プレイバック読書会 
『白痴』

          
『白痴』 新谷敬三郎
ドストエーフスキイの会 会報 No.37 (1975.7.5)

『白痴』は、4月15日と5月30日と、2回にわたって読書会をした。それぞれこの会の常連と、たまに顔を出す方、新しく出てくる方など、11〜12名が集って、結局とりとめもないお喋り。何かそういう習慣がついていてとくに報告者がいるわけでもなく、といって話をまとめて、いくつかの問題にしぼるわけでもない。無駄な時間といえば無駄な時間なので、無駄に時間をつぶしたくないと考える人は、自然足が遠のいてゆくのだろう。

でも考えてみれば、文学というものがそもそも無駄な遊びなので、天下国家を論ずるにも倦き、といって悠久の哲理を憂い顔に、あるいはしたり顔に説くのも、シラケちゃうといった連中の言葉のうえの遊びをたのしめる人々が集ってくるのだろう。それには『白痴』という小説、まことにうってつけの作品で、話は実に遊園地のさまざまな乗物に一ぺんに乗ったみたいに、めまぐるしく飛躍しながら、日頃かくし持っているさまざまな思いが顔を出し、ひらめく。

まことにムイシキン公爵に魅せられた私たちは、知らずしらずこの19世紀ロシアのユロジヴイもかくやといった顔付きになって、池袋の映画街の一角、その喫茶店の天井の低い3階でしんじつ美しい人間になることを、あきらめながら追いかけている。自意識も自意志も、きれいさっぱり失ってしまった無邪気な人間。ひとはひそかにそうなりたいと願っているけれども、実さいにそうなったとすれば、それは神ではなくて、けだものだろう。むろん、けだものでいいわけだけれど、豚や犬や家畜では困るので、困ると思うのが人間の証拠だが、自然に守られたその恵みをうけている。人間と関係ないけだものなんて、今どきかなり贅沢なのぞみだろう。

この自然、あるいはじねんという観念こそは、おそらく人類に共通の、そして永遠の幻影であって、例の黄金時代の夢なのかも知れないが、神、少なくともキリスト教の神とは、その自然といわば絶対的に対立する観念あるいはモノなのだろう。おそらく19世紀のもっとも人工的な都会に棲息していた観念の怪物は、そう考えていたらしい。もっとも、そう考えていたのは彼だけではない。トルストイも同じように考えていただろう。

自然と神との板ばさみに合って、あるいはこの無限の対比に引き裂かれて、自然と人工の混沌のなかで永久に、自分自身という不可解にして醜悪なるものとむかい合っていなければならないこの不運を、神よ、まぬがれさせたまえ。と呼びかけて、豚よ、狼よ、はむろんのこと、自然よ、とはいわないところが神の神たる所以だが、もっとも、日本人やシナ人なら、天よ、などというのかもしれない。

この祈りから、しんじつ美しい人間が見えてくるのであって、祈っているのは、いじけた、内に毒念を抱いている人間である。この二人の人間のイメージ、いや、それはイメージどころではなく、この作家の心の臓をぎゅつとつかんで放さない力であった。その力を初めてドラマにしたのが、ロスターネフとフォーマー・フォミッチの物語である。それはさまざまに屈折して、白痴とナスターシャの物語となった。・・・・

といった風に、ドストエーフスキイは、私たちを冥想せしめる。てんでばらばらに冥想しながら、そこで何となく離れがたくなって、ちょっとだけと断って一杯飲む。これも、いゃ、これが読書会のたのしみであって、財布と電車を気にしながら、心にもない、というのは心おきなく、ということだが、残りのおしゃべりをして無駄な時間をむさぼる。次回は、イッポリートを取りあげる予定。




『白痴』 田中幸治
ドストエーフスキイの会 会報 No.97(1986.3.28)


ドストエーフスキイが終生、心にやきつけていた絵が三点ある。一つはクロード・ローランの「アシスとガラテア」、黄金伝説を語るもの、一つはラファエロの「聖母マリア」、そして「白痴」の主題として大きくとりあげられるホルバインのキリスト、十字架からおろされたばかりのキリストの絵である。

1838年10月31日(17)兄ミハイルにあてた手紙の中でドストエーフスキイは、その前、同年に同じく兄あてに記した手紙の懐疑的な内容とは対照的に、「もし認識の目的が愛と自然であるならば、そこには心情にとって広大な場が開けます。」と記している。この二通の手紙の間には大きな飛躍があったものと私は推測する。このとき以来、ドストエーフスキイには、「ギリシャの多島海の一角で、青々としたやさしい波、島々、巨石、花咲く岸辺」「それなくしては、人類は生きることも欲しなかったろうし、死ぬことすらできなかったろう」という心象の風景、自然と人間との根源的なかかわりあいが、つまりは「アシスとガラテア」に画かれている世界が、やきついて離れなかったのではないだろうか。セルバンテスのドン・キホーテは、山羊飼いの人々に向かって高らかに演説する。「幸福なる時代よ、幸福なる時勢よ!その時代に対して古人は黄金という名を与えた。・・・

水澄める流れせんけんたる小川は、香気あるれいろうの水を―」、聴衆は「呆気に取られて口を開けたまま、一語も答えないで彼に耳傾けていた。」そして、ドン・キホーテを「心から喜んでもてなした。」だが、「白痴」のムイシュキンにはこれがない。ムイシュキンになじみ深い風景は、「白糸のような滝、白い雲、古城の廃址」である。ムイシュキンをかかる孤独に追いこんでいるものはなにか。直視すべき暗い現実を象徴するようなものとしてホルバインのキリストがでてくる。レーベジェフの言う『茵陳の星』、鉄道や化学や実際方面の風潮、「今まで人類の友という連中は、数限りなくあったけれど、かりにだれかその一人の自尊心を傷つけてごらんなさい、その男はすぐ、浅薄な復讐心のために、平気で四方からこの世界に火をつけますから」、イッポリートの生まれない権利を持っていた存在を演じなかったに違いない。人をばかにしたような条件。ナスターシャの「ゆがめられた運命に対する賠償」を非妥協的に追求しつづけるデカダンス。しかしドストエーフスキイが大事なものとして表現したかったのはムイシュキンとリザヴェータ夫人、ヴェーラなどの間に流れるものとしてみられる優しい心(『同情』、第2編5)だったのではないだろうか。




「世界は美によって救われる」か  
ドストエーフスキイ全作品を読む会 読書会通信 No.103(2007.8.2)

村野和子

『白痴』に込められたドストエフスキーのテーマは、長年胸の中に温められていた「しんじつ美しい人」を描くということであった。そのことは友人マイコフ、姪のソーニャ宛の書簡により周知のこととなっている。その書簡の中で、
この世にしんじつ美しい人がただ一人あります、キリストです。(1868・1・1)と明言されている。またこのしんじつ美しい人を描くという試みはセルバンテス、ディッケンズ、ユーゴーなどによってもなされているが、思想の点で完全な成功には至っていない。ここで自分は先人とは違う思想で取り組もうとしているが、決定的な失敗に終わりはしないかと、ひどく恐れているとも語られている。しかしおよそ一年後『白痴』の連載が終わり、作品について期待したほどの公表がえられなかったものの、ストラーホフ宛の書簡には「小生はあの長編そのものでなく、小生の思想を弁護するのです」(1869・2・26)とあり、思想についての自信は変わらぬものとなっていたことが伺える。

ではどのような思想をもって「しんじつ美しい人」が書かれようとしたのか、「しんじつ美しい人」だけを取り上げて解釈を試みてみた。解釈とはひとつの物語であるということを承知しながら。「しんじつ」については、新潮文庫・木村悟訳のあとがきに「完全に」、「無条件に」の意味にあたるとの説明がある。

「しんじつ美しい人」として登場するムイシュキン公爵の語る言葉や行動は、「しんじつ美しい人」についての作者の具体的で直接的な説明である。その行動と語る内容は登場するさまざまな人に強い印象をあたえつつ、徐々にムイシュキン公爵についての理解を深めさせることになる。そして第4篇に至ると「しんじつ美しい人」の真の意味が語られるようになるのである。印象の主なものとして
・アデライーダ「いい人ね。でも、あんまり単純すぎるみたいね」
・アレクサンドラ「度がすぎているはね、少しばかり滑稽なくらい」
・ナスターシャ「あたしが生まれてはじめて信用することのできたたったひとりのかたですもの。あのかたはただ一目見ただけで、あたしを信じて下さったのです。ですから、あたしもあのかたを信じているんですもの。   
・コーリヤ「この世であなたほど賢い人にはまだ出会ったことがない」
・イッポリート「あの人はじつに善良な人です」
・アグラーヤ「高潔の純粋さと、他人に対する無限の信頼という点で、あのかたに匹敵するような人を、生まれてからまだ一度も見たことがありません。・・・どんな人でもその気にさえなれば、難なくあのかたをだますことができますし、あのかたはその相手が誰であろうと、あとでみんなを許しておしまいになるのです。
・エヴゲーニ「・・・あなたはそんな名前をつけられるには、あまりに賢明すぎます。しかし、あなたは普通のひととは言えないほど一風変わっています。・・・こうした事件全体の基礎は・・・生まれつきの世間知らずと・・・並外れて純粋な性質と・・適度という観念の欠如などから成りたっているのです。
・ケレル「・・・しかし、いまは公爵が自分たちみんなを(束にした)より、少なくとも二十倍も高尚な考えを持っておられることがわかりました!なぜなら、あなたは光彩も、富も、名誉すらも必要としないで、ただ一真実だけを求めておられるからです!

エヴゲーニが語った「並外れて」や「適度という観念の欠如」とは、アグラーヤの印象「無限」にちかい意味があり、他の登場人物の印象も、結局はアグラーヤとケルレルの印象に帰着するのである。ドストエフスキーは「しんじつ美しい人」を、全てがわかったうえで無限の信頼と赦しのできる人と考えていたのではないだろうか。無限の信頼のみで生きるなら、それはただの滑稽な人ドンキ・ホーテにまたは「白痴」になってしまうだろう。しかし裏切りや嫉妬といったものまでをも含む世界の真理を理解したうえで、無限の信頼に寄せられるひととなれば、たった一人キリストその人しかありえない。これがドストエフスキーの「しんじつ美しい人」についての深い理解ではなかったかと思われる。