ドストエーフスキイ全作品を読む会「読書会通信」編集室 青空文庫


病間随筆 読書


小酒井不木

典拠:小酒井不木全集 第8巻(闘病禄及日記)p.28-29
(小酒井不木全集』全17巻 改造社 昭和4 1929)


大正七年の三月から大正八年までのニューヨーク滞在中、毎夜午後十時から十二時までの間、私はベッドの上で週刊の探偵小説雑誌Detective Story Magazineを読むことに決めて居た。それから英国に渡って半年の間、ロンドンで、実験室内の研究の傍ら、英国の医学史の研究を思い立ったため、暫く探偵小説から遠ざかって居たが、大正八年の冬から、持病が再発しかけたので、ブライトン(英国南部海岸の一市)に翌年の三月まで滞在静養し、その間またコナン・ドイルやオーチン・フリーマンの探偵小説を読みは始めた。日本に居て読んだときは地名などが少しも見当がつかなかったが、その時はロンドンの地理にも多少委しくなって居たので、一入の興味を覚えた。

海岸の空気を吸ひ、日光に思うま々浴しても、頭をあげる持病は一向去る様子もなかった。けれど留学の予定もあったので三月の末パリに移ったが、パリは結核に取りては昔から世界で一番悪いと言はれて居るだけ、私の病気は見る見る悪くなって行った。今から思えば甚だ乱暴であったが、一ケ月ばかりの間熱心にパリ見物をやると四月の末になって、一日置き位に二十グラムから三十グラムづつ喀血するようになったので、同じホテルに滞在中のKという熟練な医学者に相談したところ、そんな乱暴なことをしてはいかぬ、絶対に外出は止めて、ベッドに居たまえとの事に。私も何だか近い内に大きなカタストロフィーに出逢うような気持がしたので、外出は止めて一室に閉じ籠ることにし、小説類は皆英国から郷里に郵送してしまったので、K氏所有の
ドストエフスキー作『罪と罰』(内田魯庵氏訳)を借りて読み始めた。

ドストエフスキーの作を読んだのは、その時、生まれて初めてであった。かねてからその偉大な芸術に就いてはよく聞いて居たが、何気なしにベッドで仰向きになり乍ら頁を読み進んで行くと、どうだろう。上巻の三分の一にも達しない内に、心臓の鼓動が非常に劇しくなって胸が圧迫されるように感じ、今にもおかしくなって血を喀きさうになったので、どうしても読み続くることが出来なかった。それ程私はこの小説に感動してしまったのである。書物を伏せても暫くの間は心臓の音が耳に響き、二三時間は血を喀きそうな感が胸を充たして居た。が、先を読みたい心は抑ふることが出来ず、それかといって血を喀くのは怖いので、大汗になって床に悶ゆるという有様であった。終ひには決心して一章か二章宛を必ず二時間置きくらいに読むことにして、三四日かかって終に読み了ったが、その二三日後とうとう大喀血をした。

勿論大喀血は『罪と罰』を読んだためではないが、私は生まれてから、これ程強い感動を受けた書物にはまだ接したことがなかった。ローラン夫人が初めてテレマクスを読み「私の呼吸は劇しくなり、私の顔はほてり、私の声は変った」と書いたことや、マルブランシュがデカルトを読んで「心臓が激しく鼓動した」といったことなどは予て聞いては居たが、私は初めて『罪と罰』によってその境地を得たのである。爾来私は『罪と罰』を身辺から離すことが出来なくなり、パリを去ってフランスの南部、大西洋岸の一小市アルカションに二ケ月ばかり煙霞療養をして居たときも、私の孤独の淋しさを慰めてくれるものは、コンスタンス・ガーネット女史の英訳本Crime and Punishmentであった。私はその間この書を何度繰返して読んだか知れない。而も読む度毎に私の心臓は高鳴った。その後故国に帰って、今に至るもこの状態は同様である。

一時は、この書を読むことによって、血を喀くような気持となるため、身体に害がありはしないかと思ったが、よく考えてみればこの書は、私を恐ろしい病から救ってくれたとも言うことが出来る。何となればこの書さえ手にして居れば、その間は少しも病気のことを考えないからである。即ちともすれば胸に集まり勝ちの精神をディヴェートして、その間病気を忘るることが出来たからである。

この書と同時に、私は過去二ケ年間の大病中随分沢山の探偵小説を読んだ。探偵小説は私を完全に病の手から奪ってくれる。即ち探偵小説を読んでいる間は、病を顧みる遑が少しもないのである。そのせいか、私は兎に角近来著しく健康を恢復した。(中略)

闘病に於ける過去三ケ年の悪戦苦闘により、私は尊い何ものかを得たように思ふ。それが私の今後の研究に若し現れてくれれば望外の幸福である。漸く昨今強敵を却け得て小康を得た快さは何に譬えようもない。紺清の空に光る太陽は私のために輝き、野に庭に、咲く程の菊花は私のため匂って居るような気がする。そうだ、今日はこれから庭に出て、私のバイブルなる『罪と罰』を読もう。

参考:小酒井不木とドストエフスキー