純粋な読者


新谷敬三郎著『白痴』を読む(白水社 1979)
第一章:純粋な読者  
より抜粋


それにしてもテキストとは一体何だろう。当然こういう疑問が浮かんでくる。私たちは一つの作品のさまざまなテキストABCDEを読み、そのうちいずれか一つを最終的、決定的なものとして択ぶ。もっともどうしても択ばなくてはならないということもないけれども、しかしそれはどうでもいい問題だともいえない。そこで、択ぶとして、当然そこには何らかの基準がなければならない。その基準はおそらく、読者によって、さまざまであろうけれども、ただ一つ言いうることは、そのとき読者の頭脳にその作品に対してありうべきテキストFが予想されているだろうということだ。この予想がなければ、私たちはテキストを択ぶ、つまり判断することが、おそらくできないであろう。実をいうと、私たちはある作品のテキストABCDEそのものを読むというよりは、ありうべきテキストFを読んでいるのである。それが読むということなのである。(P.8-9)

文学作品を私たちは、その表現の文脈それ自体において読んでいるのではない。これもまた至極当たりまえのことだろうけれども。どだい、表現の文脈それ自体などというものがあるわけもない。テキストのコンテキストというものはさまざまである。
読者は作品の表現をさまざまなコンテキストで読んでいる。『白痴』を、例えば雑誌連載中に読んだ人は、同じ作者の『賭博者』や『罪と罰』を、あるいは『ステパンチコヴォ村とその住人』などを想い合わせていたであろうし、また先にあげた当時評判の小説やプーシキン、ゴーゴリ、あるいはセルバンテス、バルザック、ディッケンズ、フローベールの小説とか、新聞雑誌の記事等々を思い合せ、さらに私的なことをいえば、昨日の誰かとの会話、過去のふとした生活の一場面などを、作品のある言葉から、あるいは作中人物の描写から、思い出させられたりしただろうし、現代の読者はまた、同じ作家のその後の小説をはじめ、先にいった今日にいたるさまざまな作品、また黒沢明の『白痴』といった映画や芝居も含めて、それらを思い合わせて、読むであろう。こうして、文学作品は、それ自体の文脈においてではなく、他の作品、そのなかのさまざまな文学的事実、そればかりでなく、その文学的事実を透して他の芸術的、思想的、社会的等々の諸事実との照合において読まれる。おそらく照合を誘発する動機は、作品の表現のなかに潜んでいるのだろうが、その照合のプロセスにおいてテキストは読者の中で形成される。したがって、テキストを作品の表現の文脈からのみつくり出す純粋な読者というものは存在しない。純粋な読者というものがいなければ、純粋な作品などというものもない道理である。(P.21-22)

読むという行為は、過去の記憶をたどることではなくて、多く行為というものがそうであるように、後ろむきに未来の闇のなかへと歩みを進める運動である。
テキストは実は、未来のあるいは未来を指向する今という「私」のコンテキストによって、過去の記憶の文脈に照合されながら、たえず開かれたものとして、私たちのなかで形成される。同じ一つの作品を幾度読んでも、そのたびにハラハラしたりワクワクしたり、あるいは言うにいわれぬ深い感銘を受けたりするのはそのせいである。文学作品の読書は、書かれている事実の認識でもなければ、作者の人間や思想についての知識の理解でもない。それは実生活ではめったにできない、いわば純粋な行為である。
この純粋な行為、精神の遊戯を言葉にすること−これが『白痴』を読む私の課題である。(P.23-24)