評価したことにはならないだろう・・・・・。

「大審問官」において、理念は心理学的領域に次のように持ち込まれる。即ち、頑固で強情な者たち(「(ネポコールヌィエ・イ・)スヴィレープィエ」は、我と我が身を滅ぼし、頑固で弱い者たちは、互いに相手を滅ぼし合おうとし、力弱くて不幸な者たちは、十字架にいざり寄る。飾られた言葉の後ろに潜むこの心理を、より詳細に検討すれば、それが理念自体と同じように、不十分であることが分かるだろう。指導的理念が曖昧なものだったら、上手に導けず、個々の出来事の歴史哲学的解釈にも、巧く当てはまらないのである。

3.

〔ドストエフスキーの〕自殺の分析も、心理学的・哲学的に見て誤っている。『宣告』の三段論法はかなり厳密に保たれているとはいえ、しかしこの「宣告」が客観的に正しいかどうかは疑問である。

ドストエフスキーの作品において最も重要な自殺を、手早く想起してみよう。

まず初めに短編小説『やさしい女』の女性がいるが、それはこの作品が直接に、『宣告』の絵解きとして捉えられたからである。よくある話である。四十歳の男が、十六歳の娘と結婚した。彼は彼女をほとんど知らないのだが──彼女は困窮して、彼のところで自分の最後の財産を質に入れたのである──しかし彼は彼女が気に入って、五十歳の商人が彼女を三番目の妻として娶りたいと願い、叔母たちが孤児の彼女を売りたいと望んでいることを知ったとき、彼は彼女に求婚し、娘は一生懸命に考えた末に、求婚を受け入れる。最初のうち二人は幸せそうに見える。──だが突然、やさしい女は強情になって、彼を尊敬していないことを示す。将校だった彼が退役する羽目になったのは、臆病なために決闘の申し込みを受諾しなかったからだと聞いて、面と向かって彼を責める・・・・・。彼は自分の行動を、ゾシマの美しい民主主義的労働プログラムによって弁解しようと試みて、自尊心を強調する。──夫婦生活は終わってしまい、夫は店の仕事に没頭するが、しかし冒険的な方法によって強情な妻の貞節を確信し、自分が臆病者ではないという更に冒険的な証拠を、彼女に提出すると、妻は重い神経の発作を経験する(やさしい女は、眠ったふりをしていた夫を拳銃で撃とうとした。夫は、妻が自分の方に近づいてきて、眠りの中で冷たい殺人の武器を感じた瞬間に、目を開けるが、しかしすぐさま目を閉じて、目を開けたけれども眠っていると彼女に確信させるが、妻は行為を断念する)。後に彼は、再び夫として彼女の愛を求め始めるが、しかし妻は、元の感情は戻ってこないと思う・・・・・。彼は、妻を外国の海辺に連れていこうとして、旅券を取ってくるが、しかし五分遅れてしまい、妻はその間に、かって彼のところに質入れした聖母像を胸に抱きしめて、窓から身投げしてしまった。

この短編小説はどちらかと言うとモノローグで、無名の元将校で今は質屋の主人の、思考の流れにすぎない。〔妻の〕遺骸は隣りの部屋のテーブルの上に横たわり、夫は行ったり来たりしながら、この行為を解明して、自分と彼女の罪を熟考するために、すべての出来事、事の次第を思い返す。説明にもかかわらず、二人のうちのどちらが、より大きな罪を負っているのか、そもそも誰に罪があるのか、我々は疑ってもかまわないし、ドストエフスキーは全く自己流に、読者の判断に委ねている。「今の私に、諸君の法律が何だというのだ? 諸君の習慣、諸君の風俗、諸君の生活、諸君の国家、諸君の信仰が何になるというのか?・・・・・。地上の人間たちは孤独なのだ。──これが不幸なのだ!・・・・・。いるのは人間だけだ。そのまわりには沈黙がある。──これが地球というものだ! 『人よ、たがいに愛せ』―誰がこう言ったのだ?これは誰の遺訓なのか?」。

「無神論はどこにあるか?」というドストエフスキーの公式を想起してみよう。「やさしい女」は神を信じていて、最後の瞬間にもまだ、両親の形見である聖母像に支えを求めている。彼女が結婚式を、古い儀礼に則って祝ってもらったのに対して、夫は儀式をa l'anglaise(イギリス式に)、二人の立会人だけの前で行ないたいと望んだという事情は、彼女がロシアの神を信じていたことを物語る。つまり、どちらかが無神論的だったとしたら、それはむしろ夫の方である。それに対して、夫自身が、ミルとその女性の理想に反論している事実を挙げることができるだろうが、しかし他方で結論として、人々は互いに愛していないという説明がなされる。──これは無神論だろうか? 人々は愛し合っていない。──それでもここで問題なのは、隣人愛ではなくて夫婦愛であり、夫婦間の関係なのだが、その関係が誤っている。そこに決定的原因があるのだ! 彼女は商人から逃れるために、彼を夫に選ぶ。恐らく彼を好きになりたかったのだが、しかしそうすることができず、そして──有神論、それもロシアの有神論にもかかわらず──最初に殺人を試みて、それから良心が罪悪感によってかくも締めつけられると、信者のままで──自殺を試みる。それとも、彼自身が妻を、殺人と自殺に追いやったのであり、本来の殺人者は夫だと言うべきだろうか? それに対しては、彼が殺人など考えてもいなかったと述べる必要がある。それどころか、彼には自分の「計画」があって、それは三年間で三万ルーブルを稼いで、その後は南方のクリミアの海辺の家で、妻や子供だちと暮らすことである。全体としてここに見られるのは、人々にとって地獄になる「偶然
の」夫婦関係(既にここで、この言葉が用いられている)の一つである・・・・・。

『悪霊』で「論理的」自殺を遂げるのは、キリーロフである。しかし、この「論理的」自殺を遂げるのは精神病質者であり、行為が彼に暗示され、直接に命令されていることにも、注目する必要がある。

最初に、批判的コメントを差し挟まずに、キリーロフの自殺の哲学を提示してみよう。

キリーロフは、理由のある自殺と理由のない自殺を区別する。前者のカテゴリーに加えるのは、大きな悲哀や怒りからの自殺、また精神病による自殺であり、熟考することなく突然に行われたすべてのケースである。我々はそれらすべてを、苦悩という唯一の原因に帰することができる。

熟考した末に、考え抜いたあげくに行われる自殺──これは「論理的」で哲学的な自殺である。

人生は、苦悩や不安以外の何物でもない。人間は不幸だが、しかし人生を愛し、それ故に苦悩と不安と恐怖を愛し、死を恐れる。

「新しい人間」は恐れを知らず、誇り高くて幸せだろう。神は存在しないが、それは神が、死に対する恐怖からくる苦悩以外の何物でもないからである。歴史は二つの時期に分けられる。ゴリラから神の破壊までの時期と、神の破壊から、大地と人間の物理的変化までの時期、つまり人間が神になり、人間とその思考および感情が変化する時期である。

神になるのは、自分自身を殺す勇気を持つ者で、なぜならその者は自殺によって、完全な自由意志、自らの意志を発揮するからである。この自発的自殺は、原因のない自殺である。

「僕は生涯、神に苛まれてきた」とキリーロフは述べる。「人間がしてきたことといえば、自分を殺さずに生きていけるように、神を考え出すことに尽きた。・・・・・僕は、神を考え出そうとしなかった、世界史上最初で唯一の人間だ」。

最後にキリーロフは、自らの意志に反してのみ、自分が神であると認めるが、なぜならさしあたってはまだ、自殺によって自らの意志を表明する必要があり、他の者に道を指し示すために、誰かが始めなければならないからである。「僕はおそろしく不幸だ、なぜなら、おそろしく恐れているから」。人間がツァーリであることを意識して、自殺しなくなった時にやっと、人間は輝かしく名誉の中で生きることだろう。

この自殺の哲学は論理に対応するが、しかし私に言わせれば、純粋すぎる論理であり、自殺は全く何の理由もなく、最も本来的な意志の決断として行われることになる。ここにあるのは全く明らかに、ダーウィン主義に向けられた、またダーウィンの進化論から徹底して導き出される超人に向けられた、カリカチュアである。キリーロフ自身がそもそも無神論者ではなく、逆にキリストを信じていて、キリストを名指しにはしていないが、しかし「彼」について最大限の尊敬を込めて語っている。「全地球が、その上の一切を含めて、この人なしには、狂気そのものでしかないほどだった。後にも先にも、これはどの人物はついに現れなかったし、奇蹟とも言えるほどだった。このような人がそれまでにも現れなかったし、今後も現れないだろうという点が、奇蹟だったのだ。ところで、もしそうなら、つまり自然の法則がこの人にさえ憐れみをかけず、自身の生み出した奇蹟をさえ慈しむことなく、この人をも虚偽のうちに生き、虚偽のうちに死なしめたとするなら、当然、全地球が虚偽であって、虚偽の上に、愚かな嘲笑の上にこそ成り立っているということになる。つまりは、この地球の法則そのものが虚偽であり、悪魔の茶番劇だということになる」。一切の虚偽の根源は、旧き神の存在にある(とヴェルホヴェーンスキーは考える)。

『悪霊』では、作品の主人公であるスタヴローギンも自殺する。彼がその直前に、自殺しないとはっきり書いた事実を、こう説明できるとすれば、突然の発作の中で自殺を遂げるのである。──もちろんこの〔自殺しないという〕約束は、彼が既に自殺を考えていたことを証明する。

皮肉なカリカチュア抜きの「論理的」自殺は、長編小説『未成年』の中に見出される。ここではニヒリストのクラフトが、全くリアリズム的で実証主義的に自殺する。骨相学、頭骨学、生理学、更には数学が、ロシア人は人種的に劣等で、それ故により高等な人種に材料として奉仕することしかできないと彼に確信させたので、彼は、ロシア人の今後のあらゆる活動は無駄なもので、全員が両手を下ろさなければならないという結論に達した。しかし彼は更に進んで、そんなロシア人としての生活は、生き長らえるに値しないという最終的判断と結論に至る。クラフトは拳銃で自殺し、残された一束のメモが、彼の行為の説明を提示する。

更にもう一つの自殺を想起する必要がある。―『カラマーゾフの兄弟』のスメルジャコフの自殺である。召使いのスメルジャコフは老カラマーゾフを殺害した。その後で犯人が捜索されると、自分も自殺する。スメルジャコフも精神病質者で、キリーロフと同じように癩痛を病んでいる。

つまり、結論として言えるのはこうである。ドストエフスキーには実に多種多様な自殺が見出されるが、それらは非常に様々な動機によって説明される。ドストエフスキーは、ロマン主義故の自殺、エクスタシーの発作の中での自殺、羞恥からの自殺などについて語る。例えば、カテリーナ・イワーノヴナを放免する瞬間の、ミーチャの高ぶった気分が描かれるが、彼はあやうくサーベルで、自分を突き刺すところだった。ドストエフスキーは、拳銃を携帯する習慣のことも忘れていない。多くの自殺と殺人が為されたのは、拳銃が既に手中に握られていたからである。──これは高い所に立つ者が、深淵に身を投げたいという欲求を感じるのに似ている。

全く「論理的」な自殺を遂げるのは、そもそもクラフトだけである。

無神論的自殺は、熟考された自殺、超人の自殺であり、誇りがその指導的動機になっていて、人間が自分は神だと思い込んでいる。これは、ゾシマ神父が名付けているように「悪魔的驕慢」であり、彼はその先で、神によって創造された天使たちの中で、どうしてこんな驕慢が生まれて成長できたかを、説明することができない。それ故に、大審間宮もサタンを、「恐ろしくて抜け目のない霊、自己破壊と虚無の霊」と名付けている。

つまり、死ではなくて、自殺が生の本来の対立物として現れ、悪魔は生の神との対立において、非・生の神として現れる。