自身の「カラマーゾフ」を
カラマーゾフの兄弟(集英社 世界文学全集19 1975)巻末
江川 卓
『カラマーゾフの兄弟』について語るべきことはあまりにも多いが、ここではこの作品をつらぬく二つの中心主題−キリストの主題と父親殺しの主題のみにかぎって解説めいたことを書いた。もともとこの作品は、いわゆる過不足ない解説がほとんど不可能に近い小説である。というより、なまじっかな解説など超越したところに、この小説のまさしくユニークな世界が存在し、だからこそ、一度この小説の毒にとりつかれた読者は、何度となく小説そのものに立ち戻って、そこに自分自身の『カラマーゾフ』を見出したくなるのである。
つまり、この小説の世界には、あたかもそれが時空を超えてじかに読者自身の世界につながっているかのように予感ないし錯覚させる何かがあり、一度その何かの存在に気づかされてしまうと、さあ今度は、それをしかと確かめるまでは、まるで自身の存在は宙づりにでもされでもしたように、なんとも落ちつけなくなってしまうのである。
私自身の読書体験からいうと、この“何か”は、中学生のころ、はじめてこの小説を無邪気に、いわば推理小説的な興味で読みとばしたときから(むろん「大審問官」だの「ロシアの修道僧」だのというこむずかしいところは斜めに目を通しただけだが)私の意識か意識下だかに、まるで澱(おり)のように残った記憶がある。二度読み返して、アリョーシャの美しさに感傷的なあこがれを覚えたときも、やはりそうだった。
そして、とうとう自分で翻訳する羽目になり、こうして訳し終えたいまも、おそらくその化学的組成はいくぶんかは変化したのだろうけれど、やはり以前と変わらず、まぎれもない澱が心の底によどみ、現に私を不安にかりたてていることを感ずる。そして、それでいいのだろうと考えている。
私としては、はじめてこの作品に取り組まれる読者にも、興味が持続し、時間さえあるなら、何年間をへだててでもよい、何度かまたこの作品に立ち戻り、読み返していただけたらと願っている。これは何度読み返しても、そのたびに新しい発見を贈ってくれる珍しい本、世界文学の真の古典なのである。
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