ドストエーフスキイ全作品読む会


私は、なぜドストエーフスキイを読むのか、読み続けるのか
 2020

ドストエフスキー生誕200周年記念寄稿 

読書会がスタートしてから50年になります。この間、10年1サイクルの間隔で5大長編他、主な作品群をコンスタントに読み継いできました。2020年は、5サイクル終盤『カラマーゾフの兄弟』ですが、新型コロナ感染拡大の影響で中止に追い込まれています。読書会の皆さまには、長引く自粛生活ですが、この孤独をチャンスとみて自分とドストエフスキーの関係を見つめ「私は、なぜドストエフスキーを読むのか」を考えてみてください。来年2021年は、折よくドストエフスキー生誕200周年にあたります。記念すべき節目でもあります。ドストエフスキーへの想いをご投稿いただければ幸いです。
ご投稿は「全作品を読む会 読書会通信」に掲載しますが、それに先駆けて当HPにて公表させていただきます。奮ってご投稿ください。(2020.5.12)





私とドストエフスキー   (5月12日)

太田香子

13歳、中学2年生だった私が気乗りしないスキー旅行の帰りのバスで読む本として『罪と罰』を選んだのは、国語便覧に載っていた本の中で一番タイトルがカッコいい、という理由からだった。それがロシア文学であるということも、ましてドストエフスキーがどのような作家であるかということも全く分かっていなかった。要は目隠しをしてくじを引いたのと同じであり、その引いたくじが―大当たりだったということなのだ。

私はラスコーリニコフだった。その本には、言葉にはできないが常に心の中でもやもやしている違和感や怒りがすべて表現されていた。その時から「自分を一番よく知っているのは自分」という言葉は私の辞書から抹消された。私をもっともよく理解しているのはドストエフスキーでしかありえなかった。

私はすべてを見通されていた。10代の私にとって、ドストエフスキーは自分の唯一の理解者であると同時に、自分のすべてを知り抜かれている意味でもっとも憎らしい存在でもあった。ドストエフスキーの作品に入ることは自分を知ることであり、それは最大の欲求である一方、もっとも関わりたくない問題でもあった。

そんな感じで熱中と冷却を繰り返しながら、やっぱりドストエフスキーに向き合おうと思いなおしたのは30歳のときだ。自分探しの意味合いでの読み方ではなく、客観的に何が書かれていたのかを確認したくなったのだ。それと、どうやら私のドストエフスキーへの熱中は、時間とともに止むことはなさそうだ、一生付き合わねばならない病なのだという諦念もあった。

私にとってのドストエフスキー作品のハイライトは『罪と罰』のラストの場面と、『悪霊』でステパンが死の間際に言い残す信仰告白だ。『罪と罰』は、主人公ラスコーリニコフが通りを歩きながら、自分の帽子がボロくて目立ちすぎることを心の内でののしっている場面から始まる。その彼がシベリアの監獄に送られ、荒涼とした大河や大地を眺めながらソーニャに身を投げ出す場面でこの作品は終わる。ラスコーリニコフの自意識の遍歴の終着を見届ける場面であり、「魂の浄化」と呼ぶにふさわしい。『悪霊』ではステパンが、「ぼくが何者であろうと、ぼくが何をしようと、それはもうどうでもいい!」と叫ぶ。人生の幸福においては自分自身にとらわれてはならないのだ、という主張の意味をおぼろげながら理解したのは20歳の時だったが、以来、このテーゼほど私の考え方に影響を与えたものはない。

結局、私にとっての最大の問題は、「いかにこの過剰な自意識を取り扱うか」であり、その行き先として「自意識にこだわってはいけない。万能ではない、限界の中でしか生きられない自分という存在を受け入れることは負けではない」という結論に落ち着く、その道程をナビゲートする分身がドストエフスキーだったようだ。

20世紀末に中学生だった私にとって、未来は信頼に足るものではなかったが、国際協調が進み、文明が発達し、ヒトやモノの移動がより自由になることは疑っていなかった。そこから20年余りの間に、同時多発テロ、戦争、未曽有の大震災、パンデミックによる全世界を挙げての外出制限が為されようとは想像だにしなかった。ドストエフスキーかぶれの懐疑的な中学生の想像をはるかに超える困難な世界が待ち受けていたのだ。混迷を極める世の中で、それでも心の平穏を保ち日常を送ることができるのは、自分自身や人生の限界を肯定的に受け入れる術を学んだこと、そしてすべては変わってもドストエフスキーは残るという確信と心のよりどころがあるからに他ならない。

ドストエフスキー、あなたこそが、私を私たらしめているのです。あなたの言葉なくして、私は生きていくことができません。200歳おめでとう。




人間の魂の問題が秘められているから (5月12日)

長野正

少し自己紹介をします。私は埼玉県に住む60代半ばの男性で、小説の創作を趣味にしています。「ドストエフスキー全作品を読む会」(以下、「読書会」)には平成17年6月に入会し、3回ほど報告したことがあります。一方でその2年後には、「日本トルストイ協会(事務局・昭和女子大学)」にも入会しました。ドストエフスキーとトルストイのどちらが好きかと問われたら、50対50、あるいは、51対49、もしくは49対51の微妙な均衡にいます。異論があると思いますが、何かの本に書かれてあるとおり、トルストイとドストエフスキーは二卵性双生児のような気がしてなりません。

ロシア文学者の柳富子先生は以前、ドストエフスキーのほうにも入っていた方だそうですが、「日本トルストイ協会」の会合の懇親会で「ドストエフスキーの会」(以下、「例会」)のほうも入会すべきですよ、と私は勧められました。その後、関心のあるテーマや、高名な講師のときだけ例会のほうにも出席しました。例会と読書会共催の、亀山郁夫先生を講師に招いたときの講演会はたいへん感銘ある内容でした。それから『カラマーゾフの兄弟』をめぐる誤訳論争が展開したので、正直なところうんざりしました。亀山訳はわかりやすく素晴らしい翻訳だと思っていただけに、不快な気持ちになりました。

私が「小説」の創作を志していることもあり、例会や読書会を通じて「評論と翻訳」の問題に触発されることがたびたびありました。その究極的な著作物が、清水正著『ドストエフスキー論全集』全10巻と、杉里直人訳『カラマーゾフの兄弟』ではないかと思います。

表題の「私は、なぜドストエフスキーを読むのか」に絞ります。私はゲーテやバルザックも好きですが、なぜ、ドストエフスキーやトルストイを愛読するのかと訊かれたら、ロシアの2大巨匠の作品には、人間の心の奥底にある魂の問題や、「神と悪魔、罪と罰、善と悪」の相克という問題が掘り下げられているからかもしれません。『戦争と平和』、『アンナ・カレーニナ』、『罪と罰』、『カラマーゾフの兄弟』は、私自身の棺桶に収めてもらいたい書物ではないかと思っています。ドストエフスキーやトルストイの作品そのものは当然ですが、併せて、清水正著『ドストエフスキー論全集』と、杉里直人訳『カラマーゾフの兄弟』も読みこんでいきたいと考えています。
(※読書会、例会をドストエフスキーと表記したのは、投稿者の意向です。)