ドストエーフスキイ全作品を読む会
ドストエフスキー作品メモ



典拠:集英社版 世界文学全集44:ドストエフスキー「罪と罰」小泉猛 訳  

解説[『罪と罰』の面白くかつ重要であると思われる2つの問題点]

小泉猛


大雑把な話というものは、するのは簡単であり、また一応はもっともらしく聞こえる、というより、実際にもっともなものにはちがいありませんが、そのかわりに、あまり面白くもなければ役にも立たないという困った特色を備えているものです。そこで、私は、『罪と罰』についての大雑把な「解説」を書くのは避けて、あくまで『罪と罰』のテキストそのものに即しながら、私には面白くかつ重要であると思われる問題点を2,3指摘させていただくことにします。重要と思われる個所のすべてに関してそれをすれば一番よいわけですが、そのためには一冊の書物が必要になってしまいますから、ここではたったの2個所だけ取り上げるにとどめます。

第一の個所は第1部7にあります。つまり、殺しの場面です。と言っても、ラスコーリニコフがもう老婆とその妹を殺し、部屋を出、階段を一歩降りかけたそのとたん、下から足音が聞こえ、老婆の顔なじみの客コッホが昇って来るという場面です。

(……)それは重々しく、規則正しい、ゆったりとした響きだった。だが、もう男は一階を通り過ぎた。ああ、足音がますます大きくなる! 苦しげな、あえぐような息遣いが聞こえる。三階にかかった……やっぱりここへ来る! 不意に、彼は全身が石のように固くなるのを感じた。夢の中で、誰かがもう目分のすぐ間近まで迫ってきて、殺そうとするのに、自分はまるでその場に根が生えてしまったように、手を動かすこともできない、ちょうどそんな気持だった。

けれども、コッホがいよいよ4階へ昇りはじめた時、ラスコーリニコフは素早く部屋へ逃げ戻り、ドアに掛け金をかけ、ドアのかたわらで息をひそめます。コッホも、もうドアの前に立っています。

客は、何度か、苦しげに息をついた。『肥った、大きな奴だな、きっと』ラスコーリニコフはそう思い、斧を握りしめた。ほんとうに、何もかも、まさしくあの夢で見たとおりだ。客は呼鈴の紐をつかんで、強く鳴らした。

私が問題にしたいのは、この時ラスコーリコフの頭に思わず浮かんだ「ほんとうに、何もかも、まさしくあの夢で見たとおりだ」という考えです。「あの夢」とは勿論、昨日、母から来た長い手紙を読み、下宿を飛び出してさまよい歩き、疲れ果ててペトロフスキー島の木立の中で寝込んでしまった時に見た夢のことです。ミコールカという百姓がかわいそうな雌馬を惨殺し、それを見ていたラスコーリニコフ少年が怒りのあまり拳をかためてミコールカに飛び掛ろうとするあの夢のことです。それなら何も問題にすることはないではないか、馬の惨殺と二人の人間の惨殺、それが今の興奮したラスコーリニコフの頭の中で一緒になるのは当り前だ、それだけのことだ。そう思う読者もあるかもしれません。しかし、ドストエフスキ―はそんな大雑把な書き方はしないのです。

このラスコーリニコフの考えにはもっと具体的な内容があります。コッホが多分もう2階あたりを昇っている時、ラスコーリニコフの耳は彼の「苦しげな、あえぐような息遣い」を捉えます。そして、夢の中で誰かが自分を殺そうと近づいてくるのに、自分は根が生えてしまったように動けないという、そんな気持になります。いよいよ、コッホがドアの前に立った時、ラスコーリニコフの耳はまたしても、コッホが何度か「苦しげな息」をつくのを捉え、反射的に『肥った、大きな奴だな、きっと』と思い、それに引き続いて、「何もかも、まさしくあの夢で見たとおりだ」となるのです。

この少し先にも、コッホが「苦しげに大きく息をつきながら」鍵穴から部屋の中をのぞこうと身をかがめるという個所があります。あの警察署の署長の言葉を借りて言えば「事は明白だ」と私は考えます。彼はドアの外のコッホに、「あの夢」の一方の主役である「恐ろしく首が太く、にんじんのような赤ら顔をした、まだ若い男」つまり雌馬を惨殺した百姓ミコールカを見ているのです。それで「何もかも夢で見たとおり」と彼は自然に感じるのですから、つまりは彼は殺されるあわれな雌馬なのです。すでに二人の女の頭を叩き割った血みどろの斧を握りしめ、奴が入って来たら戦ってやると決意しているラスコーリニコフがあわれな雌馬であり、「肥った、大きな奴」とは言え、何も知らず、素手でドアの前に立っている、しかも少し先を読めば分るようにいささか臆病なコッホがミコールカであるとは、まことに奇妙な主客転倒です。

ラスコ−リニコフはコッホを惨殺する者と感じ、自分を惨殺される者と感じている。それも、非常に自然に、非常に素直にそう感じているわけです。そして、しかも、いまの実際の状況からすれば、そのように感じることがいかにおかしな事であるかをいささかも自覚しようとしないわけです。つまり、自分が殺す立場でありながら、自分を殺される立場にあると実に素直に思い込み、しかも、その不思議な矛盾をまるで自覚しないということです。これはまことに注目すベきことで、この事実から、われわれはラスコーリニコフの殺人という行為の本質が何であるのか、また、その殺人を可能にした彼のあの有名な「理論」が何であるのか、そしてさらには、彼をそのような『理論』を生み出さざるを得ないところまで追いつめた事情が何であるのかを考えることができるはずです。

それは些細な一句の拡大解釈ではないか?という反論が出るかもしれませんからお断わりしておきますが、同じような例は沢山あります。たとえば、殺人の前日、つまり今の馬の夢を見た少し後で、ラスコーリニコフは大道商人と老婆の妹リザヴェータとの立話しから、明日の晩7時、老婆は家にたったひとりでいると知るわけですが、それを知った彼は「死刑の宣告を受けた者のように」自分の下宿へ帰ったとドストエフスキーは書いています。

その少し先には、「あたかも何者かが彼の手を捉えて、否応なしに、盲目的に、並外れた力で、もはや後戻りできぬところまで引きずっていくかのようだった。さながら服の端を機械の歯車にはさまれ、じりじりと機械の中へ巻き込まれていくようなものだった」とも書かれています。さらにその先では、ラスコーリニコフが斧を外套の裏の輪っかに吊し、いよいよ老婆の家の前まで来た時、彼は「きっと、こんなふうに、刑場へ引かれて行く者達の思いは、途中で出会うすべてのものにまといつくにちがいない」とちらりと考え、あわててその考えを払いのけたとも書かれています。みんな同じ事ではありませんか。

例はまだまだありますが、もう省略しましょう。とにかく、ラスコーリニコフにとって、殺すことは殺すことを無理矢理にさせられることであり、それは結局殺されることであるとしか感じられないのです。やはり、ここから出発して、ラスコーリニコフの殺人と彼の「理論」とを、また、殺人と「理論」との関係を考えるべきであると私は思います(彼の「理論」は第1部6、第V部5、第V部4で語られています)。

ついでに一言付け加えておけば、ラスコーリニコフの「理論」はその殺人とは関係がない、そんな「理論」などはラスコーリニコフ自身信じてはいないと考える『罪と罰』論者が大勢いますが、私は「理論」がなかったなら、ラスコーリニコフは絶対に殺人をできなかったと考えます。ラスコーリニコフの手と老婆の頭との間に斧がはさまっていなければならなかったのと同じように、彼の心と老婆の心との間には彼の「理論」がはさまっていなければならなかったと私は考えます。しかし、「理論」からは許されるはずもない老婆の妹リザヴェータ殺しはどうなのか? と反論が出るかもしれませんが、彼は老婆を殺した後だからリザヴェータも殺せたので、まずリザヴェータ、次に老婆、という順序では絶対に殺せなかったはずです。

しかし、ラスコーリニコフの殺人の問題はここで打切り、先に2個所と言った、その残る1個所を取り上げて考えてみることにしましょう。第2の個所は第U部2にあります。殺人の翌日、借金の件で警察へ呼ばれ、最後に気絶して怪しまれはしたものの、とにかく無事に下宿へ逃げ帰り、壁の奥の穴に隠しておいた盗品をポケットにつめ込んで捨てに出掛け、V通りのある材料置場の石の下に隠し、2日前(つまり、殺人の前日であり、馬の夢を見た当日)にも通ったK並本道へ足を踏み入れたという場面です。

彼はそわそわと、苛立たしげにあたりを見回しながら歩いて行った。いま、彼の考えはことごとく、ある何か重大な一点のまわりをぐるぐるまわっていた──そして、自分でも、それが真実まことに重大な一点であり、いま、ほかならぬいま、自分がその重大な一点とと一対一で相対することになったのだということを、しかも、そうなったのが、このふた月を通じてなんといまがはじめてなのだということを、感じていた。

『いや、そんなことはみんな糞喰えだ!』突然、こみあげてきた底知れぬ憎悪にかりたてられるように、彼は考えた。『始まってしまったからには、始まってしまったんだ。あの女も、新しい人生も、犬にでも喰われるがいいや! ああ、神様、これはまたなんと愚かしい!(以下略)』


ここには二つの「真実まことに重大な」問題が隠されています。まず第一に、「真実まことに重大な一点」とは具体的には何であるのか? 第二に、『あの女も、新しい人生も、犬にでも喰われるがいいや』というその「あの女」とは誰なのか? この二つの問題です。まず第一の問題から始めましょう。

われわれがある人間と真の友情を結びたいと思っているなら、その人間が今「真実まことに重大な問題」を抱えていると聞いて、それに知らん顔をすることはできないはずです。しかし、私はこのラスコーリニコフの「真実まことに重大な一点」とは具体的には何であるのかを考えようとした『罪と罰』論者をまだ知りません。世の『罪と罰』論者諸氏はラスコーリニコフに対して「真実まことに」薄情な方々ばかりなのかと私は邪推したくなるほどです。ラスコーリニコフは小説の中ではラズーミヒンという親友にめぐまれていましたが、小説の外ではあまり友人にめぐまれてはいないのです。

しかし、つい脱線してしまいました。本題に戻りましょう。ラスコーリニコフはこの「真実まことに重大な一点」と一対一で相対することになった、しかもそうなったのはこの「ふた月」を通じていまが始めてであるというのですから、つまり、彼は「ふた月」まえにはそれと相対したか、少なくとも相対そうとしたことがあるわけです。この日から「ふた月」まえ、いったい何かあったのでしょうか?

答えは簡単です。殺人の前日、母親から「ふた月」ぶりで受け取った長い長い手紙の中に(これはあのマルメラードフの長い長い演説と同様、それ自体がまことにさまざまな意味で面白く、しかも魅力的な文学作品ですが)、
「ふた月ほどまえ、お前が、“誰からか聞いたことだが、ドゥーニャがスヴィドリガイロフさんの家でいろいろ無礼な仕打ちを受けているそうだ。その件について私から正確なことを説明してもらいたい” と書いてきたとき──あのとき私に何を答えることができたでしょう? もし私が本当のことを何もかも書いたなら、お前はきっと何もかも打ち捨てて、たとえ歩いてでも、私たちのところへ来たことでしょう。私はお前の性質、お前の気持をよく承知しています。お前は自分の妹が侮辱されているのを黙って見過したりはしなかったにちがいありません」という一節があります。つまり、「ふた月まえ」のラスコーリニコフの重大な問題は、最も具体的には、スヴィドリガイロフに侮辱を受けているという妹のドゥーニャの不幸な運命という問題だったわけです。

勿論、彼はその妹の運命に、それより(つまり、今からふた月まえより)さらに10ヵ月まえに死んだ彼の初恋の相手であり婚約者だったあの不幸なナターリヤ・エゴーロヴナ・ザルニーツィナ(彼の下宿の主婦の娘)の運命をも重ね合わせて考えていたかもしれません。そして、いま、つまり、それから「ふた月」後、K並本道を歩いている殺人者ラスコーリニコフにとっての「真実まことに重大な一点」が、そのスヴィドリガイロフから逃れはしたものの、今度はルージン氏への卑劣な売身行為(彼にとって、いや、ドゥーニャ自身にとっても、彼女のルージンとの結婚はそのようなものと考えられているわけですが)へと走らざるを得ない妹の運命であり、さらには、二日まえこの並本道を酔っ払って歩いていた不幸な少女、男にだまされ、おもちゃにされ、酒をのまされて追い出されたあの不幸な少女の運命や、三日まえはじめて居酒屋で会ったマルメラードフから聞かされたソーニャの運命であったことは言うまでもありません。しかし、私はそのことを確認するにとどめて、あわてて次の問題に移ることにします。

つまり、その「真実まことに重大な一点」と相対しかけはしたものの、すぐさま、『そんなことはみんな糞喰えだ』と目をつぶった彼がつづけて叫ぶ、『始まってしまったからには、始まってしまったんだ。あの女も、新しい人生も、犬にでも喰われるがいいや!ああ、神様、これはまたなんと愚かしい!』という言葉の中の「あの女」とは誰か?という問題です。

「あの女」とは誰でしょう? お断わりしておきますが「あの女」と訳した単語は、ドストエフスキー自身のロシア語では三人称単数女性形の代名詞です。つまり、「彼女」です。このようなことを書くのは、これはあえて言わせていただきますが、私が参照させていただいた7人の翻訳者諸氏による7種の日本語訳『罪と罰』では、この「彼女」「あの女」が、7種が7種とも「あの老婆」「あの婆あ」となっているからです。

そこで、もう一度、「あの女」とは誰でしょう?「老婆」つまり昨日叩き殺した金貸しのばあさんでしょうか?勿論、ロシア人の読者でも、ここで「彼女」という代名詞を見て、彼女?ああ、昨日のばばあだな、と思う人は沢山いるでしょう。この代名詞に気づかず読み飛ばす人もいるかもしれません。現に私の手許にある3種の英訳『罪と罰』のうちの2種では、この「彼女」が落ちてしまっています。これには「一読三嘆」の他ありませんが、それはともかく、「あの女」とは誰でしょうか? これはこの作品全体の理解を左右する重大な問題であると考えざるを得ませんので、私はしっこく問います。そして、「あの女」はソーニャ・マルメラードワであると答えます。

とんでもない、この日、つまり殺人の翌日には、ラスコーリニコフはまだソーニャの顔を見たこともないではないか! そういう反論が出るかもしれません。いかにも仰せの通りで、彼が始めてソーニャを「見る」のは第U部の7、始めて話を交わすのは第V部の4においてであり、つまり、この場面から4,5日あとのことです。しかし、それにもかかわらず、この「あの女」はソーニャであると私は再び答えます。そして、先のラスコーリニコフの言葉全体をこう解釈します。

自分は二人の人間を殺し、殺人者としての人生に歩み込んでしまった。殺人者としての人生が「始まってしまったからには、始まってしまったんだ」。だから、そんな自分にとっては、「あの女も、新しい人生も」もはや無縁の存在である。たとえ、「あの女」が、「新しい人生」が、自分に手を差し伸べてくれるとしても、もはやこの自分のほうから手を差し伸べることはできない。それなら「あの女も、新しい人生も」いっそ目の前から消え失せてくれ、つまり「犬にでも喰われるがいいや!」せっかく「あの女」を知り(父親マルメラードフの話を通してだけですが)、「あの女」との「新しい人生」を再び思いもしたのに(「再び」とは、一度すでに恋をし、婚約までしたからです)、その可能性が心の底にふと浮かぶのを覚えもしたのに(殺人のほんの2日前に!)、やはり殺人を決行してしまい、その可能性をわが手で全にとざしてしまった。この事の成行き。ああ、神様、これはまたなんと愚かしい!」 

いや、それは「講釈師の見てきた嘘」ではないか? という反論が出るかもしれませんが、たとえそうだとしても、その「講釈師」は他ならぬドストエフスキー自身です。ドストエフスキー自身が、マルメラードフからソーニャの話を聞かされた「もうその時から」(これは第W部4におけるラスコーリニコフ自身の言葉ですが)、ラスコーリニコフがソーニャに心を惹かれ、その気持はその後のあらゆる事件を経過しても消えることがなく、かえって、次第に高まっていくというプロセスを、この小説の第T部から第Y部までの間に、じつに慎重に、しかし明確に、書いているのです。見たくない人が勝手に見ないだけの話です。

具体的には、第T部2、第U部1、第U部2、第U部3、第U部6、第V部2、第V部3、第Y部8で書いています。これで見れば全編を通じてではないではないかと言われそうですが、それはソーニャが登場しない個所だけを拾ったからです。ラスコーリニコフは「エピローグ」で、イルトゥイシ河のほとりで、ソーニャの膝にかじりついたときに、「突然」ソーニャに惚れ込んだわけではありません。

しかし、もう少し具体的に話を進めましょう。殺人の翌日、彼は警察署からの呼出状を受け取り、ぞっとしながらも、すぐさま署へ出向き、署員の態度から、これは殺しの件で呼ばれたのではないと察して一安心します。ところが、そこへやって来た署長の補佐官が、どういうわけかラスコーリニコフの態度に腹を立ててしまったことから、二人の間が険悪になったところへ、今度は署長が登場し、二人の間に割って入り、ラスコーリニコフにもたいそう愛想よく言葉を掛けます。その愛想よい言葉を聞いたとたん、ラスコーリニコフは「突然、何かとてつもなく気持のよい話をしたく」なり、署長に向かって、一年前に死んだ自分の婚約者のことを話しはじめます。署長とともに話を聞かされた補佐官は、署長も気恥ずかしくなるほど強いロ調で、「そんな聞くも涙のひとくだり」はわれわれには関係ないと罵ります。つまり、それほど、ラスコーリニコフの話し振りには生ま生ましい感情がこもっていたということです。そしてドストエフスキーは、「いったい、あのような感情がどこから湧き出してきたのだろうか?」という意味深長な疑問文をさりげなく地の文の中に忍び込ませているのです。

それから数日後、つまり、彼の母と妹が上京した翌日、ふたりを下宿に迎えた彼は、母親がびっくりするほど出しぬけに、またしても、死んだ婚約者の話を始めます。そのほんの数時間まえ、ラズーミヒンに向かって、婚約者が死んでくれてじつはほっとしたなどと言っていた母親が(第V部2)、今度は、話を聞き終ると、「お前、いまでもその女が好きなんだね!」と「すっかり感動して言った」とドストエフスキーは書いています(第V部3)。つまり、警察署の場面と同じことなので、それほど、ラスコーリニコフの話し振りには生ま生ましい感情がこもっていたわけです。

次は、いよいよこれから自首するという直前、下宿を訪れたドゥーニャに、ラスコーリニコフは、またしても突然、死んだ婚約者の話をします。しかも今度は、本の間にはさんであった婚約者の肖像画を取り出し、それにロづけをして、それから妹にに見せるのです(第Y部8)。

このつねに生ま生ましい感情を伴う回想が何を意味するかは明白です。この感情は、死んだ女性にではなく、生きている女性に、つまり、ソーニャに対するものであるとしか私には考えられせん。ひとつのささやかな場面が、そのことを疑問の余地もなく示しています。母親を感動させ、「お前、いまでもその女が好きなんだね!」と言わせたその同じ日、夜の11時ごろ、はじめてソーニャの下宿を訪れたラスコーリニコフは、はじめ、その無愛想な態度で彼女を震え上がらせますが、やがて、突然、それまでとは打って変ったやさしい声で、「なんてやせているんだろう!ほら、その手! すっかり透き通っている。指は死んだ女のひとのみたいだ」と言います(第W部4)。勿論、彼は以前、つまり、一年前、「死んだ女のひとの指」を手にとったことがあるはずです。彼の心の中で、死んだナターリヤ・エゴーロヴナと、目の前のソーニャ・マルメラードワとがいかに自然に溶け合っているかを、この言葉は見事に示しているではありませんか。

あの「あの女も、新しい人生も」の「あの女」がソーニャであることは、ここまで来ればもはや疑問の余地もないと言ってよいと私は考えますが、しかし、問題はその先にあります。エピローグの最後にいたるまで、つまり、この小説の最後の最後にいたるまで、ラスコーリニコフのソーニャに対する気持はなぜ直接に表現されないのか? なぜ死んだ婚約者を生ま生ましく回想するというかたちでしか表現されないのか?

私はこの文章の冒頭で、大雑把な「解説」は避けると書きましたが、それにもかかわらず、このあたりで話が大雑把にならざるを得なくなってきたのを感じます。残された紙幅は少なくなり、問題は大きくなるからです。そこで、今の問いにも、かいつまんで答えることになりますが、それはつまり、ラスコーリニコフの内部に不自然なものがあって、その不自然なものがソーニャに対する自然な気持の表現を(自分自身に対して表現することも、つまり、自覚することも、また、人に対して表現することも)妨げるからです。そして、その不自然なものこそラスコーリニコフの「理論」、殺人を可能にしたあの「理論」に他なりません。

その不自然なものに振り回されるラスコーリニコフにとって、自分つまりラスコーリニコフとソーニャとの関係は自分の「理論」対ソーニャの「信仰」という関係と見えてしまい、したがって、彼女に対する愛の自然な表現は、そのまま自分の「理論」の彼女の「信仰」への屈服と見えてしまうのです。しかし、自然にあるものはあるのですから、その自然にあるものはたとえ間接的なかたちをとっても現われざるを得ないわけです(その現われについてはもう先に具体的に述べた通りです)。

そして、エピローグの最後で、イルトゥイシ河のほとりで、ラスコーリニコフにとって、ラスコーリニコフとソーニャとの関係はラスコーリニコフの「理論」対ソーニャの「信仰」という関係ではなく、ただのラスコーリニコフ対ただのソーニャという関係に変るのです。それが「彼らを復活させたのは愛であった」という言葉の意味であると私は考えます。この一句はしばしば無視、嘲笑、軽蔑の対象とされるようですが、しかし、そういうことはこの世の中にあるのであり、つまり、ドストエフスキーはこの世の中にあったことを、あったと書いたにすぎません。あったからあったと書いただけのことです。勿論、信じようと信じまいと人の勝手ですが。

しかし、ここで、もうひとつの重大な問題に注目していただきたいと思います。「彼らを復活させたのは愛であった」という一句によくよく注目していただきたいと思います。「そんな聞くも涙のひとくだりに至っては、われわれとは何の関係もありゃしない」と、あの警察署長の補佐官イリヤー・ペトローヴィチと一緒に照れることはありません。照れて照れて、照れ隠しにドスエフスキーを隠すことにばかり専念するのでは、何のためにドストエフスキーを読むのか分らなくなってしまいます。

そこで、もう一度、「彼らを復活させたのは愛であった」というこの簡単明瞭な文章をよくよく眺めて下さい。肝心なのは「彼ら」という言葉です。「彼ら」とは、勿論、誰がどう考えても、スコーリニコフとソーニャとのふたりです、ということは、つまり、ラスコーリニコフもソーニャも、ふたりともが、いま「復活」したということです。ということはつまり、ラスコーリニコフもソーニャも、ここで「復活」しなければならなかったということです。ということはつまり、先に述べたラスコーリニコフの変化、すなわち、不自然な状態から自然な状態への変化が、いまここでソーニャにも生じたということです。ということはつまり、ソーニャの「信仰」も、これまでは、殺人を可能にしたラスコーリニコフの「理論」がラスコーリニコフの内部で果していたと同じ役割をソーニャの内部で果していたということです。つまり、それこそが売春という行為を可能にしていたということです。ということはつまり、『罪と罰』は、ラスコーリニコフの「罪と罰」の物語であるばかりではなく、同時に、ソーニャの「罪と罰」の物語でもあるということです。そしてこの事は、『罪と罰』理解の終点ではありません。とんでもない。これはただの出発点です。なぜなら、これは、『罪と罰』は、ラスコーリニコフとソーニャとのふたりだけの物語ではないのかもしれないのですから。