ドストエフスキー作品メモ


悠々たるいそがしさ <ドストエフスキーの『未成年』>
(引用:『新潮世界文学14:未成年』の栞) 
武田泰淳

私は未成年アルカージイが好きだ。初対面の老公爵との無邪気な女性論によって、たちまち老公爵が彼を好きになったのは当然である。彼にくらべれば、六本木族、フーテン族、ヒッピイ嬢は何と魅力がうすいことか。悪友ラムベルトに指導された彼には、ハレンチを敢えてする体験はいくらでもあったが、もっと他の未成年らしさを次から次へと発揮するので、卑屈と高潔、どすぐろさと純白、いやらしさとけなげさ、つまりは人類の二つの傾向をあますところなく演じてみせてくれる。

たしかに『赤と黒』の主人公にくらべれば、彼の行動は不細工で、スマートではないかも知れない。これはスタンダールとドストエフスキー、フランス人とロシア人のちがいでもあろうが、一方の目標がナポレオン、こちらはロスチャイルドと「理想」の対象こそちがえ、われらはアルカージイ通してジュリアン・ソレルをジュリアンを通してアルカージイを充分に理解することができる。おそろしく負けん気で、いざとなれば決闘も辞さない点、大人たちの仲間入りして一歩も後へひかない点など、そっくりである。女性関係で成功しないところはアルカージイの方が気の毒であるが、義父および、もろもろの男たちの心理の闇の奥ふかく突入して行くことでは、かのフランス青年にたちまさっている。自分の卑しさ、育ちの貧しさが逆作用して、上流階級で思い切った(子どもじみてもいるが、なかなか抜け目ない)活躍をやるのも共通している。幼年時代の屈辱、いじめられるだけでなく、自ら敢えていじめられ役を演じねばならなかった屈辱は、このロシアの青年の方がはるかにすさまじい。

彼のヴェルシーロフ研究が深まるにつれ、われらはドストエフスキーの人間学の高い高い階段を、彼の目にみちびかれつつ、息苦しくも喜びに満ちて登りつづけねばならなくなる。彼がこの不可解な義父にあこがれたり愛したり、憎んだり反逆したり、密告したり離れ去ったりする、その目まぐるしさは、よくよく考えてみればわれらが日常感じている人間関係のこまやかな感覚、説明しがたい矛盾の連続を、ものの見事に定着し、表現した結果なのである。

彼はたえず、人間を誤解している。奇妙な人物ヴェルシーロフのみならず、可憐な妹や傲慢な未亡人、社会主義の友人、下宿の貧乏人、すべてをうまく理解できないで、たえずみんなからおどろかされる。したがっていらだった怒ったり、うっとりしたり死にかかったり、つまみ出されたりして、絶望の直後に大歓喜にみまわれたるする。「ああ、なんて善良な性格の人なんだろう」と、彼が感嘆した青年貴族は、次の日は賭博場で彼を無視し、彼を拒否する。そしてまた後の日には彼を満足させる行為を立派にやってのける。これらの変幻きわまりない男女を、彼は一体どうやって愛したり憎んだりしたらいいのだろうか。何回信じても、何回裏切られても、未成年は成長していかなければならない。しかもこの長編小説はドイツその他の教養小説の如く、一個の人格が形成されていく過程をたどるといった、単純な、なまやさしい種類のものではなく、破壊されたままの諸人格がとめどもなくせめぎあう、なまぐさい修羅のちまたの展開なのであるから、歩いたり、かけ出したり、しゃべったり、首に抱きついたかと思えば撥ねのけたりする彼の毎日は、まことに多忙で色彩ゆたかとならざるを得ない。

それにしても、一ばんの重要人物ヴェルシーロフがまざまざと読者の前にあらわれてくれるまでのペエジ数の多さには眉をしかめる方もあろうが、さらにもう一人の重要人物、かの老巡礼がヴェルシーロフ家にたどりついて寝込むまでについやされる枚数にはあきれかえるほかはあるまい。しかもそれはすべて愛すべき未成年者のゆたかな多忙によってひきおこされた事態で、ストオリイが先細りになりかかると突如として全く別種の新鮮な未来があらわれるという、悠々たるドストエフスキー的手法にすっかり身をまかせてしまうことをおすすめしたい。ほこり高き貴族娘カテリーナはこの青年を評して、「あなたがこわいわ」と口走る。このこわさとは、たぐいまれなる誠実な猪突猛進ぶりを形容してマトを射ている。この種の誠実さなしには、悲劇も喜劇も生まれるわけはないのである。(引用:『新潮世界文学14:未成年』の栞)