Medical Dostoevsky&My Dostoevsky
江古田文学 62号(2006年夏)日本大学芸術学部 


医師チェーホフと患者チェーホフ

下原 康子


はじめに

生老病死を実感することにおいて医師ほど有利な職業はない。医師に物書きが多いのもうなずける。その中でも森鴎外とチェーホフは、生涯にわたって医学と文学の2足のわらじを履き続けながら後世に残る作品を世に贈った。「医学は正妻で文学は愛人」と言ったチェーホフと墓に「森林太郎」としか刻ませなかった森鴎外には一脈通じるところがある。現在、われわれはチェーホフの愛人(文学)についてはその全貌を知ることができるし、彼女について書かれた多くの研究書や批評を読むことができる。しかしながら、正妻(医学)についてはあまり顧られることがない。私はこの寡黙な正妻に関心があった。しかし、チェーホフ自身彼女について多くを語っていない。医学的業績と言えるもので残っているのは『サハリン島』のみである。業績はともかく、医師チェーホフがどこでどのように働き、患者にどのように接したかを知りたいと思った。

モームは医学研修中の体験を結晶させた処女作『ランベスのライザ』が成功したとたんに医学を捨てた。(後年、素晴らしい人生経験の供給所を自ら閉ざしたことを後悔している)一方、チェーホフの場合はロシア学士院名誉会員に選出され、トルストイと並び称せられる作家になった後でも正妻(医学)を捨てることはなかった。チェーホフにとって正妻(医学)とはどのような存在であったのだろうか。

さらにもう一つ、興味を惹くテーマがある。それは患者としてのチェーホフ、である。1884年、医師としてスタートした、まさにその年に死因となった結核の初発症状である喀血が彼を襲った。チェーホフにおいては医師としてのキャリアと患者としての病歴がぴったりと重なるのである。しかしながら、患者チェーホフは重篤な容態になるまで自らの病の診断を回避し、家族や身近な人にさえそのことを隠し続けた。

日大芸術学部の清水正教授からチェーホフについて書くようにと声をかけていただいたとき、すぐに浮かんだのが「医師チェーホフ、患者チェーホフ」であった。しかし一般読者がすぐに書けるようなテーマではない。困り果てていたところ、このテーマをみごとに実現している本にめぐりあった。次の一冊である。


 
   

仲間秀典『チェーホフの肖像 −医師として、患者として、作家として』
(松本大学出版会 2005年11月発行)


著者紹介

1954年沖縄生まれ。信州大学医学部卒業。信州大学助教授を経て、松本大学教授。専門は公衆衛生学。著書に『21世紀の地域医療』『健康の政策科学』『沖縄の歴史と医療史』。文学的著作として『開高健の憂鬱』(第7回コスモス文学出版文化賞)『封印』(第1回銀華文学奨励賞)



仲間秀典『チェーホフの肖像』について

本書は横組みで123頁。はしがきもあとがきもない。学術書のようなつくりである。内容はチェーホフ年譜を膨らますかたちで、主として、チェーホフの書簡や死後に書かれた「回想記」などから、チェーホフの生活を丹念に追っている。自らも医師である著者はチェーホフが農民たちの診療に生真面目に取り組む一方で、医療という狭い範疇に留まらず社会福祉の領域まで視野を広げることができた医師であったこと、そして実際に数多くの精力的な働きをしたこと高く評価している。

しかしながら、患者チェーホフに対しては「自らの病に対しては気弱で消極的な態度ばかりが目立つ。彼は患者としては臆病であった」と手厳しい。とはいえ「そのような逃避的振る舞いは、医師であったがゆえに誰よりも自己の末路を明瞭に意識していた結果かもしれない」と患者としての心理を思いやっている。

最後に、「チェーホフが医学を修め、多くの患者に接した事実は、単に作品の材料になったに留まらず、人間の本性や生の実相への根源的理解に対する豊饒な滋養剤となった」と結んでいる。本書で、チェーホフの2足のわらじの生涯が家族と自らの病という重い荷物を背負いながらの苦悩に満ちたものであったことを知った。チェーホフの実像に近づけたように気がする。


以下は本書から、医師チェーホフの活動と患者チェーホフの病歴を抜粋し、年譜のかたちで編集しなおしたものである。



医師チェーホフの活動と患者チェーホフの病歴
患者チェーホフの病歴は茶で表示) 
(仲間秀典『チェーホフの肖像』より抜粋・編集)



1875(15歳)

突然の腹痛で腹膜炎の疑いで診察を受けた際、学校医の手厚い介抱とその人柄に感銘を受けたことが、医師になるきっかけとも言われている。

1876(16歳)

父が破産し一家はモスクワに移る。アントンのみ中学卒業までタガンローグにとどまり、家庭教師をして自活しながら医学を目指す。

1879(19歳)

奨学金を得てモスクワ大学医学部へ入学。ユーモア週刊誌に寄稿を開始する

1882(22歳)

ペテルブルグのユーモア週刊誌「断片」の発行者レイキンと知り合う。その後5年間に約300篇の短編・スケッチを「断片」に寄稿。

1883(23歳)

『種の起源』に影響を受けて「性の権威史」と題する学術論文を構想するが、膨大な医学習得に時間をとられ実現せず。「僕は誠心誠意医学を勉強します。医学こそが希望です」(1883年5月13日)

1884(24歳)

モスクワ大学医学部を卒業。学生時代に臨床実習を行ったことがあるヴァスクレセンスク村のチキノ郡立病院に勤務。毎日30〜40人の患者を診察し、充実した新人医師としての生活を送る。患者の多くは衛生観念の乏しい農民だったため、衛生知識への普及にも努めた。検死も経験し後日『死体』にその体験を描いた。また、経験不足に伴う誤診の問題に悩んだ体験が後の『ワーニャ伯父さん』『三人姉妹』に登場する医師から語られている。

9月モスクワに戻り、郡立病院の勤務医から都会の開業医に転身。患者に親切な医師として評判はうなぎ登りで開業医生活は軌道に乗ったが、家族全員を経済的に支えるにはまだ足りなかった。

12月7日、突然の咳と共に喀血。肺結核の初期症状であった。しかしながらそれから13年後の1897年まで結核の診断を回避し続ける。「肺結核ではありせん・・・喀血の原因は、どうやら血管の破裂のように思われます」(1884年12月10日)

1885(25歳)

夏の間をバーブキノ村のキセリョーフの別荘で暮らす。隣村で精神の病で療養していた友人の画家レヴィタンを診察・治療する。休暇目的の田園生活だったが、医師が逗留していることを聞きつけた農民たちが押し寄せた。チェーホフは断るどころかその多くを無料で診療した。「この夏の間、何百人もの患者を診察したのに、僕が稼いだのはせいぜい1ルーブルです。(書簡・1885年9月14日)

モスクワにチフスが大流行して患者が溢れていた時、チフス対策要員として睡眠時間も取れないほど診療に明け暮れた。

9月下旬、少量の喀血。より空気の新鮮な静かな環境を求めてモスクワ河対岸の辺鄙な土地に転居。とはいえ体調は良好で診療や創作に支障をきたすことはなく、矢継ぎ早に作品を生み出している。はじめてペテルブルグへ行き首都の文壇の大歓迎を受けて自分の人気を知る。保守派の大新聞「新時代」の社長スヴォーリンと知り合い寄稿を始める。

1886(26歳)

作品を本名で発表するようにというスヴォーリンへの返答。「家族の姓と家紋を持ちつつ、僕は医学を学んだことですし、墓場に横たわるまで医学を捨てるつもりはありません。その点、文学からは遅かれ早かれ遠ざかるを得ないでしょう。医学は真面目なものですし、文学は遊びの要素があって、それぞれ別のものなのです」(書簡・1886年2月14日)

臨床の経験を材料にした次の作品が生まれた。『村の医者』 (1882)、『誇大妄想狂の症例』(1883)、『新聞・雑誌の読者の考え』(1884)、『外科』(1884)、『精神病者たち』(1885)、『ドクトル』(1887)『チフス』(1887)

パリ大学生理学教授クロード・ベルナール『実験医学序説』(1865)を熟読。ここで述べられている「人間は物事の本質を理解することは永遠にない」「どのような学説も多少豊富な事実によって実証された仮説に他ならない」「事実はもっとも美しい学説よりもなお美しい」などの見解を自然に吸収した。チェーホフは、自然科学を理解する能力にも卓越していた。

モスクワにチフスが大流行。「僕は疲労困憊していて、体力を使い果たし腑抜けのようです。眩暈もあります。」(書簡・1886年2月20日)。「原稿を書きながら診療に励んでいます。当市ではチフスが蔓延しています。あの病気に罹患すれば命の保証はありません。当地ではその危険はどこにでもあります」(書簡・1986年2月28日)

4月喀血。「僕は同業の医師たちに専門的に診察してもらうことが恐ろしいのです。彼らはたちどころに、僕の肺の呼吸音の減弱やら雑音やらを聞きつけることでしょう。・・・僕の病気は肺というより、喉頭からきているのです・・・熱もありません」(レイキン宛て書簡・1886年4月6日)。実情を無視した希望的観測であり、医師とは思えない頑ななまでの非医学的自己診断である。

兄アレキサンドルの妻が腸チフスに罹患。重症だったがチェーホフの適切な治療により回復した。

1887(27歳)

故郷タガンローグに8年ぶりに帰省。町の活気のなさに呆れ、劣悪な衛生状況に頭を痛める。その後、1月半にわたり南ロシアの広野を旅し、その体験が、翌年力作『広野』に結実。

軽い喀血と左下腿の静脈炎の再発

1888(28歳)

チェーホフの後見人を自認するスヴォーリンから医学と文学の二兎を追うことをやめるように促され、こう釈明している。「二兎を追わずに医学は諦めなさいとあなたは言います。私にはその意味が理解できません・・・仕事が一つだけではなく二つあると思うと、私は楽しくなりますし、より満ち足りた気持ちになるのです。・・・言うなれば、医学は正妻で文学は愛人ということでしょうか。一方の女性にうんざりすると、もう一方の女性に近づきます。ふしだらなようですが、退屈することことはありません」(書簡・1888年9月11日)

夏にクリミヤ半島やウクライナ地方を旅する。秋になると全身の倦怠感を感じるようになる。気泡の混じった鮮血(喀血)。憂鬱症がひどくなる。そのころ兄アレクサンドルがチェーホフ作と誤解されかねない筆名で「新時代」に作品を送り、スヴォーリンに怒りを買ったことに関するチェーホフの反応。「誰にも死はやってくるし、僕もこれからはそう長く生きられそうもありません。ですから僕は僕自身の作品や名前、僕に対する文学的誤謬などを重視していないのです」(書簡・1888年9月24日)

1889 (29歳)

次兄ニコライの死。美術の才に恵まれていたが放蕩生活の中でチフスに罹患し肺炎を併発して死亡。「ニコライは長患いの肺結核に罹っていて、この病気は不治の病です・・・いつまで持つかということで回復するかどうかということではないのです」(書簡・1889年5月8日)

このように書きながらもチェーホフはニコライの元を離れ、悪天候のなか友人宅を訪ね、その翌日激しい嵐の朝に兄の死を告げる濡れた電報を受け取っている。葬儀は実質的家長であるチェーホフのてきぱきとした手配により盛大に執り行われた。しかしながら、死期の迫った兄を置いて旅に出たことは医師としての職業倫理からは理解しがたいことである。とはいえ、兄の死の原因になった同じ病に罹っている自らの未来を兄の死に重ね合わせる辛さは容易に想像できる。

一方で、アレクサンドルが語った次の言葉は、どのような場面に遭遇しても感情を露にしないチェーホフの性格を伝えている。「胸が張り裂けそうな悲しみです。誰もが泣きじゃくっています。アントンだけが涙を見せません。忌々しいことです」


サハリン旅行を決意。

1890 (30歳)

周囲の反対をよそにサハリンに関する綿密な情報収集と文献の読破に没頭する。その関心の領域は、地理学、地質学、気象学、民族学、歴史学、刑法など。「終日、僕は机に向かって清書し、抜粋を作っています。頭の中にも、紙の上にもサハリン島以外何一つありません」(書簡・1890年2月15日)


サハリンでは12項目に及ぶ細かい受刑者の実態調査を実施した。島でも喀血は時折見られたにもかかわらず、連日早朝から受刑者のいる牢獄、集落、採鉱所などを訪れ、最終的に1万枚近い調査票を2ヶ月で完成させた。「ぼくは全サハリン島民の調査をするだけの忍耐力を持っていました。今やサハリンには僕と言葉を交わさなかった徒刑囚や流刑囚は一人もいないわけです」(書簡・1890年9月11日)

非衛生な便所が伝染病の温床になっていることを指摘した。人間の処刑執行の現場にも立ち会っている。帰国後4年間をかけて1894年に『サハリン島』を完成させた。この綿密な社会調査報告書から、医師としての科学者としてのチェーホフの確かな力量が読み取れる。彼の優れた科学的才覚がこの書で花開いている。12月、8か月半のサハリン旅行を終えモスクワに戻る。


サハリンから帰国のシベリア横断中も喀血を繰りかえす。全身の倦怠感と執拗な咳と頭痛。不整脈まで加わったがこれは一過性で回復。

1891 (31歳)

ロシア全土に旱魃による大飢饉が発生。チェーホフは急性肺炎に罹ったため、活動が遅れたが12月から翌年にかけて救済活動に必要な資金集めに奔走した。

3月、スヴォーリン親子と共にヨーロッパ旅行。6週間を超える贅沢三昧な旅行であった。ニースは街の景観と温暖な気候が気に入り、その後も3回滞在している。ロシア全土に旱魃による大飢饉が発生。救済運動に奔走するトルストイに続きたいと願いながらもチェーホフは急性肺炎に罹り、数週間の静養を余儀なくされた。同じ時期に叔母のフェドーシャがやはり結核で死去する。当時、結核は世界各国で重要な死亡原因の一つであった。チェーホフは半ば自覚しつつスヴォーリンに書いている「僕の健康状態は、もう二度と以前のように回復しないのではないかという思いがします・・・」(書簡・1891年11月18日)

1892(32歳)

自己の健康管理のためモスクワを離れ田園で生活することを決意。モスクワから汽車で2時間半のメリホヴォという村であった。

「医薬品を馬車一杯分も積んできて、本格的に医療にたずさわっています」(書簡・1892年3月15日)

近隣の村々の人々の診療や、感染症の防疫活動に奔走しながら、『六号室』『サハリン島』『黒衣の僧』『中二階のある家』『かもめ』『ワーニャ伯父さん』『可愛い女』などの名作を次々と生み出している。


メリホヴァでは教師を辞めた妹マリアが看護師として兄の医療活動を支えた。チェーホフ医師の診療所は周辺の農村からも患者が押し寄せいつもいっぱいだった。貧しい農民からは診察代をとらなかった。彼らのなかには畑で収穫された野菜を置いていく者もあった。

7月、メリホヴォ村にコレラが蔓延する。チェーホフ医師は流行地域をくまなく巡回し診察と治療に明け暮れた。この時期にチェーホフが診た患者は千人を越えたと言われている。同時に村のコレラ対策責任者を引き受け25ヶ所の村落と9つの工場にコレラ患者の収容施設を設立した。

さらに社会的対策にも奔走している。「頭の中はいつも下痢のことばかりで、夜半犬の吠え声を聞こうものなら、僕を迎えにきたのではないかとはっとするのです。やせ馬にひかれて見たこともない道を駆け巡り、コレラに関する書物ばかり読んでいて・・・」(書簡・8月16日)。「それでも書きたくてたまらないので、コレラなんかには唾を吐きかけたいくらいです」(書簡・1892年8月1日)


精神医学を題材にした『6号室』(1892)を発表。

病状悪化の兆し。たまたま喀血の現場に居合わせ、兄の衣類が赤く滲んだのを目撃した弟のミハイルに、「たいしたことではないんだ。マリヤやかあさんには言わないように!」と言い放っている。

1893 (33歳)

精神医学に強い関心。『黒衣の僧』(1894)を発表。 「作家になるためには精神病学を勉強する必要がある」と後輩作家に語っている。

1894 (34歳)

早朝のむせかえるような咳に悩まされる。3月、保養のためヤルタに到着し1ヶ月滞在。咳と胸の痛みを抱えたまま4月にメリホヴォに戻る。

夏にタガンローグで叔父のミトロファンが重病をわずらっていることを聞き、早速現地に赴いた。文学好きのこの叔父をチェーホフは子どものころから敬愛し、自らの作品はほとんど送っていた。6日間、精魂傾けて治療したが回復の目処がたたない叔父を前にチェーホフは無力感に苛まれ、病床の叔父を置き去りにしてスヴォーリンの別荘があったクリミヤのフェオドーシャに向かう。しかし当地が思いがけず寒冷だったため再びヤルタに発ち、ヤルタで叔父の死を知った。兄ニコライの死の直前と同様、ここでも瀕死の状態の肉親から離れるという行動様式が再現されている。

その後、ヤルタからオデッサ、そこからヨーロッパに渡りニースにしばらく滞在した後にモスクワに戻った。タガンローグの叔父の見舞いに出かけてから2ヶ月半が経っていた。


1895 (35歳)

秋より『かもめ』の執筆に熱中する。

1896 (36歳)

『かもめ』を訂正加筆してペテルベルグで初演。不評だった。

『かもめ』のリハーサルに立ち会ったりしたが、体調はおもわしくなく、ひどく咳込んだかと思うと、真っ赤な血が口元から流れ出た。

農村診療所でに大勢の患者の診察。時折、往診にも出向いた。近隣の村の学校顧問や裁判所主席陪審員の役職にもついていた。またタガンローグの図書館に多くの書籍を寄贈している。『外科史』という医学雑誌の資金繰りに駆け回るなどの援助もしている。学校や郵便局の開設、道路や教会の修復などの社会事業に取り組み、とりわけ学校の新設や図書の整備には心血をそそいだ。

当時、チェーホフが関わっていた25の村で学校があった村は一つだけで、それもみすぼらしく不衛生だった。このような状況の打開のため、行政に働きかけ、自ら建設資金を提供したり、募金運動を展開したりした。活発なその働きが功を奏し、3つの村に学校が新設された。校舎が完成すると教科書をはじめさまざまな書籍を寄贈した。


学校や図書館の建設は、村の人々の診察と同等の価値があるとチェーホフは考えていたが、壇上に構えた政治論議は好まなかった。そのようなチェーホフだが、『中二階のある家』(1896)では主人公に「診療所とか学校とか図書館とか薬局とかは、現在の体制の下では人間の隷属化に役立つだけです」と語らせている。

またチェーホフその人は科学を信奉していたにも関わらず、同じ主人公は医学に対しても疑問を投げかけている。「医学というものは自然現象として病気を研究するために必要であって、病気の治療のためではない筈でしょう。治療するなら病気ではなく病気の原因を直すべきです。根本原因の肉体労働をとりのぞいてごらんなさい。病気はなくなってしまいますから。治療のための科学というのを僕は認めませんね」(『中二階のある家』)


1896年12月、ロシアと英国が中東問題と衝突して紛争勃発が憂慮された時期には、チェーホフは軍医として志願したい旨の手紙をスヴォーリンに送っている。「今、戦争が勃発したら、僕は参加します。ここ1年半から2年にかけて僕の人生ではめまぐるしい出来事が起きました・・・僕もこうなったら、ヴロンスキーのように前線に出かけるしかない。もちろん戦うためではなく、救助のためですが」(書簡・1896年12月2日)。ただし、この戦争は回避され、軍医としての機会は訪れなかった。

1897(37歳)

3月21日、モスクワのレストランで夕食の料理を注文しようとしていたとき、突然大喀血を来たし、たちまちテーブルが赤く染まった。同席していたスヴォーリンがホテルに担ぎ込み旧知の医師に往診を依頼した。その晩、再び喀血したため、肺疾患を専門とするオストロウーモフ病院に搬送され、病院長のオストロウーモフ医師がチェーホフを肺結核と診断し、絶対安静を命じた。チェーホフに思いを寄せていた人妻リジヤ・アヴィーロワは妹と偽り、医師や看護婦の不機嫌をよそに3分間の面会が許された。

3月28日にはトルストイが訪れ「死ぬことなき生命」という壮大な思想を延々と語った。疲労困憊した気の毒な患者はその晩何時間も咳込んだ末、翌暁4時大喀血をぶりかえした。容態が落ち着きベットでの安静の禁が解かれると、病棟の廊下や院内の中庭を歩いた。時には近くのノヴォ・ジェーヴィチィ僧院の静寂な墓地へとおぼつかない足を運んだ。約7年後の7月9日、チェーホフ自身が葬られることになる墓地である。


結局3週間ほど入院し4月10日にメリホヴォに戻った。妹マリヤは診療所の業務を中止することを村の人々に告げた。相変わらず来客が次々とやって来てさすがのチェーホフもうんざりしている。訪問客の喧騒から逃れるためもあって、オストロウーモフ医師の薦める転地療法のためニースに向かい約7カ月滞在した。この期間も数編の短編を書き上げている。この年から死去するまでの6年間、秋や冬の寒冷期を南ロシアのヤルタとニースで過ごすことになる。

しかし転地療法の効果はみられなかった。「出血のため、謹慎中の身であるかのように家のなかに蟄居しています。こんなふうに一人でいるのは、退屈でさびしいものです」(書簡・1897年12月16日)

1898(38歳)

静養を命じられていたにもかかわらず、体調がみかけよりよいように感じられていたこともあり、この年の晩春から夏にかけてメリホヴァでの診療や社会奉仕を再開した。創作意欲も活発で多くの短編を発表している。月に一度程度のモスクワ行きも続けていたが、この小康状態も9月には不安定になり、喀血の発作が頻発するようになった。ヤルタでの療養を決意し向かう。

10月14日、ヤルタで父の突然の訃報を聞く。急性腸閉塞でモスククの病院に搬送され緊急手術を受けたが、その効なく他界した。「僕がいたら、こんな事態にはならなかったはずです!僕だったら父を助けることができたのに!」(書簡・1898年10月17日)

11月、主治医がチェーホフの容態が憂慮すべき状態にあることを告げたが、当の本人はそれを認めようとしなかった。その頃ペテルブルグの新聞「報知」がチェーホフの病が篤いことを報道した。それに対し新聞社に抗議文を送りつけ、スヴォーリンに怒りの気持を露にしている。「これほどまでに残酷で、嘘だらけの至急報を(新聞社)に送って僕の家族を脅かそうとするのは、一体どこのどいつでしょう」(書簡・1898年10月27日)

「ここ5日間血を吐き続けていて、今日になってようやく治まりました。このことは内密に願います。もう咳もしていませんし、熱も平気です。ですから僕は家族にさえこのことは隠すように心がけているのです」(書簡・1898年11月29日)


このような喀血発作を繰り返す一方で比較的気分のよい日もあった。そういう日には地元の病院で患者の診察をした。また、赤十字地方委員会の委員を努めたり、飢饉のための募金活動に参加したりした。

その頃、知り合ったゴーリキーの生真面目さを愛し、ロシアの地方の教師が悲惨な状況にあることなどについて何日も語り合った。「もしも僕が大金持ちだったら、ここに病気になった村の教師のためのサナトリウムを建ててやりますよ」
政治的意見の相違にも関わらず、終生、チェーホフはゴーリキーに対し常に庇護的態度をとり、ゴーリキーはチェーホフに対して思慕の念を持ち続けた。

1899年 (39歳)

ヤルタでの単調な生活に飽き飽きしたチェーホフはモスクワに発ちアパートに落ち着いたが、あいかわらず跡を絶たない来客に悩まされた。1か月のモスクワ滞在の後、メリホヴァに戻ったが、8月中旬を過ぎると冷気が忍び込んでくるようになり体調が悪化したため、再びヤルタの地へ。メリホヴォの家屋敷を売却し母と妹もヤルタに移り3人の生活が始まった。

貧しい結核患者のためにヤルタにサナトリウム建設を計画し、資金調達のために多くの人々に寄付を依頼したり、新聞や雑誌に慈善的支援を呼びかけたりした。2年を要して完成したこのサナトリウムは現在チェーホフの名を冠した療養施設となっている。

1900 (40歳)

ロシア学士院名誉会員に選出。トルストイと肩を並べる作家となった。

1月トルストイ重体の報せに動揺するが、幸いなことに危機を乗り越え回復した。トルストイが死去したのは1910年でチェーホフの死から6年後のことだった。享年82歳。チェーホフの倍近い生涯だった。

4月、粘っこい痰。5月、モスクワでは、激しい頭痛と熱に悩まされ、ヤルタに戻る。『三人姉妹』を脱稿。12月ニース。モスクワ術座の女優、オリガ・クニッペルとの結婚を決意。

1901 (41歳)

ニースからイタリア観光。2月ヤルタに戻る。病状は着実に悪化。「もうあちこち動きまわるのに随分疲れ切ってしまった。僕の身体の状態も老人のようで君が結婚する男は配偶者ではなくおじいさんのようだ・・・」(書簡・1901年3月16日)

5月9日、オリガとの挙式のためモスクワへ。結核専門医の診察を受け、結核がかなり憎悪していることを告げられる。その際、ウファー県の馬乳酒療法を薦められ、その治療の煩わしさにうんざりしながらもその指示に従う。最後の短編となった『いいなずけ』の中で、この療法が登場している。

ヤルタに戻り遺書を書く。マリヤにヤルタの自宅と作品からの収益や年収を、オリガには別荘と5千ルーブリを遺した。

ヤルタでも継続していた馬乳療法が奏功したのか、夏の間小康状態が訪れた。9月、ヤルタから近いクリミヤで療養中のトルストイを訪ねる。二人は時を忘れて語り合ったが、完全なる了解には至らなかった。「僕はトルストイの道徳律に感動することがなくなり、心の奥底では彼のモラルに反発しています」(書簡・1894年3月27日)

9月21日、『三人姉妹』の上演初日に足を運んだチェーホフは聴衆の万雷の拍手に迎えられた。その後も足しげく劇場に顔を出し、演出の助言などをしていたが、衰弱が進みヤルタに帰らざるをえなかった。12月初旬大量喀血。モスクワにいる健康な妻を羨むような複雑な心境を書き送っている。

1902 (42歳)

3月に流産しその後の経過がよくない妻をヤルタに迎えたチェーホフは、自分の健康状態の悪化にもかかわらず、それでも病人の身体の不調を取り除き心を癒すことに心を配る。

6月になるとオリガの容態が好転する。このときチェーホフは自分が薦めた患者への食事指導が奏功したことを自身の医師としての実力の証のように自慢している。「彼女を診ていた全部の医師たちのなかで、僕一人だけが正しい判断をしていました。食べ物は牛乳と生クリーム以外を禁じたのは僕だけでしたから」(書簡・1902年6月12日)

6月、チェーホフの信奉者ウソーリエの領地を訪れる。その領地内にある騒音と悪臭に満ちた化学工場の劣悪な環境と1日12時間にも及ぶ勤務時間を知ったチェーホフはその改善を工場主に求めた。世間から慈善家として認められることを生きがいにしているこの百万長者はその要求を受け入れ労働時間を短縮した。チェーホフが今日の「産業医学」や「労働衛生」の考えを先駆的に持ち合わせた医師であったことを物語るエピソードである。チェーホフの時代には確立していなかった「予防医学」「衛生学」「公衆衛生学」などの「社会医学」の重要性を、臨床医の彼は先駆けて認識していたことが確認できる。

しかしながら、『往診中の一事件』の中では次のように書いている。「コリョロフは医者として根本原因が分からない不治の慢性疾患を正しく診断するときのように、この工場というものもやはり一つの不可解な現象であって、その原因は不明であり排除できないのだと見ていた。したがって工場生活の改善は余計なこととは思わないが、それはどこか不治の病の治療に似ているような気がした」(『往診中の一事件』)。チェーホフの相対主義の根は深い。

夏の休暇を夫婦そろってモスクワ郊外のスタニフラフスキーの別荘で過ごす。ここでの快適な生活で病状がやや好転し、モスクワに出たがすぐに疲れが出てヤルタに戻るはめになった。結核性助膜炎が再燃、激しい疲労感が襲った。チェーホフの死因は肺結核ではなく腸結核とされているが、このころから止まらない下痢に悩まされるようになる。それでも、ヤルタの生活に耐え切れなくなり4月、主治医にも告げずモスクワへ発つ。しかし外出もままならない身体だった。モスクワの主治医はヤルタの冬はよくない、モスクワ郊外の別荘で過ごすようにと薦める。モスクワの主治医とヤルタの主治医とのなる指示にチェーホフはとまどう。「僕にはまるで理解できないのです。それなら何のために、ヤルタで4回も冬を過ごしたことになるのだろうか?」(書簡・1903年7月1日)

1903 (43歳)

執筆活動さえ控えざるを得なかったチェーホフだが『ロシア思想』のレフェリーの依頼を快く受諾している。一方でモスクワ芸術座は新しい作品を要請してきた。頻繁に起こる激しい発作の合間に身を削るようにして『桜の園』を脱稿。評判は上々だった。どうしても舞台稽古が見たい旨の希望を主治医に伝えたが、旅行許可の返答が得られるはずもない。しかし、チェーホフの願望は止みがたくオリガの賛同を無理やり取り付け、ヤルタを飛び出す。後日この事実を知ったヤルタの主治医は烈火のごとく怒り自ら死ににいくようなものだと非難した。

『桜の園』初演時、チェーホフの作家生活25周年の祝典が企画されていた。チェーホフは、第3幕の終わった幕間にようやく舞台に立つことができ、嵐のような拍手に迎えられた。ダンチェンコが「あなたにはこう思っていただきたいのです、これは私の劇団だ、と」という言葉を贈った。雪のあるモスクワを熱愛したチェーホフだったが、いまや戻る場所はヤルタだった。

1904(44歳)

晩冬から初春にかけて、作家は書斎に閉じ篭ってぼんやりすごすことが多くなった。創作意欲が湧いてもペンを取る体力がなかった。モスクワで気分転換をしたいと願いながらも体調の悪さがそれを許さなかった。しかし、彼のモスクワ行きの執念はすざましく、またしても主治医に無断でモスクワに向かいオリガと暮らしはじめる。オリガはドイツ人の医師に診察を依頼する。彼はチェーホフが結核性の助膜炎と腸炎を併発して重症であり、安静を保つよう指示する。しかし、容態は強心剤や麻薬を用いるほど悪化していた。

5月中旬には何人かの編集者たちに容態を告げる手紙を書き送っている。オリガの昼夜も問わぬ必死の看病のおかげで幾分回復の兆しをみせたチェーホフは友人の医師に書き送っている。「結婚して良かった、結婚していなければ今ごろ途方にくれていたでしょう」(書簡・1904年5月22日)


6月、ベルリンからバーデンワイラーに到着。名高いドイツの結核専門医の診察を受けるためであった。教授は病状のかなりの進行を無言で告げた。患者も医師の表情から今回の旅行の無謀さを感じ取らざるを得なかった。後に編集者や後輩作家たちは思い出の中で、そのころ会ったチェーホフの余命いくばくもない印象と、それでも自身の行儀の悪さを謝り客を心配させまいと明るく振舞っていた姿を伝えている。

チェーホフは異国での療養生活になじめず、不快指数は高まり、激烈な呼吸困難に襲われるようになる。新聞社の特派員はチェーホフ危篤の記事を本社に送った。

7月2日午前1時ごろ、呼吸困難発作がおこった。午前2時に医師が到着して息も絶え絶えのチェーホフを診察した。酸素マスクをかけ、強心剤を投与しても容態は改善しなかった。

妻のオリガが臨終の様子を次のように書いている。「私たちはシャンペンを運ばせ、弱った気持ちを元気づけようと思いました。彼はいすに座り“イッヒ シュテルベ”と言いました。そして私の方を向いて、不思議な微笑を浮かべながら、“シャンペンを飲むのはなんと久しぶりだろう”と言いました。彼は静かにグラスを飲み干すと、ゆっくりと左の方に顔を向け、そして亡くなりました」1904年7月2日、午前3時、享年44歳。

金属製の棺に納められたロシアの偉大な作家の遺体は、ベルリンからペテルブルグを経由してモスクワのニコラエフスキー駅に到着した。早朝の駅ではゴーリキーやシャリャーピンが出迎えた。夏のさなか、遺体の腐敗を危惧した当局により、チェーホフの遺体は国境の駅で「牡蠣用」と大きく書かれた緑色の貨車に移されていた。事情を知らなかったゴーリキーは怒りと嘆きで声を荒げた。

後に自嘲気味に書いている。「俗悪なものがチェーホフの敵であった。彼は一生涯それと闘った・・・それゆえにこそ、俗悪さは彼の死体−詩人の遺骸−を牡蠣輸送の専用車に入れるという醜悪きわまりない悪ふざけによって彼に復讐したのである」(『チェーホフの思い出』池田健太郎編 中央公論社 1960)





松本市民タイムズ 平成21(2009)年4月11日



参 考
左近幸村 「ゼムストヴォ医師としてのアントン・チェーホフ」 (PDF)