ドストエフスキー 年譜 (江川卓編)

(収録:原卓也訳『カラマーゾフの兄弟』下巻 新潮文庫) 

1821年(文政4年)
10月30日(新暦11月11日)、モスクワのマリヤ貧民施療病院の官舎(現在はドストエフスキー博物館)に、同病院の医師ミハイル・アンドレーウィチの次男として生れた。母マリヤ・フョードロヴナはモスクワの商家の出。兄ミハイルは1820年生れ。

1831年(天保2年)10歳 
父がトゥーフ県にダロヴォエ、チェリョーモシナ両村からなる領地を購入、夏、作家はここを訪れ、『百姓マレイ』のエピソードを体験。シラーの『群盗』の芝居に感銘。

1833年(天保4年)12歳 
1月、兄とともにドラシューソフの塾に通いはじめる。

1834年(天保5年)13歳 
秋、文学教育で有名なモスクワのチェルマーク寄宿学校に入学。

1837年(天保8年)16歳 1月、文学的熱中
の対象であったプーシキンの死に衝撃を受ける。2月、母死去。5月、兄とともに、ペテルブルグに移りコストマーロフ大尉の予備校にはいる。夏、のちの作家グリゴローウィチを知り、詩人シドロフスキーから感化を受ける。

1838年(天保9年)17歳 
1月、工兵士官学校に入学。ホフマン、バルザック、ゲーテ、ユゴーなどを耽読。10月、進級試験に落第。

1839年(天保10年)18歳 
6月、父ミハイル持村の農奴に惨殺さる。

1840年(天保11年)19歳 
シラー、ホメーロス、フランス古典悲劇などを読み、劇作を試みる。

1841年(天保12年)20歳 
2月、兄の家で自作の戯曲『マリヤ・スチュアート』『ボリス・ゴドゥノフ』を朗読。8月、工兵少尉補に任官。

1842年(天保13年)21歳 
8月、試験に及第、少尉となる。

1843年(天保14年)22歳 
8月、工兵士官学校を卒業。ペテルブルグ工兵局製図課勤務となる。9月、医師リーゼンカンプと同居、困窮して高利貸より借金。12月、バルザック『ウージェニー・グランデ』の翻訳にかかる。

1844年(弘化元年)23歳 
2月、少額の一時金で領地の相続権を放棄。6〜7月、「レパートリーとパンテオン」誌に『ウージェニー・グランデ』の翻訳発表。9月、退職願を提出。『貧しき人びと』執筆。10月、中尉に昇進して退官、グリゴローウィチと同居する。

1845年(弘化2年)24歳 
4月、
『貧しき人びと』を完成。5月、グリゴローウィチとネクーフーソフ、この原稿を読んで感動、朝の4時に作者を訪ね、「新しいゴーゴリ」の出現を祝福する。ベリンスキーに紹介され、彼からも絶讃を受ける。夏、レーヴェルの兄のもとで『分身』起稿。11月、ツルゲーネフを知り、パナーエフ家のサロンに通う。

1846年(弘化3年)25歳 1月、『貧しき
人びと』を掲載した「ペテルブルグ文集」刊行。春、、ペトラシェフスキーとめぐり合い、関心を惹かれる。11月、ネクーフーソフの雑誌「現代人」同人と決裂。この年、アポロン・マイコフ、ワレリヤン・マイコフ、「祖国雑記」編集長クラエフスキーらを知る。2月、
『分身』 10月、『プロハルチン氏』

1847年(弘化4年)26歳 1〜4四月、ベリ
ンスキーと不和になり、ペトラシェフスキーのサークルに通いはじめる。1月、『
九通の手紙にもられた小説』 4〜6月、『ペテルブルグ年代記』10〜11月、『家主の妻』『貧しき人びと』(11月、プラツ社刊)

1848年(嘉永元年)27歳 1月、「現代人」誌でベリンスキー『貧しき人びと』を書評、3月には『一八四七年のロシア文学概観』で『家主の妻』を酷評。5月、ベリンスキー死す。秋、スペシネフを知り、プレシチェーエフ宅で、ペトラシェフスキー会と別の集まりをもつ。1月、『人妻』 2月、
『弱い心』『ポルズンコフ』4月、『苦労人の話』(後に『正直な泥棒』と改題)9月、『クリスマスーツリーと結婚式』 12月、『白夜』『やきもち焼きの央、異常な事件』(1860年、作品集に収める際に、『人妻』とこの作品を一つにして、『他人の妻とベッドの下の夫』と改題)

1849年(嘉永2年)28歳 
1月、スペシネフ、ドゥーロフらと近づき、秘密出版所設置計画にも加担。4月、ペトラシェフスキー会でベリンスキーのゴーゴリヘの手紙を朗読。4月23日、早朝逮捕され、ペトロパヴロフスク要塞に監禁。5月、予審取調べ。9月、ペトラシェフスキー会員公判開始(11月結審、死刑判決)。12月22日、セミョーノフ練兵場で処刑の直前に特赦、懲役4年、刑期終了後一兵卒として勤務の判決を受ける。24日、シペリアヘ護送。1〜2月、
『ネートチカ・ネズワーノワ』

1850年(嘉永3年)29歳 
1月9日、トボリスク到着、デカブリストの妻だちから福音書を贈られる。1月23日、オムスク監獄に到着、以後1854年2月までここで服役。

1854年(安政元年)33歳 
3月、セミパラチンスク守備隊に一兵卒として編入。春、地方官吏イサーエフとその妻マリヤを知り、夫人に恋する。11月、ヴランゲリ男爵、検事として着任、作家と親交を結ぶ。

1855年(安政2年)34歳 
3月、イサーエフー家、クズネツクヘ移転、8月、イサーエフ死去。『死の家の記録』の執筆を始める。

1856年(安政3年)35歳 
3月、トトレーベン宛てに兵役免除、出版許可の嘆願書。10月、下士官に昇進。

1857年(安政4年)36歳 
2月、クズネックでマリヤ・イサーエワと結婚、帰途、強度の癩爛の発作を起す。4月、士族の称号回復。 8月、『小英雄』

1858年(安政5年)37歳 
1月、軍務免除、モスクワ居住許可を求めた嘆願書を書く。

1859年(安政6年)38歳 
3月、少尉として退官、トヴェリ居住許可さる。7月、トヴェリに出発(8月半ば到着)。11月、ペテルブルグ居住を許可され、12月、首都に帰る。3月、『伯父様の夢』、11〜12月、
『ステパンチコヴォ村とその住人』

1860年(万延元年)39歳 
9月、兄ミハイルと共同編集の雑誌「時代」の発刊広告。9月、『死の家の記録』を「ロシア世界」に連載。

1861年(文久元年)40歳 
1月、「時代」誌創刊。オストロフスキー、グリゴーリエフ、ドブロリューボフらと知り合う。1〜7月、
『虐げられた人びと』

1862年(文久2年)41歳 
6月、最初の国外旅行に出発、パリ、ロンドン、ケルン、スイス、イタリアを訪れ、その間ゲルツェン、バクーニンと会う。年末、アポリナーリヤースースロワと交際。1月〜12月、
『死の家の記録』 11月、『いまわしい話』

1863年(文久3年)42歳 
年初より「現代人」誌の「時代」誌批判激化。5月、「時代」誌発禁。8月、海外旅行に出発、パリでスースロフと落合い、イタリア旅行。9月、バーデン・バーデンで賭博にふけり、ツルゲーネフから惜金。10月帰国。2〜3月、
『冬に記す夏の印象』

1864年(元治元年)43歳 
3月、新雑誌「世紀」創刊。四月十五日、妻マリヤ死去。七月十日、兄ミハイル死去。この年、「現代人」誌への反論を「世紀」誌に執筆。3〜4月、
『地下室の手記』

1865年(慶応元年)44歳 
3〜4月、アンナ・コヴィン・クルコフスカヤをしばしば訪問、求婚して拒絶される。6「世紀」廃刊。7月、国外旅行に出発、ヴィスバーデンで賭博にふけり、一文なしの身で『罪と罰』の構想をまとめ、「ロシア報知」編集長カトコフに売りこむ。10月帰国、11月、『罪と罰』の第一稿を焼却。2月、『異常な事件、またの名はアーケードの椿事』(のちに
『鰐』と改題)『ドストエフスキー全集』一、二巻(年末、ステロフスキー刊)

1866年(慶応2年)45歳 
4月、カラコーゾフの皇帝暗殺未遂事件に衝撃を受ける。夏、リュブリノの別荘で姪ソフィヤ・イワノワと親しくなる。10月、速記者アンナ・スニートキナに
『賭博者』を口述筆記。11月、アンナに結婚申込み。1〜12月、『罪と罰』『ドストエフスキー全集』第3巻(年末、ステロフスキー刊)

1867年(慶応3年)46歳 
2月15日、アンナ・スニートキナとの結婚式。4月、国外旅行(4年余にわたる)に出発。ドレスデンで「シスチナのマドンナ」を見る。6月、バーデンでツルゲーネフと喧嘩。8月、バーゼルの美術館でホルバインの「イエス・キリストの亡骸」に衝撃を受ける。ジュネーヴでガリバルジ、バクーニンらの「平和・自由連盟」の第一回大会を傍聴。9月、『白痴』起稿。

1868年(明治元年)47歳 
姪のソフィヤに『白痴』では「真に美しい人間」を書きたいと手紙。2月、長女ソフィヤ誕生(5月死亡)。8月ヴェーヴェ、9月ミラノ、11月フローレンスに滞在。12月、アポロン・マイコフヘの手紙で『無神論』の構想を語る。1〜12月、
『白痴』

1869年(明治2年)48歳 
8月、ドレスデン到着。9月、次女リュボフィ誕生。11月21日、「国民制裁協会」のネチャーエフ、ペトロフスキー大学の学生イワノフを裏切り者として殺害、作家の異常な関心をそそる。12月、大長編『偉大なる罪人の生涯』のノートを取る。

1870年(明治3年)49歳 
3月、マイコフ宛ての手紙で、ニヒリスト批判の「傾向的な作品」『悪霊』の原型)と『偉大なる罪人の生涯』の構想を知らせる。8月、姪ソフィヤに『悪霊』の難航、新しい構想による書き直しを知らせる。10月、『悪霊』の最初の部分を「ロシア報知」に送る。カトコフ、マイコフ宛ての手紙で作品のテーマを詳述。1〜2月、
『永遠の夫』「ドストエフスキー全集」第4巻(10月、ステロフスキー刊)

1871年(明治4年)50歳 
3〜5月、パリ・コミューンに関心を惹かれる。7月、国外滞在中の手稿を焼却。7月1日、ネチャーエフ事件の裁判はじまる。7月帰国。長男フョードル誕生。1〜11月、
『悪霊』

1872年(明治5年)51歳 
冬、国家評議員ポベドノースツェフを知る。5〜9月、スターラヤ・ルッサに滞在。12月、週刊誌「市民」の編集長となる。11〜12月、『悪霊』(第三部)

1873年(明治6年)52歳 
1月、「市民」創刊、同誌に『作家の日記』を連載。アレクサンドル皇太子に『悪霊』献呈。2月、『悪霊』についてミハイロフスキーの批評が出、「市民」でドストエフスキーが反論。

1874年(明治7年)53歳 
1月、「市民」編集長辞任。5月よりスターラヤ・ルッサに住む。10月、ネクラーソフの「祖国雑記」に『未成年』掲載を約束。

1875年(明治8年)54歳 
8月、次男アレクセイ誕生。9月、ペテルブルグヘ帰る。11月、『作家の日記』刊行の準備にかかる。12月、孤児問題に関心をもつ。1〜12月、
『未成年』

1876年(明治9年)55歳 
1月より
『作家の日記』を刊行。11月、アレクサンドル皇太子に『作家の日記』を献呈。 1月、『キリストの樅の木に召された少年』(『作家の日記』) 2月、『百姓マレイ』(『作家の日記』)『百歳の老婆』(『作家の日記』) 11月、 『おとなしい女』(『作家の日記』)

1877年(明治10年)56歳 
7月、ダロヴォエ村訪問。12月、アカデミー通信会員に選出。ネクラーソフ死去、墓前で演説。2月、
『アンナーカレーニナ論』(『作家の日記』)4月、『おかしな男の夢』(『作家の日記』)

1878年(明治11年)57歳 3月、ザスーリチ裁判を傍聴。5月、次男アレクセイ死亡。6月、哲学者ソロヴィヨフとともにオプチナ修道院を訪れ、『カラマーゾフの兄弟』の構想を語る。この年、長編の執筆を開始。

1879年(明治12年)58歳 
夏、一家スターフヤ・ルッサに住み、コルヴイン・クルコフスカヤと交際。7〜9月、ドイツの鉱泉地エムスで療養。1〜11月、
『カーフマーゾフの兄弟』

1880年(明治13年)59歳 
2月、スラブ慈善協会副会長に選ばる。5月、プーシキン記念像除幕式に参加、記念講演を行い、感銘を与える。8月より『作家の日記』復刊。1〜11月、
『カーフマーソフの兄弟』 6月、『プーシキンについて』

1881年(明治14年)60歳 
1月26日、喀血し意識を失う。28日、家族に別れを告げ、午後8時38分永眠。2月1日、アレクサンドル・ネフスキー寺院で葬儀。

江川 卓 編