ドストエーフスキイ 全作品を読む会「読書会通信」編集室・青空文庫
倉田百三『愛と認識との出発』の中のドストエフスキー (抜粋・青空文庫)
<倉田百三の『愛と認識との出発』の中にはドストエフスキーの名前が17回出てくる。「他人に働きかける心持ちの根拠について」という章の中でドストエフスキーに言及している部分を抜粋した。>
私の心の内には素質としての人懐しさがある。その願いは外に出道を求めずにはおかなかった。私は反抗心の和らぐとともに、独りの生活に寂しさを感じだした。私は遠くの友には、かえって前よりしばしば手紙を送った。ことに女の友には、「私はもはや女の愛を求めようとは思いません」と書かねば気が済まなかった。けれどかく書き送る心の底には微妙な訴えのこころが含まれていた。
そのときこの人懐しさのほかにもっと強く正面から私の退隠生活を破る原因となったのはドストエフスキーと聖フランシスとであった。ドストエフスキーはシベリアの牢獄で荒々しい、残忍な、しつこい人々の間に交わりつつ、いかにそれを耐え忍んで愛したであろうか。ことに感動すべきは彼らから排斥せられたときに、みずからを高くし、軽蔑の心から孤独を守らずに、心からそれを辛きことに思ったことである。それを辛く思えたのはドストエフスキーの博さと謙(へりくだ)りとである。
またフランシスは隠遁して神との交わりにもっぱらになろうとの願いが高まったときに、それは悪魔の誘惑として、その願いに打ち克つように祈ったというではないか。私は退隠するのは強いことと思って、市に出たい、自分の心を叱ったのに、フランシスは退隠するのは弱いこととして、山に隠れたき心を鞭打っている。そこに私の心のエゴイズムが日に晒(さら)さるるごとくに露(あら)われているではないか。
ドストエフスキーのような場合には、愛を求むる心はけっして弱いとはいえなくなる。またたとえ愛を求むる心は弱くとも、愛を求めずに与うる心で市に出でるのはもっと強いことである。愛が強くなればそうせずにはいられぬはずである。私は高慢で、エゴイスチッシュであった。私はどのような嫌な冷淡なしつこい人間とでも忍耐して交わらなくてはならない。
私は退隠生活をやめようと決心した。その頃私はまた病気が悪くなって、旅の病院に入らねばならなくなった。そこで私は手術の苦痛を怺(こら)えつつ、長い月日を送らねばならなかった。私はその頃の私の生活を、めで慈しみつつ思い返さずにはいられない。心はかなしみと忍耐に濡れて、親しい静けさを守っていた。「ドストエフスキーのように」というのが、その頃の私の生活のモットーであった。そこで私は触れ得るかぎりの人と触れ、彼らをことごとく隣人の愛で包もうと努めた。他人の争いの仲裁者となったり、病める青年を慰めたり、新聞売りの老婆や、飯焚(めした)きの小娘や、犬やをも労(いた)わり愛した。
初出:「愛と認識との出発」岩波書店 1921
青空文庫底本:「愛と認識との出発」角川文庫 1950(昭和25)年6月30日初版発行