ドストエーフスキイ全作品を読む会 読書会通信一覧

ドストエーフスキイ全作品を読む会 読書会通信 No.100  発行:2007.2.1


『鰐』を読んで

新美しづ子

『鰐』をはじめて読んだ。「この頃、ドストエフスキーを読んでいる」と私がいうと、「ああ、昔読んだなあ、白痴なんか」とか、「若いころよみましたわ」などという言葉が返ってきて、こちらの出遅れぶりがはっきりする。12月読書会の帰り道、私の横で、下原康子さんがちらっと言われた。「『鰐』について云々」と。重い宿題である。早速読んでみた。面白かった。あり得ない非現実とありふれた日常とをいとも無雑作にこきまぜて笑いを誘う。笑いの裏には知に根ざした諷刺があり、笑いと諷刺が表裏一体となって文学としての品位が保たれている。そんな印象を私は受けた。

思い出すたびに可笑しいのは、見物料を払う、払わない、の境界線での光景。オットットット・・・懸命に踏みとどまる進歩派の男性。彼はなんとしてもひとこと言いたい。それも絶対無料で。これを発見して、怒り心頭のドイツ人がまた可笑しい。エレーナ夫人が「あら、あの人、あそこで、今日の食事どうするんでしょう?要るものあったら?」なんて、急に叫び出すあたりは真に迫って圧巻。こんな可笑しいことを、大作家は一体どんな顔して?案外、《苦虫を噛み潰したような》かも知れない。

<主な登場人物>
□イヴァン・マトヴェーイチ:ひたすら名声の欲しい、自信家の役人。
□エレーナ・イヴァーノヴナ:イヴァン・マトヴェーイチ夫人。美しい人。男性は等しく魅了されている。ご当人もそれが何よりうれしいらしい。さすがに、事故発生直後は、さいて、さいて、と、半狂乱であった。
□セミョーン・セミョーヌイチ:イヴァン氏の親友であり、同僚であり、遠縁にもあたる。秘書役を忠実げに務める。一方、エリーナさんに少なからず気があり、どっちつかずの油断ならぬ人。この小説全編を仕切っている。文中の(わたし)。
□チモフェイ・セミョーヌイチ:イヴァン氏らの年上の同僚。誠実な人として信頼され、しつこく相談を受けるのに、いまいち冷たい。自らの保身のため、係わり合いになりたくないらしく、イヴァン氏の人柄にも内心批判的。
□ドイツ人夫婦:鰐の所有者。徹底的に、カネ、カネ、カネ、カネ、の亡者。夫婦の気合はバッチリ。 

概ね、このような人々。尊敬に値する人物はちょっと見当たらない。ずるい人、おめでたい人、よく気の回る人、薄情な人。とんでもない人。一途な人。良くはないが憎めない人。いろんな要素が汲みとれる。勝手な品定めをしていると空耳に、ドスト氏の声を聞いた。「人間誰しもねえ――えらそうなことをいうお前さんだって・・・・」。ああ。

解説によると、『鰐』は当初の計画、一部二部の一部にあたる。思わぬ誤った風評のため、二部は書かれず未完に終わった。そういえば、力なく消え入るような最後の二三行がよく解らなくて幾度か読み返したのだった。もう一つ、ドスト氏に笑いの小説を思い立たせたのは、ゴーゴリの短篇『鼻』だそうである。早くその『鼻』を読んでみたい。読まなくてはならない。

年の瀬のよく晴れた午後、完成してまもない石神井川遊歩道を歩いていると、図書館に来た。「ゴーゴリの『鼻』お願いします。」(かっこいいでしょ、ロシア文学)内心ハナが高い。「このハナですね」ちょっと自分の鼻を指して、パッパッパッ・・・。あっ、という間に分厚いゴーゴリ一巻が私の手に載った。『ネーフスキイ大通り』、『外套』、『鼻』、『狂人日記』・・・おお、みんなある。有難うございます。ここも行政の一端。”区民の生涯学習を支援します”と、書いてある。

『鼻』 朝の焼きたてのパンの中から、なんと、人の鼻が出てくる。不気味さといったら、もう、こっちの方が絶対本家!ワニのおなかの中も無論、気味悪いけれど。思いもよらないものにギョっとさせられたのは、さる理髪店の主人。鼻はその店の顧客のものとかなんとか、とにかく変な話。奥さんにさんざん罵られたり、鼻の捨て場所を探し歩いたり、店主は大弱り。鼻自身は礼服を着て、馬車に乗って挨拶まわりをしている。そんな、とんでもないことを煙に巻きながらどんどん引き込んでいくところが作家の芸術的手腕か。いうまでもなく空想は果てしなく自由、なんでもありなのだ。

小説のつづきはといえば、鼻の持ち主の8等官は鼻のないのに気づいて大狼狽。鼻なしでは馴染みの貴婦人達に会うのにまず困る。いろいろと無駄骨の末、或る日、何事もなかったように、鼻はもとの顔におさまっている。鼻とは何か。ファンタジックな笑いに包んで、深い問いを投げかける。あの空想は何処へ。作家の真実が、音もなく身近に降り立っている、そんな感じがするのである。

解説によると、イギリスにも鼻を扱った作家がいてゴーゴリは、その影響を受けたとも考えられる。ドストエフスキーはゴーゴリから、ゴーゴリはイギリスの作家から。イギリスの作家は誰から?その前は?そのまた前は??「天が下に新しきものなし」大変ひ弱そうな青年三島由紀夫が、その時、そう言った。三好達治、坂口安吾、も壇上に立った、文芸講演会であった。

早起きではない私が、起きるとまもなく電話が鳴った。近くに住む孫のN子から。4歳になる息子を夕方まで預かって欲しい。よろこんでOK。黄色いヘルメットをかぶって母親の自転車の後ろに乗って直ちにご到着。今日は、木の枝を切ろうと、その朝、私は考えていた。のび放題の月桂樹の枝を。それで、今日は本を読んだら、その次に木の枝を切りましょう、と二人で決めた。

いつもの通り、絵本はリクエストNo.1『一寸法師』から。この絵本は箱にしまわれて、宝物同然だったが、最近こうして再び現役。かなりお疲れなので、そーっとページをめくる。おわんのふねに、はしのかい。「おとうさま、いってまいります」「おかあさま、ごきげんよう」この子達にとって、恐らくこれは候文。大人は勿論、幼稚園児も「いってまいります」だったのに、いつのまにか言葉は変わっている。それはそれ、一寸法師は、針の刀を振りまわして、鬼の口から飛び出し、鬼は一目散。鬼の忘れものの打出の小槌のおかげで、みるみる立派な大男。きれいなお姫さまをおよめにもらって、フルスピードのハッピーエンド。

No.2の絵本のそばに、こげ茶色のおとなの本が今日は置いてある。米川正夫訳『地下生活者の手記』その奥の方に『鰐』が潜んでいる。実は、只今、小さな大おばあさまは、その『鰐』にすっぽり呑み込まれているのである。本当は呑み込まなくてはならないのに。お猿や、オームやインコのいるあたりから、ほんのさわりの部分だけ、幼児向け同時通訳で。

「お風呂みたいな大きな箱に、水が5aぐらい入っています。(これくらいよ)。その中に丸太ん棒みたいな大きな生きものが、ごろーんとねむってるみたいです。なんでしょう、そのどうぶつ!?」――「ワニー!!」「うわあ、ピンポーン」といった調子。少しすすんで「イヴァンおじさんの鼻からメガネがぽろっと落ちました」ニタニタッ。笑った、やっと笑った。奇しくもそれは文中の私がぷっと吹き出したところとピッタリ一致。私は喜び勇んで次なる『フランダースの家』へ。大正生まれにはなつかしい深尾須磨子文である。いっぱい本を読んで、お昼ごはんたべて、次はSUIMAがやってくる番である。幼な子はあっさりダウン。お昼寝はなんと3時間。目を覚ますや「きのえだきる――」。外は、もう真っ暗。彼は泣いた。

一寸法師に戻ります。親孝行、勤勉努力、今は流行らない立身出世、桜が咲き、優雅なお姫さまもいてめでたしめでたしで終わる、小さな島国、日本の人の大好きな昔話である。ロシアのイヴァンおじさんは、まだワニの中に逗留している。「ワニさえ大丈夫なら自分は、まだまだ千年でも居座って全人類教化のために貢献する」と、けなげな覚悟を表明している。確たる自信、絶大な抱負、何よりもその忍耐力。ねばり強さは我々の比ではなさそうである。広大なロシアの大地、降る雪、人も自然の一部なら、その気質の相違はあたりまえ。「みんなちがって、みんないい」とみすずさんも歌っている。たまたま怪物のおなかに呑み込まれた、という共通点のゆえに、子どものお伽話と、ピリッと諷刺のきいたおとなのお話とが、ごちゃまぜになりました。お許し下さい、ドストエフスキー様。