ドストエーフスキイ全作品を読む会「読書会通信」編集室 青空文庫


ドストエフスキー著 「エドガー・ポーの三つの短編」 

典拠:米川正夫訳『ドストエフースキイ全集』第20巻:論文・記録 下 P.223〜225
1861年の『ヴレーミャ』にエドガー・アラン・ポーの「告げ口心臓」「黒猫」「十三時」のロシア語訳が掲載された。その序言として書かれた文章である。



エドガー・ポーの二、三の短編は、すでにロシヤ語に翻訳されて、わが国の雑誌に掲載された。われわれはまた新しく三つの短編を読者に捧げる。彼はじつに奇妙な作家である、――大きな才能を持ってはいるけれども、まさしく奇妙な作家なのである。彼の作品をいきなり怪奇小説の中に編入することはできない。もし怪奇だとすれば、それはいってみれば、外面的にである。たとえば彼は、五千年もピラミッドの中に臥ていたエジプトのミイラが、電気療法によって生き返る、などということを設定している。また死んだ人間が、これもやはり電気の力によって、自分の魂の状態を物語る、等等の設定もしているのである。しかし、これはまだ端的に、怪奇小説の類とはいわれない。エドガー・ポーはただ不自然な出来事の外面的な可能性を設定しているにすぎない(もっとも、その可能性をちゃんと証明している、時としてはきわめて巧妙に)。

こういう出来事を設定しておきながら、その他すべての点では、きわめて現実に忠実なのである。たとえば、ホフマンの怪奇性はこんなふうではない。彼は自然のさまざまな力を、一定の形象において人間化する。物語の中に魔法使いや亡霊などを登場させ、時としては自分の理想を地上以外のところ、何かしら異常な世界に求める場合さえある。彼はその世界を一種高遠なものと認めて、この神秘な魔法の世界が必ず存在するに相違ないと、みずから信じているかのようである・・・・・エドガー・ポーのほうは怪奇作家というよりも、むしろむら気な作家というべきであろう。しかし、そのむら気のなんと奇妙なことだろう、なんと大胆なことだろう! 彼はほとんど常にもっとも特異な現実を取って来て、自分の主人公をもっとも特異な外面的、もしくは心理的な状況に置くが、その人間の魂のあり方をなんと驚くべき正確さをもって物語ることだろう! のみならず、エドガー・ポーにはまぎれもない一つの特色があって、それが彼を他の作家と画然と区別し、それが彼の著しい特質となっているのである。

ほかでもない、それは空想力である。といっても、彼が他の作家よりも空想力がすぐれているわけではないが、彼の空想の才能には、他のいかなる作家にも見られない特異な点がある。それはデテールの力である。たとえば、諸君自身なにか異常なもの、現実で経験したことのないものながら、ただし可能なものを想像してみたまえ。諸君の眼前に描き出される形象は、程度の差こそあれ、常に場面の一般的な輪郭にすぎないか、さもなければ、その一部分の特色をとらえるにすぎないであろう。ところが、ポーの小説の中では、描かれた人物なり事件なりのデテールが、すべてまざまざと目に浮かんでくるので、ついには読者はその可能性、現実性を確信せざるを得ないような気持ちになる。しかも、その事件はほとんどまったくあり得ないか、あるいはかつてこの世に生じなかったようなものである。

たとえば、彼の短編の一つに、月世界旅行を描いたものがある。その描写は詳細をきわめたもので、ほとんど一時間ごとの経過が語られているので、読者はそれが実際におこり得たかのように、確信させられるのである。まったくそれと同じように、彼はある時アメリカの新聞に、気球でヨーロッパからアメリカへ、大西洋を横断して飛行する話を掲載した。その描写がじつに詳細をきわめており、まったく思いもよらぬ意想外な、偶然な事件に充満しており、現実の出来事らしい形をそなえていたので、すべての人がこの飛行を信じてしまった、もちろん、ただ数時間のあいだだけであったが・・・・その時すぐ照会してみた結果、そんな飛行などぜんぜんなく、エドガー・ポーの物語は、新聞の捏造したセンセーションにすぎないことがわかった。それと同じような空想力、というより想像力は、手紙紛失事件、パリでオランウータンの遂行した殺人事件、宝の発見物語、などといった作品に発揮されている。

人はよく彼をホフマンに比較する。が、前にもいったとおり、それは正確でない。その上、ホフマンは詩人として、ポーより量り知れないほど高い素質をそなえている。ホフマンには理想がある。もっとも、それは時として不正確なたて方をされることもあるが、しかしその理想の中に純潔さがある。人間に固有な真実のまがいなき美が存する。それは彼の非幻想的な作品、たとえば『マルチン先生』とか、あるいは、この上もなく優美な愛すべき中編『サルバトル・ロ−ザ』などに、はっきり現われている。彼の最上の作品である『牡猫ムル』のことについては、もう何もいわないことにする。これはなんという成熟した真のユーモアだろう、なんという現実の力だろう、なんという皮肉だろう、なんという典型、なんという見事な肖像画だろう。またそれと並んで、なんという美の渇望、なんという明るい理想だろう! ポーには、よし怪奇性があるとしても、それはなにか物質的なものである、もしこんないい方ができるとしたら、である。彼はどうやら、もっとも怪奇的な作品においてすら、完全にアメリカ人であるらしい。このむら気な作家を読者に紹介するために、さしあたり彼の小さい短編を三つ掲載する。