ドストエーフスキイ全作品読む会
Medical Dostoevsky&My Dostoevsky


 [ストラーホフについて]  ドストエフスキーの手帖より。

典拠 :新潮社版ドストエフスキー全集27 
手帖より(江川卓・工藤精一郎・原卓也訳)P.426

N・N・ストーフーホフ。批評家としては、プーシキンのバラード『花婿』にでてくる姑にとても似ている。その姑はこう語られている。
  ピローグを前に坐り、
  遠まわしな話し方をする。
われらの批評家は人生のピローグを大いに好み、今では文学関係の二つの有力なポストにつき(ベテルブルグの公立図書館法律部門の司書と文部省学術委員会メンバー)その評論では遠まわしな言い方をして、核心にはふれず、周辺ばかり堂々めぐりしてきた。文学上のキャリアは彼に四人の読者と(それ以上ではないと思う)、名声への渇望とを与えた。ふかふかした椅子に坐り、自分のではなく他人の食卓の七面鳥を食べるのが好きだ。老境に入って二つのポストを手に入れると、これほど何一つやってこなかったこの種の文学者たちはふいに名声を夢見はじめて、そのために並みはずれて怒りっぽくなる。これがもはや完全に愚か者の風貌を与え、もう少しすると、まったくのばかに成り変る。──そして生涯そうなのだ。肝心なのは、このうぬぼれに大きな役割をはたしているのが、三、四冊の退屈きわまるパンフレットと、かつてどこかに発表された、まる一連の遠まわしな批評との執筆者である文学者だけではなく、お役所の二つのポストでもあることだ。滑稽だが、真実である。生粋の神学校的特徴だ。素姓はどこにも隠しようがない、いかなる市民的感情も義務もなければ、何か醜悪なことに対するいかなる憤りもなく、反対に彼自身も醜悪なことをする。きびしく道徳的な外見にもかかわらず、内心では好色であり、なにやら脂ぎった、粗野で好色なけがらわしいもののためなら、すべての人すべてのものを、自分の感じていない市民的義務も、彼にとってはどうでもよい仕事も、もちあわせてもいない理想も、売りとばしかねない。しかもそれが、理想を信じていないからではなく、がさつな脂肪の表皮のせいなのであり、そのために何一つ感ずることができないのである。わが国のこうした文学的タイプについては、いずれもっと語ることにする。こういう連中は根気よく摘発し、暴露しなければならない。