下原敏彦の著作


小説 ドストエフスキイの人々 (連載中)

庵 敦吾

20数年前清水正発行「D文学通信」掲載したものに加筆して2017年12月より「ドストエーフスキイ全作品を読む会 読書会通信」にて連載中です。この物語はフィクションです。現存する如何なる団体とも関係ありません。

はじめに

 たとえば1931年に刊行されたエドワード・ハレット・カー著の評伝『ドストエフスキー』(1968年筑摩書房、村松達雄訳)にD・S・ミルスキーのこんな序文がある。
 「イギリスのドストエフスキー熱もかなり衰えてきた。もう彼を預言者とみるといったような問題も全然なくなった。特に彼に関連しての心理学的問題も今日ではかってのように人々の心を惹かなくなったようだ/今日では彼を小説家以上のものとみないことで満足するようになった。これまでの彼に関する書物は、多少ともすべて古くさいものになってしまった。/真の近代思想というべきものは、ドストエフスキーの影響を受けておらず今後とも受けないであろう。少なくともロシアにおいては、近代的精神はドストエフスキーにはなくチェルヌイシェフスキーにあるということはあきらかに理解されている。(ユートピア=社会主義の国と思われていた)」
※ミルスキー(1890~1938?)30年代に粛清 ロシアの批評家、著書『ロシア文学史』
※チェルヌイシェフスキー(1828~1889)ロシアの批評家、小説家、農奴制の徹底的一掃主張。シベリア流刑。長く革命的青年層に影響を与えた。(文学小事典)


 しかし、ドストエフスキーは今日まで営々と読み継がれてきた。或る時は盛大に、またあるときは密やかに議論され、考察され、語り継がれてきた。時代の闇を照らす預言者として、人間社会の警鐘者として注視つづけられてきた。そして、その評価は今も昔も変わることはない。1922年ペレヴェルゼフは革命さなかのロシアで「現下においてこそ、ドストエフスキーを想起し」と訴えた。1969年日本において「明治以後のわが国知識人の精神史に、ドストエーフスキイ文学のあたえた影響は、今日にいたるもその持続度と深さにおいて、他に類をみないものがある」として「ドストエーフスキイの会」が誕生した。このとき自然発生的に「ドストエーフスキイ全作品を読む会・読書会」ができた。1971年に「国際ドストエーフスキイ学会」が設立された。1993年、ロシア文学者江川卓氏は講演《ドストエーフスキイと現代》で「現代のロシアは大審問官の縮図である」と、総括した。それは今のプーチン政権下のロシアにおいても変わることがない。
※ベレヴェルゼフ(1882~1968)ロシアの文芸批評家。1912年に『ドストエフスキーの想像』(長瀬隆訳)を刊行した。この中に「ドストエフスキーと革命」がある。

ドストエフスキー没後137年激変する新世紀はじめにあってドストエフスキーの予見はますます人類の行く末になくてはならないものになっている。その証拠に2017年にも、新たな団体「日本ドストエフスキー協会」ができている。さて、この物語は、この偉大な作家フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキーその人と、彼が残した多大な作品群に憑かれた人々のお話である。

小説 ドストエフスキイの人々

一、今日的名曲喫茶
二、ドジョウの会
三、そして誰もこなかった
四、それぞれの夢
五、会誌『ドジョウ時代』
六、女子大生大野キン子
七、遅れてきた青年

主な登場人物
□夢井信吉 ドジョウの会の地方会員   □大野キン子 女子大生 主人公
□渋川哲春 ドジョウの会顧問      □丸山茂喜 ドジョウの会事務局長
□浜島 敬 ドジョウの会の会計係    □小堀清人 ドジョウの会の会誌編集長
□石部健三 ドジョウの会の会計監査役   時代は平成元年の春



一、今日的名曲喫茶

 ときは平成、春弥生、ここは東京池袋、天にそびゆるサンシャイン、へいげい足下のちまたにはネオンの海が広がれど、かって昔に三奈嬢が妖しく媚態に歌いたる、彼のため息の街ならず。時の移りにドヤ街も今は変わりてモダン都市。若人集う街角にマルメラードフ今いずこ。旧きをたずね彷徨えば、未だありなん昭和の遺跡。レンガ造りの外壁に蔦のからまる北欧古城。これぞなつかし名曲喫茶、しばし憩わん春の宵。
 ――と、いうわけで平成はじめのある春の夕、私は所用で池袋に行った折り、JR池袋駅から人ごみをかきわけ、久しぶりに昔馴染みのその珈琲館に入った。店内は、夕刻どきの混雑に呼応するかのようにビゼーのカルメンが高らかに鳴り響いていた。しかし、名曲喫茶も今は昔。近頃はたんに若者たちの待ち合わせ場所になってしまっていた。見る限り、うっとり名曲に聴きいる客も、酔狂に一人愁いて孤独にひたる客もいない。ロココ風の店内は一階、二階とも若いカップルや学生グループの笑い声、叫び声が洪水のように溢れていた。加えてこれに負けじとボリュームいっぱいにあげた音楽。店内は、まさに闘牛場さながらの騒々しさであった。が、これも時世とあきらめて一杯のコーヒーをすするほかなかった。
 ところが、店内を見まわすと三階だけが、ちと様子が違う。一階二階の喧騒をよそにひっそり閑と静まり返っている。上がって行く客もいない。そのわけは階段口に貼られた一枚の紙にあるようだ。「三階は、『ドジョウの会』様貸し切り」と書かれている。はてさてドジョウの会とは、これ如何に。私ならずとも興味を引こうというもの。ドジョウといえば安来節。その集りでもあるのだろうか。しかし、和風の料理店ならいざ知らず、民謡とはほど遠いこんな店で…、首を傾げながらも思わず失笑がでる。同じことを思い浮かべる客もいるようだ。上がろうとして立ち止まり張り紙をながめていた若者二人、どっと笑うとドジョウすくいの恰好をしながら引き上げていった。それにしても、全フロアー貸し切っての集りとは、よほどの人数のはず。だがしかし、三階は明かりはあるが人けなし。深山幽谷のごとしである。
 ドジョウとは、いったい何の会であろうか。暇人というほど暇ではないが、所用も済んだし、気になって仕方がない。いらぬ節介、野次馬根性だが、ちょいと観察してみることにした。そんな酔狂が、この物語のはじまりである。

二、ドジョウの会

 明かりはあるが人けなし。深山幽谷のごとしとはよくいった。それもそのはずであった。三階の店内には、たった五人の男性客が中央にテーブルを寄せ集めてつくった会場で人待ち顔でだんまり座っているのみ。彼らの年齢は白髪の一人を除いて中年から初老にかけてといったところ。服装は背広姿の御仁もいれば、ブレザーありジャンパーありのそれぞれである。が、皆一様に黙して語らずで、沈みきった雰囲気。間違っても安来節では、なさそうだ。
 普通、集った顔ぶれをみれば、かのシャーロック・ホームズやポリフイリー判事でなくとも凡そのところ見当がつくというものだが。この御仁たち、如何なる集まりか、推測し難たいことこのうえもない。例えば年齢から想像つくのは会社の同僚、同級生、はたまたゴルフ仲間に町内会といった感じである。全フロアー貸し切りでテーブルに二十近い椅子が用意されているのをみると政治団体とも宗教団体とも思えるのだが、その手の会合にみられる覇気がない。考えればかんがえるほどわからない。そもそも「ドジョウ」とは何か、まさか一歩譲って柳川鍋をつつく会かも。が、土鍋もコンロも用意されてない。さすがにそれはないようだ。     
 この閑古鳥鳴く会場に、さっきから長髪をポマードで固めた背の高いボーイ君が、調理場のある、階下から再三再四あがってきては、一つ覚えの九官鳥よろしく「お飲み物はどういたしましょうか」と、繰り返していた。
 その都度、石地蔵のように黙りこくっていた彼らは、尻をつつかれた昆虫のように、緩慢に顔を見合した。この度も、一斉に互いの顔を見合わせていたが、そのうち階段口に座っていた体の大きな背広姿の御仁、つまりこの会の事務局長でもあり今夜の幹事、丸山重喜という霞ヶ関のさる省庁に勤めるお役人だが、おもむろに腕時計を見つめたあと、少し裏返った声で困惑げに「どうします、みなさん」とたずねた。
 しかし、皆の反応といっても四人だが、彼らの反応はいたって鈍い。名ばかりではあるが会の会計担当をしている実直そうな御仁、綿貫利昭と年のころ三十五六と一番若そうな御仁、こちらも編集委員の肩書きをもつ小堀大輔、二人は同時にふっと情けないため息をもらすばかりだ。一人、落ち着かない御仁がいる。こちらは監査役で会きってのうるさ型、石部謙三であるが、さすがいまは返答には窮して苦虫を潰し貧乏揺すりするのが精一杯といったところだ。こんな気詰まりのなか、一人のんきに構えているのはこの会の顧問を引きうけている白髪の紳士。都の東北X大の渋川陽一郎教授。槍が降ろうと白川夜船。席に着いたときから頬杖枕である。
 しかし、今度ばかりはおめおめと引き下がれるものかと、ノッポのボーイ君、直立不動でよき返事を待っているのである。そんな決意もなんのその、相変わらずの五人衆である。なんというルーズさ、煮えきれなさ。もうとっくにこのパーティの開催時間は過ぎているのだ。ラストオーダーの時間というものがある。なんとしても、もうはじめてもらわなくては困るのだ。ボーイ君、とうとう痺れをきらして申し出た。
「あのう、何時ごろからはじめられるでしょうか。お時間はとっくに過ぎておりますが」
無理につくった笑顔が引きつっている。
 だが、皆からは相変わらず返事なし。曖昧模糊としてのだんまり戦術。幹事の丸山一人が弱りきって、額の汗を拭うばかりだ。気まずい沈黙だけが卓上のすっかり冷えてしまったフライトポテトやから揚げの上を漂うばかりである。
「そろそろお飲み物、お持ちしてもいいでしょうか」ボーイ君、慇懃無礼に事を運ぼうとするつもりらしい。
 が、このときさすがの昼行灯。渋川教授、いきなりひょいと顔をあげると、その仙人のようにのびた白髪をかきあげ「もう少し、待ってもらいましょう。もう少し」と問答無用の寝ぼけ声。それだけ告げると元の狸か狐の眠り。
 納得いかないのはノッポのボーイ君だ。このあと、本当に誰かくるんですか、と言いたげにピクリと頬を引きつらせた。だが、店のオーナーが教授の教え子と聞いているだけに露骨に嫌な顔もできず、ここは微笑して「それでは、もう少し皆様がそろいましたら」と馬鹿丁寧に頭を下げてそそくさと引き上げていった。
 ボーイ君の姿が階段の下に消え去ると、一同ほっとして安堵のため息。店内は、ふたたび洞窟のように森閑として、階下のにぎわいだけがやけに大きく響いてくるだけ。そんななかで皆の胸内に一つの疑問。いまの渋川教授の言葉である。
 もう少し待つとは、あてでもあるのか。もしかして約束でもあるのかも。だが、再びの頬杖枕の教授に確かめるわけにもいかず、てんでに思いをめぐらせていた。
「来ませんねえ、ほんとうに・・・」小堀は考えの重さに耐えきれなくなってつぶやいた。もう何度目の嘆息か。「来ませんねえ・・・」 一体だれを待つのか五人衆。ボーイ君の姿が階段の下に消え去ると、一同ほっとして安堵のため息。店内は、ふたたび洞窟のように森閑として、階下のにぎわいだけがやけに大きく響いてくるだけ。そんななかで皆の胸内に一つの疑問。いまの渋川教授の言葉である。もう少し待つとは、あてでもあるのか。もしかして大勢さんの約束でもあるのか。だが、再びの頬杖枕の教授に確かめるわけにもいかず、てんでに思いをめぐらせていた。
 一体だれを待つのか五人衆。宵の帳は濃さを増すばかりである。
(以上 通信165号 2017.12)  

三、そして誰もこなかった

「これは由々しき問題ですぞ!」突如、浜島が吐き出すように言った。「もしだれもこないとすると、これだけの場所を借りきっているんですからねえ」
 名ばかりとはいえ、さすがに会計係りである。はじめのうちは冗談ぽかった彼の声もいまではすっかり深刻味をおびて裏返っている。
「うーむ、こんなことだったら料理の方は頼まなくてもよかったですねえ」丸山は背広のボタンがちぎれ飛ばんばかりに太ったからだを傾げて後悔しきり。
「しかし、誰も来ないということはないでしよう。いくらなんでも、地方の会員は仕方ないとしても東京近辺の人は、その気があれば来れる登録会員は、百人はいるんだ。それに、今日のは、ただの総会じゃあない、緊急の特別会議なんだ。会の存亡がかかった」石部は吐き出すように言って乱暴に席を立つと、落ち着きなくテーブルの周りを歩き始めた。性格が直情径行の石部には、もうこれ以上イライラを押さえきれないといった様子だ。ひとりごとを繰り返し自分に向かってぶつぶつとぶつけている。「しかし、誰も来ないなんて・・・しかし」
「いやあ、この分じゃあ、ありえるかも知れませんよ。むしろその方が確率的に高くなっているでしょう。いつものことですが」丸山は、お役人らしい見通しで諦め口調で言った。
「あり、ありえるだなんて、事務局長!」石部は、目を剥いて声を荒げた。「冗談じゃあないですよ。出席者がゼロだなんて、縁起でもない。もし、そんなことになったら、私んとこの印刷代はどうなるんです。会はなくなったって、またつくればできますがね。借金は残りますからね。役員意外の会員が一人も来ないとなると、これは、大ごとですよ。まったく」
「石部さん、またまたそんなことを言い出して。仕方ないじゃありませんか」浜島は、手持ち無沙汰に電卓をたたきながらたしなめるように言った。「こればっかりは、どうしょうもないんじゃないですか。天災とおなじで仕方ないですよ」
「仕方ない!君い!仕方ないで済まされる問題じゃないよ。のんきなことを言ってちゃ困るよ。会計係が。だからお役人は困る」
「じゃあ、どう言えばいいんですか」浜島は気色ばんで言った。市の相談室職員だが、お役人と呼ばれることを異常に嫌っている。そのくせゴリャードキン氏論には熱心だ。
「そのう、あれだ・・・」石部は、ちょっと返事に窮したあと少し語気を和らげて言った。「・・・だから仕方ないはないだろう。仕方ないじゃあすまされませんよ」石部は禿げ上がった額を真っ赤にさせてつづけた。「だいたい私は反対だったんだ。いまどき、この手の雑誌を創刊したって成功するはずがないってことを。この手の論文ものは売れるはずがないってことは分かりすぎるくらいわかっていた。全学連はなやかなりし頃のふた昔前だったらいざ知らず、いまじゃ時代錯誤もはなはだしいもほどがある。それで、私は、はなっから乗り気ではなかったんだ。ある程度、予想がついてたね、こうなるんじゃないかと」
「えっ!本当ですか!」浜島は素っ頓狂な声をあげた。「わたしは初耳ですよ。社長さんが今回の出版に関して、そんな見識というか見通しをもっていたなんて。事務局長、そんな意見ありました?あのとき」
「あの編集会議でしょ。一切ありませんよ。そんな話は」丸山はきっぱり否定した。「あるもないも雑誌の発行は、全員が、賛成でしたよ。慎重論さえでませんでした。それに、わたしの記憶するところでは石部さん、だいたいにあなたが一番に乗り気だったですよ。ドストエフスキイは今日、この過渡期の時代にこそ必要だとか、広く社会に宣伝して現代文明警鐘の書としなければならないとかなんとか一席ぶったじゃないですか。なかなか名演説でしたよ」
「そうそう、ビデオやマンガに溺れる飽食日本の若者の目を覚ましてやるのだと意気込んでいました。覚えていますよ」
「ほお、そんなこと言いましたっけ」石部は他人事のように驚いたふうをみせて言った。「あのときは世評を言ったまでですよ。別に雑誌の件で言ったわけじやない。もしかしてドストエフスキーは現代に必要だとは言ったかも知れませんが、それは雑誌を刊行するしないで言ったことじゃあないですよ。とにかく、わたしは創刊号をだすことについては最初から慎重論でしたよ。危惧してましたよ。結局のところしまいには、こうなるんじゃないかと、みえてましたてよ。そりゃあ、わたしはしがない印刷屋のおやじですがね。それでも一応、経営者だ。だいたいのところは予期できますよ。まあなんというか、事業家のカンというか・・・それがありますから」
 なかばからかい口調で言った。「しかし、あのとき1万部以上のベストセラーにするなんて大風呂敷をひろげた人はどなたでしたっけ。おまけに後から足らないと困るとかで百部も追加印刷したのはいったいどこのどなたでしたか。おまけに、自分とこの工場をビルに改築するなんて、ちゃっかり胸算用までしてたじゃないですか」

四、それぞれの夢

「ほう、たいした記憶ですな。そんなこと言いましたか。しかし、いい加減なこと言ってもらっちゃ困ります。百歩ゆずって、言ったとしても、たいして驚きませんよ。たとえ、そんな大法螺吹いたとしても当然じゃないですか。会の存亡をかけてなにかやろうとしてたときですからね。一か八か、望みはでっかくですよ。大ボラ結構じゃないですか。ハハハ」石部は、指摘された、自分の発言を吹き飛ばすかのように声高かに笑ってハゲあがった広い額を平手で軽く打ってから、人差し指を浜島に向けて逆襲する。
「そういう話ならわたしだって覚えていますよ。浜さん、あなただって、あのときは随分はしゃいでいましたよ。『白痴』を撮った黒澤明監督に掛け合ってドストエフスキーの伝記映画を作るんだって相当の熱の入れようだったじゃないですか。われわれ、「ドジョウの会」が制作に加われば日本アカデミー賞だって夢じゃない、そんな途方もない妄想にとりつかれていたじゃないですか。そこにいくとわたしの工場のビル建設計画なんか可愛いいもんです。浜さんのに比べたらささやかな夢ですよ。極めて、現実的な」
「なにが現実的ですか」浜島は顔を真っ赤にして言った。「妄想じやありませんよ。ボクは今でも思っていますよ。石部さん、あなたのように何部売れて儲かったらビルをつくろうなんて、そんな卑しい気持ちじやないんです。今回の創刊号で一段落ついたらドストエフスキーの愛読者を増やすために黒澤監督だけじゃあなしに世界中のドストエフスキー監督に手紙を書いて協力を要請する計画だって小堀君とたてていたんだ。現に実行しようとしていたんだ。なあ小堀君」
「え、ええ、まあ、茶飲み話ですけど」小堀は照れくさそうに小声で言って頷いた。顔が赤くなった。
「ほう、そりゃあまた結構なことだ。そんな壮大な、そんな遠大な計画をお二人でたてていたというわけですか。まことにすばらしい。わたしのビル建設計画なんか、みみっちいもんですな。吹けば飛ぶような夢だった。こりゃまた失礼しやした」
「まあ、いいじゃあないですか。どんな非現実的な夢だって。あのときは誰もが夢をもっていたわけです。だからこそ創刊号を刊行できたのです。そうホメ殺しするような言い方もないでしょう」丸山は幹事らしく割って入る。
「ホメ殺し、なにもそんなつもりじゃありませんよ。本当にたいした計画だと感心したまでですよ」石部は鼻をならしてどっかと椅子に腰を下ろした。そして、腕組みをしてふんぞり返ると貧乏揺すりをはじめながら言った。「そういえば、丸山さん、事務局長だって、相当に張り切っていたじゃないですか。成功したあかつきには二十五周年記念を兼ねて新宿西口の高層ホテルで大々的に出版パーティを打ち上げるなんてほざいてたんだから。忘れたなんていわせませんよ」
「ああ、石部さん、よく覚えていらっしゃる。はいはい、否定しませんよ。確か、そのようなことを言ったように記憶しています。なにしろあのときは出航まえですからねえ。みなさんすっかり舞いあがっていたし。もしかして、これを契機に会の運命が明るい方に拓けていくんじゃないか。そんな希望というか期待がありました。『世界ドストエフスキー友好協会』設立へ向けて一歩前進。そんな思いがありましたからね。だから、事務局を預かるものとして盛大に記念行事をやりたいぐらいの挨拶はやりますよ。私としても、本当にそれが夢ですからねえ」丸山はダンゴ鼻を膨らませ些か興奮気味に言った。
「ほんとあのときは、皆さん張り切っていましたよね。聴衆こそいませんでしたが、ぼくなんか、あのプーシキン記念式典のドストエフスキイの講演を思い浮かべました」小堀は懐かしげに、しかし感傷を含んだ声で言った。
「ああ、それなのに、それなのに、か」突然、浜島は歌いだすと大声でつぶやいた。「そして、悲しき、祭かな、か」
「ベストセラーどころか、このていたらくだ」
「しかし、何の批評もないとはねえ。まさか新聞にも批評家連にもまったく無視されるとは思ってもみなかったです」
「近ごろは、見る目のあるやつがいないんだ」石部は憤然として言った。
「まあ、売れる、売れないは仕方ないとしても、せめて記念行事だけでも敢行したかったですね。我々一人一人に違った夢があって、その夢でせっかくちゃんとした本をだしたのだから、お祝いぐらいはしたかったね」浜島は残念そうにため息をつくと愚痴った。「そもそも、その資金ぐりを創刊雑誌の売上から得た収入で、なんて考えたのが甘かった」
「わたしんとこのビル建設計画に、浜さんの伝記映画製作、それに丸山事務局長の出版記念パーティ計画・・・おつ、小堀君のを忘れてたよ。浜さんと映画協力の他にあっただろう、えーと、なんだっけ」
「いいですよ。ぼくのは」
「それはないだろ、われわれのホラをさんざっぱら披瀝させておいて。自分ばかり恰好つけようと思っても、そりゃだめだ」
「あっ、おもいだした」浜島が叫ぶ。「ビルだよ。ビル」
「ビル?なんや」
「ビル建設やで、でも、石部社長のビル建設計画とは、違いまっせ、コボちゃんのは日本ドストエフスキイ会館の建設計画」
「おお、そうだった。何、わたしだって、自分の工場のことばっかり考えていったんじゃあない。当然、ビル家屋の中に、『ドジョウの会』事務局の部屋をつくることにしていた」
「ふん、ほんまですか。社長はすぐこれだ。調子いいんだから」
「何です!」石部は目をむく。
「まあ、皆さんの夢はさておき、もしこの本がベストセラーにでもなっていたら今ごろは、すごいことになっていたでしょう。たぶん、ホテルの大広間は全会員の出席や各界のドストエフスキイ関係者で大盛況間違いなしだったでしょう。なにせ二十五年前この「ドジョウの会」を発足させたときはすごかったですからねえ」丸山は華やかなりし当時を思い出して感慨深めになつかしむ。
「栄枯盛衰とはいったもの、いまでは、未だ来ぬ会員を待ってボーイが注文をとりにくるのを冷や冷やしている始末。まさにこれを喜劇といわずして何という、ですな。ついこのあいだまでは、何人かの会員の参加者があったのに・・・それが・・・」浜島、店内を見回しうそぶく。「国敗れて山河あり、はたまた、つわものどもが夢のあとか・・・」
「ふん、浜さん、夢の跡でも、山河でもあればいいですよ。あれば。何か残っていればいいですよ。それを元手に何かできますから。夢の跡なら、思い出話しになるし、山河なら観光地にもなるし、百姓だってできる。しかし、我々の場合、何も残っちやいない。何もない。いや違う。我々の場合、残っているのは借金の山だ。ゼロどころか大マイナスときている。これじゃあ、なにかはじめようにもどうにもならん。おまけに頼みの綱の会員も目下のところ一人も出席せずだ。この調子じゃあ本当に誰も来ませんよ。これ以上いくら待ったってしょうがない。そろそろ、今後を含め、どうするか話し合った方がいいんじゃあないですか。もうこれ以上タラネバの話しをして悔やんだってしょうがない」石部は落ち着きなく貧乏揺すりをはじめると、断固たる態度で言い放つ。「いったいどうするんです。いくらなんでも私んとこだけが尻拭いするのはごめんですからねえ。このままでいくと・・・」
「ええ、わかってますよ。そんなことがないようにと、こうして臨時会議を開いたんじゃないですか」浜島は苦虫をつぶして言うと丸山を見て苦笑いする。二人とも石部にその話しを持ち出されるのはうんざりといった顔だ。(以上通信166号 2018.2)   

五、会誌『ドジョウ時代』

 つまるところ話しは責任転嫁の堂々巡り、会話のいきつく先はいつもここ、積もり積もった借金の山。一同、ふっと思い出すと、これまでの好き放題の会話はどこへやら、気がついた現実の重さに口をつぐんだ。石部は口をへの字にへし曲げ、再びがたがたと貧乏揺すりをはじめれば、浜島は何度計算し直しても同じ数字しかでない電卓をたたいては恨めしげに見つめるばかり。幹事の丸山は階段口を睨んだまま時折長いため息をもらすだけ。本当に眠ってしまったのか渋川教授は化石のように動かない。またしてもテーブル上は重苦しい空気がよどんだ。階下の賑やかさが余計にその静けさを際立たせた。
「す、すみません!」突然、小堀が叫んで立ちあがった。一同、ぎょっとして見つめるなか彼は頭をテーブルに打ちつけんばかりに下げて詫びた。
「すみません。みんな僕が悪いんです。僕が間違ってました。この一億総白痴時代にドストエフスキイをひろめようと思ったのが間違いの元でした。いまこそ人類にとってドストエフスキイが必要だなんて、そんなことを一人よがりに信じきっていた僕が浅はかでした。僕が、最初に本を出版すべきだなんて言い出さなければ。皆さんに迷惑かけることなかったんです。会をこんな状態にすることはなかったんです。本当に、なんて謝ったらいいのか」
「いやあ、困るよ、小堀君、そんなこと言い出しちやあ」丸山は苦りきった顔でなだめる。
「誰もあなたの責任だなんて思ってやしないですよ。ドストエフスキイを読もう会通称ドジョウの会は発足以来二十五年、当初の華々しさはありませんが今日までなんとかつづけてこれた。その記念碑として、これまでの同人誌的なものではなく、ちゃんとした本を出版したい、そうした気概というか、意欲は我々の誰にもあったのです」
「そう、その通り、事務局長の言う通りだ。何も小堀君一人が責任を感じることないよ。」浜島も口添え。「ちゃんとした本を出版するというのは夢でしたからね。我々の、このドジョウの会発足時からの念願だった。まだ盛会だった十周年のときも出版の話しはでた。しかし、ここにいらっしゃる渋川先生が一番ご存知だと思うのですが、あの頃は船頭多くして船うごかず。いろんな案がだされたが結局はまとまらなかった。個人的に出版された方もいましたが、会では刊行できなかった。いつかそのうちにと思っている間に年月だけがたってしまって。会員も当初は三百人近くいたのに、回を重ねるごとに一人減り、二人減りで、いまでは、結局、ちやんと年会費を納める会員は50名をきってしまった。が、それでも我々はあきらめなかった。だから、今回の創刊号だって積極的だったのは、会の創設に関わった我々だった。でも、先細る一方の会の実態に、はっきり言い出せなかった。誰かが言い出すのを待っていたんだ。だから、ちょうどよかったんです小堀君の提案は」
「そういうこと、私もいつか切りのいいときに言い出そうとおもっていた。だから、この問題はコボちゃんが言い出したからとか、どうのってことじゃあない」
「そう言ってもらえれば・・・」小堀は消え入りそうな声で言って、腰をおろした。
 彼は、もと地方都市に住んでいた。半年に一回東京都内の会場、主に星河大の渋川教授の研究室だが、そこで開かれる例会に新幹線で上京し出席していた。その熱心さをかわれて会の会報の編集担当になり会報誌の編集を任せられた。すると彼は持ち前の責任感の強さから、都内に職をみつけ、引っ越してきた。小柄だったが、ことドストエフスキイにかけては誰にも負けないほどの心酔ぶりだった。かって詩人の萩原朔太郎は「ドストエフスキイこそ我が神」と叫んだが、彼も詩人に劣らず、ほとんど信仰のようにドストエフスキイを信じて、青春のすべてを会の活動に捧げていた。しかし、その苦労は報われなかった。今日、この有様が、そのことをものがたっていた。彼が費やした時間と努力は水疱に帰した。会は衰退の一途をだどり、今宵終着駅に着くかも知れないのだ。彼が会で得た唯一の収穫は以前例会の会場にしていた新宿の談話喫茶で、その店の予約係りだったウエイトレス嬢と付き合いはじめ、昨年秋になって遅い結婚をしたことだった。近くに子供も生まれる予定もある。新しい生活と念願の出版。二つの喜びにつつまれていた。そうした諸事情や意気込みを知っているだけに慰めようもない。皆は言葉を失って口をつぐんだ。テーブル上にはふたたび重く沈んだ空気だけがよどんだ。
 「ああ、せっかくの記念碑が墓標になりやあ世話ないや」突如、石部が半ば自棄っぱちのように声をあげた。
 「起死回生のつもりが、アリ地獄とはねえ」浜島も首をひねってこぼす。「いったい、何がまずかったのかねえ」
「題名だよ『ドジョウ時代』、柳川鍋をイメージするね。いつ聞いても」
「そうですか?!ドジョウとは何か?の疑問のほうが先で皆さん賛成したのでは」
「読みませんからねえ」不意に渋川教授がむっくり顔をあげて言った。てっきり眠りこけているものと思いこんでいた一同、ぽかんとしてみる。教授、すまし顔で、テーブルの上にはずしておいていた眼鏡をとると、テーブルクロスの端でレンズをぬぐいながら言った。「近ごろの学生は、ドストエフスキイどころか、古典文学などほとんど読みませんよ。作家と作品は受験対策で覚えたんでしょう。誰が何を書いたか、それなりに知ってはいますが、いわゆるクイズの答えですよ。中身の方はさっぱりですね、たまに読んでいるかと思うと、これが解説書かあらすじをただ教養のために暗記したというだけでねえ。とてもドストエフスキイを読むなんてとこにはいきませんよ。まあ、日本の学生に、限ったことじゃありませんがね。ドイツではゲーテを読む学生がいなくなったというし、イギリスではシェイクスピアも読まれなくなったといいますからね」
「我々の時代とどこが違うんです」かっては学生運動の闘士だったという浜島はなっとくできない顔だ。
「ほかにすることが、といっても遊び事ですが、多くなったんですよ。それに当節は無理して考えなきゃあいけない政治問題も哲学的なこともありませんしね。世の中、軽いノリで流れてますから、ドストエフスキイのようなくどいものはちょっとね。それに今はなんでもマンガですよ。政治も経済も法律も。活字族にとっては嘆かわしいことかも知れませんが、若者にとってはわかりやすくていいんですよ」
「そういえば、うちの庁内でも見かけましたよ」丸山が頷く。
「えっ、法務省で、ですか?!」
「新人の机の上に、見なれない本が置いてあるんで、ちょっとのぞいたら、これがマンガなんですよ。狭山事件っていうのがあったでしょ。作家の野間宏だかが協力して冤罪を訴えていた」
「どんな事件でした」
「ほら、狭山のお茶畑で警察が犯人を取り逃がして後で別件逮捕した」
「ああ、」
「えーと、吉展ちゃん事件があった年に起きた事件。あの事件ですよ」さすが、本業とあって詳しい。
「へーえ、お役人もねえ」浜島は腕組して感心する。
「文学書を抱えているか読んでいるものといったら、ばななか、春樹、それに何とか探偵シリーズぐらでしょう。変わりましたよ今の学生は、もっともあの東大紛争のころだってマンガは読んでいましたが・・・」
「それは、マスコミのアレですよ。我々を揶揄せんとするプロパガンダ。そんなようなもんですよ」浜島は一笑に付しながら心外といわんばかりに言った。「たしか、右手、左手だったか、忘れちゃつたけど『朝日ジャーナル』、左手に『少年マガジン』そんなふうに言われてた時代があったのは事実です。白土三平の『カムイ』がゲバ学生に人気あった。それに、あの「よど号ハイジャック事件」の田宮なんか、「我々は『明日のジョー』である、なんちゃって迷言を残していますしね。否定はしませんよ。いまの学生とたいした違いはないかも知れない。しかし、心意気というか熱意だけはあった。読まなくたってジャーナルを買うことが一種のステータスだった。だから、そのへんは今の学生とは全然違いますよ。ドストエフスキイが読まれなくなったのがいい証拠です」
「そうですね。時代が悪かったかも知れません。一昔、いや二昔前だったら、状況は違っていたでしょうね」
「ち、ちょっと待ってください」石部が割って入った。「事務局長、時代のせいばかりじゃありませんよ。さっきから黙って聞いてりやあ、本が読まれなくなったの、学生はマンガしか読まなくなったから、だのと勝手な詮索をしていますが、商売、他人様のせいにしたらおしまいですよ。創刊号を出したといったって、我々、これ趣味や道楽で出版したわけじゃないですからね。累積した赤字を解消しょうとして、一発逆転を狙って、極めてギャンブル的ではあったが、儲けることを目的ではじめたわけだから、責任はあくまでも我々にありますよ。もう少し、検討すればよかったんです」
「──と、いいますと?」
「内容ですよ。内容」石部はテーブルのなかほどに山積みしてある創刊号『ドジョウ時代』を一冊手にとるとペラペラめくりながら言った。「売れなかった。たしかにいまどき、こんなものは売れないでしょう。時代の風潮ってものもありますが、それならそれで対策を考えればよかったんです。まあ、私は編集委員じゃあないので黙ってましたが、一般読者を対象とした読み物にしては難解過ぎますよ。これはどう見たってロシア文学専門家かドストエフスキイを研究している人を対象にしたものですよ。とても一般読者が手にとるような代物じゃあないですよ。小林秀雄や中村雄二郎、それに・・・誰だっけ・・・まあいいや。最近、評判のよかった江川卓の『謎解き「罪と罰」』や『謎解き「カラマーゾフの兄弟」』にしたって作者の知名度が売れ行きにかなりプラスに働いているのは否めないです。そりゃあ、まあ、これまでドストエフスキイものを出版している著者は研究者か作家ですから比較にはなりませんが、もし我々が、作家先生たちとまったく同じものを書いたとしても、だめでしょうね。私らみたいな、無名のドストエフスキイ愛読者が世間に勝負するんなら、もっとわかりやすいものにすべきだったんですよ。今度の創刊号は、できたものに言っちゃあ悪いが、どうサバ読んだってドストエフスキイを読んでないものにとっちゃあ、ちょっと手のでないしろものでしょう。敬遠しますよ。題名だって『ドジョウ時代』でよかったかどうか」
「意外ですね。石部さん、あなたの提案ですよ。親しみやすいもの、意表をつくものがいいと、会の名前をつけることにしたのは・・・」
「そうですか。まあ、題名はいいでしょう。芸名と同じで、売れればぴったりするし、売れなければ、しっくりしない。『ドジョウ時代』も売れればぱっとするのかも。それより本は中身ですよ。中身がよければ・・・もっともここが問題なんですよ。たんに見た目がいいだけじゃあだめなんです。本を出版する場合、いわゆる儲けを考えたら鉄則があるんですよ。たとえば科学書を一般向けで売ろうとしたら、科学記号を少しでも減らすことに努力するといいますから。COとかH2Oとか、わけのわからん方程式とか、一般読者にはチンプンカンプンですからね。そういうものを一つ入れるたびに本の売れ行きは半減するっていわれている。この轍を踏むとゴリャートキンとかスヴィドリガイロフとかバフチンとかの名前も同じこと、店頭で本をひろげた途端、こりゃだめだってことになる。とても買ってまで読もうとしないね。もっと気楽に、より一般読者がわかるように。だいたいドストエフスキイの作品の人物は小難しい人間など一人も登場しないんだ。下っ端役人か、酔っ払い、それにちょっと頭のおかしい人間、といった、社会じゃあどうにもうだつのあがらない連中ばっかしだ」
 石部は言ってから苦笑いして。「我々も似たり寄ったりですが・・・それなのにドストエフスキイもの書きはなぜか難しいものになっちゃう。これは一体、どういうことなんでしょうなあ、前々から疑問に思っていたんだ。社会の落伍者をなぜこうも哲学的に心理学的に難解に論じなきゃあいけないのか。『貧しき人々』のジェーヴシキンなんかよくいる寂しいおっさんだし、マルメラードフに至っては下の下の父親、いや人間ですよ。こんな人間のことを何だかんだと議論の対象にすること自体、私は本当いうと我慢ならんですよ。だいたいマルメラードフなんかあの保険金欲しさに娘を殺した木下伝司郎と五十歩百歩。たいして違いがないんです。だから奴の言い分や存在理由なんか分析する必要なんかないね。たんなる悪党、ダメ人間。で、いいじゃあないか。なにも難しくすることなんかないのだ。そこんとこをちゃんと解決してから発行すればよかったんだ」

「また、その話ですか」丸山は露骨に嫌な顔をして言った。「もう、『ドジョウ時代』の話はやめましょう。石部さんの問題は結局、そこにいくんですから」
 渋川教授は居眠り顔で苦笑したが、浜島と小堀はあきれ顔。
「そうそう。なんら建設的なもんじゃあないですからね」浜島は相槌をうつ。
 石部はかっとなって「私は、ただ真実をいってるだけですよ。真実を。過去を反省しないで、どうして前進できるんですか。難し過ぎたことを難し過ぎたと言ってなにが悪いんです。たんに覆水盆に帰らず式にかたづけては困りますよ」と、頑迷にまくしたてた。
 が、皆は知らん顔だ。彼がごねるのは毎度のことである。それに、その立派な批評とは裏腹に難しいというご当人が「日本人の国民的根源とロシア主義」というたいそうな論文を載せているのだ。なおも挑発的な石部だが、皆はこれ以上、刺激を与えない方が得策とみてか、まったく無視した態度をとっていた。
「もっとも、いまさら、こんなことを言っても埒があきませんが・・・」石部は、誰も聞いていないのに気がついて言葉をきった。そして、皆を見回しながら自嘲気味につぶやいた。「書くってことはむずかしいことですわ。ほんと・・・」テーブルの上は、より白けた雰囲気になった。三階にふたたび重苦しい空気が漂った。
 待てど暮らせど来ぬ会員、待つは「ドジョウ」の役員衆。春はおぼろに暮れゆきて焦る心も失せにけり。絶えて久しい階段に人恋しきと思えども、ここは辛抱石の上。待てば海路の日より――。突然、階下に
「いらっしゃい!」のこだまあり。あとにつづくは靴の音。天井映るは人の影。一足ごとのブロッケン。やっと来ました会員一人。さてさて如何なるご人でありますか。(以上 通信167号 2018.4)   

六、女子大生大野キン子

 大野キン子はフラメンコの曲に合わせて階段を上っていった。あっさりとしたジーンズに紺のハーフコートのいでたち。肩までのばした黒髪。ちょつとばかりのしし鼻に大きな瞳。なかなかの美人である。すらりとした体躯に背も高い。テニスの帰りか肩のカラフルバックにラケットケースがのぞいている。どうみても「ドジョウの会」とは結びつかない。彼女は上りきると、三階の店内をぐるりと眺めまわして痴呆けたようにつ立っていた。間違ったところにきてしまった。そんな感じだったが、おそるおそる「ここ、どじょうの会ですか」と、尋ねる。
 全員が、頷く。と、突然、「エー、ウソ―!」と、叫んだのである。
 これには我らが五人衆、びっくり仰天。散々の待ちぼうけのあと、あらわれたのは、とてもドジョウの会とは縁がなさそうな女の子。まさか、待ちに待つたる会員か。一同、唖然としたまま声をなくして見つめるばかり。が、キン子嬢、どこ吹く風、なおも甲高い声で
「ウソー、ウソでしょ、これって、まだ誰もきてないんですかア!?」と、質問をつづける。
「あのー、あ、な、た、だれ」やっとのことで丸山は、たずねた。
「えっ!?」キン子は、吃驚目を見開いたまま数秒間かたまっていた。が、そこは回転速く居眠り中の渋川教授をちらっと見て言った。「渋川ゼミのものですけど」
「あ、あ、あなたが…」丸山は、不意に何事か思いだしたように頷いた。そして、急に恐縮して椅子をすすめお礼もする。「さあどうぞ、どうぞ。このたびは、ありがとうございました」
 皆も、思いだした。今日の緊急会議のお知らせを、渋川教授から、ゼミの学生に頼んだと聞いていた。彼女が、その頼んだ人なのだ。
「これは、これは」皆は、挨拶も忘れて失笑を浮かべるばかり。
「会の皆さんって、皆さんですか?」
「いや、われわれは役員で、会員はまだなんですよ」意味もなく騒がしい彼女に丸山は、うろたえ気味にやっと答えた。
「うそ!! それって出席者ゼロってこと」キン子は訝しげに問いただしながら、後ろを振り返ったり、尚も店内を見回している。
「あのう、大野さん。ハガキだしておいてくれましたよねえ」丸山は恐る恐る聞いた。
「え、ハガキですか」キン子は黒髪をうしろに押しやりながら不審そうに聞いた。
「そうです。今日の連絡の」
「ちゃんと出しました。急ぎだっていうから急いで」言ってから彼女は、憮然として黄色い声をはりあげる。「イヤダー疑ってるんですかアー。わたしのこと」
「いゃあ、そういうわけじゃないんだけど」丸山は、うろたえて言った。
「こうみえたって、わたし、仕事きちんとやる性格なんです。引き受けたことをしないなんて、そんな無責任なことしません」
「ええ、ええ、それは十分わかっています。ただ念のためにお聞きしたまでで」
「先生からお預かりした住所録。あれに載っている人全員に出したんですよ。何人だったかしら、二百人分はあったわ。おかげで手にマメできちゃった」
「二百人!?てーと、え、全員ですか」
「そうですよ」
「地方の会員のところには×印をしておいたはずですが・・・」
「あら!?いけなかったんですか」
「いや、いけないということはないんですが・・・」丸山は歯切れが悪い。「関東地区の会員だけでよかったんです。地方の方は出てくるのに大変ですから。切手代も…」
「いいんですよ。いいんですよ、全員にだしても」小堀は悪そうに助言する。
「全員でなくても、よかったんですか」キン子は、口を尖らして大袈裟にため息をつく。「ああ、損しちゃった」
 彼女はカチンときた。曖昧に仕事を頼んでおいて、誰も来ないからと疑ったりする。こんなことならテニス同好会のコンパにでればよかった。今ごろ渋谷のハチ公前に集っている阿部クンやカオルたちのことを思って後悔した。物珍しさできたものの、渋川教授は、居眠りしているし、あとの四人も、さえないオジサンたち。礼を言われるどころか、ハガキ出しを疑われたりもした。キン子は、だんだん腹が立ってきた。しかし、いくらなんでもこのまま引き返すわけにもいかず、キン子は渋々、空席の並ぶ真ん中に腰を下ろす。
「どうしましょうか!」いつのまに上がってきたのか、またしてもノッポのボーイ君である。
 例によって皆は、再びだんまりだ。それを見て、キン子おかしくなった。なんてさえない人たち。事務局長の丸山は困窮顔。貧乏ゆすりの石部、神経質そうな浜島、一番若そうな小堀は怯え顔でキン子を見ている。教室では偉そうに見える渋川教授は、さっきからタバコ屋の老人みたいに居眠りしたままである。なんなのこの人たち、あまりのおかしさにキン子の機嫌もだんだんなおってきた。
「そろそろお飲み物お持ちしましょうか」
「えっ、まだなんですか!?」
「一応、総会が終ってからと思いましてね」言って丸山はくちゃくちゃになったおしぼりで額の汗を拭う。
「お時間の都合がありますので」
「もしかして会員の人が来るのを待ってるんですかア」
「いえ、三分の一の委任が…」丸山事務局長は言いずらそうに答えた。
「ウソでしょう。だれも来ないんじやあないんですか」
「そうですねえ、もうこれ以上待っても無駄かもしれませんねえ」不意に渋川教授はむっくり起きあがると、入れ歯をもぐもぐさせながらキン子を見て言った。「あ、大野さん、きたんですか。ごくろうさん」
「先生、出席にしてくれる約束ですよね」
「ああ、大丈夫、大丈夫」渋川教授は、大きくうなずいたあと、テーブルをぐるっと見回して言った。「はじめましょうか。もう話もなんだから飲みながら待ちましょうよ」
「そうしますか。話し合いが終ってからやるというのも時間的になんですから」この後におよんでも、丸山はまだ理屈をつけている。よほどの堅物なのだ。
「お飲み物はなにが」
「どうします、ビールでいいですよねえ」丸山は皆を見まわしてから指を三本立てて言った。「じゃあ、とりあえず三本お願いします」
「えっ、三本だけ」キン子は、訝しんだ。自分を入れて六人。この店ではどうせ小瓶だろうし、いくらなんでも足らない。それにもしかして、ひょっとして会員が来るかも知れない。
「三本ですか、他には」
「いや、それでいいです」
「はあ、わかりました。それではただいま」
さんざん足を運ばせた結果がたったの三本。だが、ボーイ君、意味不明の薄笑いを浮かべ馬鹿丁寧にお辞儀をしてからなにやら晴れ晴れした表情で引き上げていった。
 キン子が不思議そうに小首を傾げていると、丸山はボーイ君の姿が階段に消え去るのわ見届けてからにっと笑って「ま、我々だけでしたら、席をかえましょう。高いですからねえ、ここ」と言った。「誰もこないんじゃあ、何のために席をもったのかわかりませんからね」
 なんだたんに、みみっちいだけじゃないの。キン子はあきれた。結局、いつものパターンじゃない。どうしても居酒屋で飲まなきゃいられない人たち。ほとんど全員の会員にお知らせしたから、すこしはどれだけ集るか興味あった。それにどんな会員がくるのか、見てみたかった。みんな、この役員のような堅物で優柔不断な人たちなのだろうか。もし女性の会員がきたら何が面白くて、この会にはいったのか聞いてみたかった。キン子は二年間この会の役員と付き合っているが、まつたくの趣味のことにどうして彼らがこんなに入れ込んでいるのかさっぱりわからなかった。役員では話にならないので、会員にたずねてみようと思ってきたのだ。が、それも誰も来ないのでは話にならない。渋川教授の研究室で開かれた、このまえのときもそうだったが、また内輪のシケた話を聞いていなくてはならないのかと気が滅入った。ああ、もう早く終ればいいのに。キン子は上目使いに五人の様子を伺った。
 そんな彼女の思惑を知ってか知らずか、彼らは元気なく乾杯すると、ちびちび飲みながら性懲りもなくまたしてもボヤきだしたのである。
「しかし、どうするんです。はじめるといったって役員だけじゃあ、仕方ないでしょう」石部はサラミを食いちぎると言った。
「まあ、そこらへんは臨機応変にやりましょう」
「そうですね。役員という立場を離れて、一会員の立場に立って話し合いましょうよ」
「実に情けないもんだねえ。昔は五十,六十そこらはすぐに集ったもんだが」
「そうですねえ、新聞の催し欄に載せただけで、会員以外の人もわんさか来たですからねえ。作家の六木浩、埴輪崇まで来たんですからね。第二回の総会なんか文化会館の大ホールがいっぱいになったんですからね。ああ、あの人たちみんなどこに行ってしまったんでしょうね」小堀は、ひとりごちた。
「あーやめとき、聞きたくないね。振りかえってもどうしょうもない。昔は昔」石部は忌々しそうに貧乏揺すりをはじめる。
「昔の栄華いまいずこか。いまでは全会員に連絡してもこの有り様か。人の世の無常を感じるね。所詮、ドストエフスキイ読者も人の子というものさ」浜島も、半ば自棄気味に言ってため息つく。
「でも、地方の会員はしょうがないとしても、せめて関東地区、東京都内に住む会員が誰か一人ぐらい出席してくれてもよかったですね」さすがの小堀も情けなさそうに肩を落とす。
「会員の出席者がいない。こういった事態になるとは予想もしてませんでしたから」丸山は困りきった顔で言うと渋川教授に聞いた。「先生、どうします」
「そうですねえ、こうなればもう、ここにいる役員の皆さんで決めるほかないでしょう。いいんじゃないんですか、決めて。これも浜島さんじゃないけど、時代の流れでしょう」
「どんな名著も時代にゃ勝てぬ、ですか。これは再興を帰して玉と散るよりほかになさそうですなあ。ヒヒヒヒヒヒ」丸山は言って、突然気味の悪い笑い声をあげた。
 いつもは紳士然としている丸山の豹変ぶりに一同ギョッとする。もう完全に望みを捨てた笑いだ。切れてしまった。思えば、発足から二十五年、時代の荒海のなかでマスト折れ、へさきちぎれ、羅針盤さえ失った。航行不可能となった「ドジョウの会」は、まさに荒海に漂う木の葉のごとく運命であった。いつ藻くずとなって消え去ろうとも不思議はなかった。だがしかし、事態は難破沈没も許さぬ過酷な状況にあったのである。
「ですが、事務局長。そうは問屋がおろしちゃくれませんよ。そう簡単に投げ出すことできませんよ。玉と散れません」会計を預かるだけに浜島は、渋り顔で仰々しく「会計報告書」と、題された印刷物をひろげて言った。「予算は完全に赤字状態ですからね。もう何年も。累積赤字は百万を越しているんです。百万も!これをどうにかしなければいけないんです」
「それって、こんどの印刷代金も入ってですか?」
「石部さんのとこは、別なんですよ」丸山は申し訳なさそうに言った。
「べ、別って!そりゃあひどい話じゃないですか。聞いてませんよ。ぼくは」
「えっ、ご存知ない。それは意外ですねえ。鑑査役でしょ。だからわたしはこの前、説明したとき、そこんところは、てっきり融通きかせてくれると思いましたよ」
「そりはきかせんわけはないでしょう。十万、二十万だったら。しかし、百万近くも返済枠からはずれているとなると黙っておれませんよ。従業員の家族の心配をしなきゃあならんのですからね。いくら会のためといったって、こちらは趣味。公私混同はできませんよ」石部は、ぐいとビールを飲み干すと口から泡を飛ばさんばかりに言った。
「会社の方も尻に火がついているんです。だから早いとこ、なんとかしてもらわなければ困るんだよ。これまでの会報だって打算なしで引き受けていたんだし。こんどの創刊号だって儲けなしの赤字覚悟で引き受けたんです。白状すれば、会社の経理には、まあ家内ですがぼくのポケットマネーを利益だといってわたしてるんです。これでも会のためには、結構、尽くしているつもりなんです。今日だって、同業者の集りがあったが、そっちはおっぽってきたんだ。そこんとこを考えてもらわないと。そうそう犠牲を強いられても。なんせ、のんびり会計だけやってれゃ済む身とは違うんです」
「な、何言うんです。失礼じゃないですか」浜島は憤慨した。ビールで赤くなった顔をさらに赤くして大声で言った。「のんびり会計だけ、とは何です。たしかにぼくは石部さんのような経営者じゃない。いっかいのしがないサラリーマンです。しかし、ぼくだって忙しい中、暇をさいてきてるんじゃないか。会社のつきあいだって断ってるし、家族サービスだって犠牲にしているんだ。おまけに会では、収入のないのに、会計係なんていう七面倒くさい役目を引きうけているんです。鑑査みたいにただ見てりゃあいいっていう役目じゃないんです」
「見てるよりほかにないでしょ。なにもないんだから。第一、収入のないのはあなたの責任ですよ。会費さえ、ちゃんと集めておれば焦げつくことなんかなかったんだ」
「な、なんだって!」浜島は卒倒しそうな勢いで石部を指差して怒鳴った。「会費が集らなかつたのはぼくの責任だというんですか。取り消しなさいよ。暴論じゃないですか!」
 毎度のこととはいえ、熱くなった二人のやりとりに小堀はたまらず立ちあがって叫んだ。
「や、やめてください、二人とも!情けなさ過ぎます。そんな個人的なことで互いの悪口を言い合うなんて。石部さんも浜島さんも、本当に会のことを思うんなら前向きに考えてくださいよ。言い争うんじゃなくて。もともとドストエフスキイの愛読者が徒党を組むなんてことは無理だったんです。ですが、その無理を承知で会を発足させ、自発的に振りこまれた会費だけで二十五年もつづいてきた会じゃないですか。こんな会、日本中どこを探してもありません。それを二十五周年記念を目前に解散させてしまうなんてできません。途中で入ったぼくが偉そうなことを言ってすみませんが、せっかくここまでつづけてきたんです。それに少なくてもここにいるぼくはなんとかつづけたいと思ってるんです。解散した方がいいとは思っていないと思います。だったらなんかいい解決策を考えましょう。いがみあうんじやあなくて」
 突然、丸山はパチパチと手を叩く。石部も浜島もつられてたたいた。
「みんな同じ気持ちです。それは」言って丸山は小さく頷いた。
「それに、ぼくには会を解散させたくない理由が他にもあるんです」
 皆が訝しがる中小堀は鞄のなかから何枚かのハガキをとりだし「これです」とみせる。
「なんです、それ・・・」
「数は少ないんですけど、『ドジョウ時代』を読んだ読者からのお便りです。今日の総会で紹介しようと思っていたんですが。こんな有り様なんで、こんどまた何かの機会にと思っていたんですが、ちょっと読んでみます」と、言って小堀は読みはじめた。
「前略、先日、偶然に『ドジョウ時代』創刊号を読み、会の存在を知りました。唐突ですが、貴会への入会は可能でしょうか。何か制約があるのでしょうか。実を言いますと小生は前科のある身であります。昨年まで服役しておりましたが、所内ではずっとドストエフスキイを読んでおりました。いまドストエフスキイは、小生の生きがいです。もし入会可能なら、是非とも入会したくお願い申し上げます。早々」
 小堀は、言葉を切ってちらっと皆をみてから「もう一枚読みます」と、言って読み始めた。「拝啓、私はもう五年間、母以外の誰とも会っていません。高校を中退してからずっと閉じこもっています。この五年間一人闇の中で何とかしなければともがいてきました。死ぬことも生きることもできない毎日でした。こんな私に一条の光をくださったのがドストエフスキイ様です。ぜひとも入会したいのですが、どうすれば会員になれるでしょうか」
 小堀は一同を見まわす。「などなど、他にも何通かあります。どうです。これでも解散することができますか。売れた売れないで言い争いをしていて恥ずかしくないですか。ぼくはこの人たちになんて返事をだせばいいんです」
 小堀の真摯な訴えに、一同沈思。少し間をおいて丸山は頭を下げた。
「まことにその通りです。運営と会とをごっちゃにしてました。もうしわけない」
「我々も大人げなかった・・・」石部と浜島も神妙に詫びを入れた。
「今現在もそうした人たちがいるということはうれしいことです。ドストエフスキイを必要とする人たちはまだまだいるんです。と、いうことは、この日本でもっとドストエフスキイを読むことを宣伝しょうという我々としては、責任重大です。安易に安直に結論を出すのではなく、もっと慎重に熱く話し合い検討すべきです」と、事務局長一席。
「しかし、現実はごらんの通りですからねえ。大野さんが全員に知らせてくれたにも関わらずこれなんです。せめて十人でも集ってくれたらと期待してたんですが、それも楽観的過ぎました。まあ、今回に限ったことじゃあありませんが、ここんところ例会もずっと役員だけでしたでしよ。話し合いはいいが、このままいくと負債ばかりがどんどん溜まって、そのうち、我々役員の個人負担だけでは手に負えなくなってしまう。ドストエフスキイどころではなくなってしまいます。まさにあぶハチ捕らずです。だから、会運営に関しては早急に結論を出さなくては」さすがに浜島は会計係、現実を直視している。
「いったい、会員の連中は何を考えているんですかねえ。本当にドストエフスキイの愛読者か、疑うね」石部は、忌々しそうに鼻を鳴らした。今度は会員に矛先を向けたようだ。
「所詮、ドストエフスキイの読者で会を運営していくということは無理、不可能なことだったんですかねえ」事務局長は、言って首を傾げた。
「ふうむ、組織や団体、それに権力者にとってはドストエフスキイはいわゆる害虫のような存在ですからねえ」渋川教授は目をつむったまま他人事のようにつぶやく。
「組織をスプロール化する存在の会。まさにドストエフスキイが掲げた矛盾がこんなところにあるとはねえ・・・」丸山事務局長はふっとため息ついて腕組する。
 ああじれったい。何も考えることないんじやない。さっきから聞いてれば、ああでもないこうでもないの議論。おまけにウソかホントか知れないようなハガキまで読み上げたりして、この人たちっておバカさんじゃない。会員は誰も来ないんだし、雑誌発行もうまくいってないみたい。借金がかさむ借金がかさむなんて大騒ぎしてる。だったらさっさと解散すればいいのよ。キン子はうんざりしていた。わけのわからない文学論や会の赤字話、それに内輪のごたごた話を聞かされて、もういい加減嫌になってきていた。退屈しのぎと苛立ちで吸っては消すタバコが灰皿に山となっている。彼女は、タバコの空箱を握りつぶしながら悔いた。よくこのカビのはえそうな変わりばえしない会を手伝う気になったものだと我ながら感心する。大学生活も後一年しかないというのにこんなネクラなオジサンたちと一緒にいていいうのかしら、そんな疑問もわいてくる。思えば、半年前、たまたま行った渋川教授の研究室で気軽に創刊号『ドジョウ時代』の校正の手伝いを申し出てしまったのが失敗のはじまりだった。最初のころは物珍しかったが、近ごろではうんざりしてきている。キン子は退け時を考えながら思った。まったく変な話だわ、だってわたしドストエフスキイを一度も読んだことがなんです。これまでに何度か読もうと挑戦してみたけれど、最初の一頁目で、もう降参。あんなもののどこが面白いのかしら。人生の生きがいだの、一条の光だなのという人の気が知れない。だいたいロシアの作家で知っているのはトルストイぐらい。だってわたし、ゴーゴリとゴーリキーが違う作家だなんてこの会にきてはじめてわかったんです。こんなわたしが手伝う理由はただ一つゼミの渋川教授から単位をもらうこと。それももう大丈夫の見通しがついた。早いとこ縁をきりたいのが本音。ドストエーフスキイなんか絶対に面白くないと思う。このオジさんたちを見れば一目瞭然。こんな会に関わって、ああ損した。キン子はあくびをかみ殺した。なんだか眠くなってきた。
「やはりドストエフスキイの読者で一つの会をつくるということは無理なことだったんですかねえ」丸山は指を組んで天井を仰ぐ。
 ああ、この人たち何をいつまでもくどくど話し合っているのかしら、じれったくていらいらするわ。キン子は思った。もう何も考えることなんかないんじゃない。会員は誰も来なかったし、雑誌発行もうまくゆかなかったようだし、これ以上、話し合ったって無駄というもの。さっさと解散すればいいのに。借金があるみたいだけど、聞いてれば二百万ぽっちみたいだし。それを何千万もあるように大袈裟な言い方しちゃって。キン子はうんざりした。さっきからわけのわからない文学論や役員同士のごたごた、それに大袈裟な赤字話を聞かされて我慢も限界。退屈しのぎに吸ったタバコの吸殻が山となっている。このあと、居酒屋かどっかで飲みなおすようだけど、わたしは渋川先生への義理も果たしたしこれで帰ろっと。もうごめんだわ。彼女は退け時を考えながら思った。こんな会に入りたいなんて人の気が知れないわ。それにドストエフスキイだって、まだ一冊も読んだことはないけど、絶対に面白くないと思う。だって、この人たちみてればわかるわ。こんな会に関わって、ああ損した。キン子はあくびをかみ殺した。なんだか眠くなってきた。 

七、遅れてきた青年

 階段の上がり口に黒の外套を着た青年が一人、戸惑い顔でボーと立っていた。年の頃、三十前後か、中肉中背で色白な丸顔、髪は天然パーマのかかったモシャモシャ頭である。退屈しきっていたキン子は目ざとく見つけると皆の会話を遮って言った。
「あれ、誰かしら」一同の視線が、青年に集った。
「あのう、すみませんが」話に水を差されて丸山は迷惑そうに言った。「三階はいま貸し切りになっているんです。一般席は一、二階までなんですが」
「いえ、違うんです。そうじゃあないです」
青年はおどおどした態度で言った。
「もしかして、会員の方?!」小堀が聞いた。
「は、はい。ぼくはドジョウの会の会員です」言って青年は外套のポケットからハガキをだした。「会について何か緊急なお話があるというので」
「ああ、そうですか」丸山はじめ一同、浮かぬ顔だ。そろそろお開きにしょうと思っていたので今更といった感なのだろう。
「さあ、どうぞ」キン子は立ちあがって招き入れた。あきあきしていたので新しい人は誰だろうが大歓迎だ。青年はほっとしたように頷いて、外套を脱ぎながら歩いてきた。下は紺のブレザーにチェックのワイシャツといった、どこかちぐはぐな服装。手にボストンバックを持っている。
「どうぞ、どこでもいいんですよ」
「はい」青年は頷いてはみたものの、空いた椅子の多さに戸惑っている。
「まだ、誰も来ていないんですよ。会員の方は」丸山が言ってすすめた。「どうぞ」
 青年は、一同の好奇な視線のなかで恐る恐る腰をおろすと、訝しげに見まわしてたずねた。
「だれも、ですか・・・?」
「ここにいるのは役員の人だけなんです」
「はあ・・・」
「まえに会に出席されたことは?」
「今日がはじめてです」一同、ため息。よりによってこんな状況のときに出席するとは、の思いである。
「地方にいるんでなかなか出席できません」
「地方?!」
「どちらからです」
「甲府です」
「こうふ・・・?」
「山梨県でしょ」キン子が言った。青年は頷く。
「ああ、甲府ね。ブドウ狩りの」丸山も頷く。
「ウチは社員旅行で行ったことがあるよ。石和の温泉に泊まって信玄神社と昇仙狭を見てきたよ」石部は、言って自慢そうに膝を打つ。
「いや、甲府ならやっぱり太宰でしょう」と浜島。「ぼくなんかブドウより、月見草が咲く頃に行ってみたいですな。どうです、本当に似合うんですか」
 皆からあれこれ質問されて、青年はすっかり面食らっている様子。ただ困り顔で頷いているばかりだ。キン子は、助け舟のつもりで聞いた。
「それで、お名前は」
「夢井信吉といいます」
「ゆめいさん。ゆめは、夢のですか。えーと、忘れちゃったわ。いっぱい書いたから」
「すみません、地方の方、少ないからわりと覚えているのですが…」小堀も首を傾げる。
「えーとゆめいさん、ゆめいさんと」キン子は声にだして住所録を眺めていたが、急に叫んだ。「あった、あったわ。ありました。最近、入会した方ですね」
「はい、『ドジョウ時代』を読んで」
「そうですか。結構、読まれていたんですねえ」浜島はうれしそうに言ってから、急に思い出したように聞いた。「と、いうことはまだ入会金をいただいてませんよ、ね」
「さすが会計さんだね、すぐそこにいく」
「はい、会が開かれたとき、出席して直接お支払いしょうかと思っていましたから、それで」
「それはご丁寧に。でも地方の会員の方は委任状を送ってくれればいいんですよ。関東周辺の人ならともかく、地方から出てくるのは大変でしよう。こちらの彼も、以前新幹線で名古屋から出席してましたが、とうとう東京に職換えして引っ越してきたんです」丸山は小堀を指差してから申し訳なさそうに言った。「それに、せっかくはるばる来ていただいても、それに報いるだけの活動が、できてないんですよ。なにせ欠席者が多くて」
「いえ、いいんです。ぼくは一度、出席してみたかったし、甲府はそう遠くありませんし…」
「そうですか、こちらとしては一人でも多い会員の方に出席していただければ助かるんです」
「会員の全員参加、それがこの会の望むところです」浜島は、言って大きく頷く。
「まあ、それはそうですが、さあ、お気楽に」石部は、にこやかに頷く。
「あのう、そのまえに」夢井信吉と名のった青年はためらいがちに言って、姿勢を正すといきなり大声で自己紹介した。「ぼくはドストエフスキー先生を誰よりも愛しています。ドストエフスキー先生はぼくのすべてです。ぼくはドストエフスキー先生の宇宙と人間愛を誰よりも信じています。先生の教えを伝導するのがぼくの使命だと思って今後いっそう努力するつもりです。どうかよろしくお願いします!」
 突然の突飛な挨拶にビールを運んできたボーイ君は驚いて危なくお盆をひっくり返そうになった。一同はもあっけにとられて口をあんぐりあけたままだった。忽然と現れたイノセントのごときこの青年、いったいいかなる人物か。いまや風前の灯火となって消えようとしている「ドジョウの会」。復活の一滴になり得るでしょうか。はたまた夢も期待も無残に消えて今宵限りの出会いとなるのか。われらが役員諸氏、暫しの間、ただ呆然と漫然と遅れてきた新入会員をながめるのみであった。
「いやはや、頼りになります」丸山は苦笑して言った。
「心強いですな、こんなときに」渋川教授は眼鏡をとって眠そうに目頭をこすりながら本音とも冗談ともつかぬ口ぶりで言った。しかし、丸山と浜島は、今更、新人の、それも地方の会員に登場されても仕方ないといった困惑顔は隠しきれないでいる。それでも夢井青年のまだ相当にドストエーフスキイ熱に浮かされた様子は、役員諸氏の胸中にかって若かりし時分はじめてドストエフスキーを読んだ頃の自分の姿を思い起こさせた。ドストエフスキーに対する率直な想い。皆は、なつかしさくも気恥ずかしくもあったが彼の純真な心は理解できた。それだけに、できれば会の現状を知ることなくこのままお引取り願いたかった。
 だかしかし、夢井青年は憧れた「ドジョウの会」への初めての出席に、青白い頬を上気させ、いまだ興奮覚めやらぬ様子で無邪気な笑顔をみせて座っていた。丸山は、なんとなく話ずらそうにそわそわしていたが間をおいて言った。
「夢井さん、でしたよね。ハガキでは重要な議題としかお知らせしていませんが、実はですねえ、今日、臨時の会合を開いて、全会員を召集しようとしたのは、要するに会の今後の運営というか存続をどうするかってことなんです。会にとってこんな重要な案件をここにいる我々だけで勝手にどうこう決めるのは許されることじゃあないんですがね。しかしお恥ずかしいが全員に呼びかけたにもかかわらず集ったのは役員の我々四名と、出欠ハガキの発送をお手伝いしていただいた大野さん、それに会の顧問やってくださっている渋川先生だけなんです。つまり、一般からの出席者はあなただけなんです。まあ今回に限ったことじゃありませんがね。正直いいますと、ここんところ会合をもってもずっとこんな状態なんです。会員の出席がないんです。まことに面目ない実態で――目下の「ドジョウの会」は――」丸山は、弁解ことばが見つからず話を切った。
「はあ――」信吉は戸惑って頷くばかりだ。初めて知る会の実態にどう返事してよいのか。
 もしかして、凄く張り切ってきたんじゃあないかしら、この人。キン子は信吉の挨拶にそんなことを思って少しばかりか気の毒に思った。わたしだって、張り切って行ったコンパ会場が、こんなだったらショックだもん。おまけに借金のもめごと。とっとと退散するわ。
 だが、夢井青年は相変わらずハトが豆鉄砲食らったようにつ立っていた。丸山は、ふたたびぼそぼそ言い訳じみた説明をはじめた。
「せっかく出席していただいたのに、こんな状態でまったくもって申し訳ないんですが、とにかく、今はドストエフスキーの話どころではないのです。会の存在自体をどうするか決めなくちゃあいけないんです」
「はあ、・・・」夢井信吉は、ため息ついて頷く。
「まあ、そんなわけですから。なにかご意見ありましたら」
「地方から、来た人に聞いてみたってしょうがないよ。まして、はじめてきた人に」石部は投げやりに言った。
「いや、彼氏だって意見は述べる権利はありますよ。入会金と会費を払ってもらうんだから」浜島は、この期に及んでもちゃっかりそろばんならぬ、電卓を打っている。
 まあ、あきれた、解散するかどうかっていうのに、お金とるなんて。キン子はあきれた。信吉が可哀そうになった。が、浜島はさすが会計係、揉み手しながら言った。
「若くて、新しい会員の方がいい考えが浮かぶかも。会再生の妙案がだせるかも。どんどん意見だしちゃってくださいよ」
「つまり、早い話が、ですね。この『ドジョウの会』は解散するかどうかの瀬戸際にあるんです」丸山は汗わかきながらまだ説明している。
「はあ」信吉は依然として要領を得ぬ顔で座っていたが、そのうちようやく事態がのみこめたのか何度か小さく頷いてから訝し気に聞いた。
「どうして解散しなくちゃあいけないんですか」
「どうしてですか」石部はあきれたように超えを張り上げた。「赤字なんですよ。消火不能の大火災」
「赤字、どうしてですか・・・?」信吉は不可解そうにたずねた。
「ごらんの通り、だれも出席しなくなっちゃったんですよ。当然、会費も集りませんよね。ま、何でもぽしゃるときはそうですが。会費未納者続出なんです」
「ぼ、ぼく払います」信吉は慌てて言って、ブレザーの内ポケットから財布を取り出した。
「そうですか、じゃあとあえず入会金と今年度分の年会費をいただきましょうか。本当は新年度からでもいいのですが、会計は、融通があってはいけないですからねえ」
「あら、ひどいんじゃない」
「一応、決まりですから」浜島はわざと事務的な口調で言って素早く受け取ると、ニヤリとしながらこぼした。
「いやあ、君みたいにちゃんと払ってくれる会員ばかりならいいんだけどね。みんな年数がたつと払いが鈍くなってね。ふつうは金を出して口出さず。口出して金ださず、のどっちかだが、この会に限って口も金も出さなくなっちまうんだ。請求してもなしのつぶて、一時は四百人といた会員だが、現在はその半分以下ときている。おまけに、その半分は『死せる魂』じゃあないが大半が幽霊会員なんですから」
「なぜなんです!」突然、信吉は抗議するように叫んだ。「どうしてなんです。ぼくにはわかりません。ドストエフスキーの読者なら、ドストエフスキー先生を尊敬している人なら、その会の存続を危うくするようなことをするはずがありません!」
「そうです。“初心忘れべからず”皆さん常にその気持ちを維持していてくれたら、こんな状態にはならなかったんですがね」丸山は苦々しそうに言った。「しかし、残念ながら、現実はこの<ドジョウの会>も例外じゃあないんです。彼は昔の彼ならずでしてね。なんせ三十年近くもつづく会なんで、このまま消滅させたくはないんです。が…しかし、どうしたって協力を得られないことには」
「協力しないなんて、ぼくには信じられません」
信吉は、ドスンと両拳でテーブルをたたいて立ち上がった。

以上 通信169号(2018.8)まで。 つづく