ドストエーフスキイ全作品読む会
ドストエーフスキイの会「ドストエーフスキイ広場」No.18(2009)エッセイ(p.74)



ドミトリー・ドストエフスキー氏来日と私


新美しづ子

いまなに読んでるの罪と罰中庭はさみ小窓と小窓
向こうの窓と丁度顔があった。猫のひたいの間隔をおいて隣り合う孫娘と私
ソーニャのようになりたいとそっと言い罪と罰一巻少女に返す

その本を彼女から借りた。“そっと言い”はわが身の自己中心が省みられて、おずおずとした気持ちのあらわれ。そんなある日に「ドストエフスキー曾孫早稲田へ」というニュースを、早大生になっていた彼女がいち早く伝えてくれた。秋晴れのあの日(2004年11月25日)孫娘のお母さん、つまり私の長女と私は会場である文学部教室の階段を昇っていった。専門家の中に混じってのプレッシャーもいつのまにかどこかへ消えた。いよいよドミトリー・ドストエフスキー氏壇上に。「汗をかくので上着をぬがせていただく」と少しも気取らない自然体。今、目の前にする世界の文豪の血脈は、黒い重々しいおひげの、それでいてどこか温かい普通の紳士であった。幼い自分がくるまれていた毛布が日本の軍用で質がよかったこと等々無邪気に話され、日本への親愛を示してくださった。

はじめに井桁貞義先生のご紹介があり、客席にお立ちになっての木下豊房先生のご報告は忘れがたい。木下先生を中心に関係する方々の賢く懸命なご努力が成功して、そのおかげで今日只今がある。氏の母上の切なる願いが叶えられて本当によかった。「お母さまは今お元気でしょうか」と、思わず声に出してしまったのは翌々日(
ドストエーフスキイの会主催「ドミトリー・ドストエフスキー氏講演会」2004.11.27)でのこと。東京芸術劇場の通路で幸運にもドミトリーさんとすれ違った。「もう亡くなりました、残念ながら」ご一緒だった日本の女性がおっしゃった。ドミトリーさんは深いまなざしで会釈してくださった。早稲田の講演のあと、交流会にも参加したくなった。先に帰宅する長女を正門前のバス停に見送ってひとりゆっくり会場の居酒屋へ。案内された地下はまだ静かで赤い上着の女性がひとりうつむいて読書の様子。そっと声をかけてみた。やはり同好の方であった。堀田信子さん。すぐにうちとけた。定刻になり隣の会場に移る。一番奥の壁際に座った。真ん中の掘り炬燵をはさんで下原康子さん。その時はお互い名前も知らないはじめて会った人。すぐにドストエーフスキイの会のことなど、誰でも参加できるんですよ、と誘ってくださった。会場は盛り上がってかなりの熱気。気がつくとドミトリーさんにサインをいただいている方が。私もバッグからカラマーゾフの文庫本を取り出してその後に続いた。うやうやしくその本を差し出した。

その一瞬わたしを見据えいんぎんにサインペン走らすドミトリーさんの髭急にロシアが間近になりぬ
ドミトリーさんを囲みさざめく地下の居酒屋斜めよりコンスタンチンさんの腕がのびたほたほコップに注がれるぬる燗


下原康子さんとは何いろの糸で結ばれていたのか、そののちふとした会話から同じ高校出身とわかり感激して手を取りあった。もちろん私が大々先輩である。交流会の皆さんとも別れ、帰りの夜道を掘田さんと並んで歩いた。地下鉄の入口まで来て、さよならと別れかけて又ちょっと立ち止まった。ご両親のお墓がこれから私の帰る同じ石神井にあることを話されたあと「両親の供養に何がいちばんかと考えて母の大好きだった早稲田で勉強することにしたのよ」と信子さん。心から共感した。この11月(2009年)日射しのない暗い日曜日、ひさしぶりに堀田さんに電話した。びっくりして喜んでくださった。「あなた○○才になった?」「なっちゃった」「○○才の人に怖くて電話できなかった」「そうでしょ、そうでしょ。だいじょうぶ生きてる」4年前にも彼女は私の年齢を聞いた。足し算すればすぐ解る。堀田さんは早口。話は内容豊富。こちらは耳をサラのようにしてその近況を聞いた。「今は若い学生に混じって政経学部の講義を受けている。一方でフランス文学を。バルザック作品のレポートを書きつつある。西洋古典文学、ロシア文学、ドイツ文学、日本文学、その他いくつもの国々のを学んできた。ドストエフスキーはいいわ。やっぱり」ここでちょっとひと呼吸。「まだこれから中国文学もやりたいし、与謝野晶子も、林芙美子も。あ、それから財政学も。あははは」彼女のゆくてにはいつも目標が待っている。それは胸がふくらむこと。幸せである。ご両親もきっと満足していらっしゃる。堀田さんの学びはあと一年で十年になるという。今日まで一日も休んでいないのよ、と聞いていよいよ敬服。

一方こちらは「読書会にずーっと出ている」「えらーい!!」「ドミトリーさんお元気かしら?」と私。即座に明快に「手紙出しなさいよ!! ロシア、ペテルベルグ、ドストエフスキー博物館で行くでしょ」「うわぁー」。長い電話になった。「そのうち又ね」約束して受話器を置いた。早稲田のあのレトロなコーヒー屋さん、やめないでいていてください。ドミトリーさん来日から4年経った。あの時のことごとは昨日のように鮮明に甦る。なのに、同じ4年前のその他は茫々。ただ、今よりは世の中安心だったと、とっさに思う。人の心が見えにくい。透明にさらさらとなど望むべくもないけれど。

わがうちのドストエフスキーの黒き森或る日はさまよう木の根っこ踏み