ドストエーフスキイ全作品読む会
ドストエフスキー作品メモ



“同情”と“哀れみ” ──「大審問官」と「ビリー・バッド」
抜粋:ハンナ・アーレント『革命について』第2章社会問題 P.127〜129
志水速雄訳 ちくま文芸文庫 1995)

フランス革命の別の非理論的な側面を扱った古典的物語、つまり、フランス革命の主役たちの言葉と行為の背後に潜む動機の物語は「大審問官」であり、そのなかでドストエフスキーは、イエスの無言の同情
(コンパッション)と審問官の雄弁な哀れみ(ピティ)を対照的に扱っている。同情とは、まるで伝染でもするかのように他人の苦悩に打たれることであり、哀れみとは、肉体的には動かされない悲しさであるから、両者は同じものでないだけでなく、互いに関連さえもないのであろう。同情は、それ自体の性格からいって、ある階級全体、ある人民、あるいは──もっとも考えられないことであるが──人類全体の苦悩に誘発されるものではない。それは独りの人間によって苦悩されたもの以上に先に進むものでなく、依然としてもとのままのもの共苦(コン・サファリング)にとどまっている。その力は情熱(パッション)自体の力に依存している。

すなわち、情熱は理性とは対照的に、特殊なものだけを理解できるのであり、一般的なものの概念を持たず、一般化の能力も持たない。大審問官の罪は、彼がロベスピエールと同じように「弱い人々に引き寄せられた」という点にあった。なぜそれが罪かといえば、このように弱い人々に引き寄せられるということが、権力への渇望と区別することができないからであり、のみならず、彼は受難者たちを非人格化し、彼らを一つの集合体──いつも不幸な人々、苦悩する大衆等々──へとひとまとめにしたからである。ドストエフスキーにとって、イエスの神聖のしるしは、万人に対する同情を、一人一人の特殊性において、すなわち、彼らを苦悩する人類というようなある実体に総括することなく持ちうる彼の能力のなかにはっきりと現れていた。その神学的な意味は別として、この物語の偉大さは、もっとも美しく見える哀れみの理想主義的で大袈裟な文句が同情と対決するとき、いかに空虚に響くか、それをわれわれに感じさせる点にある。

この一般化できないということと密接に結びついているのは、徳の雄弁と対照的に、善のしるしである奇妙な無言、あるいは少なくとも言葉に対する戸惑いである。それは哀れみの多弁さに対する同情のしるしである。情熱と同情は言葉を持たないのではなく、その言葉は言葉よりもむしろ身振りや顔の表情から成り立っているということである。イエスが沈黙し、大審問官の延々と続く独白の淀みない流れの背後に潜む苦悩にいわば打たれていたのは、彼がその敵対者の言葉に同情をもって耳を傾けていたからであって、言うべきことがなかったからではない。この耳を傾けるという行為の強烈さによって独白は対話に変るが、それは言葉ではなく、身振り、接吻の身振りによってのみ終わりとなる。


ビリー・バッド(注)が自分の生命を終るばあいにも同じ同情のしるしがある。このばあいは、自分を死に追いやった男がそのことで感じた情熱的な苦悩にたいして、死を宣せられた男が感じた同情である。同じような意味で、ヴィア船長の宣告に対する主張、ビリー・バッドの「神よ、ヴィア船長に祝福あらんことを!」という言葉は、たしかに、言葉というよりはむしろ身振りに近い。同情は人間関係に絶えず存在している距離、中間に介在するものを取り除く。この点では愛も同じである。そして徳が、不正をなすよりは不正を耐え忍ぶほうが良いということをいつも主張しようとしているとすれば、同情は、他人の受難を見るよりは、自分が苦しむことのほうが楽であると、まったく真剣に、時にはナイーヴにさえ見えるほど真剣に述べ、それによって、徳の主張を乗り越えるのである。

同情は距離を、すなわち政治的問題や人間事象の全領域が占めている人間と人間のあいだの世界的空間を取り除いてしまうので、政治の観点からいえば、同情は無意味であり何の重要性もない。メルヴィルの言葉によれば、同情は「永続的な制度」を確立することはできない。「大審問官」におけるイエスの沈黙やビリー・バッドの口ごもりも同じことを示している。つまり、彼らは、だれかがだれかにむかって両者に関心
(インタレスト)のあること──なぜなら、inter-est は両者のあいだのことであるから──について語るというたぐいの断定的な、あるいは論争めいた言葉をいっさい使うことができないのである。世界にたいするこのような多弁で論争的な関心は、同情とはまったく縁がない。

同情はただ情熱的な激しさで苦悩する人そのものにむけられる。同情が語るのは、それによって苦悩がこの世界で耳に聴こえ眼に見えるようになるところの、まったく表現主義的な音や身振りに対して直接答えなければならないその範囲だけである。一般に、人間の苦悩を和らげるために世界の状態の変革に乗り出すのは同情ではない。しかも同情が変革に乗り出す場合でも、それは法律や政治のような、説得とか話し合いとか妥協のようにだらだらと続く退屈な過程を避け、その声を苦悩そのものに向けるだろう。ひるがえって苦悩は、迅速で直接的な活動、すなわち、暴力手段による活動を求めるはずである。

:ハーマン・メルヴィル『ビリー・バッド』(飯野友幸訳 光文社古典文庫)
メルヴィルはアメリカ19世紀の小説家、『白鯨』の著者。『ビリー・バッド』は、メルヴィルの遺作にして最大の問題小説。未完成。英国の戦艦に徴用された21歳の水兵ビリー・バッドはヴィア艦長はじめ乗組員たちみんなから愛される「ハンサム・セイラー」だった。そんななか、下士官クラガートだけは、嫉妬心からビリーを激しく憎んでいる。艦長にビリーが反乱を企てていると告発し、艦長の前で反論を迫る。もともと吃音のあるビリーは、不意をつかれて混乱し、弁明どころか、言葉を発することさえできない。思わず返したビリーの一撃はクラガートを死に至らしめる。哀れ、ビリーは絞首刑に処される。