ドストエーフスキイ全作品読む会
下原敏彦の著作


小説 ドストエフスキイの人々

庵 敦吾
 


20数年前清水正発行「D文学通信」掲載したものに加筆して2017年12月より「ドストエーフスキイ全作品を読む会 読書会通信」にて連載中です。この物語はフィクションです。現存する如何なる団体とも関係ありません。


はじめに

たとえば1931年に刊行されたエドワード・ハレット・カー著の評伝『ドストエフスキイ』(1968年筑摩書房、村松達雄訳)にD・S・ミルスキーのこんな序文がある。

「イギリスのドストエフスキイ熱もかなり衰えてきた。もう彼を預言者とみるといったような問題も全然なくなった。特に彼に関連しての心理学的問題も今日ではかってのように人々の心を惹かなくなったようだ/今日では彼を小説家以上のものとみないことで満足するようになった。これまでの彼に関する書物は、多少ともすべて古くさいものになってしまった。/真の近代思想というべきものは、ドストエフスキイの影響を受けておらず今後とも受けないであろう。少なくともロシアにおいては、近代的精神はドストエフスキイにはなくチェルヌイシェフスキーにあるということはあきらかに理解されている。(ユートピア=社会主義の国と思われていた)」
※ミルスキー(1890~1938?)30年代に粛清 ロシアの批評家、著書『ロシア文学史』
※チェルヌイシェフスキー(1828~1889)ロシアの批評家、小説家、農奴制の徹底的一掃主張。シベリア流刑。長く革命的青年層に影響を与えた。(文学小事典)


しかし、ドストエフスキイは今日まで営々と読み継がれてきた。或る時は盛大に、またあるときは密やかに議論され、考察され、語り継がれてきた。時代の闇を照らす預言者として、人間社会の警鐘者として注視つづけられてきた。そして、その評価は今も昔も変わることはない。1922年ペレヴェルゼフは革命さなかのロシアで「現下においてこそ、ドストエフスキイを想起し」と訴えた。1969年日本において「明治以後のわが国知識人の精神史に、ドストエーフスキイ文学のあたえた影響は、今日にいたるもその持続度と深さにおいて、他に類をみないものがある」として「ドストエーフスキイの会」が誕生した。このとき自然発生的に「ドストエーフスキイ全作品を読む会・読書会」ができた。1971年に「国際ドストエーフスキイ学会」が設立された。1993年、ロシア文学者江川卓氏は講演《ドストエーフスキイと現代》で「現代のロシアは大審問官の縮図である」と、総括した。それは今のプーチン政権下のロシアにおいても変わることがない。
※ベレヴェルゼフ(1882~1968)ロシアの文芸批評家。1912年に『ドストエフスキイの想像』(長瀬隆訳)を刊行した。この中に「ドストエフスキイと革命」がある。

ドストエフスキイ没後137年激変する新世紀はじめにあってドストエフスキイの予見はますます人類の行く末になくてはならないものになっている。その証拠に2017年にも、新たな団体「日本ドストエフスキイ協会」ができている。さて、この物語は、この偉大な作家フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキイその人と、彼が残した多大な作品群に憑かれた人々のお話である。
(下原敏彦 2017年12月)

小説 ドストエフスキイの人々

第一部
一、今日的名曲喫茶
二、ドジョウの会
三、そして誰もこなかった
四、それぞれの夢
五、会誌『ドジョウ時代』
六、女子大生大野キン子
七、遅れてきた青年
八、ドジョウの会再建案
九、難問解決

十、宿なし、金なしの集金人

第二部  
一、早朝の訪問者

二、最初のもめごと
三、集金作戦計画
四、不安な開始
五、集金の難しさ
六、駅地下街で
七、最初の集金
八、案ずるより産むがやすし
九、珍妙なる作品
十、普通で風変わりの人たち
十一、問題多き人
十二、駅裏奇譚
十三、私は、なぜドストエフスキーを読むのか
十四、外見とは違う元会員 
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主な登場人物
□夢井信吉 ドジョウの会の地方会員   □大野キン子 女子大生 主人公
□渋川哲春 ドジョウの会顧問      □丸山茂喜 ドジョウの会事務局長
□浜島 敬 ドジョウの会の会計係    □小堀清人 ドジョウの会の会誌編集長
□石部健三 ドジョウの会の会計監査役   時代は平成元年の春




第一部

一、今日的名曲喫茶

 ときは平成、春弥生、ここは東京池袋、天にそびゆるサンシャイン、へいげい足下のちまたにはネオンの海が広がれど、かって昔に三奈嬢が妖しく媚態に歌いたる、彼のため息の街ならず。時の移りにドヤ街も今は変わりてモダン都市。若人集う街角にマルメラードフ今いずこ。旧きをたずね彷徨えば、未だありなん昭和の遺跡。レンガ造りの外壁に蔦のからまる北欧古城。これぞなつかし名曲喫茶、しばし憩わん春の宵。
 ――と、いうわけで平成はじめのある春の夕、私は所用で池袋に行った折り、JR池袋駅から人ごみをかきわけ、久しぶりに昔馴染みのその珈琲館に入った。店内は、夕刻どきの混雑に呼応するかのようにビゼーのカルメンが高らかに鳴り響いていた。しかし、名曲喫茶も今は昔。近頃はたんに若者たちの待ち合わせ場所になってしまっていた。見る限り、うっとり名曲に聴きいる客も、酔狂に一人愁いて孤独にひたる客もいない。ロココ風の店内は一階、二階とも若いカップルや学生グループの笑い声、叫び声が洪水のように溢れていた。加えてこれに負けじとボリュームいっぱいにあげた音楽。店内は、まさに闘牛場さながらの騒々しさであった。が、これも時世とあきらめて一杯のコーヒーをすするほかなかった。
 ところが、店内を見まわすと三階だけが、ちと様子が違う。一階二階の喧騒をよそにひっそり閑と静まり返っている。上がって行く客もいない。そのわけは階段口に貼られた一枚の紙にあるようだ。「三階は、『ドジョウの会』様貸し切り」と書かれている。はてさてドジョウの会とは、これ如何に。私ならずとも興味を引こうというもの。ドジョウといえば安来節。その集りでもあるのだろうか。しかし、和風の料理店ならいざ知らず、民謡とはほど遠いこんな店で・・・、首を傾げながらも思わず失笑がでる。同じことを思い浮かべる客もいるようだ。上がろうとして立ち止まり張り紙をながめていた若者二人、どっと笑うとドジョウすくいの恰好をしながら引き上げていった。それにしても、全フロアー貸し切っての集りとは、よほどの人数のはず。だがしかし、三階は明かりはあるが人けなし。深山幽谷のごとしである。
 ドジョウとは、いったい何の会であろうか。暇人というほど暇ではないが、所用も済んだし、気になって仕方がない。いらぬ節介、野次馬根性だが、ちょいと観察してみることにした。そんな酔狂が、この物語のはじまりである。

二、ドジョウの会

 明かりはあるが人けなし。深山幽谷のごとしとはよくいった。それもそのはずであった。三階の店内には、たった五人の男性客が中央にテーブルを寄せ集めてつくった会場で人待ち顔でだんまり座っているのみ。彼らの年齢は白髪の一人を除いて中年から初老にかけてといったところ。服装は背広姿の御仁もいれば、ブレザーありジャンパーありのそれぞれである。が、皆一様に黙して語らずで、沈みきった雰囲気。間違っても安来節では、なさそうだ。
 普通、集った顔ぶれをみれば、かのシャーロック・ホームズやポリフイリー判事でなくとも凡そのところ見当がつくというものだが。この御仁たち、如何なる集まりか、推測し難たいことこのうえもない。例えば年齢から想像つくのは会社の同僚、同級生、はたまたゴルフ仲間に町内会といった感じである。全フロアー貸し切りでテーブルに二十近い椅子が用意されているのをみると政治団体とも宗教団体とも思えるのだが、その手の会合にみられる覇気がない。考えればかんがえるほどわからない。そもそも「ドジョウ」とは何か、まさか一歩譲って柳川鍋をつつく会かも。が、土鍋もコンロも用意されてない。さすがにそれはないようだ。     
 この閑古鳥鳴く会場に、さっきから長髪をポマードで固めた背の高いボーイ君が、調理場のある、階下から再三再四あがってきては、一つ覚えの九官鳥よろしく「お飲み物はどういたしましょうか」と、繰り返していた。
 その都度、石地蔵のように黙りこくっていた彼らは、尻をつつかれた昆虫のように、緩慢に顔を見合した。この度も、一斉に互いの顔を見合わせていたが、そのうち階段口に座っていた体の大きな背広姿の御仁、つまりこの会の事務局長でもあり今夜の幹事、丸山重喜という霞ヶ関のさる省庁に勤めるお役人だが、おもむろに腕時計を見つめたあと、少し裏返った声で困惑げに「どうします、みなさん」とたずねた。
 しかし、皆の反応といっても四人だが、彼らの反応はいたって鈍い。名ばかりではあるが会の会計担当をしている実直そうな御仁、綿貫利昭と年のころ三十五六と一番若そうな御仁、こちらも編集委員の肩書きをもつ小堀大輔、二人は同時にふっと情けないため息をもらすばかりだ。一人、落ち着かない御仁がいる。こちらは監査役で会きってのうるさ型、石部謙三であるが、さすがいまは返答には窮して苦虫を潰し貧乏揺すりするのが精一杯といったところだ。こんな気詰まりのなか、一人のんきに構えているのはこの会の顧問を引きうけている白髪の紳士。都の東北X大の渋川陽一郎教授。槍が降ろうと白川夜船。席に着いたときから頬杖枕である。
 しかし、今度ばかりはおめおめと引き下がれるものかと、ノッポのボーイ君、直立不動でよき返事を待っているのである。そんな決意もなんのその、相変わらずの五人衆である。なんというルーズさ、煮えきれなさ。もうとっくにこのパーティの開催時間は過ぎているのだ。ラストオーダーの時間というものがある。なんとしても、もうはじめてもらわなくては困るのだ。ボーイ君、とうとう痺れをきらして申し出た。
「あのう、何時ごろからはじめられるでしょうか。お時間はとっくに過ぎておりますが」
無理につくった笑顔が引きつっている。
 だが、皆からは相変わらず返事なし。曖昧模糊としてのだんまり戦術。幹事の丸山一人が弱りきって、額の汗を拭うばかりだ。気まずい沈黙だけが卓上のすっかり冷えてしまったフライトポテトやから揚げの上を漂うばかりである。
「そろそろお飲み物、お持ちしてもいいでしょうか」ボーイ君、慇懃無礼に事を運ぼうとするつもりらしい。
 が、このときさすがの昼行灯。渋川教授、いきなりひょいと顔をあげると、その仙人のようにのびた白髪をかきあげ「もう少し、待ってもらいましょう。もう少し」と問答無用の寝ぼけ声。それだけ告げると元の狸か狐の眠り。
 納得いかないのはノッポのボーイ君だ。このあと、本当に誰かくるんですか、と言いたげにピクリと頬を引きつらせた。だが、店のオーナーが教授の教え子と聞いているだけに露骨に嫌な顔もできず、ここは微笑して「それでは、もう少し皆様がそろいましたら」と馬鹿丁寧に頭を下げてそそくさと引き上げていった。
 ボーイ君の姿が階段の下に消え去ると、一同ほっとして安堵のため息。店内は、ふたたび洞窟のように森閑として、階下のにぎわいだけがやけに大きく響いてくるだけ。そんななかで皆の胸内に一つの疑問。いまの渋川教授の言葉である。
 もう少し待つとは、あてでもあるのか。もしかして約束でもあるのかも。だが、再びの頬杖枕の教授に確かめるわけにもいかず、てんでに思いをめぐらせていた。
「来ませんねえ、ほんとうに・・・」小堀は考えの重さに耐えきれなくなってつぶやいた。もう何度目の嘆息か。「来ませんねえ・・・」 一体だれを待つのか五人衆。ボーイ君の姿が階段の下に消え去ると、一同ほっとして安堵のため息。店内は、ふたたび洞窟のように森閑として、階下のにぎわいだけがやけに大きく響いてくるだけ。そんななかで皆の胸内に一つの疑問。いまの渋川教授の言葉である。もう少し待つとは、あてでもあるのか。もしかして大勢さんの約束でもあるのか。だが、再びの頬杖枕の教授に確かめるわけにもいかず、てんでに思いをめぐらせていた。
 一体だれを待つのか五人衆。宵の帳は濃さを増すばかりである。
(以上 通信165号 2017.12)  

三、そして誰もこなかった

「これは由々しき問題ですぞ!」突如、浜島が吐き出すように言った。「もしだれもこないとすると、これだけの場所を借りきっているんですからねえ」
 名ばかりとはいえ、さすがに会計係りである。はじめのうちは冗談ぽかった彼の声もいまではすっかり深刻味をおびて裏返っている。
「うーむ、こんなことだったら料理の方は頼まなくてもよかったですねえ」丸山は背広のボタンがちぎれ飛ばんばかりに太ったからだを傾げて後悔しきり。
「しかし、誰も来ないということはないでしよう。いくらなんでも、地方の会員は仕方ないとしても東京近辺の人は、その気があれば来れる登録会員は、百人はいるんだ。それに、今日のは、ただの総会じゃあない、緊急の特別会議なんだ。会の存亡がかかった」石部は吐き出すように言って乱暴に席を立つと、落ち着きなくテーブルの周りを歩き始めた。性格が直情径行の石部には、もうこれ以上イライラを押さえきれないといった様子だ。ひとりごとを繰り返し自分に向かってぶつぶつとぶつけている。「しかし、誰も来ないなんて・・・しかし」
「いやあ、この分じゃあ、ありえるかも知れませんよ。むしろその方が確率的に高くなっているでしょう。いつものことですが」丸山は、お役人らしい見通しで諦め口調で言った。
「あり、ありえるだなんて、事務局長!」石部は、目を剥いて声を荒げた。「冗談じゃあないですよ。出席者がゼロだなんて、縁起でもない。もし、そんなことになったら、私んとこの印刷代はどうなるんです。会はなくなったって、またつくればできますがね。借金は残りますからね。役員意外の会員が一人も来ないとなると、これは、大ごとですよ。まったく」
「石部さん、またまたそんなことを言い出して。仕方ないじゃありませんか」浜島は、手持ち無沙汰に電卓をたたきながらたしなめるように言った。「こればっかりは、どうしょうもないんじゃないですか。天災とおなじで仕方ないですよ」
「仕方ない!君い!仕方ないで済まされる問題じゃないよ。のんきなことを言ってちゃ困るよ。会計係が。だからお役人は困る」
「じゃあ、どう言えばいいんですか」浜島は気色ばんで言った。市の相談室職員だが、お役人と呼ばれることを異常に嫌っている。そのくせゴリャードキン氏論には熱心だ。
「そのう、あれだ・・・」石部は、ちょっと返事に窮したあと少し語気を和らげて言った。「・・・だから仕方ないはないだろう。仕方ないじゃあすまされませんよ」石部は禿げ上がった額を真っ赤にさせてつづけた。「だいたい私は反対だったんだ。いまどき、この手の雑誌を創刊したって成功するはずがないってことを。この手の論文ものは売れるはずがないってことは分かりすぎるくらいわかっていた。全学連はなやかなりし頃のふた昔前だったらいざ知らず、いまじゃ時代錯誤もはなはだしいもほどがある。それで、私は、はなっから乗り気ではなかったんだ。ある程度、予想がついてたね、こうなるんじゃないかと」
「えっ!本当ですか!」浜島は素っ頓狂な声をあげた。「わたしは初耳ですよ。社長さんが今回の出版に関して、そんな見識というか見通しをもっていたなんて。事務局長、そんな意見ありました?あのとき」
「あの編集会議でしょ。一切ありませんよ。そんな話は」丸山はきっぱり否定した。「あるもないも雑誌の発行は、全員が、賛成でしたよ。慎重論さえでませんでした。それに、わたしの記憶するところでは石部さん、だいたいにあなたが一番に乗り気だったですよ。ドストエフスキイは今日、この過渡期の時代にこそ必要だとか、広く社会に宣伝して現代文明警鐘の書としなければならないとかなんとか一席ぶったじゃないですか。なかなか名演説でしたよ」
「そうそう、ビデオやマンガに溺れる飽食日本の若者の目を覚ましてやるのだと意気込んでいました。覚えていますよ」
「ほお、そんなこと言いましたっけ」石部は他人事のように驚いたふうをみせて言った。「あのときは世評を言ったまでですよ。別に雑誌の件で言ったわけじやない。もしかしてドストエフスキイは現代に必要だとは言ったかも知れませんが、それは雑誌を刊行するしないで言ったことじゃあないですよ。とにかく、わたしは創刊号をだすことについては最初から慎重論でしたよ。危惧してましたよ。結局のところしまいには、こうなるんじゃないかと、みえてましたてよ。そりゃあ、わたしはしがない印刷屋のおやじですがね。それでも一応、経営者だ。だいたいのところは予期できますよ。まあなんというか、事業家のカンというか・・・それがありますから」
 なかばからかい口調で言った。「しかし、あのとき1万部以上のベストセラーにするなんて大風呂敷をひろげた人はどなたでしたっけ。おまけに後から足らないと困るとかで百部も追加印刷したのはいったいどこのどなたでしたか。おまけに、自分とこの工場をビルに改築するなんて、ちゃっかり胸算用までしてたじゃないですか」

四、それぞれの夢

「ほう、たいした記憶ですな。そんなこと言いましたか。しかし、いい加減なこと言ってもらっちゃ困ります。百歩ゆずって、言ったとしても、たいして驚きませんよ。たとえ、そんな大法螺吹いたとしても当然じゃないですか。会の存亡をかけてなにかやろうとしてたときですからね。一か八か、望みはでっかくですよ。大ボラ結構じゃないですか。ハハハ」石部は、指摘された、自分の発言を吹き飛ばすかのように声高かに笑ってハゲあがった広い額を平手で軽く打ってから、人差し指を浜島に向けて逆襲する。
「そういう話ならわたしだって覚えていますよ。浜さん、あなただって、あのときは随分はしゃいでいましたよ。『白痴』を撮った黒澤明監督に掛け合ってドストエフスキイの伝記映画を作るんだって相当の熱の入れようだったじゃないですか。われわれ、「ドジョウの会」が制作に加われば日本アカデミー賞だって夢じゃない、そんな途方もない妄想にとりつかれていたじゃないですか。そこにいくとわたしの工場のビル建設計画なんか可愛いいもんです。浜さんのに比べたらささやかな夢ですよ。極めて、現実的な」
「なにが現実的ですか」浜島は顔を真っ赤にして言った。「妄想じやありませんよ。ボクは今でも思っていますよ。石部さん、あなたのように何部売れて儲かったらビルをつくろうなんて、そんな卑しい気持ちじやないんです。今回の創刊号で一段落ついたらドストエフスキイの愛読者を増やすために黒澤監督だけじゃあなしに世界中のドストエフスキイ監督に手紙を書いて協力を要請する計画だって小堀君とたてていたんだ。現に実行しようとしていたんだ。なあ小堀君」
「え、ええ、まあ、茶飲み話ですけど」小堀は照れくさそうに小声で言って頷いた。顔が赤くなった。
「ほう、そりゃあまた結構なことだ。そんな壮大な、そんな遠大な計画をお二人でたてていたというわけですか。まことにすばらしい。わたしのビル建設計画なんか、みみっちいもんですな。吹けば飛ぶような夢だった。こりゃまた失礼しやした」
「まあ、いいじゃあないですか。どんな非現実的な夢だって。あのときは誰もが夢をもっていたわけです。だからこそ創刊号を刊行できたのです。そうホメ殺しするような言い方もないでしょう」丸山は幹事らしく割って入る。
「ホメ殺し、なにもそんなつもりじゃありませんよ。本当にたいした計画だと感心したまでですよ」石部は鼻をならしてどっかと椅子に腰を下ろした。そして、腕組みをしてふんぞり返ると貧乏揺すりをはじめながら言った。「そういえば、丸山さん、事務局長だって、相当に張り切っていたじゃないですか。成功したあかつきには二十五周年記念を兼ねて新宿西口の高層ホテルで大々的に出版パーティを打ち上げるなんてほざいてたんだから。忘れたなんていわせませんよ」
「ああ、石部さん、よく覚えていらっしゃる。はいはい、否定しませんよ。確か、そのようなことを言ったように記憶しています。なにしろあのときは出航まえですからねえ。みなさんすっかり舞いあがっていたし。もしかして、これを契機に会の運命が明るい方に拓けていくんじゃないか。そんな希望というか期待がありました。『世界ドストエフスキイ友好協会』設立へ向けて一歩前進。そんな思いがありましたからね。だから、事務局を預かるものとして盛大に記念行事をやりたいぐらいの挨拶はやりますよ。私としても、本当にそれが夢ですからねえ」丸山はダンゴ鼻を膨らませ些か興奮気味に言った。
「ほんとあのときは、皆さん張り切っていましたよね。聴衆こそいませんでしたが、ぼくなんか、あのプーシキン記念式典のドストエフスキイの講演を思い浮かべました」小堀は懐かしげに、しかし感傷を含んだ声で言った。
「ああ、それなのに、それなのに、か」突然、浜島は歌いだすと大声でつぶやいた。「そして、悲しき、祭かな、か」
「ベストセラーどころか、このていたらくだ」
「しかし、何の批評もないとはねえ。まさか新聞にも批評家連にもまったく無視されるとは思ってもみなかったです」
「近ごろは、見る目のあるやつがいないんだ」石部は憤然として言った。
「まあ、売れる、売れないは仕方ないとしても、せめて記念行事だけでも敢行したかったですね。我々一人一人に違った夢があって、その夢でせっかくちゃんとした本をだしたのだから、お祝いぐらいはしたかったね」浜島は残念そうにため息をつくと愚痴った。「そもそも、その資金ぐりを創刊雑誌の売上から得た収入で、なんて考えたのが甘かった」
「わたしんとこのビル建設計画に、浜さんの伝記映画製作、それに丸山事務局長の出版記念パーティ計画・・・おつ、小堀君のを忘れてたよ。浜さんと映画協力の他にあっただろう、えーと、なんだっけ」
「いいですよ。ぼくのは」
「それはないだろ、われわれのホラをさんざっぱら披瀝させておいて。自分ばかり恰好つけようと思っても、そりゃだめだ」
「あっ、おもいだした」浜島が叫ぶ。「ビルだよ。ビル」
「ビル?なんや」
「ビル建設やで、でも、石部社長のビル建設計画とは、違いまっせ、コボちゃんのは日本ドストエフスキイ会館の建設計画」
「おお、そうだった。何、わたしだって、自分の工場のことばっかり考えていったんじゃあない。当然、ビル家屋の中に、『ドジョウの会』事務局の部屋をつくることにしていた」
「ふん、ほんまですか。社長はすぐこれだ。調子いいんだから」
「何です!」石部は目をむく。
「まあ、皆さんの夢はさておき、もしこの本がベストセラーにでもなっていたら今ごろは、すごいことになっていたでしょう。たぶん、ホテルの大広間は全会員の出席や各界のドストエフスキイ関係者で大盛況間違いなしだったでしょう。なにせ二十五年前この「ドジョウの会」を発足させたときはすごかったですからねえ」丸山は華やかなりし当時を思い出して感慨深めになつかしむ。
「栄枯盛衰とはいったもの、いまでは、未だ来ぬ会員を待ってボーイが注文をとりにくるのを冷や冷やしている始末。まさにこれを喜劇といわずして何という、ですな。ついこのあいだまでは、何人かの会員の参加者があったのに・・・それが・・・」浜島、店内を見回しうそぶく。「国敗れて山河あり、はたまた、つわものどもが夢のあとか・・・」
「ふん、浜さん、夢の跡でも、山河でもあればいいですよ。あれば。何か残っていればいいですよ。それを元手に何かできますから。夢の跡なら、思い出話しになるし、山河なら観光地にもなるし、百姓だってできる。しかし、我々の場合、何も残っちやいない。何もない。いや違う。我々の場合、残っているのは借金の山だ。ゼロどころか大マイナスときている。これじゃあ、なにかはじめようにもどうにもならん。おまけに頼みの綱の会員も目下のところ一人も出席せずだ。この調子じゃあ本当に誰も来ませんよ。これ以上いくら待ったってしょうがない。そろそろ、今後を含め、どうするか話し合った方がいいんじゃあないですか。もうこれ以上タラネバの話しをして悔やんだってしょうがない」石部は落ち着きなく貧乏揺すりをはじめると、断固たる態度で言い放つ。「いったいどうするんです。いくらなんでも私んとこだけが尻拭いするのはごめんですからねえ。このままでいくと・・・」
「ええ、わかってますよ。そんなことがないようにと、こうして臨時会議を開いたんじゃないですか」浜島は苦虫をつぶして言うと丸山を見て苦笑いする。二人とも石部にその話しを持ち出されるのはうんざりといった顔だ。(以上通信166号 2018.2)   

五、会誌『ドジョウ時代』

 つまるところ話しは責任転嫁の堂々巡り、会話のいきつく先はいつもここ、積もり積もった借金の山。一同、ふっと思い出すと、これまでの好き放題の会話はどこへやら、気がついた現実の重さに口をつぐんだ。石部は口をへの字にへし曲げ、再びがたがたと貧乏揺すりをはじめれば、浜島は何度計算し直しても同じ数字しかでない電卓をたたいては恨めしげに見つめるばかり。幹事の丸山は階段口を睨んだまま時折長いため息をもらすだけ。本当に眠ってしまったのか渋川教授は化石のように動かない。またしてもテーブル上は重苦しい空気がよどんだ。階下の賑やかさが余計にその静けさを際立たせた。
「す、すみません!」突然、小堀が叫んで立ちあがった。一同、ぎょっとして見つめるなか彼は頭をテーブルに打ちつけんばかりに下げて詫びた。
「すみません。みんな僕が悪いんです。僕が間違ってました。この一億総白痴時代にドストエフスキイをひろめようと思ったのが間違いの元でした。いまこそ人類にとってドストエフスキイが必要だなんて、そんなことを一人よがりに信じきっていた僕が浅はかでした。僕が、最初に本を出版すべきだなんて言い出さなければ。皆さんに迷惑かけることなかったんです。会をこんな状態にすることはなかったんです。本当に、なんて謝ったらいいのか」
「いやあ、困るよ、小堀君、そんなこと言い出しちやあ」丸山は苦りきった顔でなだめる。
「誰もあなたの責任だなんて思ってやしないですよ。ドストエフスキイを読もう会通称ドジョウの会は発足以来二十五年、当初の華々しさはありませんが今日までなんとかつづけてこれた。その記念碑として、これまでの同人誌的なものではなく、ちゃんとした本を出版したい、そうした気概というか、意欲は我々の誰にもあったのです」
「そう、その通り、事務局長の言う通りだ。何も小堀君一人が責任を感じることないよ。」浜島も口添え。「ちゃんとした本を出版するというのは夢でしたからね。我々の、このドジョウの会発足時からの念願だった。まだ盛会だった十周年のときも出版の話しはでた。しかし、ここにいらっしゃる渋川先生が一番ご存知だと思うのですが、あの頃は船頭多くして船うごかず。いろんな案がだされたが結局はまとまらなかった。個人的に出版された方もいましたが、会では刊行できなかった。いつかそのうちにと思っている間に年月だけがたってしまって。会員も当初は三百人近くいたのに、回を重ねるごとに一人減り、二人減りで、いまでは、結局、ちやんと年会費を納める会員は50名をきってしまった。が、それでも我々はあきらめなかった。だから、今回の創刊号だって積極的だったのは、会の創設に関わった我々だった。でも、先細る一方の会の実態に、はっきり言い出せなかった。誰かが言い出すのを待っていたんだ。だから、ちょうどよかったんです小堀君の提案は」
「そういうこと、私もいつか切りのいいときに言い出そうとおもっていた。だから、この問題はコボちゃんが言い出したからとか、どうのってことじゃあない」
「そう言ってもらえれば・・・」小堀は消え入りそうな声で言って、腰をおろした。
 彼は、もと地方都市に住んでいた。半年に一回東京都内の会場、主に星河大の渋川教授の研究室だが、そこで開かれる例会に新幹線で上京し出席していた。その熱心さをかわれて会の会報の編集担当になり会報誌の編集を任せられた。すると彼は持ち前の責任感の強さから、都内に職をみつけ、引っ越してきた。小柄だったが、ことドストエフスキイにかけては誰にも負けないほどの心酔ぶりだった。かって詩人の萩原朔太郎は「ドストエフスキイこそ我が神」と叫んだが、彼も詩人に劣らず、ほとんど信仰のようにドストエフスキイを信じて、青春のすべてを会の活動に捧げていた。しかし、その苦労は報われなかった。今日、この有様が、そのことをものがたっていた。彼が費やした時間と努力は水疱に帰した。会は衰退の一途をだどり、今宵終着駅に着くかも知れないのだ。彼が会で得た唯一の収穫は以前例会の会場にしていた新宿の談話喫茶で、その店の予約係りだったウエイトレス嬢と付き合いはじめ、昨年秋になって遅い結婚をしたことだった。近くに子供も生まれる予定もある。新しい生活と念願の出版。二つの喜びにつつまれていた。そうした諸事情や意気込みを知っているだけに慰めようもない。皆は言葉を失って口をつぐんだ。テーブル上にはふたたび重く沈んだ空気だけがよどんだ。
 「ああ、せっかくの記念碑が墓標になりやあ世話ないや」突如、石部が半ば自棄っぱちのように声をあげた。
 「起死回生のつもりが、アリ地獄とはねえ」浜島も首をひねってこぼす。「いったい、何がまずかったのかねえ」
「題名だよ『ドジョウ時代』、柳川鍋をイメージするね。いつ聞いても」
「そうですか?!ドジョウとは何か?の疑問のほうが先で皆さん賛成したのでは」
「読みませんからねえ」不意に渋川教授がむっくり顔をあげて言った。てっきり眠りこけているものと思いこんでいた一同、ぽかんとしてみる。教授、すまし顔で、テーブルの上にはずしておいていた眼鏡をとると、テーブルクロスの端でレンズをぬぐいながら言った。「近ごろの学生は、ドストエフスキイどころか、古典文学などほとんど読みませんよ。作家と作品は受験対策で覚えたんでしょう。誰が何を書いたか、それなりに知ってはいますが、いわゆるクイズの答えですよ。中身の方はさっぱりですね、たまに読んでいるかと思うと、これが解説書かあらすじをただ教養のために暗記したというだけでねえ。とてもドストエフスキイを読むなんてとこにはいきませんよ。まあ、日本の学生に、限ったことじゃありませんがね。ドイツではゲーテを読む学生がいなくなったというし、イギリスではシェイクスピアも読まれなくなったといいますからね」
「我々の時代とどこが違うんです」かっては学生運動の闘士だったという浜島はなっとくできない顔だ。
「ほかにすることが、といっても遊び事ですが、多くなったんですよ。それに当節は無理して考えなきゃあいけない政治問題も哲学的なこともありませんしね。世の中、軽いノリで流れてますから、ドストエフスキイのようなくどいものはちょっとね。それに今はなんでもマンガですよ。政治も経済も法律も。活字族にとっては嘆かわしいことかも知れませんが、若者にとってはわかりやすくていいんですよ」
「そういえば、うちの庁内でも見かけましたよ」丸山が頷く。
「えっ、法務省で、ですか?!」
「新人の机の上に、見なれない本が置いてあるんで、ちょっとのぞいたら、これがマンガなんですよ。狭山事件っていうのがあったでしょ。作家の野間宏だかが協力して冤罪を訴えていた」
「どんな事件でした」
「ほら、狭山のお茶畑で警察が犯人を取り逃がして後で別件逮捕した」
「ああ、」
「えーと、吉展ちゃん事件があった年に起きた事件。あの事件ですよ」さすが、本業とあって詳しい。
「へーえ、お役人もねえ」浜島は腕組して感心する。
「文学書を抱えているか読んでいるものといったら、ばななか、春樹、それに何とか探偵シリーズぐらでしょう。変わりましたよ今の学生は、もっともあの東大紛争のころだってマンガは読んでいましたが・・・」
「それは、マスコミのアレですよ。我々を揶揄せんとするプロパガンダ。そんなようなもんですよ」浜島は一笑に付しながら心外といわんばかりに言った。「たしか、右手、左手だったか、忘れちゃつたけど『朝日ジャーナル』、左手に『少年マガジン』そんなふうに言われてた時代があったのは事実です。白土三平の『カムイ』がゲバ学生に人気あった。それに、あの「よど号ハイジャック事件」の田宮なんか、「我々は『明日のジョー』である、なんちゃって迷言を残していますしね。否定はしませんよ。いまの学生とたいした違いはないかも知れない。しかし、心意気というか熱意だけはあった。読まなくたってジャーナルを買うことが一種のステータスだった。だから、そのへんは今の学生とは全然違いますよ。ドストエフスキイが読まれなくなったのがいい証拠です」
「そうですね。時代が悪かったかも知れません。一昔、いや二昔前だったら、状況は違っていたでしょうね」
「ち、ちょっと待ってください」石部が割って入った。「事務局長、時代のせいばかりじゃありませんよ。さっきから黙って聞いてりやあ、本が読まれなくなったの、学生はマンガしか読まなくなったから、だのと勝手な詮索をしていますが、商売、他人様のせいにしたらおしまいですよ。創刊号を出したといったって、我々、これ趣味や道楽で出版したわけじゃないですからね。累積した赤字を解消しょうとして、一発逆転を狙って、極めてギャンブル的ではあったが、儲けることを目的ではじめたわけだから、責任はあくまでも我々にありますよ。もう少し、検討すればよかったんです」
「──と、いいますと?」
「内容ですよ。内容」石部はテーブルのなかほどに山積みしてある創刊号『ドジョウ時代』を一冊手にとるとペラペラめくりながら言った。「売れなかった。たしかにいまどき、こんなものは売れないでしょう。時代の風潮ってものもありますが、それならそれで対策を考えればよかったんです。まあ、私は編集委員じゃあないので黙ってましたが、一般読者を対象とした読み物にしては難解過ぎますよ。これはどう見たってロシア文学専門家かドストエフスキイを研究している人を対象にしたものですよ。とても一般読者が手にとるような代物じゃあないですよ。小林秀雄や中村雄二郎、それに・・・誰だっけ・・・まあいいや。最近、評判のよかった江川卓の『謎解き「罪と罰」』や『謎解き「カラマーゾフの兄弟」』にしたって作者の知名度が売れ行きにかなりプラスに働いているのは否めないです。そりゃあ、まあ、これまでドストエフスキイものを出版している著者は研究者か作家ですから比較にはなりませんが、もし我々が、作家先生たちとまったく同じものを書いたとしても、だめでしょうね。私らみたいな、無名のドストエフスキイ愛読者が世間に勝負するんなら、もっとわかりやすいものにすべきだったんですよ。今度の創刊号は、できたものに言っちゃあ悪いが、どうサバ読んだってドストエフスキイを読んでないものにとっちゃあ、ちょっと手のでないしろものでしょう。敬遠しますよ。題名だって『ドジョウ時代』でよかったかどうか」
「意外ですね。石部さん、あなたの提案ですよ。親しみやすいもの、意表をつくものがいいと、会の名前をつけることにしたのは・・・」
「そうですか。まあ、題名はいいでしょう。芸名と同じで、売れればぴったりするし、売れなければ、しっくりしない。『ドジョウ時代』も売れればぱっとするのかも。それより本は中身ですよ。中身がよければ・・・もっともここが問題なんですよ。たんに見た目がいいだけじゃあだめなんです。本を出版する場合、いわゆる儲けを考えたら鉄則があるんですよ。たとえば科学書を一般向けで売ろうとしたら、科学記号を少しでも減らすことに努力するといいますから。COとかH2Oとか、わけのわからん方程式とか、一般読者にはチンプンカンプンですからね。そういうものを一つ入れるたびに本の売れ行きは半減するっていわれている。この轍を踏むとゴリャートキンとかスヴィドリガイロフとかバフチンとかの名前も同じこと、店頭で本をひろげた途端、こりゃだめだってことになる。とても買ってまで読もうとしないね。もっと気楽に、より一般読者がわかるように。だいたいドストエフスキイの作品の人物は小難しい人間など一人も登場しないんだ。下っ端役人か、酔っ払い、それにちょっと頭のおかしい人間、といった、社会じゃあどうにもうだつのあがらない連中ばっかしだ」
 石部は言ってから苦笑いして。「我々も似たり寄ったりですが・・・それなのにドストエフスキイもの書きはなぜか難しいものになっちゃう。これは一体、どういうことなんでしょうなあ、前々から疑問に思っていたんだ。社会の落伍者をなぜこうも哲学的に心理学的に難解に論じなきゃあいけないのか。『貧しき人々』のジェーヴシキンなんかよくいる寂しいおっさんだし、マルメラードフに至っては下の下の父親、いや人間ですよ。こんな人間のことを何だかんだと議論の対象にすること自体、私は本当いうと我慢ならんですよ。だいたいマルメラードフなんかあの保険金欲しさに娘を殺した木下伝司郎と五十歩百歩。たいして違いがないんです。だから奴の言い分や存在理由なんか分析する必要なんかないね。たんなる悪党、ダメ人間。で、いいじゃあないか。なにも難しくすることなんかないのだ。そこんとこをちゃんと解決してから発行すればよかったんだ」

「また、その話ですか」丸山は露骨に嫌な顔をして言った。「もう、『ドジョウ時代』の話はやめましょう。石部さんの問題は結局、そこにいくんですから」
 渋川教授は居眠り顔で苦笑したが、浜島と小堀はあきれ顔。
「そうそう。なんら建設的なもんじゃあないですからね」浜島は相槌をうつ。
 石部はかっとなって「私は、ただ真実をいってるだけですよ。真実を。過去を反省しないで、どうして前進できるんですか。難し過ぎたことを難し過ぎたと言ってなにが悪いんです。たんに覆水盆に帰らず式にかたづけては困りますよ」と、頑迷にまくしたてた。
 が、皆は知らん顔だ。彼がごねるのは毎度のことである。それに、その立派な批評とは裏腹に難しいというご当人が「日本人の国民的根源とロシア主義」というたいそうな論文を載せているのだ。なおも挑発的な石部だが、皆はこれ以上、刺激を与えない方が得策とみてか、まったく無視した態度をとっていた。
「もっとも、いまさら、こんなことを言っても埒があきませんが・・・」石部は、誰も聞いていないのに気がついて言葉をきった。そして、皆を見回しながら自嘲気味につぶやいた。「書くってことはむずかしいことですわ。ほんと・・・」テーブルの上は、より白けた雰囲気になった。三階にふたたび重苦しい空気が漂った。
 待てど暮らせど来ぬ会員、待つは「ドジョウ」の役員衆。春はおぼろに暮れゆきて焦る心も失せにけり。絶えて久しい階段に人恋しきと思えども、ここは辛抱石の上。待てば海路の日より――。突然、階下に
「いらっしゃい!」のこだまあり。あとにつづくは靴の音。天井映るは人の影。一足ごとのブロッケン。やっと来ました会員一人。さてさて如何なるご人でありますか。(以上 通信167号 2018.4)   

六、女子大生大野キン子

 大野キン子はフラメンコの曲に合わせて階段を上っていった。あっさりとしたジーンズに紺のハーフコートのいでたち。肩までのばした黒髪。ちょつとばかりのしし鼻に大きな瞳。なかなかの美人である。すらりとした体躯に背も高い。テニスの帰りか肩のカラフルバックにラケットケースがのぞいている。どうみても「ドジョウの会」とは結びつかない。彼女は上りきると、三階の店内をぐるりと眺めまわして痴呆けたようにつ立っていた。間違ったところにきてしまった。そんな感じだったが、おそるおそる「ここ、どじょうの会ですか」と、尋ねる。
 全員が、頷く。と、突然、「エー、ウソ―!」と、叫んだのである。
 これには我らが五人衆、びっくり仰天。散々の待ちぼうけのあと、あらわれたのは、とてもドジョウの会とは縁がなさそうな女の子。まさか、待ちに待つたる会員か。一同、唖然としたまま声をなくして見つめるばかり。が、キン子嬢、どこ吹く風、なおも甲高い声で
「ウソー、ウソでしょ、これって、まだ誰もきてないんですかア!?」と、質問をつづける。
「あのー、あ、な、た、だれ」やっとのことで丸山は、たずねた。
「えっ!?」キン子は、吃驚目を見開いたまま数秒間かたまっていた。が、そこは回転速く居眠り中の渋川教授をちらっと見て言った。「渋川ゼミのものですけど」
「あ、あ、あなたが・・・」丸山は、不意に何事か思いだしたように頷いた。そして、急に恐縮して椅子をすすめお礼もする。「さあどうぞ、どうぞ。このたびは、ありがとうございました」
 皆も、思いだした。今日の緊急会議のお知らせを、渋川教授から、ゼミの学生に頼んだと聞いていた。彼女が、その頼んだ人なのだ。
「これは、これは」皆は、挨拶も忘れて失笑を浮かべるばかり。
「会の皆さんって、皆さんですか?」
「いや、われわれは役員で、会員はまだなんですよ」意味もなく騒がしい彼女に丸山は、うろたえ気味にやっと答えた。
「うそ!! それって出席者ゼロってこと」キン子は訝しげに問いただしながら、後ろを振り返ったり、尚も店内を見回している。
「あのう、大野さん。ハガキだしておいてくれましたよねえ」丸山は恐る恐る聞いた。
「え、ハガキですか」キン子は黒髪をうしろに押しやりながら不審そうに聞いた。
「そうです。今日の連絡の」
「ちゃんと出しました。急ぎだっていうから急いで」言ってから彼女は、憮然として黄色い声をはりあげる。「イヤダー疑ってるんですかアー。わたしのこと」
「いゃあ、そういうわけじゃないんだけど」丸山は、うろたえて言った。
「こうみえたって、わたし、仕事きちんとやる性格なんです。引き受けたことをしないなんて、そんな無責任なことしません」
「ええ、ええ、それは十分わかっています。ただ念のためにお聞きしたまでで」
「先生からお預かりした住所録。あれに載っている人全員に出したんですよ。何人だったかしら、二百人分はあったわ。おかげで手にマメできちゃった」
「二百人!?てーと、え、全員ですか」
「そうですよ」
「地方の会員のところには×印をしておいたはずですが・・・」
「あら!?いけなかったんですか」
「いや、いけないということはないんですが・・・」丸山は歯切れが悪い。「関東地区の会員だけでよかったんです。地方の方は出てくるのに大変ですから。切手代も・・・」
「いいんですよ。いいんですよ、全員にだしても」小堀は悪そうに助言する。
「全員でなくても、よかったんですか」キン子は、口を尖らして大袈裟にため息をつく。「ああ、損しちゃった」
 彼女はカチンときた。曖昧に仕事を頼んでおいて、誰も来ないからと疑ったりする。こんなことならテニス同好会のコンパにでればよかった。今ごろ渋谷のハチ公前に集っている阿部クンやカオルたちのことを思って後悔した。物珍しさできたものの、渋川教授は、居眠りしているし、あとの四人も、さえないオジサンたち。礼を言われるどころか、ハガキ出しを疑われたりもした。キン子は、だんだん腹が立ってきた。しかし、いくらなんでもこのまま引き返すわけにもいかず、キン子は渋々、空席の並ぶ真ん中に腰を下ろす。
「どうしましょうか!」いつのまに上がってきたのか、またしてもノッポのボーイ君である。
 例によって皆は、再びだんまりだ。それを見て、キン子おかしくなった。なんてさえない人たち。事務局長の丸山は困窮顔。貧乏ゆすりの石部、神経質そうな浜島、一番若そうな小堀は怯え顔でキン子を見ている。教室では偉そうに見える渋川教授は、さっきからタバコ屋の老人みたいに居眠りしたままである。なんなのこの人たち、あまりのおかしさにキン子の機嫌もだんだんなおってきた。
「そろそろお飲み物お持ちしましょうか」
「えっ、まだなんですか!?」
「一応、総会が終ってからと思いましてね」言って丸山はくちゃくちゃになったおしぼりで額の汗を拭う。
「お時間の都合がありますので」
「もしかして会員の人が来るのを待ってるんですかア」
「いえ、三分の一の委任が・・・」丸山事務局長は言いずらそうに答えた。
「ウソでしょう。だれも来ないんじやあないんですか」
「そうですねえ、もうこれ以上待っても無駄かもしれませんねえ」不意に渋川教授はむっくり起きあがると、入れ歯をもぐもぐさせながらキン子を見て言った。「あ、大野さん、きたんですか。ごくろうさん」
「先生、出席にしてくれる約束ですよね」
「ああ、大丈夫、大丈夫」渋川教授は、大きくうなずいたあと、テーブルをぐるっと見回して言った。「はじめましょうか。もう話もなんだから飲みながら待ちましょうよ」
「そうしますか。話し合いが終ってからやるというのも時間的になんですから」この後におよんでも、丸山はまだ理屈をつけている。よほどの堅物なのだ。
「お飲み物はなにが」
「どうします、ビールでいいですよねえ」丸山は皆を見まわしてから指を三本立てて言った。「じゃあ、とりあえず三本お願いします」
「えっ、三本だけ」キン子は、訝しんだ。自分を入れて六人。この店ではどうせ小瓶だろうし、いくらなんでも足らない。それにもしかして、ひょっとして会員が来るかも知れない。
「三本ですか、他には」
「いや、それでいいです」
「はあ、わかりました。それではただいま」
さんざん足を運ばせた結果がたったの三本。だが、ボーイ君、意味不明の薄笑いを浮かべ馬鹿丁寧にお辞儀をしてからなにやら晴れ晴れした表情で引き上げていった。
 キン子が不思議そうに小首を傾げていると、丸山はボーイ君の姿が階段に消え去るのわ見届けてからにっと笑って「ま、我々だけでしたら、席をかえましょう。高いですからねえ、ここ」と言った。「誰もこないんじゃあ、何のために席をもったのかわかりませんからね」
 なんだたんに、みみっちいだけじゃないの。キン子はあきれた。結局、いつものパターンじゃない。どうしても居酒屋で飲まなきゃいられない人たち。ほとんど全員の会員にお知らせしたから、すこしはどれだけ集るか興味あった。それにどんな会員がくるのか、見てみたかった。みんな、この役員のような堅物で優柔不断な人たちなのだろうか。もし女性の会員がきたら何が面白くて、この会にはいったのか聞いてみたかった。キン子は二年間この会の役員と付き合っているが、まつたくの趣味のことにどうして彼らがこんなに入れ込んでいるのかさっぱりわからなかった。役員では話にならないので、会員にたずねてみようと思ってきたのだ。が、それも誰も来ないのでは話にならない。渋川教授の研究室で開かれた、このまえのときもそうだったが、また内輪のシケた話を聞いていなくてはならないのかと気が滅入った。ああ、もう早く終ればいいのに。キン子は上目使いに五人の様子を伺った。
 そんな彼女の思惑を知ってか知らずか、彼らは元気なく乾杯すると、ちびちび飲みながら性懲りもなくまたしてもボヤきだしたのである。
「しかし、どうするんです。はじめるといったって役員だけじゃあ、仕方ないでしょう」石部はサラミを食いちぎると言った。
「まあ、そこらへんは臨機応変にやりましょう」
「そうですね。役員という立場を離れて、一会員の立場に立って話し合いましょうよ」
「実に情けないもんだねえ。昔は五十,六十そこらはすぐに集ったもんだが」
「そうですねえ、新聞の催し欄に載せただけで、会員以外の人もわんさか来たですからねえ。作家の六木浩、埴輪崇まで来たんですからね。第二回の総会なんか文化会館の大ホールがいっぱいになったんですからね。ああ、あの人たちみんなどこに行ってしまったんでしょうね」小堀は、ひとりごちた。
「あーやめとき、聞きたくないね。振りかえってもどうしょうもない。昔は昔」石部は忌々しそうに貧乏揺すりをはじめる。
「昔の栄華いまいずこか。いまでは全会員に連絡してもこの有り様か。人の世の無常を感じるね。所詮、ドストエフスキイ読者も人の子というものさ」浜島も、半ば自棄気味に言ってため息つく。
「でも、地方の会員はしょうがないとしても、せめて関東地区、東京都内に住む会員が誰か一人ぐらい出席してくれてもよかったですね」さすがの小堀も情けなさそうに肩を落とす。
「会員の出席者がいない。こういった事態になるとは予想もしてませんでしたから」丸山は困りきった顔で言うと渋川教授に聞いた。「先生、どうします」
「そうですねえ、こうなればもう、ここにいる役員の皆さんで決めるほかないでしょう。いいんじゃないんですか、決めて。これも浜島さんじゃないけど、時代の流れでしょう」
「どんな名著も時代にゃ勝てぬ、ですか。これは再興を帰して玉と散るよりほかになさそうですなあ。ヒヒヒヒヒヒ」丸山は言って、突然気味の悪い笑い声をあげた。
 いつもは紳士然としている丸山の豹変ぶりに一同ギョッとする。もう完全に望みを捨てた笑いだ。切れてしまった。思えば、発足から二十五年、時代の荒海のなかでマスト折れ、へさきちぎれ、羅針盤さえ失った。航行不可能となった「ドジョウの会」は、まさに荒海に漂う木の葉のごとく運命であった。いつ藻くずとなって消え去ろうとも不思議はなかった。だがしかし、事態は難破沈没も許さぬ過酷な状況にあったのである。
「ですが、事務局長。そうは問屋がおろしちゃくれませんよ。そう簡単に投げ出すことできませんよ。玉と散れません」会計を預かるだけに浜島は、渋り顔で仰々しく「会計報告書」と、題された印刷物をひろげて言った。「予算は完全に赤字状態ですからね。もう何年も。累積赤字は百万を越しているんです。百万も!これをどうにかしなければいけないんです」
「それって、こんどの印刷代金も入ってですか?」
「石部さんのとこは、別なんですよ」丸山は申し訳なさそうに言った。
「べ、別って!そりゃあひどい話じゃないですか。聞いてませんよ。ぼくは」
「えっ、ご存知ない。それは意外ですねえ。鑑査役でしょ。だからわたしはこの前、説明したとき、そこんところは、てっきり融通きかせてくれると思いましたよ」
「そりはきかせんわけはないでしょう。十万、二十万だったら。しかし、百万近くも返済枠からはずれているとなると黙っておれませんよ。従業員の家族の心配をしなきゃあならんのですからね。いくら会のためといったって、こちらは趣味。公私混同はできませんよ」石部は、ぐいとビールを飲み干すと口から泡を飛ばさんばかりに言った。
「会社の方も尻に火がついているんです。だから早いとこ、なんとかしてもらわなければ困るんだよ。これまでの会報だって打算なしで引き受けていたんだし。こんどの創刊号だって儲けなしの赤字覚悟で引き受けたんです。白状すれば、会社の経理には、まあ家内ですがぼくのポケットマネーを利益だといってわたしてるんです。これでも会のためには、結構、尽くしているつもりなんです。今日だって、同業者の集りがあったが、そっちはおっぽってきたんだ。そこんとこを考えてもらわないと。そうそう犠牲を強いられても。なんせ、のんびり会計だけやってれゃ済む身とは違うんです」
「な、何言うんです。失礼じゃないですか」浜島は憤慨した。ビールで赤くなった顔をさらに赤くして大声で言った。「のんびり会計だけ、とは何です。たしかにぼくは石部さんのような経営者じゃない。いっかいのしがないサラリーマンです。しかし、ぼくだって忙しい中、暇をさいてきてるんじゃないか。会社のつきあいだって断ってるし、家族サービスだって犠牲にしているんだ。おまけに会では、収入のないのに、会計係なんていう七面倒くさい役目を引きうけているんです。鑑査みたいにただ見てりゃあいいっていう役目じゃないんです」
「見てるよりほかにないでしょ。なにもないんだから。第一、収入のないのはあなたの責任ですよ。会費さえ、ちゃんと集めておれば焦げつくことなんかなかったんだ」
「な、なんだって!」浜島は卒倒しそうな勢いで石部を指差して怒鳴った。「会費が集らなかつたのはぼくの責任だというんですか。取り消しなさいよ。暴論じゃないですか!」
 毎度のこととはいえ、熱くなった二人のやりとりに小堀はたまらず立ちあがって叫んだ。
「や、やめてください、二人とも!情けなさ過ぎます。そんな個人的なことで互いの悪口を言い合うなんて。石部さんも浜島さんも、本当に会のことを思うんなら前向きに考えてくださいよ。言い争うんじゃなくて。もともとドストエフスキイの愛読者が徒党を組むなんてことは無理だったんです。ですが、その無理を承知で会を発足させ、自発的に振りこまれた会費だけで二十五年もつづいてきた会じゃないですか。こんな会、日本中どこを探してもありません。それを二十五周年記念を目前に解散させてしまうなんてできません。途中で入ったぼくが偉そうなことを言ってすみませんが、せっかくここまでつづけてきたんです。それに少なくてもここにいるぼくはなんとかつづけたいと思ってるんです。解散した方がいいとは思っていないと思います。だったらなんかいい解決策を考えましょう。いがみあうんじやあなくて」
 突然、丸山はパチパチと手を叩く。石部も浜島もつられてたたいた。
「みんな同じ気持ちです。それは」言って丸山は小さく頷いた。
「それに、ぼくには会を解散させたくない理由が他にもあるんです」
 皆が訝しがる中小堀は鞄のなかから何枚かのハガキをとりだし「これです」とみせる。
「なんです、それ・・・」
「数は少ないんですけど、『ドジョウ時代』を読んだ読者からのお便りです。今日の総会で紹介しようと思っていたんですが。こんな有り様なんで、こんどまた何かの機会にと思っていたんですが、ちょっと読んでみます」と、言って小堀は読みはじめた。
「前略、先日、偶然に『ドジョウ時代』創刊号を読み、会の存在を知りました。唐突ですが、貴会への入会は可能でしょうか。何か制約があるのでしょうか。実を言いますと小生は前科のある身であります。昨年まで服役しておりましたが、所内ではずっとドストエフスキイを読んでおりました。いまドストエフスキイは、小生の生きがいです。もし入会可能なら、是非とも入会したくお願い申し上げます。早々」
 小堀は、言葉を切ってちらっと皆をみてから「もう一枚読みます」と、言って読み始めた。「拝啓、私はもう五年間、母以外の誰とも会っていません。高校を中退してからずっと閉じこもっています。この五年間一人闇の中で何とかしなければともがいてきました。死ぬことも生きることもできない毎日でした。こんな私に一条の光をくださったのがドストエフスキイ様です。ぜひとも入会したいのですが、どうすれば会員になれるでしょうか」
 小堀は一同を見まわす。「などなど、他にも何通かあります。どうです。これでも解散することができますか。売れた売れないで言い争いをしていて恥ずかしくないですか。ぼくはこの人たちになんて返事をだせばいいんです」
 小堀の真摯な訴えに、一同沈思。少し間をおいて丸山は頭を下げた。
「まことにその通りです。運営と会とをごっちゃにしてました。もうしわけない」
「我々も大人げなかった・・・」石部と浜島も神妙に詫びを入れた。
「今現在もそうした人たちがいるということはうれしいことです。ドストエフスキイを必要とする人たちはまだまだいるんです。と、いうことは、この日本でもっとドストエフスキイを読むことを宣伝しょうという我々としては、責任重大です。安易に安直に結論を出すのではなく、もっと慎重に熱く話し合い検討すべきです」と、事務局長一席。
「しかし、現実はごらんの通りですからねえ。大野さんが全員に知らせてくれたにも関わらずこれなんです。せめて十人でも集ってくれたらと期待してたんですが、それも楽観的過ぎました。まあ、今回に限ったことじゃあありませんが、ここんところ例会もずっと役員だけでしたでしよ。話し合いはいいが、このままいくと負債ばかりがどんどん溜まって、そのうち、我々役員の個人負担だけでは手に負えなくなってしまう。ドストエフスキイどころではなくなってしまいます。まさにあぶハチ捕らずです。だから、会運営に関しては早急に結論を出さなくては」さすがに浜島は会計係、現実を直視している。
「いったい、会員の連中は何を考えているんですかねえ。本当にドストエフスキイの愛読者か、疑うね」石部は、忌々しそうに鼻を鳴らした。今度は会員に矛先を向けたようだ。
「所詮、ドストエフスキイの読者で会を運営していくということは無理、不可能なことだったんですかねえ」事務局長は、言って首を傾げた。
「ふうむ、組織や団体、それに権力者にとってはドストエフスキイはいわゆる害虫のような存在ですからねえ」渋川教授は目をつむったまま他人事のようにつぶやく。
「組織をスプロール化する存在の会。まさにドストエフスキイが掲げた矛盾がこんなところにあるとはねえ・・・」丸山事務局長はふっとため息ついて腕組する。
 ああじれったい。何も考えることないんじやない。さっきから聞いてれば、ああでもないこうでもないの議論。おまけにウソかホントか知れないようなハガキまで読み上げたりして、この人たちっておバカさんじゃない。会員は誰も来ないんだし、雑誌発行もうまくいってないみたい。借金がかさむ借金がかさむなんて大騒ぎしてる。だったらさっさと解散すればいいのよ。キン子はうんざりしていた。わけのわからない文学論や会の赤字話、それに内輪のごたごた話を聞かされて、もういい加減嫌になってきていた。退屈しのぎと苛立ちで吸っては消すタバコが灰皿に山となっている。彼女は、タバコの空箱を握りつぶしながら悔いた。よくこのカビのはえそうな変わりばえしない会を手伝う気になったものだと我ながら感心する。大学生活も後一年しかないというのにこんなネクラなオジサンたちと一緒にいていいうのかしら、そんな疑問もわいてくる。思えば、半年前、たまたま行った渋川教授の研究室で気軽に創刊号『ドジョウ時代』の校正の手伝いを申し出てしまったのが失敗のはじまりだった。最初のころは物珍しかったが、近ごろではうんざりしてきている。キン子は退け時を考えながら思った。まったく変な話だわ、だってわたしドストエフスキイを一度も読んだことがなんです。これまでに何度か読もうと挑戦してみたけれど、最初の一頁目で、もう降参。あんなもののどこが面白いのかしら。人生の生きがいだの、一条の光だなのという人の気が知れない。だいたいロシアの作家で知っているのはトルストイぐらい。だってわたし、ゴーゴリとゴーリキーが違う作家だなんてこの会にきてはじめてわかったんです。こんなわたしが手伝う理由はただ一つゼミの渋川教授から単位をもらうこと。それももう大丈夫の見通しがついた。早いとこ縁をきりたいのが本音。ドストエーフスキイなんか絶対に面白くないと思う。このオジさんたちを見れば一目瞭然。こんな会に関わって、ああ損した。キン子はあくびをかみ殺した。なんだか眠くなってきた。
「やはりドストエフスキイの読者で一つの会をつくるということは無理なことだったんですかねえ」丸山は指を組んで天井を仰ぐ。
 ああ、この人たち何をいつまでもくどくど話し合っているのかしら、じれったくていらいらするわ。キン子は思った。もう何も考えることなんかないんじゃない。会員は誰も来なかったし、雑誌発行もうまくゆかなかったようだし、これ以上、話し合ったって無駄というもの。さっさと解散すればいいのに。借金があるみたいだけど、聞いてれば二百万ぽっちみたいだし。それを何千万もあるように大袈裟な言い方しちゃって。キン子はうんざりした。さっきからわけのわからない文学論や役員同士のごたごた、それに大袈裟な赤字話を聞かされて我慢も限界。退屈しのぎに吸ったタバコの吸殻が山となっている。このあと、居酒屋かどっかで飲みなおすようだけど、わたしは渋川先生への義理も果たしたしこれで帰ろっと。もうごめんだわ。彼女は退け時を考えながら思った。こんな会に入りたいなんて人の気が知れないわ。それにドストエフスキイだって、まだ一冊も読んだことはないけど、絶対に面白くないと思う。だって、この人たちみてればわかるわ。こんな会に関わって、ああ損した。キン子はあくびをかみ殺した。なんだか眠くなってきた。 

七、遅れてきた青年

 階段の上がり口に黒の外套を着た青年が一人、戸惑い顔でボーと立っていた。年の頃、三十前後か、中肉中背で色白な丸顔、髪は天然パーマのかかったモシャモシャ頭である。退屈しきっていたキン子は目ざとく見つけると皆の会話を遮って言った。
「あれ、誰かしら」一同の視線が、青年に集った。
「あのう、すみませんが」話に水を差されて丸山は迷惑そうに言った。「三階はいま貸し切りになっているんです。一般席は一、二階までなんですが」
「いえ、違うんです。そうじゃあないです」
青年はおどおどした態度で言った。
「もしかして、会員の方?!」小堀が聞いた。
「は、はい。ぼくはドジョウの会の会員です」言って青年は外套のポケットからハガキをだした。「会について何か緊急なお話があるというので」
「ああ、そうですか」丸山はじめ一同、浮かぬ顔だ。そろそろお開きにしょうと思っていたので今更といった感なのだろう。
「さあ、どうぞ」キン子は立ちあがって招き入れた。あきあきしていたので新しい人は誰だろうが大歓迎だ。青年はほっとしたように頷いて、外套を脱ぎながら歩いてきた。下は紺のブレザーにチェックのワイシャツといった、どこかちぐはぐな服装。手にボストンバックを持っている。
「どうぞ、どこでもいいんですよ」
「はい」青年は頷いてはみたものの、空いた椅子の多さに戸惑っている。
「まだ、誰も来ていないんですよ。会員の方は」丸山が言ってすすめた。「どうぞ」
 青年は、一同の好奇な視線のなかで恐る恐る腰をおろすと、訝しげに見まわしてたずねた。
「だれも、ですか・・・?」
「ここにいるのは役員の人だけなんです」
「はあ・・・」
「まえに会に出席されたことは?」
「今日がはじめてです」一同、ため息。よりによってこんな状況のときに出席するとは、の思いである。
「地方にいるんでなかなか出席できません」
「地方?!」
「どちらからです」
「甲府です」
「こうふ・・・?」
「山梨県でしょ」キン子が言った。青年は頷く。
「ああ、甲府ね。ブドウ狩りの」丸山も頷く。
「ウチは社員旅行で行ったことがあるよ。石和の温泉に泊まって信玄神社と昇仙狭を見てきたよ」石部は、言って自慢そうに膝を打つ。
「いや、甲府ならやっぱり太宰でしょう」と浜島。「ぼくなんかブドウより、月見草が咲く頃に行ってみたいですな。どうです、本当に似合うんですか」
 皆からあれこれ質問されて、青年はすっかり面食らっている様子。ただ困り顔で頷いているばかりだ。キン子は、助け舟のつもりで聞いた。
「それで、お名前は」
「夢井信吉といいます」
「ゆめいさん。ゆめは、夢のですか。えーと、忘れちゃったわ。いっぱい書いたから」
「すみません、地方の方、少ないからわりと覚えているのですが・・・」小堀も首を傾げる。
「えーとゆめいさん、ゆめいさんと」キン子は声にだして住所録を眺めていたが、急に叫んだ。「あった、あったわ。ありました。最近、入会した方ですね」
「はい、『ドジョウ時代』を読んで」
「そうですか。結構、読まれていたんですねえ」浜島はうれしそうに言ってから、急に思い出したように聞いた。「と、いうことはまだ入会金をいただいてませんよ、ね」
「さすが会計さんだね、すぐそこにいく」
「はい、会が開かれたとき、出席して直接お支払いしょうかと思っていましたから、それで」
「それはご丁寧に。でも地方の会員の方は委任状を送ってくれればいいんですよ。関東周辺の人ならともかく、地方から出てくるのは大変でしよう。こちらの彼も、以前新幹線で名古屋から出席してましたが、とうとう東京に職換えして引っ越してきたんです」丸山は小堀を指差してから申し訳なさそうに言った。「それに、せっかくはるばる来ていただいても、それに報いるだけの活動が、できてないんですよ。なにせ欠席者が多くて」
「いえ、いいんです。ぼくは一度、出席してみたかったし、甲府はそう遠くありませんし・・・」
「そうですか、こちらとしては一人でも多い会員の方に出席していただければ助かるんです」
「会員の全員参加、それがこの会の望むところです」浜島は、言って大きく頷く。
「まあ、それはそうですが、さあ、お気楽に」石部は、にこやかに頷く。
「あのう、そのまえに」夢井信吉と名のった青年はためらいがちに言って、姿勢を正すといきなり大声で自己紹介した。「ぼくはドストエフスキイ先生を誰よりも愛しています。ドストエフスキイ先生はぼくのすべてです。ぼくはドストエフスキイ先生の宇宙と人間愛を誰よりも信じています。先生の教えを伝導するのがぼくの使命だと思って今後いっそう努力するつもりです。どうかよろしくお願いします!」
 突然の突飛な挨拶にビールを運んできたボーイ君は驚いて危なくお盆をひっくり返そうになった。一同はもあっけにとられて口をあんぐりあけたままだった。忽然と現れたイノセントのごときこの青年、いったいいかなる人物か。いまや風前の灯火となって消えようとしている「ドジョウの会」。復活の一滴になり得るでしょうか。はたまた夢も期待も無残に消えて今宵限りの出会いとなるのか。われらが役員諸氏、暫しの間、ただ呆然と漫然と遅れてきた新入会員をながめるのみであった。
「いやはや、頼りになります」丸山は苦笑して言った。
「心強いですな、こんなときに」渋川教授は眼鏡をとって眠そうに目頭をこすりながら本音とも冗談ともつかぬ口ぶりで言った。しかし、丸山と浜島は、今更、新人の、それも地方の会員に登場されても仕方ないといった困惑顔は隠しきれないでいる。それでも夢井青年のまだ相当にドストエーフスキイ熱に浮かされた様子は、役員諸氏の胸中にかって若かりし時分はじめてドストエフスキイを読んだ頃の自分の姿を思い起こさせた。ドストエフスキイに対する率直な想い。皆は、なつかしさくも気恥ずかしくもあったが彼の純真な心は理解できた。それだけに、できれば会の現状を知ることなくこのままお引取り願いたかった。
 だかしかし、夢井青年は憧れた「ドジョウの会」への初めての出席に、青白い頬を上気させ、いまだ興奮覚めやらぬ様子で無邪気な笑顔をみせて座っていた。丸山は、なんとなく話ずらそうにそわそわしていたが間をおいて言った。
「夢井さん、でしたよね。ハガキでは重要な議題としかお知らせしていませんが、実はですねえ、今日、臨時の会合を開いて、全会員を召集しようとしたのは、要するに会の今後の運営というか存続をどうするかってことなんです。会にとってこんな重要な案件をここにいる我々だけで勝手にどうこう決めるのは許されることじゃあないんですがね。しかしお恥ずかしいが全員に呼びかけたにもかかわらず集ったのは役員の我々四名と、出欠ハガキの発送をお手伝いしていただいた大野さん、それに会の顧問やってくださっている渋川先生だけなんです。つまり、一般からの出席者はあなただけなんです。まあ今回に限ったことじゃありませんがね。正直いいますと、ここんところ会合をもってもずっとこんな状態なんです。会員の出席がないんです。まことに面目ない実態で――目下の「ドジョウの会」は――」丸山は、弁解ことばが見つからず話を切った。
「はあ――」信吉は戸惑って頷くばかりだ。初めて知る会の実態にどう返事してよいのか。
 もしかして、凄く張り切ってきたんじゃあないかしら、この人。キン子は信吉の挨拶にそんなことを思って少しばかりか気の毒に思った。わたしだって、張り切って行ったコンパ会場が、こんなだったらショックだもん。おまけに借金のもめごと。とっとと退散するわ。
 だが、夢井青年は相変わらずハトが豆鉄砲食らったようにつ立っていた。丸山は、ふたたびぼそぼそ言い訳じみた説明をはじめた。
「せっかく出席していただいたのに、こんな状態でまったくもって申し訳ないんですが、とにかく、今はドストエフスキイの話どころではないのです。会の存在自体をどうするか決めなくちゃあいけないんです」
「はあ、・・・」夢井信吉は、ため息ついて頷く。
「まあ、そんなわけですから。なにかご意見ありましたら」
「地方から、来た人に聞いてみたってしょうがないよ。まして、はじめてきた人に」石部は投げやりに言った。
「いや、彼氏だって意見は述べる権利はありますよ。入会金と会費を払ってもらうんだから」浜島は、この期に及んでもちゃっかりそろばんならぬ、電卓を打っている。
 まあ、あきれた、解散するかどうかっていうのに、お金とるなんて。キン子はあきれた。信吉が可哀そうになった。が、浜島はさすが会計係、揉み手しながら言った。
「若くて、新しい会員の方がいい考えが浮かぶかも。会再生の妙案がだせるかも。どんどん意見だしちゃってくださいよ」
「つまり、早い話が、ですね。この『ドジョウの会』は解散するかどうかの瀬戸際にあるんです」丸山は汗わかきながらまだ説明している。
「はあ」信吉は依然として要領を得ぬ顔で座っていたが、そのうちようやく事態がのみこめたのか何度か小さく頷いてから訝し気に聞いた。
「どうして解散しなくちゃあいけないんですか」
「どうしてですか」石部はあきれたように超えを張り上げた。「赤字なんですよ。消火不能の大火災」
「赤字、どうしてですか・・・?」信吉は不可解そうにたずねた。
「ごらんの通り、だれも出席しなくなっちゃったんですよ。当然、会費も集りませんよね。ま、何でもぽしゃるときはそうですが。会費未納者続出なんです」
「ぼ、ぼく払います」信吉は慌てて言って、ブレザーの内ポケットから財布を取り出した。
「そうですか、じゃあとあえず入会金と今年度分の年会費をいただきましょうか。本当は新年度からでもいいのですが、会計は、融通があってはいけないですからねえ」
「あら、ひどいんじゃない」
「一応、決まりですから」浜島はわざと事務的な口調で言って素早く受け取ると、ニヤリとしながらこぼした。
「いやあ、君みたいにちゃんと払ってくれる会員ばかりならいいんだけどね。みんな年数がたつと払いが鈍くなってね。ふつうは金を出して口出さず。口出して金ださず、のどっちかだが、この会に限って口も金も出さなくなっちまうんだ。請求してもなしのつぶて、一時は四百人といた会員だが、現在はその半分以下ときている。おまけに、その半分は『死せる魂』じゃあないが大半が幽霊会員なんですから」
「なぜなんです!」突然、信吉は抗議するように叫んだ。「どうしてなんです。ぼくにはわかりません。ドストエフスキイの読者なら、ドストエフスキイ先生を尊敬している人なら、その会の存続を危うくするようなことをするはずがありません!」
「そうです。“初心忘れべからず”皆さん常にその気持ちを維持していてくれたら、こんな状態にはならなかったんですがね」丸山は苦々しそうに言った。「しかし、残念ながら、現実はこの<ドジョウの会>も例外じゃあないんです。彼は昔の彼ならずでしてね。なんせ三十年近くもつづく会なんで、このまま消滅させたくはないんです。が・・・しかし、どうしたって協力を得られないことには」
「協力しないなんて、ぼくには信じられません」
信吉は、ドスンと両拳でテーブルをたたいて立ち上がった。

八、ドジョウの会再建案

「どうしてですか。どうして皆さんは、協力しないのですか!」
丸山は無視して「なにせ誠意ある会員のカンパで成り立っている会ですからね。みなさんが協力してくれないことにはどうにもならないのです」と、ボヤく。
キン子は、わが意を得たりといったしたり顔で「わたし、今日、おはなし聞いて、よかった。渋川先生に頼まれて、あて名書きのお手伝いしたでしょ。そのときは、会員になってもいいかなと思ったの。卒論のこともあるし。でも、今日、来て見てびっくり、これでしょ」キン子はわざとらしく肩をすくめる。
「あれ、大野さん、そんなことならぜひ会員になってくださいよ。お手伝いも縁ですから。
卒論にも役立ちますよ。きっと」小堀は、真剣にすすめた。
「あら、そんなこと言ったってだめです。第一ドストエフスキイの小説一冊も読んでない会員なんてへんだわ」
「変じゃあありませんよ。誰だってはじめはそうなんです。それにこれからは、初心者向けの読書会を定期的に開いたらどうか、そんなことも考えてるんですから」
「えっ!?また読書会を?!無理、無理」キン子はあきれ顔で首を振った。「いまあるこの会だって会費を払わない人が多いんでしよ。そういう人たちは、結局のところ会をやめたいからじゃないんですか。これ以上、読書会なんて、絶対むり、むり」
「そんな結論は早急過ぎます。皆さんうっかり忘れているということだってありますし・・・」小堀はムッとした顔で反論した。「少なくとも新しい住所録を作成したときに現住所を知らせてきた会員にはその意思、つまり脱会の意思はないということです。それに現に現在だってさっきの手紙の人やこの夢井さんのように、遠くからでてきて、話を聞いて会費払う人だっているんですから」
「でも、どうするんです。出席しなければ催促できないでしょ。直接、顔,合わせて説明しなければ会費払ってくれないんでしょ」キン子は、勝ち誇ったように笑う。小堀は、反論に窮してか、口をもぐもぐするだけで言葉にならない。間があいた。そのとき信吉が、いきなり立ち上がって進言した。
「あのう・・・それなら督促状をだしたらどうなんですか」
「あ、それ、だめ。切手代のぶん赤字が増えることになるだけです」
浜島はあっさり斬り捨てた。
「それもありますが、基本的には、この会は、そうした強制的方法ではなく、あくまでも自主的にというのをモットーにしていますから」丸山は言って分厚い明太子唇をなめた。
「いまどき、一日でも振り込みが遅れたらうるさいのに。この会は棚ボタでやってきたんですからね。オメデタイというかドンキホーテですな」石部は自虐気味にケタケタと空笑いした。しかし、遅れてきた青年、夢井信吉は、ぐっとくちびるを引き締め、遠くを見つめていた。わざわざ遠方からでてきただけに会の実情を知って落胆も大きいのだろう。  一同、苦虫を潰しながらも言葉がでない。結局のところ、いくら話し合っても行きつく先は愚痴と後悔ばかりのボヤキ節。「ドジョウの会」再建の見通しなど到底つくとは思われなかった。ところが、この重苦しい空気を、またしても夢井青年が破った。
「あ、ありますよ!」
 皆は、うんざり顔で彼を見た。
「いま思いついたんですが、名案がありますよ。会を救う名案が」
「また、名案か。いい加減にしてくれたまえ」石部は、冷笑して釘を刺す。が、夢井青年、意に介さず進言した。
「集めればいいんですよ。集めれば」
「集める?!」
「そうです、集めるんです。待っていなくてこちらから直接に行くんです」
「それって,集金のこと」
「ええ、そうです。集金です。集金に回って集めればいいんですよ」
「はーん、NHKの受信料徴収みたいにかい」
「ハハハ、そりゃだめだ」石部は一笑に伏す。「だいたい、この会の会員はシケた人間ばつかしだ。行ったって、払うもんか」
「あら、失礼ね。わたしだったら、集金に来れば払うわ」キン子が横から口出すと、信吉は、大きく頷いて「一人一人に会って会の窮状を説明すれば、きっとわかってくれます。滞納している会費、払ってくれますよ。ぼくだって今日、お話きかなければ、会がこんなにピンチになっているなんて知らなかった分けですから」
「けっ!わかってもらえる。払ってくれる!これだから困るんだ、素人は」石部は、あきれたように舌打ちする。「いまどき、会の危機を訴えても、誰がハイそうですかと払ってくれるもんですか。門前払いがオチだ。集金は、そんな甘いもんじゃない」
「そうでしょうか・・・」信吉は、悲しげに小首をかしげた。
「それに、一度も会に顔をだしたことのない会員だっているんだ。本人だって会員ということを忘れているかもしれん。そんな連中のところに、突然、あらわれて滞納の会費を請求したら、怒鳴り帰されるか、悪くすりゃあ訴えらる」
「ほんとうに、そんなことになるでしょうか」
「そりゃあ、わからんが、歓待されないことだけはたしかだろう」
「しかし、いえ、ぼくは信じます。ドストエフスキイの読者なら必ずわかってくれると。決して知らんぷりなんかしないと」
「わかります。よくわかります!」突然、小堀が、身を乗り出して言った。「ぼくも同感です。夢井君の考えに。本当にドストエフスキイの読者なら話せばきっとわかってくれるはずです。みなさんはルージンが好きですか」
「かっ!小堀ちゃんまでが。人間、金のこととなるとロマンチックにはいかないものですよ」
石部は、鼻毛を引きぬいてせせら笑う。会場はふたたび重苦しい沈黙。間を置いて「なるほど集金ですか」丸山が、ぽっりと言った。「確かに、それも一つの案でしょう」
「そうですね。現実的な案ですな。しかし、ネコの鈴ですよ。それは」と浜島。
「そういうこと。集金、小堀ちゃんがやってみるっていうなら別に反対はしないよ」石部は笑って抜いた鼻毛を肩越しに後ろに投げ捨てた。
「それは・・・」小堀は悄然となる。小さな出版社に勤める身、とても集金に使う時間はない。他の役員諸氏とて同じこと。それぞれに家庭あり、仕事ありで会に出席するのが精一杯。いくら熱く語っても、ドストエフスキイでご飯はたべられない。所詮はボランティア。皆は、ため息ついて沈黙した。
「ぼく、やってみます。やらせてください」突然、信吉が叫んだ。またしても突飛な発言に、皆はギョっとしたが、こんどは驚くだけでなく戸惑い気味に互いに顔を見合わせた。新入りにかき回されていることを快く思わない雰囲気だ。
「ぼくのような新参者が出すぎたことを言って失礼かもしれませんが、今みなさんからお聞きしたお話では、会を救うには、そうするより他ないとおもいますが」
「うん、確かにあなたの言う通り、会を立てなおすには、その方法しかないかもしれません。が、しかし一口に集金すると言っても・・・」丸山は額の汗をハンカチで拭いながらうめくようにつぶやいた。いくらなんでも初顔の彼に・・・そんな顔色だ。
「アラ!いい考えかも」突如、キン子が声を張り上げた。「ハガキの宛名を書いてわかったんだけど会員の人って都内の人が多いのよね。都内だけでも相当額になるんじゃないですか」
「そうですか。それなら集金やりやすいじゃないですか」信吉も、勇んで言った。
「まあ、強いて反対はしませんが・・・」丸山は口ごもった。
「やらせてください、集金」
「きみに、か」
「そうです。ぼくも会のためになにかお手伝いしたいんです」
「いいんじゃあないんですか、やっていただけるんなら、ほかによい案もなさそうだし」浜島は、皮肉っぽい口調で言った。「しかし実際、集金するとなったら、大変ですよ。一日、二日じゃ回りきれませんよ。東京近辺の会員は結構いますから」
「それでしたら、ぼくは大丈夫です、四、五んちは休めます」
「ほう、それは寛大な会社ですな」
「いえ、そのう・・・会社じゃないんです」信吉は、なぜか狼狽した。
「いいよ、いいよプライベートなことは」浜島はニヤリとする。
「もし都合がつくんでしたら、この際、やってもらいましょうか」丸山は真剣な顔で渋川教授に相談する。「どうします、先生」
「そうですねえ、他に策がありますかねえ。この窮地をしのげる・・・」
渋川教授は寝ぼけ声ながらも賛成のようだ。
「どうです。皆さん」丸山は、妙に張り切った声で言って見まわす。
「まあ、古典的ですが、集金という手段。彼が協力を申し出てくれました。助け舟です。会としては、いくらでもお金が集れば、それを種に再スタートしようと思います。そんなわけで、彼に委ねようと思います」
「集金ねえ、この振り込みの時代に、と思うが、やってもらえるんならお願いしますよ」石部は、自嘲気味に何度も頷いてつぶやく。「小田原評議じゃ埒があきませんからなあ」
 石部の当てつけを待って丸山は、ごそごそ立ちあがった。太ったからだを支えるように両手をテーブルにつけると、落ち着いた声でお役人らしいまとめの言葉。
「今日の議題ですが、皆さん賛成のようですから、会費滞納者について彼・・えーと」
「夢井です。夢井信吉です」
「ああ、そうでした。夢井さんに集金してもらうことにします。いいですね」
 間髪をいれず皆は一斉に拍手。渋川教授まで起きあがって手をたたいている。キン子も慌てて手をたたく。何か妙な思いは否めないが出口なしの問題は、一件落の感あり。テーブ
ル上もなんとなく和んだ雰囲気。つぎに丸山は、姿勢を正して胸を張ると咳払いしたあと、信吉の方を向いて、もったいぶった口ぶりで宣言した。
「本日をもって夢井信吉さんを土壌の会本会の臨時会計係に任じます」  

九、難問解決

 ドジョウの会事務局長の丸山は、慣れた辞令口調で宣言した。
「それでは、本日づけで夢井信吉さんをドジョウの会、会計係補佐と任命します」
「辞令書はないのかね」石部は、浜島に言った。
「口頭でいいでしょう。いまは」
「はい」信吉は神妙に頭を下げた。
「集金方法としては、会計係の浜島さん、彼ですが」と指差して「彼から滞納者のリストを受けとってその中から、距離的に廻れる会員をピックアップして当たってください。交通費代は、会の方で持ちますが、目下のところ予算ゼロの状態なので、かかった経費は集金したなかから差っ引いてもらいます。他、食事などは自分もちでお願いします。なんせ何もないんで。それでよろしいでしょうか」
「はい!かまいません」夢井青年は一段と大きな声で答えた。
 一同再び拍手。現金なもので、役員たち解決つけばさっきまでの重く沈んだ暗さはどこえやら、ぽしゃりかけた宴を復活させようとすすんでボーイ君を呼んで、なんとボトル一本注文したのである。
「我々に欠けていたものは、強引さですよ。ぜかひでも運営していこうという貪欲さ。それがなかったんです」
「やはり自主的にというのはだめなんですなあ。組織は多少なりと、強制的、管理的でなくちゃあ」
「ドストエフスキイだからここまで来れたんですよ。そんじょそこらの文学の会じやあもうとっくの昔に潰れてますよ。なにしろ会費を請求なしで、続いて来れたというのはたいしたもんですよ」丸山は、その功績は自分の技量といわんばかりに胸を張る。
 一同、思わぬ解決でご機嫌の体となった。水割りをちびちびやりながら、てんでに勝手なことを言い合っていた。が、ほどなくして、会の再建というこんな重大なことを、はじめて出席した、しかも地方の新米会員に任せてよいものかどうか、心配になってきた。もっともなことではあるが。アルコールが暗雲となってひろがった。
「せっかく、話がまとまったところ、水差すようで申し訳ないが、ほんとうに彼一人に頼んじゃっていいのかなあ」浜島が会計らしく切り出した。
「信用ということですか」小堀が聞いた。
「なに、まあ、そういうこともあるが、どう考えても大変だろう・・・」
「と、いうことは、われわれも、少し手伝うわなくちゃあ、ということですか」
「おいおい、妙なこと言い出さないでくれ。そんな暇はないよ」
「大丈夫です。ぼく一人で平気です」
夢井青年は。青白い頬を紅潮させてきっぱり言った。
「そうですか、しかし・・・」
浜島は、奥歯にもののはさまったような顔で丸山を見た。
 キン子は黙って聞いていたが不意に体がむずむずしてきた。自分たちは何もしないくせに、そんな心配をするなんて、と腹の立つ一方で、一人で集金して歩くのも、大変と思うのだった。『ドジョウ時代』の校正を手伝ったときもそうだったが、こんなときに放っておけない性格なのだ。
「わたしお手伝いしてもいいわよ」キン子は、思わず言った。「ちょうど学校もお休みだし」
「えっ!大野さんが?!」
「話をきいてたらなんとなく、いいかなって思ったの」
「それはまた、心強いね」石部は笑う。
「しかし、集金まで手伝ってもらっては」そう言いつつも丸山は揉み手をしながら聞き返す。「ほんとうにいいんですか」
「ええ。なんだか面白そうだから、わたしご一緒しちゃう」
 キン子には、実際そう思えた。役員でない、一般の会員って、どんな人たちだろう。前々から興味あった。ここにいる役員の人たち丸山や石部、浜島、小堀みたいの人たちばかりなのだろうか。女性の会員も多数いる。一体ドストエフスキイを読む女性ってどんな女性なんだろう。彼女たちにも会ってみたかった。
「そうですか。それではお願いします。会員でもないあなたには、まことに厚かましいですが。そうしていただくとほんとたすかります」
「大野さん、どうせなら会員になったらどうですか」石部がからかい気味にすすめた。「大いに歓迎しますよ」
「ありがとうございます。考えときます」キン子は愛想笑いを返す。さらさらそんな気持ちはないが、魂胆はある。渋川教授に甘え声で「センセ、わたし、お手伝いするから提出することになっているレポートを免除してくださいね」と、頼み込む。
「ちょつと、そりゃあまずいよ。先生に公私混同させては。会としてもそんなことで利用されては困ります」丸山はさすが法務省のお役人らしく渋り顔だ。
「アラ!いいじゃない。先生はいつも生きた学問が大切だって講義してるんです。皆さんがおっしゃるようにドストエフスキイがそんなにすばらしいんなら、その作家を信じている会員の人たちはどんな人か知ることだって立派な勉強だと思います。そうじゃありません」キン子は平然と言ってのけた。
「そう言われれば、そうですが・・・」丸山は煮え切らない顔で渋川教授を見る。
「「いいでしょう。いいでしょう。大野さんは、ゼミ以上のことをやってますよ」意外や渋川教授はあっさり承知した。「ドストエフスキイすること、それこそが勉学です」
「おお、さすが、大学の先生」石部は揶揄する口調で一席ぶつ。「人間至るところ青山あり、しゃあない。人間至るところ勉学の地あり、だ」
「さあ、お墨付をもらったんだ。ついでに卒論も免除してもらうつもりで、しっかり集金してくださいよ」浜島は、冷やかし口調で言ったあと、真顔になって聞いた。「経験あるのですか、集金」
「いえ、ありません」夢井青年は、元気よく答えた。
「えつ!それでよく?!」浜島は、びっくりする。
「いいって、いいって、だれだってはじめは、経験なんてないのだ。それじゃあ集金の方法を伝授するよ。いいかい。絶対に電話をかけて、『これからとりに行きます』なんて予告なんかしてはだめさ。忙しいとか出かけるとか、断られるのが関の山だね。こういう集金には、いきなり行くのがいいね。どうせ一万円前後だろ。持ってるよ。だから奇襲作戦に限る。率がいい。家にいなければ会社に押しかけて行けばいい。会費を払ってないなんて知られたら恰好わるいからね。借りてでも腹ってくれるよ」
「いいね、いいねえ。君らの働きによって、会が救われるのだ」石部は、すっかりご機嫌の様子だった。貸した金が戻ってくるような気になっていた。グラスをかかげて乾杯の音頭をとる。「さあ、わが会のジャンヌ・ダルクに乾杯!同じく、同じく、ええいサンチョでいいや。サンチョに乾杯!」
「どうしてぼくがサンチョなんですか」夢井青年は抗議しながらも、満足そうだ。
「なあに、サンチョって、だれそれ」
「おともですよ。おとも」丸山は、冗談とも、真面目ともつかぬ顔で言ったあと、丁寧に頭を下げた。「それでは、お願いします」
「ドジョウの会の運命は、いまや若い君たちの働きにかかっている。頑張ってくれたまえ」浜島は、芝居かかったセリフで二人に握手を求める。
「なあに、イヤダ!そんなに真剣に頼まれると、私、ホント軽い気持ちよ。なんかイヤダァ!」
 キン子は大袈裟に悲鳴をあげた。こんなに皆がマジになるとは思ってもみなかった。それだけに戸惑いはあるが悪い気はしない。当てにされるって気持ちいいものだ。レポートの提出もなくなったし、一石二鳥とはこのことだわ。もしかして卒論だって、キン子は心の中でペロっと舌をだした。難問解決した。

十、宿なし、金なしの集金人

 ともかく見通しがついて一同、大いに安堵する。さっそくボトルを封切り、氷を鳴らしながら、なんと次号の刊行をどうするか議論し始めたのである。一般会員は誰一人出席しない、会費も滞納者だらけ。会立て直しの集金をたった今、新入りの若者二人に任せたばかり有り様なのに、まったくもって懲りない面々。さすがのキン子もあきれるばかりだ。
 当然のことだが、どんなに話し合っても無駄なこと。次号は集金結果をみてということになった。そうと決まれば、この店にいても無用、腹も空いたというわけで、つづきはいつもの居酒屋でということになった。ところが、である。一難去って、また一難。一同、ホロ酔い機嫌で席を立ったのに、なぜかわれらが新入会員、夢井信吉青年だけが、気乗りせぬ顔で座っているのだ。
「あれ、どうしたんですか」小堀が怪訝そうに声をかけた。「酔ったんですか」
「いえ、違います。ぼく飲めませんから、すみません注いでもらっておいて」
「なんだそれだったら、ウーロン茶でも頼めばいいんですよ。さ、行きましょう」
「ええ、でもどうしようかと・・・」夢井青年は、歯切れ悪い。のろのろ立ちあがる。
「疲れたでしょう。はじめてのことばかりで」丸山は、言ってから、ふと思いついて聞いた。「そうだ、ところで、あなた、今晩どちらに」
「ええ、それで、どうしようかと・・・」夢井は、ふっとため息をつくとまたしても腰をおろした。
「どうしょうかと・・?こちらにお知り合いでも」
「いえ、いません」
「いません!?・・・」石部は眉をひそめて振りかえる。間をおいて一同ギョッとした表情。
「ない、泊まるところがないって、それじゃあ君!集金は無理じゃあないのか」浜島は目を丸くして駆け戻ると、怒鳴るように言った。「そういうことは最初に言ってくださいよ」
「すみません、ぼくもたったいま、そのことに気がついたんです。そうだ集金するなら寝ぐらが必要だと」信吉青年は、悪戯っ子のように笑ってモシャモシャ頭をかいた。
「じ、冗談じゃないですよ」丸山はあわてふためいて叫んだ。
「これじゃあ、元の木阿弥だ」浜島はガックリ肩を落とす。
「いいかげにしてくれよ。話がどうもうますぎると思ったら、案の定だ」石部は物凄い剣幕で言って、乱暴に椅子を引いてどっかと腰を据える。「捕らぬ狸の皮算用とはこのことだ。いったい全体、今夜の会議はなんだったんだ」
 夢井青年は、青白い顔を真っ赤にして立ちあがった。そうして、直立不動な姿勢をとると強い口調で言った。
「いえ、ぼくはやります。やらせてください!」
「いや、やっていただくことはありがたいんですがね」丸山は腹立ちを押さえ、押し殺した声で言った。「しかし、泊まるところがなくてはどうしょうもないでしょう。まさかホテル代はだせませんからね」
「ホテル代をださせようなんて、はじめっから、そんな虫のよいことを考えていたんじゃあないでしょうね」浜島は尋問口調で聞いた。
「とんでもありません。誓って、そんなことありません」
「だいたいは、今晩はどこに泊まるつもりででてきたんです。たしか甲府からでしたよね。会が終ってから帰るなんていかないでしょう」
「すみません、そこまでは考えてませんでした」夢井青年は悪びれる様子もなくペコリと頭をさげる。
「考えてない!?」丸山は細い目を丸くして愚痴る。「いやはや、なんとも迷惑な話ですよ。あなたのおかげで今晩の会議はまったくの無駄になってしまったじゃないですか」
 もっとも彼が来なくても、無駄の会議に終ったことは明白だが、そこは期待した分だけ腹が立ったようだ。
「と、いうことは、また改めて開かなきゃあならんでしような」渋川教授も、さすがに渋い顔だ。
「まったく、この会に地方会員をお泊めする議員宿舎のようなものがあると思ってるんですかねえ」石部はストレートを三杯もあおって少々酩酊気味の石部だったが、皮肉たっぷりにつぶやく。
「これからでも帰れるでしょう。中央本線は夜行列車あるんじゃないですか」ちらと腕時計を見ながら言う、小堀の態度もどこか他人行儀だ。
 夢井青年に対する皆の態度は一変、よそよそしいものになった。集金の話など、もう完全に吹き飛んでいた。会場に漂うのは、とんだ話に乗って重大な会議を無駄にしてしまったという後悔と腹立たしさ。張りつめてはいるが白けきった雰囲気。救世主転じて、ホラ男となりさがった夢井青年は、皆の剣幕にようやく事態を認識したのか、言葉もなくただうなだれるばかり。
「何よ!」それまで黙って聞いていたキン子がいきなり憤然と叫んだ。「誰か泊めてあげればいいじゃないんですか。何も集金を断ってるわけじゃないでしょ。それよりなにより会のために活動してくれるって言ってるんじゃない。だったら泊まるところだって考えてあむげたっていいんじゃないですか。会員が協力的でないって言ってますけど、皆さんだって協力的じゃあないですか」
 まさに急所を突く一語。一同、返す言葉もなく狼狽の表情。
「それもそうですねえ・・・キン子さんに一本とられました」浜島はトーンを落とした声で頷きながらも、ちゃっかり先手を打つ。「当然ですよ。せっかく遠くから来ていただいたうえに、会再生のために協力してくれるというのだから、ぼくらがそれに協力するのは。しかし、ぼくのところは団地の3DKに親子五人にバアさんまでのすし詰め状態ですからねえ」
「私んところは、一戸建てだが、二人も受験生がいるんです。それも娘なんです」負けじと丸山が言えば、小堀も「僕んところも、赤ん坊が生まれたばかりで・・・」
「うちは、ひい婆さんまでいるんだ。従業員も泊めてるしなあ」は石部の弁。
 なんともだらしのない有様である。キン子は両手を上下に振り下ろし地団駄踏む。
「何よ、何よ。勝手ねえ!」と叫んで非難する。が、なぜか余裕の笑顔。彼女は、すっかり悄然としている一同を見回して、勝ち誇ったようにほほ笑んで言った。「ま、いいわ。皆さん、それぞれご事情があるでしょうから。じゃ仕方ないわ。わたし協力ついでに、もう一つ協力しちゃう」
「もう一つ、協力ですか・・・」
「わたしんとこのマンションに泊めてあげる」
「えっ!大野さんの部屋にですか!」
「違います。空き部屋があるんです。そこ管理人さんに頼んで貸してもらうわ」
「え、そんなことできるんですか!?」
「できるわ。だってマンション、わたしの名義なんだもん」
「ああ、そういうこと・・・」
一同、納得。大野建設はテレビのコマーシャルでもおなじみだ。キン子は、社長令嬢というわけ。なんとなく知ってはいたが、これで判明。
「そうですか、そうしてもらえると、会としてもありがたいんですが」一転、丸山は、頭を下げる。
「この会の人たち、ここにいる役員の方しか知りませんが、信用してますから」言ってキン子は意味深にケラケラ笑う。
「なにかあったんですか」
「この前、他の大学の子だけど、コンパのあと泊まるところないっていうから泊めてあげたの、そしたら夜中にわたしの部屋に押しかけてきたの」
「ぼ、ぼくはぜったいそんなことありませんですから」
 さすがに一同、絶対をもって頷きかねた。なにしろ、まだ会って二時間とたっていない。ドストエフスキイの熱烈な愛読者というだけで、後はどこの馬の骨ともわからないのである。
「男はわかりませんからねえ」浜島は本気とも冗談ともとれぬ口調でつぶやいてヒヒヒと気味悪く笑う。
「ハマさん。やめなさいよ。その笑い」さすがに丸山は、注意する。
「いいわよ。来てもドア開けないから。しつこかったら、防犯ベル鳴らしちゃうわ」
キン子は、アッケラカンに笑う。なんだか愉快で楽しい気分だった。ドジョウの会、つまらない会だけど、自分の働きでなんとかなるかも知れない。そう思うと、よくわからない青年を泊めることなどいささかも不安ではなかった。
 平成三年春弥生、珍しくなまあたたかい夜風の中、新入会員と臨時会員、いささか心もとない二人ではありますが、とにもかくにも彼等の成果に一縷の望みを託して散会していった。さてさて真実確かに、風前の灯火「ドジョウの会」を救うことができますでしょうか。



第二部
  

一、早朝の訪問者

 さっきから玄関のチャイムが鳴り続けている。知らんぷりしていたがいい加減うるさい。キン子は、手探りでベットの横にある化粧台から目覚まし時計をとる。6時を少し過ぎたばかりだ。
 こんな朝早くに誰かしら。はじめママかと思った。昨夜、電話しなかったから、それで外泊を疑って探りにきたかも。しかし、ママなら、もっと大騒ぎする。ドンドンドワを叩いてわめきたてるはず。
 ママでないなら誰だろう・・・。キン子渋々、布団をはねのけガウンを引っ掛け出て行った。そうだ、カオリかも知れない。きっと彼女だ、と思った。高校時代の友人だが、いつだったか、朝っぱら同棲男とケンカしたといってきたことがある。
 早く別れればいいのに。キン子は、腹立たしく思いながら覗き穴から覗いてみた。若い男が立っていた。髪をボサボサにした見覚えのない顔だ。
 イヤダ、何 ! ? だれ ? キン子は寝ぼけ眼をこすってもう一度、覗こうとしたが、突然、電話のベルが鳴った。急いで受話器をとった。
「キン子ちゃん、沢井のおばちゃまよ」キンキン声は、隣の奥さんだ。いつもは大声なのに押し殺した声で言った。「いま、外にいる若い人、キン子ちゃんのお友だち? さっきからドワの前に立っているわよ」
 いきなり、そう言われても返事に窮した。デスコで2、3度会った男の子の顔は、ほとんどおぼえていない。大学でしょっちゅう声をかけてくるナンパ男でもない。考えあぐねていると沢井夫人は含みのある声で「ゆうべ遅くに空き部屋の303号室に止めてあげた彼氏じゃないの。大丈夫、秘密にしておいてあげるから」言って夫人は、意味深にフフフと笑う。
 あっそうだ!! キン子は、突然思いだした。そういえば昨夜「ドジョウの会」の会員をキ
ん子の父親名義のこのマンションの空き部屋に泊めてあげたのだ。そう、そう、会議のあと名曲喫茶から居酒屋に行って、かなり飲んで一緒に帰ってきたがすっかり忘れていた。
「おばちゃま、ありがとう、残念でした。そんなんじゃありませんよーだ。大学のゼミの先生のサークル仲間よ。公認よ」
キン子は、受話器を置くと、鏡をちらっと覗いて髪をすくうと玄関に戻った。またチャイムが遠慮がちに鳴った。
「ハアーイ、起きてるわよ」キン子はドワを開けた。
 革靴にジーパン、上着は鼠色のタートルネックのセーターと紺のブレザー。観るからにちぐはぐな服装をしたボサボサ頭の青年がぼんやり立っていた。
 うっ、ダサイ。キン子思わず口を押さえた。自分の周りにはこんな若者はいない。次の瞬間、ゆうべの彼だと思いだした。夢井なんとかといったドジョウの会の会員。そうだ、空き部屋に泊めてあげたのだ。キン子は、昨夜のことを思いだした。
「なんなの、こんな早くに?!」
「あのう、そろそろ出かけませんか」
夢井信吉は、恐る恐る、それでいて有無を言わさぬ口調で言った。
「えっ!?でかけるって? 」
「忘れてるんですか!? 集金ですよ。年会費の集金、二人でやることに決まったじゃないですか」
「ああ、集金のこと!? 覚えているわよ、覚えている」
キン子は、わざと大声で言った。実のところすっかり忘れていた。何か面倒な会議だったが、居酒屋のビールが議題となったことをみんな流してしまった。
 いま、はじめて集金のことを思いだした。そういえば年会費の集金を手伝う約束をした。会員ではなかったのに、白川教授のゼミ単位が欲しいばかりにわざわざ会員になって、後悔するが、もう遅い。まったく物好きなんだから。キン子は、自分にあきれながらも、満更でもなかった。隣の沢井夫人がゴミ出しをするふりをしてドワの隙間から、こちらの様子を窺っている。キン子は、わざと声を大きくして言った。
「わかってるわ、集金でしょ。一緒にやるんでしょ」
「だったら早く出かけましょう」
信吉は、急かす。
「えっ!? ウソでしょ。昼からでいいんじゃないんですか」キン子は、あくびをかみ殺して言った。
「何言ってるんです」信吉は驚いて声を張り上げた。「昼なんか、とんでもないです。昨夜、数えたら払ってない人、都内でも30人以上いるんです。のんびりしてたら回れませんよ」
「ああ、そうか、えーと」
「夢井信吉です」
「そうそう夢井さん、夢井さんだった。地方からきたんですよね」
「そうです。だから、こちらに泊めていただいたんじゃないですか」
「そうか、そうだったわ」キン子は、感心して頷く。彼を泊めた理由をすっかり忘れていた。
「二人で集金に行く約束したんだよね。ちょっと待ってて支度してくるから」
 ようやく事態を把握したキン子は、ドワを閉めて部屋に戻った。
 集金かあ・・・。どんなだろう。鏡の前に座って自分の顔に自問する。これまでアルバイトしたことがないので、集金に歩くということがよくわからない。何やら怖いような愉しいような妙な気持だ。
さてさて、珍妙なる二人の集金人。彼らの前に現れる「ドジョウの会」の会員諸氏とは、いったい、いかなる人たちであろうか。素直にすぐに滞納した年会費、払ってくれるだろうか。都会とはいえ早春の朝はまだまだ寒い。

二、最初のもめごと

 三月はじめの爽やかな朝である。まだビル街を吹く風は冷たいが、どこかに春の息吹を感じる。ねばっこいねこやなぎのつぼみを思い起こさせる。
 「ドジョウの会」を命運を担った、われらが女子大生のキン子嬢と、突然、ムイシュキン侯爵のごとく現れた謎の若者、夢井信吉。二人はさっそうと意気揚々と朝の街に繰りだした。
 しかし車道を埋め尽くす車の流れ、職場に向かう勤め人の洪水。昨夜、甲府からきたばかりの夢井信吉は、さすがに驚いて、都会の朝の喧騒にたたずむばかりであった。が、それでも暫し佇んだ後、勇敢にも、雑踏の流れ中に入って行こうと歩き出す。キン子嬢、寝ぼけ眼を見開いて叫ぶ。
「ちょつと待って、まずは朝食でしょ」
「朝食ですか・・・」
「そうよ。まだ、なにも食べてないのよ。私たち」
「ああ、それならホームでたべましょう。立ち喰いそば」
「立ち喰い?!」キン子は、素っ頓狂な声をあげてから、にらんで叫ぶ。「何、考えてるの。立ち喰いなんて、わたし嫌よ」
「時間の節約です」
「キン子、朝はコーヒーと、カリカリに焼いたトースト。それに決めてるの」
 キン子は、ぷーと頬をふくらます。フグが怒って膨らんだようだ。信吉、困った顔で、申し訳なさそうにぼそっと言った。
「実は、お金、あまり持っていないのです。まさか、こんなことになるとは、思ってもみなかったので――それで、なるべく使わないようにしょうと」
「え、何?!お金、持ってないの」キン子は、驚いた。お金がない。大手企業大野建設の末娘。貧乏は小説や映画で知ってはいるが、現実にお金がない人をみるのは、はじめて。めずらしくてしげしげながめる。
「ええ、そうなんです。まさか、こんな事態になるなんて考えてもみませんでしたから」信吉は、繰り返して言った。そのあと、ため息まじりにつぶやいた。「お金のこと、皆さんに、話せばよかったんですが、あのときは会再建のことで頭がいっぱいで――」
「あきれた。でも、やっぱり無理だったかも。あの人たちじゃあ」
言ってキン子はおかしそうに笑いだした。
「だから、そういうことなんですよ」信吉は、渋り顔で言った。「帰りの切符、買ったらスカンピンです。立ち喰いだったらなんとか、それに時間も有効に使えます」
「お金を持ってないのに集金なんて・・・」キン子は、呆れながらも、そこは成り金の娘。この窮地に策はないかと考えていたが、突然、声をあげた。「なんだ、こんなこと思いつかないなんて。わたし、やっぱりおバカさん」
「なんです?」
「お金ならあるわよ、集金のお金を前借すればいいのよ。日当の代わりにもらえばいいのよ」
「しかし、それは・・・」
「なに言ってるの。ドジョウの会っていうヘンな会を救うんでしょ。そのことを考えれば、前借なんて大事の前の小事じゃない」
「大事の前の小事ですか。非凡人思想のようですね」信吉は苦笑する。
「なんなの?非凡人思想って。わたし何かいいこと言ったの」
「キン子さん、ドストエフスキイを読まなくたって、立派にドストエフスキイしてます」
「なんなの、へんな人・・・」
キン子は、わけのわからないことに感心する信吉を訝しげに見た。そして、思った。この人、やっぱりヘン、変ってる。そう思うとちょっぴり不安になる。
「でも、やっぱり集金のお金、使うとまずいです」
「まだ集金もしないうちに、あきれた」キン子は、言ってから、突然、声をはりあげた。
「そうだ、現金、持ってなくてもカードは持ってるでしょ。カードでお金おろせば」
「カードですか―――」信吉は、困ったようにキン子をみる。
「そうよ、カードよ。キャッシュカード。地方だって同じでしょ」
「持ってませんよ。そんなもの」
「持ってない?!」キン子は驚いて聞く。「ウソでしょ。一枚ぐらいあるでしょ」
「本当に持ってないんです。一枚も」
「ウソ・・・」
「ぼくは、そういうもの持たないことにしているんです」
「ウソ――」キン子は、珍しいものを見るようにシゲシゲ信吉を眺めて言った。「カード、持ってないなんていまどき、そんな人いるの?」
「そんなに驚くことですか」
信吉は、さかんに不思議がるキン子を尻目に、いささか不機嫌そうに歩きだした。たかがカード一枚で、大騒ぎするキン子の考えが分からなかった。
「いいわ。お金のこと心配しなくたって、わたしのカード使って、ごちそうするわ」
「泊めてもらったうえに、それは・・・」
「あー、もう面倒!とにかく立ち食いはイヤよ。わたしのお金つかうから、付き合ってよ。わたしお金に困ってないから」
 キン子は、すっかり姉さん気どりだ。なにしろ、この集金行脚、退屈しのぎプラス、レポート免除に4単位のおまけ。「ドジョウの会」へんな会、へんな人たちの集まりだが、うまくゆけば、集金行脚が成功すれば、あの役員たちからは感謝され、大学での授業欠席も甘くみてもらえるはず。まさに一石三鳥のうまい話。相棒となった青年は、天然ボケのようで、どこの誰ともわからぬが、悪い人間ではなさそうだ。勤勉実直でどこか抜けている。この分なら自分が完全に主導権をとれそう。みんなわたしの才覚にかかっているのだ。そう思うと、うれしくなってくる。これまでの人生、幼稚園から大学までママまかせだった。
 キン子は、信吉を従え、長い黒髪をさっそうと駅近くにある小さな喫茶店に入って行った。フランスふうの瀟洒な店。信吉は、戸惑いながらも渋々、あとにつづいた。
 集金前、大野キン子と夢井信吉は、キン子常連のしゃれた喫茶店に入る。
「あら、早いわねえ」前髪を金色に染めた五十がらみの女主人がカウンターの中から驚いたように声をかけてきた。「どうしたのよ。キン子ちゃん、こんなに朝早く」
「ヒドイ、わたしだって起きるときは起きます」
「何かあって?」言って女主人は、信吉をちらっと見て意味深に微笑む。
「お仕事、お仕事」キン子は、自慢そうに胸を張る。
「あら、感心じゃない」女主人は、目を丸くしながらも怪訝そうに聞いた。「こちらの、お兄さんと一緒に?」
「そうよボランティアだけどね」キン子はうれしそうに答えてから客が立った隅のテーブルを指さして信吉に言った。「あの席がいいわ」
 二人はレジに回った女主人を横目に隅のガラステーブルを陣取る。磨かれたガラス窓越しに駅に急ぐ人たちが見える。
「もう少し時間ずらさないと。土曜だって電車、混んでるわ」キン子は場慣れた口ぶりで言って手鏡をだして化粧をはじめる。
「そうですね・・・」信吉は、あきらめ顔で頷いた。
「今だって、無駄じゃないわ。作戦たてましょう、ここで」キン子は、手早く化粧をすますと、言った。「浜島さんだっけ、会計の人。あの人、いってたでしょ、会の集金は、楽そうで意外と難しいって」
「キン子ちゃん、何しますか」向こうから女主人が、大声で聞いた。
「わたしピザトースト。夢井さんは」
「ぼくはトーストで」
「ホット、ブレンドね」キン子はお冷を運んできたウエイトレスに注文すると、バックから、昨夜、名曲喫茶で浜島会計委員から預かった名簿を取り出してひろげた。すっかりビジネス女子になりきっている。
「あの人、連絡しない方がいいっていってた。アポなしで。なぜ?」
「話きいてなかったんですか」
「忘れたわ」キン子は、あっけらかんと言って笑う。「どうして、どうして連絡しないで行く方がいいの」
「経験からでしょう。電話すると、たいてい断られるらしいです」
「それで、いきなり?」
「そうです。サークル活動の集金は、突然の方が効果ありとのことです」
「そんなノウハウあるんなら、自分がすればいいのに・・・」キン子は、意地悪っぽく言ってボールペンに長い黒髪を巻きつける。集金モードでいっぱい、そんな表情だ。

三、集金作戦計画

「だけど・・・連絡しなかったら無駄足になるかも知れないかも。土曜日だからって、必ず家にいるとは限らないし。今朝だって通勤客が、いっぱいいる」
「そうね――」つぶやきながらキン子は、てんで意に介さない。会費納入名簿に夢中になっている。「多い人で10年近く払ってないわ。3万円の滞納。たいていの人は、4、5年だから、平均1万円前後。1万円だったら、すぐに払ってくれるわよ」と高をくくっている。
「とりあえず、在宅だけは確かめよう」信吉は不安そうに言った。
「いいわ」キン子は上の空で頷くと名簿を読み上げながら自分のノートに書き込んだ。「赤○がついているのは、必ず払ってくれそうな会員だったわね。ホントかしら。足川、新屋、池山、岩佐・・・こんなにいるの、へんねえ!?」
「なにがです」
「どうして、この人たち自分から振り込まないの。会計の浜島さんが太鼓判おすくらい優秀な会員なんでしょ。ヘンよ」
「そうですねえ」信吉はうなずいたが、それほど不思議がってはいない。ローンだったらともかく自主的に払う人などいるとは思えなかった。
「ま、いいか」キン子はあきらめて、再び名簿の点検をはじめた。創刊号が赤字だったからといってあの体たらく、責任逃れの醜態。役員にしてあの様だから、会員は推して知るべしかも。もっとシビアでケチケチかも・・・。そう思うと不安になってきた。緊急会議には出席しない、年会費は払わない。それでいて脱会届もださない。煮ても焼いても食えない人たち。そんな人たちから集金しようというのである。考えると、不可能に思えてくる。
「みなさん、みんな払ってくれますよ」信吉は相変わらず楽天的。「住所を整理して、近場からはじめましょう」
「本当に信じてるの」コーヒーを飲んで、頭が冴えてくるとキン子は、現実的になる。ボールペンを指先でくるくるまわしながらあれこれ思いをめぐらす。
 どう考えても信じがたい。19世紀のロシアの小説家のファン。ただそれだけの理由で――ほかに何かあるのかもしれないが、キン子には、それだけしか思えない。会員になっている人たち。長期の会員といっても、実態は幽霊会員に違いない。ギャルはギャルでも、立志伝人物大野建設社長大野拓次郎の娘である。損得にかけては頭の回転は速い。
 この滞納金集め、安請け合いしたが自分が考えるほど簡単ではない気がしてきた。キン子は頭の中でそろばんをはじく。1万円以上の滞納者は10人以上もいる。3万円の大口も5名。ここ2、3年の滞納者は十数人。全額で100万近い大金だ。よくもまあ、放置してきたものだ。このうち住所から集金可能な人は30人近く。
 ホントに集まるかしら・・・。キン子は、だんだん心細くなってきた。しかし、目の前で、黙々トーストパンを頬張っている夢井信吉青年は、心配などどこ吹く風の様子。
 バカみたい。何でわたしが、お金のこと、心配しなくちゃいけないのよ。これは、ただのゼミの延長。滞納金、集まっても、集まらなくても、わたしには関係ない。わたしはレポート免除で、単位ももらえる。一石二鳥のバイトなのだ。キン子は、そう自分をいいくるめると、運ばれてきたピザトーストを手にとった。そして、指先についたチーズをなめながら胸の内で何度も自分に言い聞かせた。
 ・・・退屈しのぎよ、退屈しのぎ・・・なんでも、すぐに夢中になるのが自分の短所。わかっているのに、ついはまってしまう。もっと気楽に、やらなくちゃあ。彼女は、そう思いながら、
新宿区西大久保、二番手はメジロ。ここからは近距離だ。近いけどバスに乗った方がいいかも。
 それにしても、突然、見ず知らずの、それも役員でもない、二人が集金にきたらどんな顔するだろう。想像すると、面白い気もしてきた。

四、不安な開始

 新宿駅は、土曜日だからか、土曜日にもかかわらずか。人、人、人でいっぱい。二人は、洪水のような人波に押されて地上に。階段を上がっていくビルの谷の間に青空が見えた。
「うわー、こんなになって」
信吉は外に出ると嘆息して、東口周辺を見まわした。ひどくなつかしそうだ。
「あれ、来たことあるんですか、新宿?」
「はい、ええ、少し」信吉は、一瞬、こわばらせながらも、青白い頬をぽっと赤く染めて言った。「昔、ちょっとだけいたことがあるんです」
「ああ、そう」キン子はうなずいたが、ちょっぴり落胆した。まるっきり田舎物でもなさそうだ。そういえば昨夜、甲府からでてきたと自己紹介したが、それ以外、夢井青年のことは何も知らないのだ。「いたことがあるって、住んでいたんですか」
「はい、そうです・・・」
「もともと。東京の人?」
「違います。生れは、もっと北です」信吉は、言葉、少なに言った。なぜか困惑げだ。話したくないようである。
「じゃあ東京には、働きに?」
「ええ、そんなところです」信吉は上の空で頷いて、その話題から逃れるように言った。
「えーと、どのへんでしたか、地図みましょう」
 キン子は、不満だった。今日明日、一緒に仕事する相手、もっと知りたいという気持ちはあった。だが、信吉は、もう、そんな会話に乗らない腹だ。地図を片手に番地捜しに没頭している。足早に、大通りを横切っていく。
 大通りを逸れて路地に入ると、モルタル造りの安アパートや民家がひしめく昔ながらの街並みだが、路上に策やの酔っ払いの残滓が目立つ。小便くさい。怪しげなホテルも軒を連ねている。
「何か、嫌な感じだわ。会員の人、ホントこんなところに住んでるの」
キン子は、テレビのニュースか何かで見た外国人娼婦が立つ街のことを思いだした。街並みが似ている気がした。「ここが、そうかしら・・・」キン子は、見回す。午前中だ。それとわかる女性などいるはずもない。それどころか、所々に虫歯のように朽ちた民家もあり、この一角、荒廃感ただよう無人の町のようだ。
「変だわ、3-4だから、この辺りでは」信吉は立ち止まって電柱に巻かれた番地を確かめる。「ここですよ。やっぱりここの番地」
「ウソー」
キン子が驚くのも無理なかった。
 二人の目の前にあるのは、明らかに空き家とわかるモルタル造りのオンボロアパート。玄関、窓にベニヤ板が釘で打ちつけられていてらくがきしたように赤ペンキ、白ペンキで「立ち入り禁止」だの「私有地」だの文字が書きなぐられていた。二階の屋根は半分解体されていて、彼方に林立する西新宿の高層ビル群がよく見えた。未来都市を思わせる光景に比べ、ここの街並みのなんとみすぼらしいことか。あまりの落差に唖然とするしかない。
「うわー、なあに、これ!!」さすがのキン子も、大げさに悲鳴をあげた。 

五、集金の難しさ

 二人の目の前にあるのは、明らかに空き家とわかるモルタル造りのオンボロアパート。玄関、窓にベニヤ板が釘で打ちつけられていて落書きしたように赤ペンキ、白ペンキで「立ち入り禁止」だの「私有地」だのの文字が書きなぐられていた。二階の屋根は半分解体されていて、彼方に林立する西新宿の高層ビル群がよく見えた。未来都市を思わせる光景に比べ、ここの街並みのなんとみすぼらしいことか。あまりの落差に唖然とするしかない。
「うわー、なあに、これ!!」さすがのキン子も、大げさに悲鳴をあげた。
 「あけぼの荘って書いてありますから、ここですよ。解体するみたいですね」信吉は、近づいて隙間から覗き見しながら間のびした声でつぶやいた。「転移先はどこだろう・・・」
「転移先?――そんなとこありっこないわ」
「どうしてですか ? 」
「どうしてって」キン子はあきれ顔で信吉を見た。
「追いだされたのよ。ここの住人、みんな」
「えっ、だれにですか」
「地上げ屋に決まってるじゃない」キン子は、言ってから苦笑。「地上げ屋は全国的よ」
「地上げ屋ですか・・・」信吉は、頷きながらも浮かぬ顔で聞いた。「じゃあ、ここはバブルのときからこんな状態なんですか」
「そうみたいね。追いだしたはいいが、はじけちゃったんで、ビルつくれないのよ」キン子は得意になって説明した。バブルがはじけた頃、父親の金次郎が、さんざん口にしていた話である。
「大変だったんですね。その頃は」信吉は、他人事のよう言って頷く。
 その顔にキン子は、一瞬、怪訝に思った。一時、社会問題にまでなった地上げ屋のことなど、だれでも知っていることではないか。しかし、彼は、まったく知らないようだ。初めて聞くことのようことのような反応だ。へんだわ。キン子は、信吉の無知ぶりにちらっと疑問をいだいたが、、すぐに、甲府の山奥にいたせいかしらと納得した。
「新しい住所、どこだろう」
「もう、相当前よ、わかりっこないわ」キン子は、皮肉っぽく言った。「それに――」
「それに、なんですか ? 」
「会費未納者よ。これ幸いと住所をくらませたかも」
「?」信吉は意味わからず首をひねっていたが、突然、声をあげる。
「そうだ、区役所に行けば教えてくれますよ」
「時間の無駄だわ。遠くだったら。それに、近頃、教えてくれないらしいわ」
「そうですか・・・」
信吉は、がっかりする。
「あきらめましょう、この会員」キン子、あっさり言った。「引っ越しても新住所、知らせてこない人でしょ。近くだったとしても、払ってくれない確率大だわ」
「がっかりですね・・・集金第一号になると思ったのですが」信吉は、残念そうにつぶやくと紙袋からノートを出して渋々、書き込む。
①小谷真一 移転(新住所不明) 集金なし
「ついてないわね。最初の人がこれじゃあ」キン子は小首をすくめて苦笑した。その後、冗談ともつかぬ顔で眉をひそめて言った。「ほとんどの人、こんな調子かもしれないわね」
「そんなことないと思います」信吉は、大きく頭を振った。どこまでも信じているようだ。
 キン子は、からかいたくなった。
「だって、住所変わっても何も連絡してこない人たちでしょ」
「えーと、つぎの会員は・・・」信吉は、無視して名簿を覗き込む。
 信吉は、固く信じているようだ。最初の会員は、例外で、ほとんどの会員は、必ず払ってくれるということを未だ、頑迷に信じている。――どうして、とキン子は不思議に思う。ドストエフスキイの作品を読んでいるというだけで、そんな連帯感が生まれるのか。わからないだけに皮肉の一つもぶっけたくなる。
「会員の人って、皆さん、こういう人たちじゃないですか。昨夜、皆さんのお話し聞いてて、何かそんな気がしたの。ドストエフスキイが世界で一番偉い作家だっていってるけど、どうみても、読者の人たちはみみっちい感じがするの。どうよく考えても、すばらしい会だなんて思えない。それに会費の滞納者がこんなにもいる会なんてある ? 」
 スイッチの入ったラジオのように「ドジョウの会」の悪口と集金の不可能をまくしたてるキン子だが、夢井信吉は、馬耳東風。名簿から移したノートと都内地図をみくらべていたが、不意に顔をあげて聞いた。
「豊島区の方が近いですよね」
「え、どこと ? 」
「渋谷とです」
「そうねえ、豊島区も広いから」
「雑司ヶ谷です」
「それなら、近いわ」
「じゃあ、次はこの会員にしましょう」
 相手がいなければ、どうにもならない。集金作戦、第一号は、早くもとん挫。信吉は、めげずにきりかえる。
「いいですけど」
「行きましょう」信吉は、性急に言って歩きだしたが、はたと足を止めて聞いた。「そこって、どうやって行きます」
「ここから、タクシーなら近いわ」
「えっ! とんでもない。ダメですよ」信吉は、慌てて首を振った。「戻りましょう、駅まで」
「えっ、面倒だわ、池袋まで行くことになるのよ」
「タクシーなんて、まだ一人も集金もしてないのに、たとえお金あってもダメですよ」
信吉は言い捨てて歩き出した。
「待って、キン子は痕を追いながら聞いた・「でも、どうするの。今、みたいだったら。折角いってみても、まったくの無駄になるわよ
「あ、そうか」信吉は、叫んで頭を抱え込む。「そうですねえ」
 早くも二人は集金の難しさに直面した。払ってもらえるか、もらえないかの前に在宅有無の問題があることを知らなかった。肝心要なことではあるが、集金初歩中の初歩だけにさすがの浜島会計係も、伝授し忘れたようだ。
「どうしょうか」困窮顔で、頭のぐしゃぐしゃ髪の毛をかき回す信吉だが、キン子は、そこはさすがに都会っ子、機転が早い。
「電話よ。電話してみればわかるわ、在宅かどうか。浜島さん、集金は、直接とかなんとかいってたけど、いなければダメだし、電話で断られたら、わざわざ行っても払う? 参加もしてない会の会費なんか」
「そうですね・・・」信吉は、まくしたてられて自信なくなったのか、小声で頷く。
「いいわ、とにかく、わたしかけてみるわ。当たるも八卦だったかしら」キン子は言って信吉を見て笑う。「電話番号わかります」
「この会員は・・・」信吉は名簿をひろげて言った。「えーと、番号、ばんごう、あった、書いてあります」
「そう、言ってみて」キン子は自分のポケット手帳に写し取ると周りを見回した。角のコンビニストアーの前にグリーンの電話機があった。キン子は、小走りに向かう。
「もしもし――あ、米村さんのお宅ですか。」キン子は、猫なで声で訪ねた。声には自信があった。「失礼ですが、征二郎さん、いらっしゃいますでしょうか。あ、ご在宅でしたか、ありがとうございます。わたしですか、えーと」キン子は、返事に窮してか、受話機口を手でふさいで信吉に聞いた。「何の会でしたっけ? 」
「ドジョウの会です」
「あっそうだったドジョウの会、へんな名前、わかるかしら」キン子は、疑り深そうにつぶやいて受話器に話しかけた。「失礼しました。ドジョウ、ドジョウの会といいます。いえ、田んぼとは関係ありません。鍋料理とも違います。ドストエフスキイという――、ご本人様ですか。ご在宅と、お伺いしましたが、これからおうかがいしてもよろしいでしょうか。ありがとうございます。よろしくお願いします」キン子は、ペコペコ頭を下げて、ようやく受話器を置いた。
「なんだって」
「家にきてくれって、払う気あるみたい。へんね、ご本人、すごく悪がっていた」キン子は、腑に落ちなさそうに首をひねって叫ぶ。「それより、あ――イヤになっちゃうわ、先にでた人、奥さんみたいだったけど、ぜんぜん通じないの。ドジョウの会のこと、まるでしらないのよ。柳川に旅行に行くんですか、まで聞くんだから」
「その人、米村さん、いくら滞納ですか」
「うわー、3年分よ」
「いくらです」
「三年分の滞納だから1万2千円」
「そんなに! 」信吉は、驚く。
「払わない方にかけるわ。さっきの奥さん、しっかりしてたから」
「ぼくは、信じます。払ってくれると」信吉は、確信しているように大きく頷いて言った。本人に会えば大丈夫ですよ。早く行きましょう。
 二人は元きた道を引き返し、新宿駅の方に向かって歩いていった。まだ、更地になった一戸目をまわっただけなのに、ずいぶん歩きまわったような疲労感があった。
 雑司ヶ谷の会員。昨夜の役員以来、はじめてあうドジョウの会の会員。さてさて、いかなる人か。滞納金は、耳を揃えて払ってくれるのか。

六、駅地下街で

 新宿駅地下街の雑踏。絶えることのない人の流れ。買い物客、勤め人、遊び人、若者、学生。外国人、白人、黒人、アラビア人。それら老若男女がごちゃまぜとなって早足に歩いている。濁流となって流れている。楽しげな顔、切羽詰まった顔、怒り顔、虚勢顔、すまし顔、泣き顔、笑い顔、急ぎ顔、考え顔、流れの中に様々な顔がある。その顔の表情からその人の生活が人生が読みとれそうだ。我らがドストエフスキイの大先生なら何百、何千の主人公をひねり出すことができそうだ。どの顔も、文庫本一冊でも書き足らぬ表情がある。
 むろん我らが主人公「ドジョウの会」集金人のご両人も例外ではない。しかし、その顔色は対照的だ。キン子嬢は、早くも疲れと眠気で曇り顔。今朝の意気込みはどこへやら、ご機嫌ななめである。まだ一銭の収穫なしにテニス焼けした健康顔もさすがに不安と焦燥の色がジンワリにじみでていた。しかし一方の信吉は、まだ些かの焦りの影も疲れた様子もない。元気はつらつの進軍である。この人波に昂奮したのかほんのり頬をそめながらも、もの珍しげに洪水となって流れる人の流れをキョロキョロながめていた。が、しばらく行くと視線は、地下道の隅で寝ころぶホームレスたちに注がれた。
「夢井さん、そんなにじろじろみない方がいいわよ」キン子は、心配そうに信吉のコートの袖を引っぱった。「わたし逃げちゃうからね。因縁つけられたら」
「探してるんです」信吉は、苦笑いして言った。
「探してる ?!だれを?」
「いつだったか、テレビみてたら――インタビューしてたんです。このあたりで、そしたらあの人たちのなかに『カラマーゾフの兄弟』を読んでるっていってた人がいたんです。本を記者にみせました。でも、記者さんは、自分は、まだ読んでいないからと尻込みしちゃって、話はそれで終わっちゃったんです」
「それだけのお話し・・・」キン子は、興味なさそうにいささか気抜けした顔で言った。
「すごいじゃないですか。仕事もやめ、家庭も捨て、社会とのつながりも、一切合財無くした人が、ドストエフスキイの作品を持っているなんて。それも人間関係がいっぱい詰まった『カラマーゾフ』をもって読んでいたなんて、すごいですよ」
「たまたま、拾ったんじゃないの、それとも捨ててあったか」キン子は、笑って言った。
「捨てませんよ。ドストエフスキイの本は」とたん信吉は、乱暴に叫んだ。
「えっ!」キン子は驚いた。が、すぐにからかうように言った。「捨てたらだめですよね。ドジョウの会のみなさんにとっては聖書のようなものです」
「ぼくは、ドストエフスキイは捨てません。聖書はすてても、持っています。ノーベル賞をもらった科学者の偉い先生だって、自分の本棚に最後まで残った本はドストエフスキイだった、と日記にかいています。捨てるなんて信じられません」
「そうですか・・・」ドジョウの会の会員にドストエフスキイを茶化すのは禁句のようだ。キン子はあきれて言ってから、こんどは慰めるように聞いた。「それで、本を持ってた人わかるんですか」
「いえ、画面が暗くて、顔はよくみえませんでした」
「なんだ、それじゃあわかりっこないじゃないの」キン子は、大げさに叫ぶ。
「でも、なんだかわかる気がするんです」
「はい、はい、そうですか」ドストエフスキイ談議するのがばからしくなった。それで、一転からかい気味に言った。そうですか、で。どうするんですか。その人がいたら」
「話ししてみようと――」
「あきれた! 」キン子は、本当にあきれた。
 ドジョウの会の人たちってドストエフスキイを読んでいれば、持っていれば誰もかれも、みんなお友達とおもっちゃうんだから。顔も名前も知らないのに、相手がホームレスだってなんだってかまやしないんだから。やっぱり信者ね。ぜったいにそう思う。ドストエフスキイ教の狂信者。ここまで考えてふとわが身を思う。そういう私も、ほとんど知らない若者と、テニスサークルの男の子だって一度も二人きりでデートしたこともないのに。ドストエフスキイだって一冊どころか一ページも読んだことがないのに、地方からでてきたポットでの会員二人と、こうして集金をやっている。これって何?! 思いだしたらぞっくとしてきた。
「ああ、イヤだわ。いやね」キン子は思わず体を震わせた。
「何がです?何がいやなんですか」
「そういう考え」
「そういう――? 」信吉は困惑顔にたずねる。
「そういう考えよ。ドストさまさまの。「ああ、イヤだ。そういう考えよ。すぐお仲間だと思っちゃう」キン子は行って苦笑する。そのあと、弁護するように「まあ、いまどきドストエフスキイなんて読んでる人なんかめずらしいから」
キン子は、言ってからたずねる。
「それってなんていったかしら。パンダのような動物」
「絶滅稀少動物ですか」
「ああ、はいはい、それそれ」キン子は、大笑い。「ドストエフスキイなんか読んでる人、どうみたって絶滅稀少よね。ドジョウの会の人たちがいなくなったら、終わりになる運命だわ」
「ずいぶんですね」信吉は、いささかムッとして言った。
「でも、興味もってるんでしょ。話しかけたいんでしょ。お仲間かもしれないから」
「ぼくは、ただ、どんな人かと知りたいだけです」
「いいわよ。遠慮しなくたって」
「ドストエフスキイは愛読者にとって心の故郷のようなものですから、読んでる人は同郷人なんです。声かけてもおかしくありません、困ってれば相談にものってあげたい。」
「やっぱりじゃない。」キン子は勝ち誇って言った後、急にまじめ顔になって訝しげに言った。「そこんとこ、いくら考えてもわかんないの。同じ小説を読んだら同郷人だなんて。世の中、同じ小説読んでる人なんか、いっぱいいるわ。ベストセラーは、どうするの、みんなお仲間じゃない。ドジョウの会のひとたちもそうだけど、何かむずかしいわけのわからないこと言って、それって宗教ぽくて、気味が悪いわ」
「読んだらわかりますよ」信吉は、語気を強めた。
二人は駅に着いた。
「すぐそれね。読めばわかる。ずるいわ」
 「それは―――」
信吉は会話を中断して切符販売機にむかった。二人は、改札を抜け出ると階段をあがって山の手電車のホームにでた。
「でも、あの人たちって、何、考えてるのかしら。もちろん、ドストエフスキイを読んでる人たちのことよ」電車のドアが閉まると、キン子は話をホームレスに戻した。「ちょっとは聞いてみたい気もするわ。ドストエフスキイ役に立ってますかって。それにしても、よく平気でいられるわ。お風呂も入らないんでしょ。あんな生活から早く抜け出したいんでしょうね」
「思うでしょ」
「じゃあ、本人はやめたいと思ってるのね」
「だれだって同じですよ。人間なら。大野さんだってイヤでしょ。あんな生活」
「当然だわ」キン子は一緒にされてたまるものですかと、憤然。「わたしなら一秒だってあんなところにじっとしていられないわ」
「人間は一度、はまった境遇から抜け出すことはむずかしいんです。よほどのエネルギーがないと」キン子は信吉の抽象的な言葉に首をすくめると皮肉っぽく返した。
「よくわかってるのね」
「そうじゃないですか・・・」
「わかんないわ。どうしてそんなふうに他人のことがわかるんですか。経験があるみたいに」
「経験なんて、何です。そんなものなくたってわかります。人間、中味は、みんな同じです」
「ウソよ! そんなこと信じないわ。わたしとあの人たちが同じだなんて」
「人間は、どんなことにも慣れる、とドストエフスキイは言ってます」
「また、十八番のドストエフスキイ。聞きあきたわ」
「そうですか、やめましょう」
 信吉は。あきらめ顔で笑った。人間について論争したことを悔いた。自分は、ただ段ボール生活しながら『カラマーゾフの兄弟』を読む感想に興味あっただけ。ドストエフスキイの話をするつもりはなかった。信吉は、だまっていることにした。
「しかし、あの人たちの存在は政治家の責任ね。キン子は信吉が急にだまりこんだので気になって話題を変えた。「わたし、あの人たちを見るたびに思うんだけれど、どうして施設がないのかしらと疑問に思うの。だってそういう更生施設をもっとつくったら。ベトナムからの難民。みんなそういう所に入ってるんでしょ」
「いいこと、いいますね。大野さん」信吉は、急にうれしそうな顔をして言った。「そうですよ。あの人たちにだって、住むところが真っ先に提供されるべきです。その権利はあります。ホームレスになった人の中には、一生懸命働いてきた人だっています。不景気になって仕事がなくなったからといって知らんぷりは企業も政府も卑怯ですよ。自分たちが、つくれないなら、せめて場所と資材を与えて彼らに作らせばいいんです。あの人たちのなかにはビルや家をつくってきたひとだっています」
 ちょっと言ってみただけなのに。キン子は、信吉の社会正義の口ぶりに逡巡した。これもドストエフスキイの影響なのかしら。父親の大野金蔵の会社のことを思うと自分が非難されているようで嫌な気がした。
 折よく電車はホームにすべりこんだ。ふたりは出口に向かった。最初の集金、米村正二郎氏がその人だ。


七、最初の集金

 街の赤電話で在宅を確かめた米村正二郎の家は、すぐにわかった。目白駅近くの豪華マンション。地上げで空き家になっていた先ほどの大久保の会員の住まいとは雲泥の差。
「同じ会員なのに、ずいぶん違うのね」
キン子は見上げて思わず笑う。
「そうですけど…」夢井信吉は頷きながらも不安そうにつぶやく。「大丈夫かなあ。入るの」
 玄関がキン子の高級マンションより立派。威厳がある。ホテルのロビーのような雰囲気で、出入りは厳重な感じ。早くも管理人が訝しげに二人を見ている。信吉は、すっかり気おくれしたが、キン子は、まったく意に介さない。
「こんなところに住んでるのに、滞納だなんて」
あきれたように言ってガラスの回転ドアを押して中に入って行った。信吉は。あわてて、後につづいた。
 初老の管理人が管理人室から飛び出してきた。
「どちらさまに、御用で」訊問するように聞いた。
「すみませーん。702の米村さん、在宅ですか?」
キン子は委細構わず、大声で聞いた。
「いらっしゃいますが…、まだこの時間は…」訝しげだ。
「ああ、よかった」
キン子は、ほっとして胸をたたくとエレベーターにつづく中扉に向かおうとした。
「あ、ちょつと、勝手に入られては困ります」管理人は、あわてて立ちふさがった。「今、連絡しますから」
「電話で、つたえてありますけど」
「規則ですから」
管理人は、言ってメガネの奥から睨む。
 完全に、この二人怪しいといった顔だ。ブランド品を身につけているキン子は、ともかく信吉の風体に警戒心をみせている。愛想のない青白い顔、いつ床屋にいったのかもわからないもじゃもじゃ頭。よれよれのジーンズに古びた黒のコート。まさにボロで身をつつんでセンナヤ広場をうろつくロジオン・ロマーヌイチといったいで立ちなのだ。
 父親譲りの価値観と無頓着な性格のキン子だからこそ、一緒に同行できるが、ふつうの女の子だったら、とても並んで歩けない服装。おしゃれな女子大生と、ホームレス同然の冴えない青年のちぐはぐコンビ。どうみても702号室のお客とは思えない。親戚すじでもなさそうだ。年齢からいって友人、知人とも思えない。見る限り珍奇なアベック。
 管理人はなんとしても、マンション入りを阻止する構えだ。
「面倒ね」キン子は小声でいって舌をだす。
 この集金、当事者と会わない限り、第三者にいくら説明してもわかってもらえない。それがだんだんわかってきた。目ざとく郵便ポストにあった部屋に繋がるインターホンを見つけた。直接、話すしかない。急いで駆け寄ろうとした。管理人は、そうはさせまいと、先回りして自分からインターホンを押す。
「ハイ」返事があった。年配の女性のようだ。
「スミマセン、管理室のスガヤですが。今、お客様がお見えになっているんですけど」
「お客?」
「若い方、おふたりですが――」
「若い人?」
「電話でお知らせしてあるとか」
「電話、知らないわ」
「と、いってます」管理人は、勝ち誇ったようにふたりをにらむと語気を強めて言った。「うそついては困りますね」
「どなたか、お聞きして」インターホンは、まだ繋がっていた。
「わかりました」管理人は、インターホンにお辞儀すると振り返ってきいた。「あんたたち、だれ?」
「ドジョウの会のものですが!」信吉は大声で告げた。
「ドジョウの会ですって!?」声の主は、びっくり声で叫んでから言った。「そういえば。さっき若い女のこが、そんなようなことを言ってかけてきたけど、それ?」
「そうです。わたしです!」キン子は答えた。
「なんなんです。ドジョウとかなんとか言ってましたが。商品の売り込みなら。はっきりお断りします」
「正二郎さんは、いらっしゃいますでしょうか」
「し、しょうじろうさんって、主人ですか」
「そうです。正二郎さんに用事があって、うかがったんです」
「なんですの、主人は、これから出勤するところで、手が離せません。わたくしがおききします。何でしょう?」
「会費の集金なんです」
「会費の集金ですと!!」管理人のおっちゃんは、いきなり悲鳴をあげて騒ぎだす。「きみたち、困るじゃないか。そういう用件はだねえ、ちゃんと了解を得てないと犯罪だよ。やっぱりへんだとは思ったんだが、集金とは、いったい何の――」
 万事休すか。二人は、困り顔で、佇むほかなかった。ああ、集金ってむずかしい。さすがのキン子も打つ手なし。
「わかった!あんたたち宗教だろ、例の、そうだろう!きっとそうだ」管理人は速射砲のように、がなりたてはじめた。霊感商法の珍味が、つぼ売り、そのように思ったようだ。
「もしもし、もし、もーし」
インターホンから、さかんに声がきこえる。今度は男性のようだ。
「まったく、油断も隙も」管理人は今にも実力行使で追い出さんばかりの怒り顔で。だが、インターホンに向かっては、猫なぜ声で言った。「失礼しました。こちらでなんとかしますから。お断りしておきますから」
「いや、違うんだ。わたしの客だ。通してくれ」
「客?ドジョウの…」
「そうドジョウの会だ。通してくれ」
「え!?そうですか」管理人は、不思議そうに二人をみて渋々頷く。「わかりました」
「いや、なに、家内は知らなかったから」
「ああ、そうでしたか。わかりました」管理人は、一転、愛想良くなって、にこやか顔で言った。「よかったですね。お会いしてくれるそうです。こんなことめったにないことですが」
 管理人は、もったいをつけて、さも自分が口をきいてやったおかげといった顔で、揉み手をしながらエレベーターの前まで案内した。二人は振り切るように乗った。
「失礼しちゃうわよね、まったく」キン子は、7階のボタンを押すと、怒り声で言った。「会員本人さんに会うのに、こんなに大変だなんて」
「そうですね」さすがに信吉も頷く。
「わたし賭けてもいいわ。払ってくれないわ」
「でも、訪問を許可してくれたところをみると、気持ちは…」
「体裁よ。借金とりだか、なんだか知らない人が、朝っぱら玄関前で、いつまでも管理人とやりあっていたんじゃ格好わるいでしょ。うちのマンションでも同じことあるんでわかるわ」
「そうですか――」信吉は不可解げにつぶやいた。これまでの展開から、先は読みとれない、といった顔だ。
 エレベータが止まりドアが開くとふたりは緊張した足どりで降りた。最初、一人目の集金は、アパート取りの壊しの最中で、所在不明で空振りに終わったが、今度は、確実に会員はいるのだ。インターホンの応対から期待は薄かったが、二人は、はやる気持ちを抑えて『米村』表札のドアの前に立った。
「ここよ」
キン子は、ちょつぴり緊張した表情でちらっと信吉をみて軽く頷いてからブザーを押した。
 いきなりドアが開いた。待っていたようだ。金縁の三角メガネをかけた中年の女性がイラついた様子で立っていた。米村正二郎の細君のらしい。これから出掛けるところだったのか黄色いパンタロン姿の派手な服装。二人をきっと睨みつけるとごちゃごちゃ言い出した。
「あなたたち、こまるじゃないですか。主人に用事があるなら、はっきりおっしゃってください。下で面倒などおこさずに。まるでうちが集金とりに襲われている。そんなふうに思われてしまうじゃないの」
「はっきりいいました」キン子も負けてはいない。「あれは管理人さんが、勝手に気をきかせたんです」
「ああ、そうですか」細君は、小馬鹿にしたように薄笑いを浮かべて頷いた。が、訪問の目的をまだ知っていないらしく、二人を怪しげにじろじろ眺めまわしたあと、やっと聞いた。「それで、主人に何の用事ですの、みたところお若いひとが…」
「オイオイさっき話したじゃないか」
不意に奥の方で声がして背広姿の初老の男性があらわれた。二人を見ると、笑って「よねむらです」と挨拶して詫びた。「出勤前で書類さがしてたんで、失敬した」
 妙に親しげだ。いきなりのフレンドリーさに二人は、とまどった。
「ちょっとあなた、こんな若い人と、付き合ってるんですか」細君は、問いただす。
「付き合ってるって、おまえ」米村は、苦笑して言った。「会員の人だっていったろ」
米村は、二人をみて笑顔で聞いた。
「そうでしょ、ドジョウの会からきたんでしょ」
「はい、そうです。ドジョウの会です!」二人は大声で答えた。やっと話が通じる人に出会えた。地獄で仏。そんな気持ちだった。  

八、案ずるより産むがやすし 

 「米村です」白髪の紳士は丁寧に頭を下げて詫びた。「出勤前で、書類をさがしていたものですから、失敬しました」
「ちょっと、あなた、こんな若い人と付き合っているんですか」夫人は上目づかいにキン子を見て言った。「なんなんですかドジョウって」
「付き合ってるって?!」米村は苦笑いして言った。「会員だって話したろ」
「こんな若い人が会員だなんて、それもドジョウなんて妙な名前の」
「世の中には、いろんな名称があるんだ」米村は、夫人との会話を一方的に打ちきるとキン子を見て親しげに聞いた。「会の方、ずいぶん若い人、入ったんですね。ぼくはもう何年も出席していないから」
「あなた!」突然、夫人はヒステリックに叫んだ。無視されたのに腹をたてたようだ。「ドーなんとか?そんな会に入っていたなんて、聞いておりません」
「隔月にお知らせが、きていただろ」
「知りませんよ。通知なんか、いちいち調べてなんかいませんから」
 なにやら雲行きが怪しくなった。元官僚っぽい米村氏は、ドジョウの会のことを、夫人に、まったく説明していなかったようだ。夫人は、自分が知らないことがあったことに興奮を爆発させて治まらない。
「いったい、なんですの、ドジョウの会、って」
「ドストエフスキイの作品を読む会だよ」
「ド、ドストなんとかですって!小説家でしょ。それがどうしてドジョウなのよ」
「説明したって、どうせ君は聞いてはくれんだろう」
「どうせわからないですって!!」夫人は、キーンと目をつりあげて言った。「わたしだって四大の文学部をでてるんですからね、ドストエフスキイぐらいは知ってますよ」
 突如はじまった夫婦のもめごと。原因は、キン子と信吉の集金訪問が発端だ。
 二人は、あっけにとられてながめていたが、さすがにキン子は自分たちのせいでと思ってか、なんとかしなさいとばかりに信吉の背中を押した。信吉は、頷いて半歩前にでると恐る恐る分けてはいった。
「あのう、すみませんが」
「あ、申し訳ない」米村氏は、我に返ると照れ笑い浮かべて聞いた。「ドジョウの会のことででしたね」
「はい、会費の集金なんですが」キン子、素早く言った。
「ああ、そうだそんなようなこと言ってたね。そういえば。ずっと払ってなかったね。なにしろ仕事が忙しくて…で、いくらたまってます」
米村氏は、背広の内ポケットから黒皮の財布を取り出した。それを見て、仰天したのは夫米村夫人だ。血相変えて
「あなた ! 出席もしてないのに払うんですか ! 」
と、金縁メガネの奥の目を吊り上げた。
「三年分たまってますから、年間6000円会費ですから1万8千円です」キン子は、間髪をいれずに遮った。「創刊号の代金も入ってますから」
「えっ! 創刊号、でたんですか?!」米村氏は、眉をひそめた。
「あれ。しらないんですか?」キン子は、つけまつげの目を丸くして大げさに驚く。出版が大問題となって、会存続の危機をむかえているというのに、それで自分たちが集金に回ることになったというのに、この会員は、まったく知らなさそうだ。少し腹が立った。「会員のみなさんには、全員に送りました。私がおてつだいしたんですから」
「そうですか。へんだな」米村氏は、怪訝そうにつぶやいて夫人を見た。「キミ知らないかね」
「知りませんわよ。そんなもの」ザアマス夫人は、俄かにしどろもどろになった。「あなた、どうせ読みゃしないじゃあないですか。ダイレクトメールだかなんだか、いつも山になって積まれているじゃあございません」
「ということは、捨てたということだな」
「すてませんよ」夫人は、とぼけたが、あきらかに心当たりはあるようだ。
「そうかい」米村は、憮然と頷いて、キン子に言った「と、いうことだから、悪いけどもう一冊送ってください。注文します」
「じゃあ一冊分の本代金は、いただきます」
「じゃあ、お願いします」氏は、財布から2万円だすと、「おつりはいいから」と小手を振る。
「ありがとうございます」キン子は、電光石火すばやく受け取る。
「な、なんですの ! わたくしにわかるように説明してください」
「だから、ドジョウの会という文学の会に入っているんだよ」
「ドジョウだなんて」
「みなさんお元気ですか」米村は無視して、キン子にきいた。
「昨夜あったんです」
「あなた、はぐらかさないでください」
 またしても合戦がはじまりそうな雰囲気。二人は、大急ぎで外にでた。エレベーターに向かって駆けだした。管理人に会釈して道路に出るとやっと人心地ついた。
「なあに、あの夫婦。旦那さん、お偉いさんのようだけど、奥さんにやり込められていそう。なんだかドジョウの会の人たちって、似ている」
「いいじゃあないですか。あっさり払ってくれて。しかも余分に。幸先いいですよ」
「ホント、も意外とあっさりで、拍子抜けした感じもあるわ」
ふたりは、最初の管理人とのやり取りを思いだしておもいっきり笑った。
 昨夜の役員たちの会話から、ケチな人たちばかりと想像していたが、そうでもなさそうだ。キン子はほっとした。集金一号、18000円也、創刊号1冊1000円売上、1000円カンパ
 信吉はしっかりノートに記す。とにもかくにも、幸先良好、二人はにわかに元気百倍。次なる会員の住所めざして足取り軽く歩きだした。
 二人目の会員は雑司ヶ谷墓地近くに住む日野沢英明という人。名前から若者を想像していたが、ゆうに七十は越えていそうな白髪の老人だった。商店街の一角に日用雑貨の店を出していた。店は、古い木造二階家の一階にあって、五坪ばかりの店内にトイレットペーパー、ティシュの箱、洗剤などが天井近くまで積み上げてあった。老人は、店の奥にある三畳間で炬燵に入って新聞を読んでいた。信吉が要件を述べると、鷲鼻の頭にかけた丸眼鏡の奥から珍しげに二人を眺めまわした後、
「へえー、それで集金をねえ」他人事のようにつぶやいた。「バアさんが、あっちにいっちまってから会の方はご無沙汰してますよ。二人してはいっていたんだが。店を留守にするわけにはいかんですからな。ごらんの通りケチな店なんだが中国人がくるんでー」
「中国人ですか?」信吉は、物珍しげに聞いた。
「ほう、知らんですか、このあたりのアパートはみんな中国人が住んでおります。ほとんど福建省出身者ですな」白髪の老人、日野沢英明さんは得意げに話す。「「わしも戦争前、行っとって世話になったですから、回り回って、恩返しですわ。人生おもしろいもんだ」
 いつ果てるともない日野沢老人のおしゃべりにキン子は、イライラしてきた。のんびり相手をしている信吉の背中を押した。信吉は、頷くと話を切った
「あのう、すみません」
「なんだい」横やりを入れられて日野沢老人は、ジロリと睨む。
「会費、お願いしたいんです」キン子は、尽かさず言った。
「会費 ? 」
「二年分、滞納になっているんです」
「昔は二人分はらっていたが、定年になってから一本化したんだ。会の方にはわしの名を残し、払いの方はバアさんがやってたんだが、きゅうにおっちんじまったから、それでたまったんだな」
 支払ってくれる脈はありそうだが、老人はなおもはなしつづける。
「わしは借金はきらいだから、とりにくれば払うことにしている。自分から払いに行くなんぞ愚の骨頂だ」
 日野沢老人は、こんな調子でだらだら自分の持論をのべたあと、やっと滞納金を払ってくれた。が、ただではない。こんど出す号に自分の書いたものを載せろというのだ。
「きみら、これがどんな意味であるか知ってるだろ。〈わたしの胃の中で複雑化している固い要素の軟化に役立つところの湿潤作用の本質的根源を持って来い〉この文章の意味だ。知ってるかね」
「なんですか。知りません」キン子は、うんざりして答えた。
「なに!、知らん。不勉強だな。いまどきの若い会員はー」
「わたし、会員」じゃあ、ありません。キン子は言いかけてやめた。また、はなしが長くなったらたまらない。滞納金をもらったら、さっさと退散するに限る。
「もっと、しっかり読まなくちゃあいかん。読書会はやっとらんのかい」日野沢老人は、まるで旅人に謎書けるスフィンクスのように、ひきとめようとする。
「水の話なんだ。あれは」信吉は、苦笑してキン子に教える。
「水、みず1?」キン子は、素っ頓狂な声をあげる。「なんなんですか」
「水を持って来いを、学問的に言うとそうなるんだって、ドストエフスキーの論文にでてくるんだ。信吉は、二コリともせずに言った
「バカバカしい。ドジョウの会の人たち、やっぱりなにかへん」キン子は、あきれて言った。「そんなこと、謎かけにもクイズにも、なんにもなりゃしないわ。ただの遠回しだわ」
「その通りじゃ」日野沢老人、なぜか急に元気になって講釈はじめた。「どの論文も創作も、この轍をふんどる。まったくもってむずかしければよいというものではないのだ」声高に、ひたすら創刊号批判をやってから、最後に、自分が書いたという手書きの原稿を文机の引き出しからだしてきて「先が短いとこんな空想も浮かぶんだ。これはぎりぎりの想像、空想だからね。至って簡単、単純な寓話だ。役員諸君によろしく行ってくれたまえ」そう言って、強引に信吉に手渡した。
 次号どころか会解散の話もあるのに。キン子は、妻を亡くした偏屈一徹な老会員に内心、同情はしたが、もうこれ以上、わけのわからない話しに付き合うのはご免、集金さえ済めば。後は野となれ山となれである。2年分の会費を受けとると、「ありがとうございました」と、信吉の腕を引っ張って外にとびだした。
「急に、出てきたりしちゃあ悪いよ。話の途中に」
「あんな話、いつまでもきいていたらひがくれちゃうわ」
「そうだけど、一人でさびしいんだよ」
「さびしかったら、会に出席すればいいんじゃない。ドジョウの会あるんだから。お店、自分でやってるんだから、いくらでも都合つくわ。中国人がどうのとかわけのわからないこといって。人の面倒見てる身分ですかっての」キン子は、意地悪っぽく言って、信吉が預かった原稿をちらりとみてクスっと笑う。
「次号なんか、どうせでないんだから、オクラ入りね。これ、あのオジイちゃん可哀そう」
「そんなことないです。ぼくらの集金しだいです」
「あ、そう、たいした会だわ」
 キン子は皮肉っぽく言った。しかし、気持ちは軽かった。案ずるより産むがやすし。もっと困難かと思われた滞納者めぐりだが、案外簡単に支払ってくれる。まだふたり回っただけたが、拒んではいない。それになんとなく会員像がみえてきた、そんな気さえするのだ。金銭よりゴタクを得意とする、要するに一言居士、そんな人たちが多いようにみえる。皆これまで、どうしてドジョウの会の方に出席しなかったのか不思議である。
 キン子は思う。世の中、まだまだ自分のわからないことだらけだ。この人のこともまだ何も知らない。キン子は、黙然と肩をならべる夢井信吉をちらっとみて、わけもなくおかしくなった。
(通信178まで)

九、珍妙なる作品

 私鉄沿線に三名の会員の住所がつづく。少し遠いが、二人はデパートの一階にある駅から郊外に向かう電車に乗った。昼過ぎの車内は空いていた。春の日差しが眠気を誘う。
「このままハイキングに行こうかしら、」キン子は、恨めしそうにそとをみる。「こんなにいい天気なのに、集金だなんて」
 しかし。信吉には馬耳東風。
「ぼく、眠ります」と腕を組んで目をつぶる。 
「あ、そう」キン子は、手持ち無沙汰になって、信吉から日野沢会員の原稿が入った大判封筒を受け取った。万年筆で書いた文字が几帳面にならんでいる。ドジョウの会の創刊号『ドジョウ時代』に載せようとしたもの。難解なものに違いないと眉をしかめた。
 先ほどの老人のクイズのような言葉を思いだした。
「わたしの胃の中で複雑化している…あとなんていったかしら、水のことだってバカバカしい。自分も難解な文を書くのが好きなのに」
妻を亡くした孤独老人日野沢会員の作品。題は「穴の向こう側」。珍妙な題ではあるが、いったい、何が描かれているのやら――。
 どうせ難解な言葉ばかりならべた話。ギリギリの空想といったが、小説という老人の言葉を思いだし退屈しのぎにぱらぱらと飛び読みすることにした。20枚ぐらいだが、ちょっとでもむずかしそうだったら、すぐにやめよう。キン子は、ほとんどそんな半端な興味から恐いもの見たさ、難解ものみたさで読み始めた。
「『穴の向こう側』…へんな題」
 人間、老いてくると無性に穴を意識するものだ。障子の破れた穴、鍵穴、天井の節穴、道路の陥没の穴、臨死体験の穴、そして、宇宙のブラックホールなどなど。穴は日常生活の至る所にある。若いころは、そんなものを見かけたとて、何の興味もわかなかった。が、古希過ぎてからトミに気になってしかたがない。なぜだろう…考えるにこの現象は女性の穴に関心がなくなってから起こりはじめた。(なあに、あの会員ヒヒ爺だわ)自分の生物的能力が失せてから、しだいに穴への関心が強まってきたのだ。おそらく今の私にとって女性の穴は50円玉の穴ぐらいの価値しかない。(なんなの、このジイさん)かわりにわたしは物質や空想モノの穴にたいして以上な神秘と興奮をおぼえる。これは一体何なのだ?!
 よく臨死体験をした者がトンネルを見たという。あちらの世界とこちらの世界の境目にあるという穴。もしかして、わたしは無意識のうちに、そんなものをかんじているのたろうか。女性の穴が、この実存宇宙を創りつづける未来製造物なら生殖能力がゼロになってからわたしの意識にとりついた穴は、別世界、別宇宙に至る陥穽口か。魂の通路口。いつのころからか、わたしは穴に対し、こんな思想というか観念をもつようになった。そうして、穴に対して、こんな見解を持った。命あるもの全て死ねば、穴を通るとすれば、生あるときに、その穴を通ることができないものだろうか。穴の向こう側を覗くことができないものだろうか。「トンネルをぬけると雪国だった」という小説が、あったが、わたしが思う、トンネルの向こうには、いったい何があるのか。近似臨死体験ができないものだろうか。この思いが高じて穴とみれば、すぐに覗いてみたくなった。そんな衝動にかられた。おかげで、ずいぶんひどい目にもあった。道路工事の穴を覗こうとして転落した。客引きには、金をふんだくられ、民家の壁穴を覗いてパトカーに乗せられた。などなど、こんな災難あげたらきりがない。穴などにかかわったらろくなことがない。わかっているのに、やめられぬ、もしかしてわたしは余命いくばくもないのかもしれない。それで、こんな悪あがきを。そう考えるとなおのこと焦燥するのである。ところが、信じれば山をも動かす、ではないが、先日、ついに願い叶って穴の向こう側を知ることができた。いや、知るというより行くことができた。別に死にかけたのではない。夢の中のことだが、わたしは、死後の世界を垣間見たと信じている。夢ではあったが、現実のこととおもっている。むろん、こんなこと誰も信じまいが、わたしにはどうでもいいことだ。(なあに、これ前置き、そろそろあきてきたわ)
 …ある晩、わたしは夢を見た。なぜだかわからないが、わたしは東北地方の山村にいた。その村には「神と不死の穴」とか「極楽への入り口」呼ばれる洞窟があった。何の穴かはわからないが、昔からあって、村人は祠をつくり祭ってきた。伝説では、空から降りてきた神様が雨宿りした穴だそうだ。神様、寝心地がよかったのか、お礼にと病気や傷ついた生き物を助けた。そんなことで、その穴に入ったものはぜったいに死なない、そんな伝説が生まれた。真実はたんに狐か狸の棲みか。地形の変化で偶然にできた穴、そんなところだろう。もっとも、その穴が、「神と不死の穴」「極楽への入り口」と呼ばれるのは、それだけの謂れがあった。山の動物たちは死が迫ると、その穴を目指すというのである。これは猟師たちの話で、急所を撃ちそこねた瀕死の獣を追いつめると、決まって穴のあるこの方向に逃げる。穴に逃げ込まれたら神聖な場所でもあり、あきらめるほかないというのだ。山で動物の死骸をあまり見かけない理由もこんな言い伝えが起因しているかも。こんな話もある。昔、その穴神様を異常に信仰していた庄屋のジイ様が村人の婚礼の席で倒れた。婚儀は中断され、医者だ、薬だと大騒ぎになった。先んず、離れに担ぎこんで寝かしつけて一見落着と相成った。ところが翌朝、ふたたび大騒ぎになった。家のものが様子をみにいくと、寝ているはずのジイ様がいなくなっていたのである。村はまたもや大騒ぎになった。その最中、今度は、それどころではないことが起きたのだ。昨日婚礼を挙げた花嫁がにわかに産気づいたのである。妊娠を隠しての挙式だった。騒動と混乱のなかで花嫁は、無事、男の子を産み落とした。それからしばらくして山にキノコ狩りに入った村人が穴神様の近くで、ジイ様の着ていた羽織を拾った。しかし、村人は老い先短いジイ様のことはすっかり忘れて、妊娠を隠していた花嫁の話題にもちきりだった。羽織のことなど、どうでもよいことになっていた。ただ、奇妙な出来事として過去帳に記されたにすぎない。
 ここで思いだした。わたしが夢のなかで東北のある村に行ったのは、この穴神様が、テレビのオカルト番組で「ここで昔こんなことがあったそうです」と、とり上げられたからである。連日、いろんな趣味の会やサークルの見物客が押し寄せた。かく言うわたしも、その見物客の一人、「洞窟研究会」の一人である。あくまでも夢のなかのことではあるが…。長蛇の列、やっと順番がきた。目の前にあるのは、村役場が設置した巨大な賽銭箱。洞窟は、その賽銭箱に隠れるようにして、人が入れるだけの穴がぽっかりあいている。村おこしに建てた貧弱な鳥居。それさえなければ。ムジナかタヌキのねぐらのような穴。たぶんそれが真相だろう。それがわかっているから役場の職員も見物客を近くに寄らせない。マイクで「たたりがありますから」などと呼びかける厳重警戒。それでも見物客は、拝んで賽銭に、銭金を投げ入れて満足顔でかえっていく。
 伝説よりこちらの方が摩訶不思議といえる。――とはいえ夢のなかではあるが、わたしはなんとしても穴を覗きたかった。どうせ、タヌキか狐の糞がころがっているか、蜘蛛の巣だらけとわかっていたが、悲しき性で、ひと目、覗き見しないで帰ることはできなかった。見張りの職員と見物客の衆目のなかどうやって覗こうかと案じたが、生むがやすし、――夕方になると見物客は潮が引くように去ってゆき、役場の観光課も料理屋で宴会。穴神様周辺は、昼間の喧騒がウソのように静まり返った。墨を流したような暗がりに私の行動を阻むものは誰もいなかった。見知らぬ土地での闇夜。普通ならとても歩けたものではないが、そこは穴神様見たさ一念。わたしは月明かりを頼りに夢中で鳥居をくぐり(賽銭箱は、箱ごと運び去られていたのはさすがである。こんな山村でも用心はよい)穴神様の前に立った。はやる気持ちを抑え用意してきた懐中電灯のスイッチを入れた。変哲もないただの穴である。案の定、蜘蛛の巣があり、地面は、小さな黒い虫が大急ぎで逃げて行った。私は腹這いになったまま、しばらくのぞきこんでいた。無用にときが流れた。そろそろひきあげようとおもったが、穴の深さが気になった。
「奥行きはどうなっているんだろう…」わたしは頭を入れた。わりとすんなり入った。かび臭いにおいが鼻をついた。奥はありそうなので、匍匐前進で、進んでみた。落ち葉が、滑りやすくしていて、難なく体一つ入ってしまった。外とはちがった静寂に心落ち着くものがあった。どこか山奥の深い湖底にいる。そんな感じがした。懐中電灯の光の先は、まだ暗い闇だった。「案外、深そうだな」わたしはひとりごちて、匍匐前進をつづけた。穴は、しだいにせまくなっていったが、体は楽々入れた。わたしは嬉しくなった。この穴には何かある。なぜかはしらないが「神と不死」そんな言葉が浮かんだ。もはやいきつくところまで行くしかない。奥を見ずして戻れなかった。
 わたしは夢中で、訓練された兵士のように匍匐前進をつづけていった。穴は、動物の棲みかでも人がつくったものもない。あまりにも自然で心地よかった。まるでわたしの体を包み込むためにつくられたような広さと温かな温度を保って無限につづいているのである。いつのまにわたしは身につけているものを一枚また一枚と失っていた。いまは全裸となっていた。真っ暗な闇。生れたままの姿。だが、わたしは恐ろしくはなかった。反対になつかしさだけが体全体にあふれていた。いったいわたしはどこに向かっているのか。ちらと浮かんだそんな疑問もまたたくまに消えた。記憶が、一つ一つ、まるでコンピューターの回路を切るように消えていくのがわかった。80年の生涯のなかですっかり老いて汚れきったわたしの何億という脳細胞。その一つ一つにとりついた思い出が惜しげもなく消えていく。なんという心地よさだ。くすぐったさだ。いつしかわたしは無となった。
 長い長い時間が過ぎた。いや、それは時間というものではないかも知れない。過去も未来もない、生も死もない世界。そこに浮遊する形而上物。350億年の時を超えて、そのモノは確かな目的をもって前進をつづけてきた。そして、突如、光に晒された。
 穴の出口だ。旅の終わり。一瞬、はるか遠くでそんな意識がよぎった。つぎの瞬間、わたしの耳に聞こえたのは「オギャア―」と泣くわたし自身の鳴き声だった。
 ここで私は目が覚めた。娘が覗きこんでいた。
「ジィちゃん、生きてるの、死んでるかとおもった」めっきり白髪がふえた娘は叱るように言った。「やっぱり一人暮らしはダメね」
 ここまで読んでキン子は悲鳴をあげる。
 「な、なんなの、これがオチ!? ああ、バカバカしい」キンは、原稿をかばんにしまうと「あのジイちゃん、こんなこと考えてるわけ、あーつかれた」
おもいっきり両腕を伸ばして背をそらす。窓外をみると次が最寄駅。
「起きて、次の駅よ」キン子は、信吉の肩をゆする。
「はい、クスリください」
 唐突に信吉は、叫んで飛び起きた。が、一瞬、ここがどこかわからないのかキョトンとした顔で周りをながめた。
「イヤねえ、寝ぼけちゃって」キン子は、大げさに顔をしかめて言った。それから不思議そうに聞いた。「クスリってなあに」
「クスリ ? 」
「そう、いま、いったじゃない」
「わかんないな」
「夢、みてたんですか、クスリでものむ」
キン子は、頓着なく聞いた。
 その問いに信吉は、ほっとしたように言った。
「ああ、そうです。夢、みてたんです。夢を―」
「夢ならいいけど、まさかクスリやってないわよね」
キン子は、怪しむ顔で訊問するように聞いた。
「クスリって薬物のことですか。やってませんよ。そんなもの」
「それならいいけど」キン子は、不審そうにつぶやきながらも、それ以上、質問することなく、話を変えた。「夢っていえば、偶然ね、いままで、あのおジイさんの原稿、読んでたのよ。それが、へんな夢の話。あのおジイさん、ヒヒジイさんよ相当に」キン子は笑いながら言った。「そのヘンな夢の話を、おかたいドジョウの会の雑誌に載せてくれるよう頼むんだから。さすが自分からはいいずらいのね」
「そうですか…」信吉は、話しに乗らず立ちあがった。
 何かへん。ちらっとキン子は腑に落ちない、釈然としないものを感じた。これがドジョウの会に感じる不可解さと思った。電車が止まり、二人は降りた。春の陽光がいくぶん弱まって肌寒い。キン子は。両手をのばした。
さあ、今度はどんな会員かしら。キン子はちょつぴり楽しい気持ちにもなった。
集金戦線異状なし。次号につづく

十、普通で風変わりの人たち

 それにしてもと、キン子は思う。これまで会った会員は少々変わった人たちではあったが、皆、あっさり滞納金を支払った。ケチっぽい昨夜の役員たちをみていたので、もう少しゴネられる、と覚悟していた。ところが、この容易さ。にわかに信じ難かった。ドジョウの会といっただけで不審がりもせず、即、納得して払ってくれる。まるで、教祖様にお布施するように。信吉の妙な自信は、本当かもしれない。ドストエフスキイには、神通力がある。神秘めいたことは考えたくないが、そう思えてきた。こんどの会員は、どんな人だろう。そんな楽しみもわいてきた。
「これからいく人は、だれですか」
「吉沢京子という人です」信吉は名簿を見て言った。「えーと番地は ? 」
「女の人?! 」キン子は、女性の会員と知って興味をもった。「どんな人かしら」
「電話番号、かいてありますよ」
「いるかしら、かけてみるわ」キン子、勇んで電話ボックスにとびこんだ。
 在宅である。「歳わかんないけど、声はすてき」
 さっそく訪ねてみることにする。住まいは駅前のマンション。すぐにわかった。インターホンを押すと、先ほどの元気のよい声が返ってきた。
「あいてるわ、入っていいわよ。どうぞ」
 ふたりは、挨拶して室内に入った。キン子のマンションより手狭だが、事務所っぽい雰囲気で、紙とインクのにおいがした。
 吉沢京子は、ワンルームマンションの自室でせっせとワープロのキーボードをたたいていた。肩までの黒髪、白髪がなければ、40歳代にみえた。大きなぬいぐるみのような白いシャム猫が二匹、部屋のなかをのしのし歩きまわっていた。
「ちらかってるけど、座って」彼女は、姉ご然とした口調で言ってから聞いた。「コーヒー飲むでしょ」
「はい、ごちそうになります」キンは、間髪をいれずに言った。
「そう、若い人、はいったのね」吉沢京子は、初対面とは思えぬ気やすさだ。
 ふたりが小さなソファーに腰をおろすと、彼女は、ガラステーブルの上で珈琲豆を挽きながら続けざまに質問した。「みなさん、かわりないですか ? 」
「はい、いえ、わかりません」キン子は、頷きかけて首を横にふって言った。「会のひとたちって、よく知らないんです」
「あなた学生さん ? 」
「はい、渋川先生のゼミにはいっています」キン子は、言った。「ほんとはわたし会員じゃないんです」
「手伝わされたんでしょ、研究室で。わたしもそうだったわ。でも結局は会員になっちゃったけど」先刻承知といった顔で京子は、微笑む。
「えっ!先輩なんですか!」キン子は、びっくり顔で叫んだ。そのあと、大きく首をふって言った。「ちがうんです。わたしすすめられているけど、絶対に会員にはなりません。だいいち
ドストエフスキイだってぜんぜん興味ないんです。この集金手伝ったのは、ちょっと面白そうに思えたのと、――それと、渋川先生にレポート免除してもらえるから。単位も約束してもらったし、一番は、やっぱり単位だわ」
「あら、ちゃっかりしてるのね」京子はコーヒーを入れながら微笑むと冗談ぽく言った。会員になって手伝ってあげたら。渋川先生、喜ぶんじゃないの。会も助かるし、そうしなさいよ。若い女の子が入れば、皆さん大張りきりよ」
「せっかくですが、まったくその気はありません」キン子は、きっぱり言ってから、言い足した。「それに、入るも何も、この会、きっとつぶれるわ。わるいけど、そう思うの」
「そんなに悪いの、会計状態。私も、滞納しちゃって、偉そうなこといえないけど…」
京子は、二人にコーヒーをだすと、自分のマグカップを手にしてため息をつく。
 キン子は、頷いて言った。
「役員の皆さんの話きいただけなんですが、創刊号だしたのが、原因だってもめてました」
「印刷会社の石部社長さんでしょ。いつも独りで大声だしてたけど、まだそうなんだ」
「編集長の若い人が。半泣きで謝ってました、編集のせいだって」
「ああ、小堀さん、彼ね。私と入れちがいで入ってきた真面目な人。私も、編集手伝ったことあるけど、大変よ、ドストエフスキイの研究論文ってむずかしいから。あの内容で、一般的な収益をあげようなんて無謀よ」
「えっ、やっぱりですか。と、いうと集金は、どうなるんですか。この集金」
「どうにもなりはしないわ。焼け石に水でしょけど」
「わたしたち無駄なことをやってるんですか ! 」
「無駄ってことないけど」京子は、返答に詰まってつぶやいた。「でも、いくらなんでも、あなたたち集金頼むなんて…」
「この集金、ぼくがいいだしたんです。ぼくは地方にいてなにもできないんで、ちょっとでもドストエフスキイ先生のお役に立ちたかったんです」
「ずいぶんな、信者様だ、こと」京子は、クスッと笑う。
「夢井さん、ものすごく真面目な方なんです。わたし、はじめてこんな人みるの。頼まれたんでもないのに、いきなり集金やるなんていいだして」
「ドジョウの会、いろんな人がくるから」京子は、可笑しそうにひとりごちてから、ちらっと深刻そうな表情をうかべて聞いた。「集金の他に、再建のアイデアはなかったの。何か…臨時総会だったんでしょ」
「無理です。役員しか出席してなかったから」
「五人だけ」
「はい、そうです」
「そう、」京子は、大げさにため息ついたあと、なつかしそうに話しはじめた。
「私がいたころは、盛況だったわ、10年、20年前になるかしら。有名な著名人がいっぱいいたわよ。現在も活躍しているみなさんよ。作家、批評家、音楽家、画家さんもいたわ。映画監督や劇団のひとたちもいたわ。名前を聞けば、みんなわかるひとたちよ。ドストエフスキイで育ったといってたわ。多士済々っていうのかしら、ほんとうにいろんな人があつまってたわ。二カ月に一度、公会堂など大きなホールを借りて講演会や研究の発表会なんかやってた。会のあとは、新宿のゴールデン街なんかに繰り出して朝までのみあかしたこともあったわ」
「そんなに盛大だったんですか。うそみたい。いま有名人どころか、研究者だって、いないみたい」
「どうしてですか」信吉は、不思議そうに聞いた。
「えらい人たちは、最初はいいのよ。でも、すぐに自分の考えや主張を通そうとするから」「わかります。わかります」キン子は頷く。
「ぼくには、わかりません」信吉は、いきなり口をはさんだ。「みなさん、ドストエフスキイ先生が好きで集まってきてるんですよね。それなのに自分の考えを押し通うそうとするなんて。ドストエフスキイ先生の理念、ドジョウ主義からはずれてます」
「あなた純粋ね。その気持ち、いつまでももちつづけね」
「でも、なんかへんな気がする。宗教みたいで」キン子は、小首をかしげる。
「仕方ないわ、結局のところ、日本においては、宗教と同じよ。キリスト教と同じ」
「それで名簿に、著名人の名前がすくなかったんだ」キン子は、頷きながら住所録をひろげて確かめようとした。横から「あら、ちょっと見せて」と、京子が、うばいとる。
「お知りあいの方、いらっしゃるんですか」
「ここに、名前があるということは、まだ会員なのね」
「そうだとおもいますが・・・・」
 京子は、真剣な目つきで、名簿をざっととながめていたが、探す人物の名前がなかったのか、名簿を閉じてキン子にかえした。
「どなたです」
「やっぱり、やめたようね」
「どなたです ? 」
「東山秀二よ」
「えっ、東山秀二って、あの脚本家の東山秀二ですか ? 」
「そうよ」
「わーすごい、あんな有名人もいたの。テレビでよくみかけるわ」
「つまらないドラマばっかりだけど、売れっ子のようね」
「それでロシア通なんだ。最近ペレストロイカとか、グラスノなんとかの話ししてたわ。お金持ちなんだから、カンパしてくれないかしら」
「役員の人たち、なにか言ってなかった――」
京子は、コーヒーカップを持ったまま、たずねるように言った。
「東山さんのことですか」
「そう、だけど」
「なにも、みなさんよくご存じなんですか」
「そうね、よく参加していたから」京子は、奥歯にもののはさまったような言い方をしたあと、ちょっと躊躇して言った。「東山は、元カレよ」
「えっ ! お付き合いしてたんですか !」
「そうね、もう数年前になるけど」京子は、さすがに照れくさそうに言った。そのあと本棚から本を取り出してみせてた。黄色や赤の花が咲き乱れる花畑の表紙だ。『ナスターシャの家』とのタイトル。「これが彼との思い出」京子は、唐突に言った。
「えっ ! 本だされたんですか」
「そう、せっかくの恋だからね。べつに嫌いで別れたんじゃないから」
「わー、すごいです。ロマンチックですね」
「よかったら、お二人に」京子は、言って二冊を渡す。
「ありがとうございます」キン子と信吉は、お礼した。
「あなた、だれかいるんでしょ」京子は、からかうようにキン子に言った。
「いないです。そんなもの」
「あらあら、そんなものですって」京子は、信吉を見て可笑しそうに笑った。
「違いますよ。ぼくは」信吉は、あわてて大きく首を振った。
「これ、全部がノンフィクションですか」
「ホントのところもあるけど、創作よ。ずいぶんモデル探しされたけどね」
「でも、お二人の恋愛を元にしたんですよね。感激です」キン子は、東山秀二の名前にすっかり舞い上がった様子。恋愛談議をはじめそうになった。
 信吉は、心配になり、立ちあがると、別れを告げた。
「まだ、これからですから」
「待って、そうよね」キン子は、残念そうにあとにつづく。
「お二人さん、がんばってよ、会つづいていたら、ほんとに出席するから」
「会員の人に会うのが楽しくなってきたわ。いまは、変なおじさんばかりだけれど、むかしは、格好いい人もいたのね。会員同士の恋愛か。信じられないけど、あったんだわ」
キン子は、吉沢京子に本をもらって、エネルギーを得たようだ。
「次の人、住所しか書いてないけど、番地、この近くのようだから、行っちゃいましょうよ」
 二人は、地図を頼りにどんどん進んでいった。

 菅谷賢治という会員が、次の人だった。商店街を抜けて畑がひろがりだしたところに、彼の家はあった。大きな農家のつくりだった。立派な盆栽がある広い庭。旧家のようだ。
 インターホンを押すと、小柄な老婆がでてきた。要件をつげると
「はあ、賢治ちゃんは、そんな会に入っていたんですか」
と、平身低頭するばかり。
「集金にうかがったんです」 
じ》 ドストエフスキイを愛する人たちの会「ドジョウの会」は、創刊号の失敗から風前の灯だった。再建を担ったのは、地方青年とちゃつかり娘の女子大生。珍奇なコンビの集金行脚。心配されたが、案ずるより生むがやすし。集金は順調。三人目の会員、翻訳業の吉沢京子からも滞納会費ゲット。キン子、会員に興味。こんどはどんな会員が。

十一、問題多き人

 菅谷賢治という会員が、次の人だった。商店街を抜けて畑がひろがりだしたところに、彼の家はあった。大きな農家のつくりだった。立派な盆栽がある広い庭。旧家のようだ。
 インターホンを押すと、小柄な老婆がでてきた。要件をつげると
「はあ、賢治ちゃんは、そんな会に入っていたんですか」
と、にこにこ顔で平身低頭するばかりである。息子に訪ねてくる知り合いがいたと云う事にいたく感激しているようだ。
「あのう、今日は、集金にうかがったんですが」
キン子は、シビレを切らして要件を言った。
「ああ、そう、そうでしたか」彼女は、いま気がついたといわんばかりにつぶやいて、誰かをさがすように後ろをゆっくりふりかえった。家の中は森閑としている。
「姉と妹は、学校に行っております」老婆は、唐突に言った。
「がっこう ? ですか」
「ええ、姉は中学で、妹は、小学校で教師をしています」
「あのう、菅谷賢治さんは、いらっしゃるんでしょうか」
「賢治ちゃん、いえ賢治は、まだ大学院に籍があります。父親は、高校で数学を教えておりましたが、賢治が高校生のとき亡くなりました。賢治ちゃんは、賢治は、それがショックで閉じこもりになっていまは、留年しております」
キン子は、じれったくなった。集金は、期待できそうになく思えたが、在宅の有無だけはと、食い下がった。。
「在宅でしょうか? 」
「はあ、駅前に行ってます」
「駅前 ? 」意外な返事に、聞きなおした。「駅前ですか」
「パチンコ店です。駅前のパチンコ店に行っているんです」
「パチンコをしているんですね」
「はい、そうですが」彼女は、戸惑い気味に言った。「あの子は、大きな賭け事はしませんが」
老婆は、そういってかばう。
 キン子と信吉は、長居は無用と駅前に向かった。軍艦マーチが鳴り響くパチンコ店は、混んでいた。通りは、それほどの人通りでないのに、店内は満席状態。ここが娯楽施設の不思議な所以。キン子は、景品交換で呼び出してもらった。奥の方から、のっそりでてきたのは、背の低い太った丸顔の青年だった。かなり度の強い丸眼鏡をしている。
「ああ、ドジョウの会の人ですか。活動してるんですか」口は達者なようだ。
「ぼくが賭けごとをやるのは、れっきとした研究なんです」菅谷は、隣の休憩室に入って丸いガラスのテーブルに座ると、とたんスイッチをいれたように話し始めた。
「ぼくは「『賭博者』から入ったんですよ。あの作品は、賭け毎の極致です。世の中には、運が悪いだの運がよいだのとかあるでしょう。女神がほほえむとかもいいますね。ぼくが想うにドストエフスキイセンセイが、あれを書いたのは、賭け事の真髄を解明しようとしたのだ。
 そもそもツキとは、いったいなんぞや。偶然か、仕組まれたものか。ドストセンセイが、あんなに賭け事にはまったのは、たんなるギャンブル好きではなく、いわゆる“ツキ”の正体をあばこうと考えたんですよ。無謀極まりない挑戦。宇宙の謎を解くより難しい」
 二人ともあぜんとして聞き入るばかりだ。
「ぼくが考える“ツキ”というやつは、四次元に存在してるんだ。ぼくらが、いま現在、こうして存在していること自体、ツキであること以外のなにものでもない。そうでしょ、先祖が戦争や多くの災難から逃れてきた結果、我々がいまここに存在するのだ。もっと昔、恐竜時代にさかのぼっても、祖先は、その頃、ちいちゃな哺乳類だったんだろうが、よく踏みつぶされずに、生き延びたと感心するね。もっとも原始時代だって、今のぼくにつながる生命体は海の中に浮遊していたはずだ。それが何者の餌食にもならず、今日まで継続してこれたというのは、まさに「ツキ」以外のなにものでないね。そうでしょう。この地球だって、ツキの産物さ。考えてみたまえ、あと少しほんの僅か一センチか二センチかもしれないが、太陽に近かったら、人類は存在できなかったんだ。我々人類が、いまこうしているのは、まさにツキなんだ。この宇宙だって、そうさ。ツキがあったればこそ、森羅万象、我々が存在できる。この宇宙があるのだ。ビックバンの爆発だってツキだね。ここにこんな銀河系をつくろうと思ったわけじゃあない。爆発で、飛び散ったものが、偶然、寄せ集まって、このエリアができたんだ。つまりこの宇宙もツキに左右された結果の産物なんだ。ということはビックバン以前に、ツキという形而上のものが存在したことになる。つまり、はじめに闇ありきではなくツキありきなのだ。それがぼくの生涯の研究テーマなんだ」
「なにいってるか、わかんないわ。むずかしい研究なら、どうして大学に行ってやらないのですか。どうしてパチンコ店にいるのですか」
キン子は、たまらず菅谷の演説を遮ってきいた。
「おおいに関係あるんですよ」菅谷は、我が意を得たりといったしたり顔で、ふたたび話し始めた。「そのツキが3百数億年の時を経てパチンコ玉に宿っている。球が球として存在できるにはそこを証明したいのだ。ぼくの考えじゃ多分、同じものだと思うよ。そのツキがこの宇宙に存在する、ありとあらゆる万物にビックバン以前から営々と脈々とついて回っているとつづいている。ツキについては、あのアインシュタイン大先生も、ずいぶん悩んだらしいが――サイコロの目が統計学的法則で解決つけば、科学者はみんな大金持ちさ。賭博場から締め出される。世界中のカジノはお手上げさ。ラスベガスも存在できない。面白い」
菅谷は、そう言って高笑いした。そして、またつづけた。「もしもだよ、もしこの世の偶然がすべて必然でながれているとしたら。科学でツキが解明できれば」
「もう、いいです」
キン子は、ついにヒステリックに叫んだ。これ以上、わけのわからない話をきいても時間の無駄というもの。あきらめることにした。
「あのう、滞納金、払ってもらえるのでしょうか」信吉は、最後のねばりをみせる。
「だからね、今日のきみらには運というかツキがなかったのさ。ぼくの今日のパチンコかツキに見放されたように。ぼくは、払う気持ちはあるんだ。こうしてきみたちがきてくれたんだから。しかし、ない袖は振れぬ。これも現実、残念ながら」
「おうちでお借りすれば」キン子は皮肉っぽく言った。「お母様、心配してましたよ」
「お母さま?バアさまきいたら腰を抜かすよ。それってお姫様ことばですね」
「パチンコなんか親不幸よ」
「関係ないね。しかし、きみらみたいな若い人がるなら、これから出席してもいいかな」
「おあいにくさま。わたし会員じゃありません」
「会員じゃない?!」
「そう、お手伝いしているだけ。渋川先生のゼミにいるから」
「ああ、そう。しかし、ロハということはないですよね。ロハということは」
「そんなことどっちだったいいじゃないですか」信吉は、声を荒げて言った。「ぼくは、れっきとした会員です。彼女は、好意からやってくれているんです。あなたもドストエフスキー先生が好きでドジョウの会にはいったんでしょ。御協力ください。会、あぶないんです」
「なんだ、こんどは浪花節かい。本当にいまは金がないんだ。先駆者は、常にきびしいものさ。まあ、ツキの正体を捕えたときは、いくらでも払いますよ。それまで待ってほしいです。なにせ、我らがドストエフスキー大先生にだって成しえなかった大発見をやろうとしているんだ。本来なら、会の方から援助願いたいものだが」
「ドストエフスキー先生は、ギャンブルはやめることで解決したんです」
「いいです、いいです、やめましょう。夢井さん。話すだけむだ。もう行きましょう。二人は歩きだした。
「お疲れさん」菅谷は、店の前に立って手をふっている。キン子は、しゃくにさわって途中、振り返った。菅谷が、太ったからだをボールのようにまるめてパチンコ店に飛び込んでいくところだった。
「ずいぶんな会員もいるのね」
キン子は、口をとがらせて言った。が、そう腹は立たなかった、
 これまで会員は、真面目な人ばかりだったので、あんな無責任の会員もいるのかとおもうと、可笑しくもあり、ほっとするところもあった。
「ドストエフスキーのせいかもしれないわね」
「すみません」信吉は、何度もわびた。
「いいわよ」キン子は愉快な気持ちだった。役員のひとたちは退屈だったが、巷の会員は三者三様、面白かった。次の会員は女性、どんな人か楽しみだった。
 駅前に、ツキ研究家の母親が待っていた。白い封筒をだし「足りるか、どうかはわかりませんが」とさしだした。5万円、入っていた。恐るべきはドジョウの会。キン子、ドストエフスキーのすごさがわかりはじめてきた。  (つづく)

十二、駅裏奇譚

 「あら、やだ、ここってなあに?!」
 キン子が驚いてたちすくんだのも無理はない。電話で友人という若い女性が「ユキちゃんなら店にでてるから、お店にいったら」というので、ちょうど近くだったし、教えてもらった駅裏通りにきてみたのだ。
「バラの香り」という店名から、てっきりレストランかカフェ―のような店を想像していた。それが、なんとひと目でそれとわかる風俗店、ソープランドなのである。昼間から赤やピンクの怪しげなネオンがチカチカと点滅。さすがのキン子もヌードの大看板の前でびっくり。
「どうしましょう、こんなお店だとは思わなかったわ」キン子は、苦笑する。
 それとは反対に信吉は、感激した口ぶり。リーザにでも会えると思っているのか、「ここがそうですか」と興味ぶかげだ。
 キン子が何もいわないので、説明する。
「ソープランドって、むかしのトルコですよ。つい最近までトルコと呼んでました。それがトルコ大使館の大使がタクシーにのって、トルコ大使館まで、と告げたら風俗店のトルコに連れて来られた。それで日本政府に抗議して、変わったんです。面白ニュースだったので覚えています」
「知らないわ、そんな話、入ったことあるの」
「な、ないですよ。ただ、どんな女のひとがいるのかと…」
「やっぱり興味あるんじゃない。でも、入りずらいわね」
「やめます、ここ?」
「でも、電話で話した友だち、連絡してくれるといったから、待ってるかも…」
「とにかく、せっかく来たんだから、声はかけていきましょう」信吉は、こだわりなく言った。
 彼は躊躇なく、造花で飾りたてたキンキラキンのドアに突進した。キン子は、逡巡しながらも、持ち前の好奇心であとにつづいた。男性だけが入る風俗店、どんなところかいちどは覗いてみたかった。それに風俗店で働く女性会員も、どんな人か、興味あった。
 しかし、いくら考えてもドジョウの会と風俗店は結び付かない。店内に入るとき心のなかは、恥ずかしさで真っ赤になった。大学では、突っぱっているが、キン子とて、心根は、純情可憐の乙女なのである。
「いらっーしゃい」の声より早く黒服のボーイがすっ飛んできて機械じかけの人形のようにつくり笑顔でお辞儀しかけた。が、信吉の後ろのキン子をみると、真面目顔になって紋切口調で言った。
「応募の方ですね」
 外のピンクの建て看板に、でかでかと〈スタッフ求む 高収入〉なる文字が躍っていた。
「お、う、ぼ――?」信吉は、きょとんとして立ち止った。
「お連れ様ですね」黒服は、品定めするようにキン子をながめて言った。
「彼女ですか。一緒ですが…」信吉は戸惑い気味に頷いた。
「いいんです、いいんです。ご一緒にこられた方が、私どもも安心できますし、承知してくださっていた方がいいのです。ただ、これだけはしっかりと、未成年者ではありませんね」
「未成年…『未成年』のことですか」信吉は、戸惑いながら答えた。「カラマの前ですが…」
「カラマ?未成年は、お断りしますよ。お縄になりますから」
黒服は、姿勢をただして言った。
「お縄…?」
双方、話がくいちがっているようだ。キン子は、じれったくなって口をはさんだ。
「あのう、なにか誤解されていません?」
「ごかい?」黒服ボーイは、苛立ち気味につぶやく。
「わたしたち、杉浦幸江さんという人に会いにきたんです」
「杉浦?」ボーイは、ちょっと考えて言った。「ああ、さゆりちゃんのことね。はい、はい。だれか尋ねてくるといってたけど、おたくさんたちのこと。ドジョウのなんとかさんというから、常連さんかと」
「そうです、そうなんです、ドジョウの会です」
「さゆりさんご指名」黒服は、大声で奥に向かってさけぶ。そのあと、ボーイ君は、信吉に向かって万面の笑みをみせると言った。「どうです。面接していきませんか。スタッフいま募集中なんです。さゆりちゃんのお友達なんでしょ」
「スタッフ?」
「はやい話がソープ嬢なんですが、いい収入になりますよ。一週間で百万稼ぐ子もいます。どうてす、彼女だったら面もスタイルも、抜群じゃないですか。彼氏、くどいてくださいよ」
「ち、ちがいます。ぼくはそんなんじゃ、ありません。用事すませたらかえりますから」
「ハーイ」奥から元気のよい声がして髪の長い、キン子と同年輩の娘がでてきた。短パンにはっぴのようなものをきている。
「こちらさまが、ご指名よ」
「杉浦さんですか」
「ええ」彼女は困惑げに二人をみた。
「自宅に電話したら、お友達というひとが、こちらにいるからと」
「ああ、ケイちゃんから電話あった会の人」彼女はふっきれたように大きく頷いて言った。
「年配の人がくるのかとおもってた」
 彼女も若い男女とは、思わなかったようだ。
「店長、ちょっとお隣りに」
 二人は、彼女に案内されて隣の純喫茶に入った。
「実家の借金返すには、この商売しかないのよ」彼女は、ソファーに腰をおろすと、タバコの煙を吐き出しながら言った。父親が作った借金だというが、屈託がない。ドストエフスキーという作家の本を愛読している。そのことが、こんなにも強い気持ちにさせるのか。
 読んでないキン子には、わからなかった。親のためとはいえ、自分の身を犠牲にして、風俗店ではたらく。そのことが理解できなかった。自分には、できないと思った。きっと強がっているのだ。だれだって、風俗で働きたくはない。無理して明るくふるまっているのかも。そう思うと急に彼女がかわいそうになってきた。
「ねえ、そんな事情だったら、いいんじゃない」キン子は信吉に耳打ちした。
「そうですね…」信吉も、そう思ったようだ。軽く頷くと、「じゃあ」と立ちあがる。
「ちょっと待って、なによ。どういうこと」
「あの、大丈夫ですから」
「払ってくれない人もいるし、余分に払ってくれる人もいるし、ようするになにがなんでもってわけじゃないから」
「事情を汲んでやってるってわけ。そういうことしてほしくないんだけど」彼女は、気色ばんだ。
「ごめんなさい、わたしたちそんなつもりじゃ」キン子はあわてて謝った。
「でも、そうなんです。ぼくたち全員をまわっているわけじゃないし。都内のいける会員だけ、電話わかってる人だけなんです。それに借金とりじゃないですし」
「借金とりでいいのよ。お金に関しては、甘いこといってたらだれも払ってくれないわよ。人間には、いろんな人がいるわ、お金があるのに払わない人、ないのに払いたい人。ドストエフスキー読んでるとわかるでしょ、そういう人間がいることを。わたしが借金のために働いていると知ってあきらめるなんて、わたしはそれを喜ぶような人間じゃないわ」
 杉浦幸江は、古参の会員ぶりをみせたあと、「わたしは払いたいの、払いたい側の人間よ」
そう言ったあとぺっと頭をさげて「ごめんなさい、偉そうなこと言って。ドジョウの会には参加しないけど、ドジョウの会が私の人生の支えなのよ。だから、無くさないように頑張って。ドジョウの会に籍があるということが、わたしの生きる自信と勇気になっているの。会の方には、もう長いこと出席してなくて悪いけど、あそこはわたしの故郷のような場所。いつか、また出席できるようになったら、ドストエフスキーのはなしができるようになれたら、きっといくわ、行って話すの、ソーニャやリーザについて。それがわたしの毎日の夢なの。そう思って生きてるのよ」
 たそがれ近い街はにぎわっていた。店舗が並ぶ歩道に買い物客があふれ、長竿の旗が何本も夕風になびく駅前広場は、選挙演説する政治家のがなり声と運動員の連呼の叫びが騒々しくビルの谷間にこだましていた。駅周辺は、喧騒のるつぼと化していた。
 信号が変わるたびに四方から津波のごとくどっと押し寄せてはひいていく人波。そんな雑踏の中を二人は、さっきからだまって歩いていた。信吉は、どうかしらないけれど、キン子は、杉浦幸江の言葉が、いつまでも耳に残って離れなかった。何か打ちのめされた気持ちがしてショックだった。
 ドストエフスキーの作品って、そんなにすばらしいのか。それを知らない自分が悔しくて残念だった。そして、また、それほどまでに思いをよせている彼女が羨ましくもあった。
「ドジョウの会の実態、知ったらがっかりするでしょうね」キン子は、ため息混じりにぽつんと言った。
「頑張るしかありませんね。頑張って、ドジョウの会を存続させるんです。ああした人たちの為にも」信吉は、珍しく、力づよくなんども頷いた。
「そうね、わたし手伝ったこと、ちょっぴり後悔してたけど、彼女の言葉でふっきれたわ。ドジョウの会の会員って、どこかへんだけど、みんな素晴らしい人たちばかり。この集金、けっして無駄ではなかった。会の人たちのためにがんばらなくちゃあ」そう言ってからキン子は小首をすくめて苦笑する。
「へんね、わたし会員でもないのに、ドストエフスキーの本だって一頁も読んだことがないのに。こんなこと思うなんて」
「キン子さん、あなた、もう立派な会員ですよ。ドストエフスキーを読まなくたって、もう立派なドストエフスキー読者ですよ。ドストエフスキーをしっかり理解しています」
「悪い冗談いわないで」
「冗談なもんですか、キン子さんをそんな気持ちにさせたこと、それこそが、まさにドストエフスキーなのです。世界人類への愛、ドストエフスキー大先生が目指す理念を、一冊の作品も読まないのにわかってしまうんですから、キン子さんはすごい人です」
「ハイ、ハイ、そこまで言われてはもう反対しません。世界人類への愛だなんて、よく恥ずかしくもなくそんな言葉がでるわね。役員で小堀さんっていう人、そんなこといってたんでおかしな人と思っていたけど、夢井さんは、その上をいくんだから、もう完全に病気だわ、ドジョウの会の人たち」キン子わらいころげる。
 信吉は、笑われたのが面白くなかったのか、そっぽを向いた。それが、またおかしいのかキン子は、ふたたび大笑いしながら詫びた。
「ごめんなさい、ごめんなさい。ドジョウの会の人ってドストエフスキーの話になると、みんな夢中になるので、おかしくて。だって渋川先生も、丸山さんも無理に苦虫つぶしている顔してるけど、ドストエフスキーのはなしになると、我を忘れてしまうんだから。なんいていうか宗教みたい、ドストエフスキー教という」
「教祖はいません」
「でも会員の人はみんな信者みたい」
「違います。宗教は愛と憎しみが表裏一体ですが、ドストエフスキーの文学に憎しみはありません。宇宙のように広いのです。キリスト教もイスラム教も仏教も、みんな包み込むことができるんです」
「あらあら、そうですか。もうすぐ夢中になるのだから」キン子はふたたびくっくと笑いだして、慌てて口をふさぐと真顔になって聞いた。
「でも、ドストエフスキーの何が、どこが、そんなに夢中にさせるの?ただ小説を書いた人でしょ。トルストイやゲーテの方が有名じゃない。ヘミングウェイやサガンだって知ってるけど、どこが違うの、世界の大文豪たちと」
「違いですか?」と信吉は聞いた。
「ちょっとまって、今は、それよりおなかがペコペコなの」
キン子はいきなり言って、交差点前にあったハンバーガー店に入って行った。信吉も黙って後につづく。彼も空腹だった。   

十三、 私は、なぜドストエフスキーを読むのか

 空腹の二人は、ハンバーガー店に入った。
「ねえ、どうしてドストエフスキー読むんですか」キン子はハンバーガーを一口二口頬ばると、アイスコーヒーをぐいと飲んでから思い出したように聞いた。
「どうしてって、ただ面白かったからですよ」
信吉は、砂糖を入れたホットコーヒーをかきまぜながら言った。
「ただ、おもしろかった?それだけ?」
キン子は、大きな目をぱちくりして不思議そうに信吉を見た。
「ええ、それだけですよ」言って信吉はつづけた。「それで十分でしょ。本当に心の底まで面白いと思える物語。それがドストエフスキーにあるんです」
「アラ、ずいぶん明快と云うか、単純なのね」
「だって他に何があります?!いくら善いことが書いてあっても面白くなかったら、読みたくないです。読むにあたいしません。でも、ドストエフスキー先生の本はちがいます。ぼくがこれまで読んだ、どの小説より面白かったんです!」
「信じられないわ!」キン子は、薄紅色の口紅を塗りたくった口をあんぐり開けて叫ぶ。「どこが!わたし、これまでなんとか読もうとしたわ。でも、いつも最初の数ページで挫折よ。読めなくなってしまう。これって、私に読解力がないせいなの?」
「どの作品を読もうとしたのですか」
「カラ、カラ兄弟、とか、なんていうのかしら」
「カラマーゾフの兄弟ですね」
「ああ、そうそう、たしか、そんな名前の本だったわ、ものすごく厚いのよ」
「世界文学最高峰の小説です」
「うそ!?あの本が?信じられない」
「でも、はじめて読む人にはハードルが高いかも知れません」
「そうよ、そう、わたしには、退屈なだけに思えた。名前も長いし」
「最初です。最初を我慢すれば、きっと夢中になるはずです。たとえば『貧しき人々』知ってますか」
「知らない」
「処女作なんです。先生の、出世作です」
「あら、そう。でも、その先生、と、呼ぶのはやめてくれない。むかしの人をそんな呼び方したら、こんがらって疲れるわ」
「でも、ぼくの先生ですから」
信吉は、頑なに言い張った。
「あら、そう」キン子は、失笑して簡単に引き下がった。バカバカしいことで言い合いはしたくなかった。彼女は、話を戻そうと、からかい半分に聞いた。
「で、その小説がどうしたの。はじめて書いたという小説」
「世界中にある小説のなかで、一番に面白い小説なんです」
「世界中で一番?!」キン子は、またしても素っ頓狂な声をあげて言った。「貧しき…なんていうの。そんな題名きいたことないわ。世界の10大小説にあげられているの?。読んでないけど題名くらいは知ってるけど。受験勉強で暗記したから」
「初老の下っ端役人と、遠い親戚の若い娘の手紙のやりとりだけです。それなのにどんな冒険小説より、どんな推理小説より面白いんです。世界ひろしといえど、10ページ読んだらやめられなくなる本は、そうざらにないです。あったとしても、それは文学的価値からではなく売上とか、世俗的好奇心からです。つまり、明日になれば消えてしまう、わすれられてしまう、ゴシップ記事の類いです。ところが『貧しき人々』は違います。永遠の名作です。どんな文学嫌いの人でも、この作品の朗読を聞けば、もう途中で席を立つことなんかできないんです。素晴らしい映画を観たあと、しばらく席を立てませんよね。あれと、いや、あれ以上の感動があるんです。この小説を、世界ではじめて読んだ二人の友人は、あまりの感動に、外に飛び出していったんです。私も、同じ気持ちになりました。それで土壌の会に入ったんです」
「ホント?」彼女は、キョトンとした顔で、困ったように苦笑した。
「キン子さん、ドストエフスキーがある事件で銃殺刑になりそうになった事件、知ってますよね」
「知ってます。わたしこれでも文学部ですからね。茶番だったんでしょ。皇帝の」キン子は憮然として答えた。
「茶番、一般的には、そういわれていますが…」信吉は、奥歯にもののはさまったような言い方をした。
「違うの?」
「ええ、茶番なんかじゃないです。死刑実行は確実だったんです、茶番だなんて皇帝がそんな面倒なことするもんですか」
「じゃあ、なによ、実際にストップかけたんでしょ、直前に」
「皇帝は直前まで、迷っていたと思うんです」
「どうして」
「被告たちのなかに『貧しき人々』の作者がいたからですよ。皇帝は、囚人のなかに有名な作家いることは知っていたはずです。どんな小説か興味あったでしょう。前の晩、側近に朗読させた。ぼくは、そう信じているんです」
「それで感動して、やめる気になった。ふーん、そこまで想像してるんならご立派。わたしなんかの出る幕はないわ」
 荒唐無稽な話に、キン子は、ひたすらポテトを口に運ぶしかなかった。
「あの小説は、皇帝の心もうごかしたんです。だから、キン子さん、あなたもぜひ読んでみてください。そしたらわかります。ドストエフスキーがどんなにすばらしい作家だということが、だから、なんども言ってますが、最初の10ページなんです。そこさえ我慢して通過すれば、作品世界にどんどん入っていけるのです」
「はいはい、こんど退屈しのぎに、読んでみます」
キン子は、笑って頷いた。
「二人の友だちは、その作品をロシア随一の評論家のところにもっていったんです」
 信吉は、まだその小説について話しそうだったが、キン子は、眠くなってきた。それを見て、信吉は、突然、集金のことを思いだした。
「夕方まで、まだいけます。とんだ道草でした」二人は店をでた。
 徒歩で板橋のアパートの中年男性。問題なく集金できた。次の会員をすませた頃は、もうすっかり夜のとばりがおりていた。キン子はこのへんで、打ち切りたかったが、信吉があと一人と粘るので、とうとうこの時間になってしまった。もっとも、夜の方が会員が家にいて集金率はよかった。「もう8時近くよ」キン子は、ついに悲鳴をあげた。
「じゃあ、あと一人で最後にしましょう。ここから近そうだから」信吉は、言って地図を示す。ドジョウの会のために一人でも多く回ろうと云う気真面目さだ。
 キン子は、今夜は世田谷の実家に帰ることになっていた。いい加減、止めにしたかったが、信吉が憑かれたようにあと一人というので集金することにした。

十四、 外見とは違う元会員

 電話すると在宅である。二人は、さっそく向かった。駅からそう遠くない。会員名は、熊田淳之介。
「どこかで聞いたことがある名前だわ」キン子、首をかしげる。
 駅商店街を抜けた閑静な住宅街の一角にその家はあった。瀟洒な西洋館づくりの立派な家である。熊田と書かれた立派な門札横のブザーをおすと、中年の女性がでてきた。電話で「ドジョウの会」と名乗っていたので、何もたずねられることもなく応接間に案内された。
 広い応接間の壁は、すべて本棚になっていた。書籍がぎっしり詰め込まれている。
「あっ、わかった!」
キン子は、小さく叫んだ、「熊田って、評論家のひとじゃない」
「評論家ですか」
信吉は、まったく知らないようだ。
「よくテレビにでてくる人じゃない」
「そうですか」
「大丈夫かしら」キン子は有名人の家に来たことに、すっかり舞いあがった。急に心配になった。「払ってくれるかしら」
「お金持ちそうじゃないですか」
「やあやあ、お待たせ」
 いきなりドアがあいて恰幅の良い初老の男性が入ってきた。渋い茶の着物を着ている。「締切原稿があったものでね」そう言ってカッカと笑った。
熊田は、意味もなく豪傑笑いすると、ソファーにどっかと腰を下ろした。丸眼鏡の奥から二人をかわるがわる見て「ドジョウの会も、ずいぶん若返ったもんだね」と言った。「もう20年はいってないが、よく籍があったね」
「5年前に、ご返事いただいた方は、まだ会員の資格があるんです」
「ご返事ってねえ、ただ近況を知らせてくれっていうから、返事だしただけなんだけどね。ドジョウの会は、もう、とっくに卒業しているよ、たしか、丸山君だっけ事務局は――」
「はい。渋川先生は顧問です」
「渋川教授、まだいるの。物好きだね。若い君らに文句言うつもりはないが、ぼくとしては、もう10年前にやめたつもりでいるんだ。そこんとこ伝えてもらいたくて、君らと会うことにしたんだ。ちょうど電話してきたんでね」何やら外見と違って不平分子のようだ。 
「5年前にご返事いただいた方は、まだ会員の資格があるそうです」キン子は言った。
「ご返事ねえ、ただ近況を知らせてくれって言うからぼくは返事しただけなんだ」
 なにやら雲行きが悪くなった。評論家熊田先生は、弁舌、滑らかにゴネはじめる。滞納金は払いたくないようだ。ドストエフスキーで有名になったのに、名が知れたら用はないらしい。
「困るなあ、会員として名前を使われちゃあ。いや、なに、若い君らに文句いうつもりはないが、おれとしてはだね、ドジョウの会、もう10年も前にやめているんだ。それを、会運営の皆さんに、伝えてもらいたくてOKしたんだ,面会を。せっかく来てくれるというんでね。なんせ週刊誌3本、文芸雑誌2本、旅行雑誌1本と本業以外に原稿たのまれちゃっているから、忙しくてしょうがねえんだ」
 熊田は、ここでカカと笑ってつばきを呑むと、再び文句タラタラをはじめた。「いいかい、ぼくんとこには、毎日10冊は新刊本が送られてくるんだ。どの出版社も、おれに書評書いて欲しくて仕方ない。なかには、よく書いてもらおうと札束をはさんでくる出版社もいる。とにかく忙しいんだ。そんなわけでむかしのことにかかわってる暇はないよ。脱会すると伝えてくれ。口頭でいいんだろ。そんな形式ばった会じゃないから」熊田は、言い終わってから、ふと思いだしたように聞いた。
「ところで、何んの用事だい。おればかりしゃべっちまったが、まさか原稿の依頼じゃないだろうな。そうだったら、お断りだね。そんな暇はないしね」
「いえ、いいんです。まだ、先生が会員だと思ってきたものですから」キン子は、しどろもどろになって言った。集金は、あきらめた。
「なんだい、会員だと思って、というのは。と、いうと会員のところは、みんな回っているのかい」
「ええ、全員じゃないですけど」
「何のために」熊田は、不思議そうにみた。
「それは――」キン子は、言いかけた。
 そのとき、信吉がいきなり言った。「キン子さん、それは会のことだから、話しても、仕方ないんじゃあないですか。帰りましょう」信吉は踵を返した。
「なんだい君は、失礼じゃないか、いきなりきて、理由もいわず帰るなんて」熊田は、眼鏡の奥の目をギョロつかせた。喧嘩腰だ。
「だから会員と間違えましたと彼女が言ったじゃないですか」
「それは、わかった。しかし、答えたまえ。ぼくはドジョウの会発足者の一人だ。会の動向を知る権利はある」熊田は、なんとしても聞きたいようだ。
「会費滞納者を訪ねているんです」キン子は、小声で答えた。
「何、たいのうしゃ・・・会費のかい」熊田は、訝しげにつぶやいたあと、一瞬なにごとか巡らせていたが、はたと全てを見通したようだ。急に大声で言った。「すると、あんたたち会費滞納金を集金してまわっているのか」
「ええ、そうです」キン子は観念しては白状した。
「そういうことか――」
 熊田は、ため息をついて、ニヤついて二人をかわるがわるながめていたが、突然、ヒヒヒと下品な声で笑いだした。しまいには手足をバタバタさせて笑い転げた。信吉とキン子は、あっけにとられてながめるばかりだった。
「やっていけなくなったんだな、とうとう、やっぱりな――」さんざん笑ったあと、熊田は息を切らせて言った。「だいたい、おれは、あのやり方に反対だったんだ。渋川が知らん間に丸山君らを抱き込んで、会を乗っ取ったんだ」
「熊田さん」突然、信吉は怒鳴った。「ぼくは新人ですから、過去になにがあったか知りませんけど、会の人のことをそんなふうに言うなんてひどいじゃないですか。ぼくの目には、みなさん本当にドジョウの会をなんとか残そうと頑張っているように見えました。ぼくだって、会をなくしたくないから、こうしてお手伝いしているんです」
「集金なんか役員がやればいいじゃないか。自分の足で。それをきみらみたいの若いのに、しかも新人なんかに押しつけて。ますます独裁体制を固めるんじゃないのか。集金なんて仕事は、役員がやるべきだ。それに、会なんてものは、潰れるときにつぶれるんだ。ソ連邦しかり、東ドイツしかりだ。きみたちも時代の波にさからっちゃあいかんよ。
「では、あなたはドジョウの会がなくなってもいいんですか」
「もちろんだ。へん、なんだ、あんな会。所詮、吹けば飛ぶようなもんだったんだ」
「飛ぶようなものですって!」いくなり信吉は、食ってかかった。「あなたは、あなたは、元の役員だかなんだか知りませんが、本当にドストエフスキイ先生を愛したことがあるんですか。いや、あなたなんかにドストエフスキイはわかりっこない」
 つかみかからん勢いで、言い迫る信吉の目には涙さえ浮かんでいた。これには、さすがの熊田もたじたじとなった。キン子もびっくりして見守った。信吉は、言い続けた。
「これまで回ってきた会員のみなさんは、ドジョウの会が解散にならないことを願っていました。たとえ集金に協力的ではなくても、あなたみたいに情けないことを言う人は誰もいませんでした。みなさん本当に心の底からドジョウの会を残そうとしていました。あなたが、どんなに偉い評論家だか知りませんが、あなたなんかにドストエフスキイのことがわかってたまるもんでか。キン子さん行きましょう。こんな人にドストエフスキイ先生の話をいくらしたって無駄ですから」
 キン子は、思わぬ展開に仰天したまま困惑していた。なんせ『ドストエフスキイの暮らし』を書いて、一躍ときの人になった熊田淳之介にである。言いたい放題言ってしまったのだ。さすがの熊田大先生もカチンときたようだ。
「おい、待て、そうまで言われたんでは、このままじゃあ返さんぞ」熊田は、真っ赤な顔で立ちふさがった。「そこまで言われちゃあ、引き下がれん。なにドストエフスキイがわからんだと。おれの青春はドストエフスキイなくしてはありえんかった。おまえらみたいな若造にドストエフスキイの何がわかる。」
「行きましょう、キン子さん」信吉は、聞く耳もたんとばかりに帰ろうとする。
この騒動、さてさてどうなりますか・・・  つづく

(通信184まで)