ドストエーフスキイ全作品読む会
ドストエーフスキイ全作品を読む会 読書会通信 No.97 発行:2006.8.3
初出:ドストエーフスキイの会会報(1975)
プレイバック読書会
第27・28回読書会(1974・11〜1975.1)
『罪と罰』
(1)新谷敬三郎
11月16日(土)午後6時から第27回読書会を開く。寒い日でもあったせいで出足は悪かった。出席者10名。
『罪と罰』これは草津温泉の天狗山ペンションで泊まりがけで行った読書会でも取りあげたけれども、こういう長編となると、それにこの名作はみなさんすでに何回も繰り返し呼んでおられて、すみずみまでよくご存知で、かえってずばり物が言えないせいで、話がどうも、あらぬ方向へ流れてゆきがちなのである。
ある人は、マルメラードフとラスコリニコフは大変よい対照をなしているという。貧のなかで身をもちくずして、どこまでも落ちてゆく、くたびれた初老の男は、そういう自分というものから逃れたい一心で、神にすがりつこうとする。24歳の学生の方は自意識の壁を越えて、何とかして自分で生きたいと願っている。老婆殺しはその証であった。とすれば、スヴィドリガィロフという男は余計なのじゃないか。この奇怪な無人物なしにでも、ある男の罪と罰の物語は成立する。
と、こういった意見に対して、対照されているのは、マルメラードフとラスコリニコフではなくて、マルメラードフとスヴィドリガイロフである。そしてその対照の軸をなしているのがラスコリニコフである。落ちぶれはて世間から見捨てられた魂と我意の肥大をきたした淫蕩なるニヒリスト、この対照的人物を両極とする、そこから発する磁力の場に投げ込まれた、それ自体運動力をもたない磁力に敏感に反応するものとして、老婆殺しの青年はある。
大体ラスコリニコフは、物語のいわゆる生きた人物ではなくて、ひとつの観念、殺人という観念の人格化されたものであって、ドストエフスキイの長編小説の中心人物はいずれも多かれ少なかれ観念の怪物であって、彼の主人公の無私性あるいは無人格性もそういう性質からくるのだが、そういう主人公、題材の核となり筋を運んでゆく道具となる主人公の性質が物語の展開の仕方を規制している。ドストエフスキイの小説は明らかに思想小説であり、観念の実験の物語である。
ところで、ラスコリニコフを軸としたもう一対の対照がある。ポリフィリイとソーニャである。予審判事、この有能なる司法官僚は実は殺人の理念、その自己意識であって、それに対置されて聖なる娼婦、復活の信仰がある。ラスコリニコフはこの二人のあいだを往ったり来たりしなければならない。殺人犯がスヴィドリガイロフとポリフィリイとソーニャと、この三人を訪ね歩く、あるいは偶然に出会う。その順序のなかにおそらく、作者の観念の劇を見ることができよう・・・・
こうした読み方は、それこそ観念的にあまりにも図式化しすぎた読み方なのではないか。当然こういう反問が提出される。
が読書会の後半は、結局ソーニャの問題に終始したようである。
犯罪者と娼婦、これはあるいは文学、というより人間の永遠のテーマなのかもしれない。どこの国の文学にも、それは物語の一モチーフとして、大変古くから今日に至るまで途だえることなく繰返されている。
どこへも行きどころのなくなった、というか、たえず追いかけられ、追いつめられている男と落ちるところまで落ちて、はいあがる知恵も元気もなくなった女、こうした対応の大変ロマンチックな、というかいわば形而上学的な形象として、『罪と罰』の二人はある。ところで、問題はおそらく、ソーニャと父マルメラードフとの関係にある。この二人の人物というか、モチーフの関係が、おそらくこの殺人物語のもうひとつの主要なテーマなのであろう。
会は例によって時間切れで、場所を高田馬場に移して、おしゃべりはつづいた。
(2)井桁貞義
もうちょっと天井が低ければラスコーリニコフの屋根裏部屋に似るような、池袋の喫茶店の三階に十人くらい集って(みんなここが気にいった)。三回目を教える『罪と罰』の読書会が行われた。この会に来るというのでまた読み返したら、やっぱり息もつかせずに読んでしまったと安田さん。そして感じたこととして、斧を機械的に振り下ろす行為を中心にして、全てがいわば偶然のうちに起こる、そのことが不思議な気がする、ということだった。ここには普通多くの小説においては筋を運ぶ、主人公の意志とか因果の系というものがない。それにしても夢中になって読むのはどうしてだろう。小説は何かで動いているのに、何かに心が゜引き摺られるのに。
もう一つ印象に残ったのは下原氏の出した問題で、老婆殺しを皇帝殺害と二重映しに考えられないかという提起だが、たぶんそれは無理で、むしろ何の取柄もない虱みたいな人間を殺すようにしているのがこの小説の凄さであり、意味ではないか、と、これは新谷氏の意見だった。この時ふと思い出したのはギリシャ悲劇を小説の形に変換したものだというモチューリスキイの見方だ。絶対者と、或いは、或いは運命と彼は闘っているのだろうか。それとも彼の闘いはいわゆる虚無との闘いなのか、いや、彼は何者かと闘っているのか。彼に間違いなくあるのは、行きたいという感覚であろうけれども。
ラスコーリニコフは街を彷徨する地下室人だが、彼が自己意識から解き放たれ、他者と出会い、生きた関係を結び、救われるのは何によってか。自分の分身と敵対するようになってしまった意識過剰な人間にとって、本当の生活、生きた中心に出会うためには、そこに何かが求められなくてはならない。
ぼくはそんな問題の設定から短いレポートをした。創作過程を通じて、ラスコーリニコフの復活の道を模索し続けた作者は、連載の最後の回になって、復活の瞬間を小説の外へ、エピローグへと移した。考えられていた小説の大団円、それは例えばラスコーリニコフの火事場での功業、あるいは彼がつむじ風の中にキリストの幻を見ると言うモチーフであったが、それは最終稿では放棄された。創作過程の終わり近くまでこのモチーフが維持されているのを見る時、ではその場合、小説中でのソーニャの役割とは何だったのか、という疑問が浮かんでこよう。
ソーニャもまた、おそらく不動の支点ではなく、彼女の生は、レベジャーニコフとリザヴェータ、そしてラスコーリニコフとの関係において変化している。そしてもしソーニャがそのような人間であるのなら、この小説の光源はどこにあるのだろう。そんなふうに考えてくると、ラスコーリニコフとソーニャとの間にリザヴェータの姿が浮かんでくるだろう。ソーニャはラスコーリニコフに、自分の罪の行為としてリザヴェータから与えられた襟のモチーフを語る。
リザヴェータから与えられた聖書はシベリアでラスコーリニコフに手渡される。ソーニャは自分の十字架をラスコーリニコフに与え、自分には同じ時リザヴェータの十字架を身に受ける。その十字架は殺人の場面でラスコーリニコフの眼を射たものだった。この三つのモチーフから、一組の男女を照らすリザヴェータの光が見てとれるのだ。〈ああ、リザヴェータがいてくれたら〉という小林秀雄のソーニャへの洞察はそのことを言うのではないか。
それはそれとして、一組の男女の関係が、つまり相互の愛だけがそれだけでいったい二人を復活させ得るだろうか。このようなレポートをしてみて、ソーニャが彼を救うものとは思えない。この二人は同じような人間だと感じると佐伯さんが同意してくれたのは嬉しかった。神へ至る道と、ナロードという共同性への回帰とが復活への二つの道と思われるが会の終わり近くに、根源語〈われーそれ〉から〈われーなんじ〉への変容に際して、神への関わり、生きた中心がなければならないとベルジエフやブーバーは言う。それがわからない。こうしてドストエフスキーを読みながら共同性が成立していないだろうか、とポッリと野田氏が呟いたことが印象的だった。問題の中心はシンボルなのだと、しばらく前からぼくは考え始めていたところだった。
(3)浜中孝雄
私はラスコリニコフの見たやせ馬の夢は『罪と罰』全体を象徴しているように思われた。はじめて呼んだころ、やせ馬をいじめているミコールカも、やせ馬もラスコリニコフ自身だと思っていた。この夢を見たあと、ラスコリニコフは「おれにはもちきれない。」と老婆殺しを断念してしまう。自分を自分で苦しめようとしているのに気付き、その苦しみに耐えられないと思ったから老婆殺しを断念したと私には思われたからだ。しかし、何度も読んでいるうちに、ミコールニカはラスコリニコフを取り巻いている環境ではないのか、やせ馬は登場人物すべてではないのか、と思うようになった。そして、現在は、ミコールニカは神だと思っている。神は人間を無意味に苦しめている。その神にラスコリニコフは飛び掛った。
教会で『罪と罰』の読書会をすると「なぜ、人を殺してはいけないのか?」ということが重要なテーマになる。そして結論は「もし、神がいなかったら人を殺してはいけない理由はどこにもない。」ということになり、「『罪と罰』は実にいい小説だ」で終わる。
ドストエフスキーには無神論の本質をあばき、ニヒリストたちに向かって「おまえたちの理論からはどこからも人を殺してはいけないということは出てこない。」と言おうとした意図があったかもしれない。
なぜ、人を殺してはいけないのか?私はクリスチャンだから「神がいけないと言ったから」とはっきり答える。では、ドストエフスキーは「汝、殺すなかれ」を引き出すために『罪と罰』を書いたのであろうか。まさか、当時の民衆やインテリが「汝、殺すなかれ」を知らなかった訳ではあるまい。私は、ラスコリニコフの超人論、犯罪論、そして老婆殺しは「汝、殺すなかれ」に対する挑戦であると思う。
神が殺してはいけないと言っているにもかかわらず、多くの人間の血をシャンパンのように流したナポレオンが英雄になり、銅像まで建てられている。有害な金貸し婆あがぬくぬく暮らし、有能な青年が金がないおかげで能力も伸ばせず埋もれてしまう。神がいるにもーかかわらず、善良な人間は悪人に苦しめられている。そんな神なんかいらない。いや、「もしかすると、その神さまさえまるでないのかもしれませんよ」とラスコリニコフは思う。つまり超人論や、犯罪論はどこから生まれてきたかというと、神の姿が見えなくなってしまったところからなのである。そして、神の姿を見えなくしているのが、ナポレオンであり、ラスコリニコフを取り巻いている環境なのである。(私は、罪とは神の姿を見えなくさせてしまっているものだと思っている。)
ラスコリニコフが無意識的に苦しんだのは、神の姿が見えないこと、つまり、神ありやなしやの問題であった。(私はドストエフスキーの大作はすべて神ありやなしやを中心にして読んだ。)ラスコリニコフが老婆を殺したのは、この無意識的な苦しみに決着をつけるためではなかったのか。
では、ラスコリニコフはこの問題にどのような解決を得たのか?作者はラスコリニコフに「もう今となったらソーニャの確信は同時におれの確信ではないか?」と言わせている。また、「愛が彼らを復活させたのである。」「弁証のかわりに生活が到来したのだ。」とも書いている。これが解決であろうか?確かに解決のように見える。しかし、神ありゃなしやの問題には解決はありえないのだ。それゆえに、ドストエフスキーは次から次へとラスコリニコフより深刻な無神論者、スタヴローギンやイヴァン・カラマーゾフを創造せざるをえなかったのだ。神ありゃなしやの問題は信仰の世界に足を踏み入れるしかないのだ。信仰の世界は客観的な解決ではないのだが。
<編集室より(2006)>
当時、出席されていた中で新谷敬三郎先生、野田吉之助氏は既に亡くなられています。当時若かった人たちも年老いました。いつのまにか姿が見えなくなった人たちは何処に・・・。滔々とした30余年の歳月の流れ。変わらないのは一人ドストエフスキーのみ。