ドストエーフスキイ全作品を読む会
再録:ドストエーフスキイ全作品を読む会 読書会通信 No.75(2002.10.1)
プレイバック読書会(会報No.35:1975・1月 第28回読書会)
『罪と罰』について
井桁貞義
もうちょつと天井が低ければラスコーリニコフの屋根裏部屋に似るような、池袋の喫茶店の三階に十人くらい集って(みんなここが気にいった)。三回目を教える『罪と罰』の読書会が行われた。この会に来るというのでまた読み返したら、やっぱり息もつかせずに読んでしまったと安田さん。そして感じたこととして、斧を機械的に振り下ろす行為を中心にして、全てがいわば偶然のうちに起こる、そのことが不思議な気がする、ということだった。ここには普通多くの小説においては筋を運ぶ、主人公の意志とか因果の系というものがない。それにしても夢中になって読むのはどうしてだろう。小説は何かで動いているのに、何かに心が引きずられるのに。
もう一つ印象に残ったのは下原敏彦氏の出した問題で、老婆殺しを皇帝殺害と二重映しに考えられないかという提起だが、たぶんそれは無理で、むしろ何の取柄もない虱みたいな人間を殺すようにしているのがこの小説の凄さであり、意味ではないか、と、これは新谷氏の意見だった。この時ふと思い出したのはギリシャ悲劇を小説の形に変換したものだというモチューリスキイの見方だ。絶対者と、或いは運命と彼は闘っているのだろうか。それとも彼の闘いはいわゆる虚無との闘いなのか、いや、彼は何者かと闘っているのか。彼に間違いなくあるのは、生きたいという感覚であろうけれども。
ラスコーリニコフは街を彷徨する地下室人だが、彼が自己意識から解き放たれ、他者と出会い、生きた関係を結び、救われるのは何によってか。自分の分身と敵対するようになってしまった意識過剰な人間にとって、本当の生活、生きた中心に出会うためには、そこに何かが求められなくてはならない。ぼくはそんな問題の設定から短いレポートをした。
創作過程を通じて、ラスコーリニコフの復活の道を模索し続けた作者は、連載の最後の回になって、復活の瞬間を小説の外へ、エピローグへと移した。考えられていた小説の大団円、それは例えばラスコーリニコフの火事場での功業、あるいは彼がつむじ風の中にキリストの幻を見ると言うモチーフであったが、それは最終稿では放棄された。創作過程の終わり近くまでこのモチーフが維持されているのを見る時、ではその場合、小説中でのソーニャの役割とは何だったのか、という疑問が浮かんでこよう。ソーニャもまた、おそらく不動の支点ではなく、彼女の生は、レベジャーニコフとリザヴェータ、そしてラスコーリニコフとの関係において変化している。そしてもしソーニャがそのような人間であるのなら、この小説の光源はどこにあるのだろう。
そんなふうに考えてくると、ラスコーリニコフとソーニャとの間にリザヴェータの姿が浮かんでくるだろう。ソーニャはラスコーリニコフに、自分の罪の行為としてリザヴェータから与えられた襟のモチーフを語る。リザヴェータから与えられた聖書はシベリアでラスコーリニコフに手渡される。ソーニャは自分の十字架をラスコーリニコフに与え、自分には同じ時リザヴェータの十字架を身に受ける。その十字架は殺人の場面でラスコーリニコフの眼を射たものだった。この三つのモチーフから、一組の男女を照らすリザヴェータの光が見てとれるのだ。
〈ああ、リザヴェータがいてくれたら〉という小林秀雄のソーニャへの洞察はそのことを言うのではないか。それはそれとして、一組の男女の関係が、つまり相互の愛だけがそれだけでいったい二人を復活させ得るだろうか。このようなレポートをしてみて、ソーニャが彼を救うものとは思えない。この二人は同じような人間だと感じると佐伯さんが同意してくれたのは嬉しかった。神へ至る道と、ナロードという共同性への回帰とが復活への二つの道と思われるが、会の終わり近くに、根源語〈われーそれ〉から〈われーなんじ〉への変容に際して、神への関わり、生きた中心がなければならないとベルジャエフやブーバーは言う。それがわからない。こうしてドストエフスキーを読みながら共同性が成立していないだろうか、とポッリと野田氏が呟いたことが印象的だった。問題の中心はシンボルなのだと、しばらく前からぼくは考え始めていたところだった。