ドストエーフスキイ全作品を読む会「読書会通信」編集室・青空文庫


芥川龍之介「侏儒の言葉」より (青空文庫


ドストエフスキイ

ドストエフスキイの小説はあらゆる戯画に
ちている。もっともその又戯画の大半は悪魔をも憂鬱ゆううつにするに違いない。

トルストイ

ビュルコフのトルストイ伝を読めば、トルストイの「わが懺悔」や「わが宗教」の嘘だったことは明らかである。しかしこの嘘を話しつづけたトルストイの心ほど傷ましいものはない。彼のは余人の真実よりもはるかに紅血を滴らしている。

神秘主義

神秘主義は文明の為に衰退し去るものではない。寧ろ文明は神秘主義に長足の進歩を与えるものである。古人は我々人間の先祖はアダムであると信じていた。と云う意味は創世記を信じていたと云うことである。今人は既に中学生さえ、猿であると信じている。と云う意味はダアウインの著書を信じていると云うことである。つまり書物を信ずることは今人も古人も変りはない。その上古人は少くとも創世記に目を曝さらしていた。今人は少数の専門家を除き、ダアウインの著書も読まぬ癖に、恬然(てんぜん)とその説を信じている。猿を先祖とすることはエホバの息吹きのかかった土、――アダムを先祖とすることよりも、光彩に富んだ信念ではない。しかも今人はことごとくこう云う信念に安んじている。

これは進化論ばかりではない。地球は円いと云うことさえ、ほんとうに知っているものは少数である。大多数は何時か教えられたように、円いと一図に信じているのに過ぎない。なぜ円いかと問いつめて見れば、上愚は総理大臣から下愚は腰弁に至る迄、説明の出来ないことは事実である。

次ぎにもう一つ例を挙げれば、今人は誰も古人のように幽霊の実在を信ずるものはない。しかし幽霊を見たと云う話は未いまだに時々伝えられる。ではなぜその話を信じないのか? 幽霊などを見る者は迷信に囚とらわれて居るからである。ではなぜ迷信に捉われているのか? 幽霊などを見るからである。こう云う今人の論法はもちろんいわゆる循環論法に過ぎない。

況いわんや更にこみ入った問題は全然信念の上に立脚している。我々は理性に耳を借さない。いや、理性を超越した何物かのみに耳を借すのである。何物かに、――わたしは「何物か」と云う以前に、ふさわしい名前さえ発見出来ない。もし強いて名づけるとすれば、薔薇とか魚とか蝋燭とか、象徴を用うるばかりである。たとえば我々の帽子でも好い。我々は羽根のついた帽子をかぶらず、ソフトや中折をかぶるように、祖先の猿だったことを信じ、幽霊の実在しないことを信じ、地球の円いことを信じている。もし嘘と思う人は日本に於けるアインシュタイン博士、或はその相対性原理の歓迎されたことを考えるが好い。あれは神秘主義の祭である。不可解なる荘厳の儀式である。何の為に熱狂したのかは「改造」社主の山本氏さえ知らない。

すると偉大なる神秘主義者はスウエデンボルグだのベエメだのではない。実は我々文明の民である。同時に又我々の信念も三越の飾り窓と選ぶところはない。我々の信念を支配するものは常に捉え難い流行である。或は神意に似た好悪である。実際又西施(せいし)や竜陽君(りゅうようくん)の祖先もやはり猿だったと考えることは多少の満足を与えないでもない。

自由意志と宿命と

兎とに角かく宿命を信ずれば、罪悪なるものの存在しない為に懲罰と云う意味も失われるから、罪人に対する我我の態度は寛大になるのに相違ない。同時に又自由意志を信ずれば責任の観念を生ずる為に、良心の麻痺を免れるから、我我自身に対する我我の態度は厳粛になるのに相違ない。ではいずれに従おうとするのか?

わたしは恬然と答えたい。半ばは自由意志を信じ、半ばは宿命を信ずべきである。或は半ばは自由意志を疑い、半ばは宿命を疑うべきである。なぜと云えば我我は我我に負わされた宿命により、我我の妻を娶めとったではないか? 同時に又我我は我我に恵まれた自由意志により、必ずしも妻の注文通り、羽織や帯を買ってやらぬではないか?

自由意志と宿命とに関らず、神と悪魔、美と醜、勇敢と怯懦きょうだ、理性と信仰、――その他あらゆるてんびんの両端にはこう云う態度をとるべきである。古人はこの態度を中庸と呼んだ。中庸とは英吉利語イギリスごの good sense である。わたしの信ずるところによれば、グッドセンスを待たない限り、如何なる幸福も得ることは出来ない。もしそれでも得られるとすれば、炎天に炭火を擁ようしたり、大寒にうちわを揮ふるったりする痩やせ我慢の幸福ばかりである。



あらゆる神の属性中、最も神の為に同情するのは神には自殺の出来ないことである。
 又
我我は神を罵殺する無数の理由を発見している。が、不幸にも日本人は罵殺するのに価いするほど、全能の神を信じていない。

民衆

民衆は穏健なる保守主義者である。制度、思想、芸術、宗教、――何ものも民衆に愛される為には、前時代の古色を帯びなければならぬ。いわゆる民衆芸術家の民衆の為に愛されないのは必ずしも彼等の罪ばかりではない。
 又
民衆の愚を発見するのは必ずしも誇るに足ることではない。が、我我自身も亦民衆であることを発見するのは兎とも角かくも誇るに足ることである。
 又
古人は民衆を愚にすることを治国の大道に数えていた。丁度まだこの上にも愚にすることの出来るように。――或は又どうかすれば賢にでもすることの出来るように。

賭博

偶然即ち神と闘うものは常に神秘的威厳に満ちている。賭博者も亦この例に洩もれない。
 
古来賭博に熱中した厭世主義者のないことは如何に賭博の人生に酷似しているかを示すものである。
 又
法律の賭博を禁ずるのは賭博による富の分配法そのものを非とする為ではない。実はただその経済的ディレッタンティズムを非とする為である。

懐疑主義

懐疑主義も一つの信念の上に、――疑うことは疑わぬと言う信念の上に立つものである。成程それは矛盾かも知れない。しかし懐疑主義は同時に又少しも信念の上に立たぬ哲学のあることをも疑うものである。

自由

誰も自由を求めぬものはない。が、それは外見だけである。実は誰も肚はらの底では少しも自由を求めていない。その証拠には人命を奪うことに少しも躊躇しない無頼漢さえ、金甌無欠(きんおうむけつ)の国家の為に某某を殺したと言っているではないか? しかし自由とは我我の行為に何の拘束もないことであり、即ち神だの道徳だの或は又社会的習慣だのと連帯責任を負うことを潔しとしないものである。
 又
自由は山巓(さんてん)の空気に似ている。どちらも弱い者には堪えることは出来ない。
 又
まことに自由を眺めることは直ちに神々の顔を見ることである。
 又
自由主義、自由恋愛、自由貿易、――どの「自由」も生憎あいにく杯の中に多量の水を混じている。しかも大抵はたまり水を。

或物質主義者の信条

「わたしは神を信じていない。しかし神経を信じている。」

自殺

万人に共通した唯一の感情は死に対する恐怖である。道徳的に自殺の不評判であるのは必ずしも偶然ではないかも知れない。
 又
自殺に対するモンテェエヌの弁護は幾多の真理を含んでいる。自殺しないものはしないのではない。自殺することの出来ないのである。
 又
死にたければいつでも死ねるからね。
ではためしにやって見給え。



マインレンデルはすこぶる
正確に死の魅力を記述している。実際我我は何かの拍子に死の魅力を感じたが最後、容易にその圏外に逃れることは出来ない。のみならず同心円をめぐるようにじりじり死の前へ歩み寄るのである。

無意識

我我の性格上の特色は、――少くとも最も著しい特色は我我の意識を超越している。



罰せられぬことほど苦しい罰はない。それも決して罰せられぬと神々でも保証すれば別問題である。



道徳的並びに法律的範囲に於ける冒険的行為、――罪は畢竟こう云うことである。従って又どう云う罪も伝奇的色彩を帯びないことはない。


「昭和文学全集 第1巻」小学館
1987(昭和62)年5月1日初版第1刷発行