ドストエーフスキイ全作品を読む会「読書会通信」編集室 青空文庫
得意な容疑者
小酒井不木
典拠:小酒井不木全集 第17巻 p.22-29
(小酒井不木全集』全17巻 改造社 昭和5 1930)
「犯人はその最も得意な時に自己を裏切るものである」
福原検事は口癖のようにこう言うのであった。犯人を恐ろしがらせて白状させようとするのも時には有効な方法であるけれど、冷血性な犯人は恐怖を与えたぐらいではビクともしないものであるから、そのような犯人に出会った場合にはどうしても犯人を得意がらせなくてはならぬ、というのが福原検事の持論なのである。
が、福原検事がその道の人々から尊敬されて居るのは、かかる持論の所有者であるということよりも、むしろ、心理探偵法の研究者であることである。心理探偵法というのは、もと米国のハーヴァード大学の教授であったミュンスターベルグ博士が大成した一種の探偵法であった。容疑者の取り調べに当たり、一定の形式に従ってその心理を検査し、犯人であるか否かを判定することである。これには色々の方法があるけれど、福原判事が最も好んで行うのは、容疑者に向かって、犯行の現場を記述した文章を読み聞かせ、それを再び語らせる方法である。例えば現場の机の上に白い花瓶があって、それに百合の花が挿してあったとする。尋問者はそれをわざと書き違えて「紅い花瓶に桔梗の花」が挿してあったと言って読みきかせる。単にそれだけならば、容疑者に言わせても間違わぬけれども、現状の長い記述の中の一部分として書いてあるのであるから、若し容疑者が真犯人であるならば、現場を目撃してその印象が深く脳裏に刻まれて居るために口述の際、うっかり「白い花瓶に百合の花」が挿してあったと答え、いわば間接に自分の罪を白状するわけである。
福原検事はつまりこの「現場誤記」的心理探偵法が得意であったのである。そうしてこれまで、この方法を応用することによって多くの犯罪者を恐れ入らせてきた。もとより、心理的探偵法ばかりでなく、同時に色々な臨機応変的な方法を講じて成功したのであるが、福原検事に取り扱われる容疑者は必ず一度は、心理的探偵法を試みられるのであった。
さて、話変って、ここに屋島という貧乏な大学生があった。彼はドストエフスキーの『罪と罰』を読んで、忽ち、あの高利貸を殺す決心をした。屋島は小さい時分から、世の辛酸を嘗めつくして来たために、その先天的の冷血性が近ごろ一層透きとおって来た。彼が七兵衛と名づける「無常」という評判の高い高利貸を殺す決心をしたのは、別に個人的に怨恨がある譯でもなく、また債務関係のあるためでもなかった。まったく『罪と罰』の影響を蒙ったに外ならない。が、一たん決心すると、いわばそれが脅迫観念となって、目的を果たすまでは、苦しくて苦しくてならなかった。
もとより屋島は生命を惜しんだ。人一倍彼は「生」に執着があった。だから彼は七兵衛を殺すにしても、自分の生命を犠牲にする気は少しもなかった。といって殺人の嫌疑を他人に向けるような手段を講ずるのではなく、ただ、自分が殺したという証拠を残さぬようにすればよいと思ったのである。
それについては彼は十分に自信があった。尤もこれまで人を殺した経験はなかったけれど、自分の冷血性をよく知って居る彼は、中学生の時分から好んで読んだ探偵小説の知識を応用すれば、証拠を残さずに殺人を遂行するぐらい何でもないことだと思った。
でも、さすがに実行の段になると、色々の予期しない困難が起こった、七兵衛を道に要して殺すのが一ばん安全ではあるけれど、思わぬ邪魔が発生しないとも限らず、従って咄嗟にそれに対応策を講ぜねばならぬことになるので、若し計画どおりに遂行しようと思ったならば、どうしても七兵衛をその自宅に於いて殺すより他はないと思った。それには七兵衛の家をたづね、七兵衛に逢い、そうしてその内部の模様を十分観察した方が却って得策であると思った。で、彼はある日適当な口実を設けて巧みに七兵衛に逢い、而も家内の様子をさぐって来たのである。
それから、凡そ二週間、如何に安全に七兵衛の家に忍び入り得るか、如何にして現場に証拠を残さずに七兵衛を殺し得るかを研究して、もう大丈夫という自信ができたとき、ある夜まったく計画したとおりに七兵衛を殺して来たのである。
それから数日の間、屋島は至って冷静に暮らすことが出来た。新聞に書かれている推定犯人の記事を読んで、ひそかに微笑をもらさざるを得なかった。けれども七日目に、検事局から呼出しを受けたときは、さすがに幾分か興奮せざるを得なかった。「そうだ、何でもないんだ。自分があの二週間前に七兵衛をたづねたので、検事は参考のために自分を呼び出したに過ぎないんだ」
こう考えると彼は再び冷静になって、何の恐れもなく検事局へ出頭することができた。果たして予期したとおりであった。が、七兵衛殺しを担任して居るのが福原検事であると知ったとき、屋島は警戒せねばならぬと思った。けれども、その日は福原検事の質問に何の淀みもなく答えることが出来て無事に帰されたのであった。検事の質問の要点は、何故突然七兵衛を訪ねたかというのであったが、それはかねて用意して置いたとおりに説明して、福原検事を納得せしむることが出来た。けれども、直感とでも言おうか、福原検事が、どうやら彼に多少の疑いをいだいて居るらしいことを屋島は見逃さなかった。
「きっと、もう一度呼び出して、例の心理探偵法を応用するのだろう。よし、それならばこちらにも対策がある」こう考えて、彼は又もやいつもの冷静に立ちかえることができた。
すると三日目の朝、検事局から呼び出しがあった。
「いよいよ心理検査だな。なに恐れることがあるものか」
福原検事は、屋島に向かって、至ってやさしい態度で、弁解するように言った。
「あなたを容疑者扱いにして済まんが、犯人が皆目わからないで、事件が迷宮に入ろうとしている今日、やむを得ず一応心理検査を行わせて頂きます」
「どうぞ」と屋島は簡単に答えた。
検事は机の抽斗から、一枚の紙切を取り出した。
「これが、七兵衛が殺された現場の記述です。これを読みあげますから、よく聞いて居てください。・・・犯人は縁側から、障子をあけて八畳の座敷にはいった。天井から垂れ下がった電燈の笠は緑色のカットグラスで、五燭光の球が光って居た。七兵衛は蝶の模様のついた更紗の布団を着て、床の間の方を枕にして眠って居た。犯人は膝行して枕元に近づいたが、ちょうどその場にあった煙草盆を左手をもってわきへ動かし、それから・・・・・」
屋島は聞いて居ながら心の中で苦笑を禁じ得なかった。彼は隣の部屋から襖をあけてはいったのである。電燈の笠は緑色のカットグラスではなく乳色であった。又、布団は蝶の模様ではなく蜻蛉の模様であった。ただ、膝行しながらも、検事の観察推定の鋭いことに驚嘆せざるを得なかった。そうして「わな」の伏せ方の巧妙なことにも感心した。けれども、要するに「子供だまし」である。こんなトリックに引つかかつてたまるものか。こう思って彼は謹聴した。検事の記述は更に進行して愈々殺人行為のところになった。そこはまったく事実のとおりであった。まるで検事がどこかの隅からのぞいて居たのではあるまいかと思われるほど真に迫って居た。
さすがに屋島は当夜の光景を思い出して、一種の鬼気に似たものを感じた。
「だが」と屋島は考えた。「真実が述べられてあれば却って口述の際に都合がよいではないか」
検事は読み終ってたづねた。
「どうです、わかりましたか」
屋島はちょっと返答に迷った。
「もう一度読みましょうか」
その時屋島は考えた。読んでもらったよりも、一度書いたものを見せてもらった方がはっきりと記憶に残る筈である。
「一度それを私に読ませて下さいませんか」
検事は屋島の顔をじろりと眺め、暫く躊躇していたが、
「御見せしては、心理検査の効果がうすいですけれど・・・・・」
こう言って、彼はその紙切れを屋島に渡した。
「いよいよ、こっちのものだ」屋島は心で凱歌を奏しながら貪るように読んだ。
それから二十分後、屋島は読んだ文句を陳述した。
それは一字一句も間違って居ないといってもよいほどであった。
「実に見事です」と福原検事は言った、が、「もう帰ってよい」とは言わなかった。彼は立ち上がって隣室に行ったが暫くしてから帰って来た。
「実は」と検事が厳かに言った。「あなたに心理検査をしたのは他の目的があったのです。あなたのような頭のよい人には心理検査は何の役にも立ちません。実は先刻あなたがあの紙切を貸してくれと言われたとき、こちらの目的は達したのです。あなたが言われなくてもこちらから御渡ししようと思って居たのです。あなたはあの紙質が特別なものであったことに気づかなかったのですか。あれは指紋をとるに最も適した紙です。今、別室で薬液に浸してありますから、もう暫く過ぎると、あなたの左手の指紋がはっきりあらわれます。その指紋と、現場の煙草盆に残って居る指紋とを比較すれば犯人が誰であるか決定されるわけです」
検事の言葉を聞いた屋島は、この恐ろしいトリックにたしかに顔の蒼ざめるのを覚えた。が、ふと理性をとりもどすなり、むらむらと得意の念が起こった。馬鹿な、そんな用心はとうにしてあるんだ。
「ははは」と彼は笑って大声で言った。「ちゃんとゴムの手袋をはめてやったんですよ。煙草盆に指紋の残る筈がない・・・・・」
はっと気付いたが最早遅かった。
「犯人はその最も得意な時に自己を裏切るものである」
数日の後、福原検事は、屋島の例をあげて平素の持論を同僚に語った。
参考:小酒井不木とドストエフスキー