ドストエーフスキイ全作品を読む会 読書会通信 No.192
 発行:2022.5.25


読書会のお知らせ

月 日 : 2022年6月4日(土) 
場 所 : 池袋・東京芸術劇場小会議室5(池袋西口徒歩3分)03-5391-2111
開 場 : 午後1時30分 
時 間 : 午後2時00分 ~ 4時45分
作 品 : 『貧しき人々』第2回目 
テーマ : ジェーヴシキンの文学論
 プーシキンの「駅長」とゴーゴリの「外套」をめぐって 会場費 : 1000円(学生500円)

☆8月読書会は、2022年8月20日(土)開催予定です。
 会場は、東京芸術劇場小5会議室 午後2時00分~4時45分 作品『分身』

☆第69回「大阪読書会」は、2022年5月27 日(金)
 時間 14:00~16:00 作品『分身』1―9章
 会場 東大阪ローカル記者クラブ 



資 料1
 

ドストエフスキ―年譜『貧しき人々』まで(1821-1847)
典拠:『ドストエフスキー写真と記録』V・ネチャーエワ 編訳・中村健之介 論創社

1821年10月30日 フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキー、モスクワのマリヤ慈善病院右翼棟で生まれる。父ミハイル・アンドレィヴィチ(医師)母マリヤ・フョードロヴィナ(旧姓ネチャーエワ)
1825年10月 兄ミハイルと共に、家で両親と通いの教師から初等教育を受ける。
1831年(10歳) 母名義でモスクワから約150㌔南の、トゥーラ県カシーラ郡に小村ダーロヴォエを購入。この年から1836年まで、夏の数カ月は家族と共にダーロヴォエ村で過す。32年父ダーロヴォエの隣村チェレモーシニャを購入。
1837年2月27日 16歳母マリヤ・フョードロヴナ死去。この年プーシキン決闘で死ぬ。
1838年1月16日 工兵学校初等技術者クラスに入学。
1839年6月(18歳)父ミハイル・アンドレィヴィチは37年に退職し、下の子供たちと共にダーロヴォエ村に住んでいたが、農奴たちによって殺害された。
1841年2月16日((20歳) 兄のレーヴェリへ帰る送別会で、自作の戯曲『ボリス・ゴドゥノーフ』と『マリヤ・スチェアルト』を一部朗読。
1841年8月5日 工兵少尉補に昇級。学外に間借りして移る。
1843年8月12日(22歳)工兵学校を卒業、現役軍務に就任、工兵局製図室に配属。
1844年9月(23歳)勤務先の工兵局製図室に退役許可願を提出。
1844年10月19日 一身上の理由による退役 許可が下りる。
1844年10月 D.V.グリゴローヴィチと同居『貧しい人たち』の執筆に打ち込む。
1845年1月4日『貧しい人たち』の執筆に打ち込む。再三書き直す。
1845年5 月4日『貧しい人たち』をグリゴローヴィチに読んで聞かせる。グリゴローヴィチは『貧しい人たち』の原稿を『ペテルブルグ文集』に載せてもらうべく、ネクラーソフに渡し、二人で徹夜して原稿を読み、明け方共に訪ねてくる。ネクラーソフはその日のうちに原稿をべリンスキーに渡す。
1846年1月15日『貧しい人たち』の載った『ペテルブルグ文集』発行。
1846年3月※日『祖国雑報』に『貧しい人たち』を高く評価するべリンスキーの批評が載った。
1847年秋『貧しい人たち』の単行本出版。



資 料2

書簡にみる『貧しい人たち』をめぐって
典拠:『ドストエフスキー写真と記録』V・ネチャーエワ 編訳・中村健之介 論創社

☆N・M・ヤズィコーフのN・V・ゴーゴリ宛の手紙。1846年2月18日
(ヤズィコーフ=1803-46ロシアの詩人)
『祖国雑誌』の言うところによれば、ピーテルの町に、ドストエフスキーとかいう新しい天才が現れたそうだ。その小説がネクラーソフの文集に載っている。それを読んで、君の意見を聞かせてほしい…

☆N・V・ゴーゴリのA・M・ヴィエリゴールスカヤ宛の手紙 1846年5月14日(ヴィエリゴースカヤ=ゴーゴリが愛した女性)
『貧しい人たち』は読み始めたばかりで、3ページほど読み、この新しい作家の文章のこしらえ方や癖を見ようと途中をのぞいてみただけです…『貧しい人たち』の作者に才能があることは分かります。書く対象の運び方が、彼の精神的資質の優秀さを物語っています。が、この人がまだ若いことも出ています。まだ要らぬおしゃべりが多すぎる。きりっとした集中が足りません。もっと引き締めていたら、全体が遥かに生き生きとした力強いものになったことでしょう。もっとも、私はまだお終いまで読まずに、ざっとページをくってみただけで言っているのですが。

☆ドストエフスキ―の兄ミハイル宛の手紙 1845年10月15日
…べリンスキーは、早くゴリャートキンを書き上げろとせっついています。もう彼はゴリャートキンのことを文壇全体に宣伝していて、クラエフスキー(『祖国雑誌』編集発行人)に売る約束までしかねないようなありさまです。『貧しい人たち』の方は、ペテルブルグの住人の半分近い数の人々が噂しています…

☆ドストエフスキ―の兄ミハイル宛の手紙 1845年11月16日
さて、兄さん、ぼくの名声がこれほどの高みに達することは、今後二度とないでしょう。どこへ行っても信じがたいほどの崇拝です。ぼくに対する関心たるや、すざましいものがあります。数え切れないくらい、たくさんの、最高級の人たちと知り合いになりました…みんながぼくのことを奇跡的存在か何かのように迎えてくれます…

☆ドストエフスキ―の兄ミハイル宛の手紙 1846年2月1日
『貧しい人たち』は、1月15日にもう出ました。ところが兄さんそれが到るところでまったくひどい罵倒をもって迎えられたのです! 『挿絵』誌でぼくが読んだのなどは、批評じゃなくて悪口雑言です。『北方の蜜蜂』紙に載ったものときたら、何が何だかわかりません…一般読者までがかんかんに腹を立てています。読者の四分の三がののしっていますが四分の一(そこまでいかないかしれませんが)は、めちゃくちゃに褒めちぎっています…その代わり、実にすばらしい賛辞もも聞こえてきます! ニキチェンコが批評を描いている『読書文庫』誌に『貧しい人たち』についての、ぼくに有利な長大な研究論文が載る予定です。べリンスキーは3月に賑やかに花火を上げてくれることになっています。
(ニキチェンコ=元農奴のペテルブルグ大学の教授日記は貴重な資料)



資 料 3 



『貧しき人々』読書会参考資料
 (編集室)

『貧しき人々』のエピグラム

おお、なんたる物語作家たちだ!なにか有益な、愉快な、心楽しませる話でも書くことか、こともあろうにこの世のいっさいの秘密をほじくり出すなんて!いっそ書くことを禁ずべきだ!まったく不都合きわまる、読めば・・・・・つい考えこまざるをえないし、そうなれば、いろいろと無用なたわごとも頭に浮かぼうというものだ。ほんとに、書くことを禁じたらいい。いや、ともかく、断然禁止すべきだ。  V.F.オドエフスキー公爵

V.F.オドエフスキー公爵(1803-69)
ロシアの作家、音楽批評家。この文章は彼の短編『生きている死者へ』(1938)の結末の言葉。出世コースを歩んだ官吏の死後、超能力を得た彼の霊魂が部下や息子たちの自分についての取沙汰や行状を見て歩くという筋で、最後にそれが夢であることを知った主人公が、目覚めてこの言葉を叫ぶ。(江川卓)

プーシキン『駅長』についてのジェーヴシキンの感想 
7月1日の手紙より (江川卓 訳)

・・・・・私は無学な人間です。これまでに読んだ本もわずかです。ところが、こんどあなたのご本で、『駅長』を読んだのです。長年ずっと生きてきても、すぐ手近に、自分の生活のいっさいが、それこそ指でさすように書かれている本があるのを知らずにいるということもあるものなのですね。以前には自分でもとくとわからなかったことが、こういう本を読んでいくうちに、少しずつ思い出されてきて、なるほどとわかってきます。・・・・・この本を読んでいると、まるで自分が書いたようで、それこそ、私自身の心を、それがどんなものであろうと、そのままそっくり取ってきて、みんなに裏返して見せ、何から何までこまごまと書いたというような気がするのです。そうなんですよ!おや、簡単なことじゃないか、ほんとうになんてことはない!私にだってこのくらいなら書けそうだ、どうして書けないことがあるだろう?だって、私自身が同じことを感じているのですものね。・・・・・ほんとうにどこにでもあることで、あなたや私の身の上にだってふりかかるかもしれないことなんです。ネフスキー通りや海岸通りに住んでいる伯爵にしたって、やはり同じことで、ただ違ってみえるのは、ふつうの人とは違って、上品だからというだけで、伯爵だって同じこと、そうならないとはかぎらないのです。そうでしょう、ワーレンカ、だのにあなたは、これでもまだ私たちを棄ててどこかへ行こうとなさるのですか。ワーレンカ、思いなおしてください。つまらない忠告やおせっかいには耳を貸さないことです。あなたの本をもう一度、しっかり身をいれて読んでみてください。きっとあなたのためになるでしょう。

ゴーゴリ『外套』についてのジェーヴシキンの感想 
7月8日の手紙より (江川卓 訳)

お借りしたあなたのご本をとりいそぎお返して釈明しておきます。私をこんなひどい目に遭わせるなんて。およそ人間の境遇というものは至高の神様によって各人ごとに定められているはずのものです。才能そのものは神様によってあたえられているのです。私はもうかれこれ三十年も役所勤めをつづけ、別に非難されることもなく、品行も方正で、規律を乱したことなど一度もありません。一人の市民として欠点もあるが、同時に長所もあると深く自覚しております。これまでとりたてて好意を示されたことはありませんが、それでも長官が私に満足しておられることを知っています。もちろん、小さな過ちはだれでもあることです。しかし、法令に違反したとか、社会の安寧を害した、そんなことは一度もありませんでした。十字勲章さえ、いただけるところでした ─、こうしたことをあなたがご存じないはずはありませんし、あの男(作者ゴーゴリを指す)にしても知らないではすまないはずのことです。物を書こうとするからには、何もかも知っていなければならないはずですものね。こんなことになっては、もう自分の小さな部屋に引きこもっておとなしく暮らすこともできないじゃありませんか。・・・・・お前は数だけの下着を持っているか、靴の底には何を張っているか、何を食べ飲み、何を浄書しているか、とこうくるのですからね。こちらはせっせと勤勉につとめている、それでいいじゃないですか。ところが、これという理由もないのに、いきなり悪質な物笑いのたねにするんです。それにしても、こんな本が野放しになっているのが、心から不思議でなりません。長官が私どもを叱りつけることが必要な場合なら、どなり散らして当然です。なぜかというと、私ども小役人は、そうしないと何もしないのです。この予防装置がなかったら、世の中も立って行かないし、秩序もなにもあったものではないでしょう。それに、なんのためにこんなことを書くのでしょう。なんのために必要なのです?読者のだれかがこれを読んで私のために外套を作ってくれるとでもいうのですか?いいえ、ワーレンカ、読みとばして、せいぜいつづきを要求するだけです。こうなると私などはじっと身をひそめていなくてはなりません。なぜって、市民としての生活が、すべて文学に取り上げられ、印刷され、読まれ、笑いものにされ、取沙汰されて、私は往来へ出ることもできなくなります。まあ、結末をもう少しなんとかすればよかったでしょう。「彼は、ちゃんと取り柄のある市民で、同僚からそんな仕打ちをされるいわれはなかった。神を信じ、みなに惜しまれて死んだ」とでもすればよかったのです。けれど何よりいいのは、この気の毒な男を死なせないで、外套も探し出され、例の将軍が、彼の官等と俸給を上げてやるというふうにすることでした。これでは日常の醜悪な生活のなかから何かつまらぬ例を引いてきたというだけにすぎません。これは悪意のある物語ですよ。ワーレンカ。

ドストエフスキー作品における「駅長」と「外套」の類似場面

1. ルーブリ紙幣を投げ捨てる

プーシキン『ベールイキン物語』「駅長」のシメオン・ヴィリン
<シメオン・ヴィリンが娘を取り返そうとして、大尉を訪ねる場面> 神西清 訳

「ドゥーニャは私を愛している。以前の身分などはすっかり忘れているんだ」娘を奪い去った大尉は、そう言うと、駅長の袖の折返しに何やら押し込んで、扉を開けた。駅長は無我夢中で、いつの間にやら往来に出ていた。長いこと身動きもせずに立っていたが、やがて、袖の折り返しに、何やら巻いた紙幣の入っているのに気がついた。引き出して伸ばして見ると、数枚の皺だらけの50ルーブリ紙幣だった。涙がその眼に湧いた─忿怒の涙が!彼は紙幣を揉みくしゃに丸めて、地面に投げつけ、踵で踏みつけると、そのまま歩き出した。・・・・・5,6歩あるいてから、彼は立ちどまって、ちょっと思案した上で・・・・・取って返した。・・・・・が、紙幣はもう影も形もなかった。身なりのいい若い男が、彼の姿を見ると辻馬車のところに駆けつけて、急いで乗り込むなり、「さあ出した!」と叫んだのである。

『カラマーゾフの兄弟』のスネギリョフ大尉
2部4編 意地づく7:清らかな空気のもとでも (江川卓訳)
<アリョーシャがカチェリーナからあずかった200ルーブリをスネギリョフに渡す場面>

スネギリョフは、話の間、右手の親指と人差指で二枚重ねて端をつまんでいた虹色の百ルーブリ紙幣を、いきなりアリョーシャの目の前に突きつけたかと思うと、突然すさまじい勢いでひっつかみ、揉みくちゃにして、右手の拳できゅっと握りしめた。
「ごらんになりましたか、ごらんになりましたか!」彼は真っ青な取り乱した顔つきでアリョーシャに向かってこう叫び立てると、いきなり拳を振りあげ、しわくちゃになった二枚の百ルーブリ紙幣を力いっぱい砂の上に叩きつけた。

2. 閣下の御前で

『外套』アカーキイ・アカーキエウィッチ
<盗まれた外套をとり戻すため、有力者に尽力を頼む場面>?平井肇 訳

「君はそんなことをいったい誰に向かって言っているつもりなんだ? 君の前にいるのがそもそも誰だかわかってるのか? わかってるのか? わかってるのか? さ、どうだ?」と有力者は言った。
ここで彼は、アカーキイ・アカーキエウィッチならずとも、ぎょっとしたに違いないような威丈高な声を張りあげながら、どしんと一つ足を踏み鳴らした。アカーキイ・アカーキエウィッチはそのまま気が遠くなり、よろよろとして、全身をわなわなふるわせ始めると、もうどうしても立っていることができなくなってしまった。

『貧しき人々』のジェーヴシキン<9月9日の手紙:書類の筆写でミスをして、閣下に呼びだされた場面>?江川卓 訳

閣下は怒っておっしゃいました。「いったいこれはどうしたことかね、きみ!何をぼんやりしているのかね?必要な書類で、急ぎの書類なのにきみはそれをだいなしにしてしまったじゃないか」
私はただぼんやりと「怠慢だ!不注意だ!」という言葉が飛んでくるのを聞いているばかりでした。お詫びを申し上げようと思ったのにそれもできず、逃げ出そうと思ったのですが、これもできませんでした。と、そのとき・・・・・、いまでも恥ずかしさにペンを持つ手が震えるような出来事が起こったのです。私のボタンが ─ 糸一本にやっとぶらさがっていた私のボタンが ─ ふいにちぎれて、床に一つはずんだかと思うと、ぴょんぴょん跳ねて、からんからん音をたてながら、まっすぐに、ええ、こん畜生め、まっすぐ閣下の足元にころがっていったのです、それもみながしんと成りをひそめている真っ最中にです!

参 考 情 報

文学に現れた役人像と等級
典拠:R.ヒングリー『19世紀ロシア作家と社会』川端香男里 訳 昭和46(1971)

帝政時代には多くの作家が帝国の官僚制度の働き方を、不体裁な茶番(ファルス)として描いた。忘れがたいのは『検察官』と『外套』である。ゴーゴリの弟子の若きドストエフスキーは『貧しき人々』と『分身』を書いた。読者にわけがわからない当時の習慣に、文官のなかでも一等官から五等官までを「将軍」(ゲネラール)と呼ぶ習慣がある。ロシアの小説では、ゲネラールと呼ばれる人物がたくさん登場する。これら高等文官は軍服を着たこともなければ、鉄砲のどちらが先か後かもわからないようなことがあった。このような将軍たちの多くは滑稽な人物として描かれることが多かった。(例えば『白痴』のイヴォルギン将軍)そのなかでも、やや低めの名義上の参事官(九等文官)が一番コミカルだということになっていた。九等官という名前が出てくるだけで、読者は快い緊張感を覚え、どんなどたばたが演ぜられることだろうと待ち受けるのである。

官吏の等級はピョートル大帝が創始した。1722年に文官とそれに対応する陸軍武官の十四等から成る官吏等級表を発布した。その後わずかな改訂がほどこされただけで、1917年まで通用していた。(十一等文官、十三等文官は19世紀前半に、八等官相当だった少佐の階級は、1884年に廃止)ちなみに文官の第一等は、尚書(大臣、若しくは実権ある一等枢密議官名義参事官)、陸軍武官の第一等は陸軍元帥である。文官の第九等は陸軍二等大尉にあたる。
一、二等級は「いと高き閣下」、三、四、五等級は「閣下」と呼ばれた。夫人も夫と同じ敬称を奉られた。官吏たちの主たる関心事は、色とりどりの勲位、勲功章にあった。たとえば、聖ヴラジーミル勲章には4つの等級があったが、その最下等の等級でも、授与されたものは貴族の世襲身分に列せられることになっていた。

『外套』のアカーキイ・アカーキエウィッチと『貧しき人々』のジェーヴシキンは九等官、『駅長』のシメオン・ヴィリンは十四等官、スネギリョフは二等大尉なので、九等官である。



資 料 4  


『貧しき人々』から構想を得たと思わせる小説と映画
 (編集室)

◇谷崎潤一郎『痴人の愛』(大正13年)
真面目な電気技師(28)と奔放な踊り子ナオミ(15)の関係。

◇ドイツ映画『嘆きの天使』1930年公開 原作ハインリヒ・マン 監督ジョセフ・フォン・スタンバーグ 踊り子ローラ・ローラ= マレーネ・ディートリヒ
教授イマヌエル・ラート教授=エミール・ヤニングス
堅物の大学教授が踊り子にのめりこむ。

◇映画『七人の侍』1954年 黒澤明監督
侍を雇う米を盗まれ、土間に落ちている米粒を泣きながら拾う場面。ジェーヴシキンが転がり落ちたボタンを追っかける場面が重なる。みじめさをより演出させている。



私は、なぜ『貧しき人々』を読むのか

ドストエフスキ―からチェーホフへ
典拠:『21世紀ドストエフスキ―がやってくる』参照。集英社2007.6.10

井上ひさし

『貧しき人々』をよく読むのは、この処女作にドストエフスキ―のすべてがあるからで、「処女作にその作家の総体が現れる(作家は処女作から逃げられない)」という文学的俗諺は、ドストエフスキーにかぎって真実である。

彼は「告白」が好きだった。生涯を通して、人間の二重性の謎(一人の人間に天使と悪魔が同居するのはなぜか)を掘り下げようと腐心した彼には告白という手法が役に立った。人間の内面を探る鋭い錐(きり)としての告白形式。『貧しき人々』の体裁は書簡体小説で、書簡ぐらい「告白」に向いているものはない。

よく知られているように、ドストエフスキーはたいへんな勉強家だった。たとえば工兵学校の教官サヴェーリエフは、「鼓手(こしゅ)が耳元で太鼓を叩いて食事や点呼を知らせても、未来の作家は、小説を読むのに夢中だった」と証言しているが、そういう猛烈な勉強から彼は、バルザックのみすぼらしい下宿で住人たちからあざ笑われているゴリオ爺さんを、ゴーゴリの、外套に命がけのアカーキェヴィチを、そして当時流行の通俗恋愛小説の登場人物たちを選び出し、一篇の叙情詩を作り上げた。それがこの『貧しき人々』である。先行する文学作品をいったん自分のところで堰き止めて文学的な巨大なダムを築き、そこから再創造するやり方。べつにいえば、彼は世界文学駅伝競走の偉大な中間走者で、それまでの人間が作った全作品をタスキのように受け取って、たいへんな距離をたいへんな速度で走った。小説を書く者にとって、これほど有益な教材はない。(以下、略)

<<作家井上ひさしは、『貧しき人々』について「小説を書く者にとって、これほど有益な教材はない」と述べている。実際、この小説は、いろいろな物語の土壌となっている>



4・2読書会報告
 

参加者14名。コロナ感染者数高止まりのなか、無事6サイクルのスタートができました。第6波のコロナ禍でしたが、14名の参加者がありました。
参加者の好みで選んだ手紙を朗読しました。それぞれ違っているのが、かえって興味深くてよかった、また、声を出して朗読することによって、よりリアルに感じられ、現代の物語という印象が強まったという感想がありました。



『貧しき人々』読書会の50年の軌跡


・2022年4月読書会『貧しき人々』 第6回サイクルスタート 参加者14名
・2011年1月読書会 アサドク『貧しき人々』(アサドクは2回で終了)
・2010年12月読書会 『貧しき人々』参加者18名
・2010年10月読書会 『貧しき人々』第5回サイクルスタート 参加者15名
・2001年2月読書会 『貧しき人々』 
・2000年12月読書会 『貧しき人々』参加者28名
・2000年10月読書会 『貧しき人々』第4回サイクルスタート
・1990年 4月読書会 『貧しき人々』第3回サイクルスタート
・1978年 5月読書会 『貧しき人々』第2回サイクルスタート 
コンサートホール
・1971年 4月読書会 『貧しき人々』第1回サイクルスタート 参加者12名



連 載
 

「ドストエフスキー体験」をめぐる群像
(第101回)それでも、ドストエフスキーはプーチンの戦争を許さない。

福井勝也

プーチンによるウクライナ戦争が開始されて二ヶ月が経過した本日(4/24)、本稿を書き始めている。現時点で、幾つかの意外なことが起きている。当初、圧倒的なロシア兵力によるウクライナの早期敗退が予測されたが、ゼレンスキー大統領の世界を巻き込んだ巧みな情報戦もあって、ウクライナの予想以上の善戦が続き、長期戦の気配が濃くなっている。

かし何より驚き勇気づけられたことは、ウクライナ国民の戦争勝利への確信の強さだろう。それをあえてナショナルなイデオロギーとは呼ばない。それは、集団的であるよりは、ウクライナ国民ひとり一人の心情の自然的な発露だと思えるからだ。それはむしろ、蜜蜂などの生物的な防衛本能に近いものであって、それが団結した力を産んでいる。

現在戦線は、ロシアが初期陥落を見込んだキーウ(キエフ)攻略の失敗から東部ドンバス地域へと移り、都市マリウポリのアゾフスタリ製鉄所には、多数の子どもを含む市民が地下に長期間取り残された。その悲劇的な現実が世界に流布された。それに対するプーチンのロシア国内向けアピール、一方的な戦闘勝利と虚偽の攻撃中止宣言に加え、「蝿一匹出すな」との冷酷な施設封鎖命令。それらは、プーチン権力の露骨な専制主義と罪深い戦争を遂行する独裁者の悪魔的姿を写す映像として世界に向け発信された。

既に数えきれぬ無辜の子ども達が虐殺されている現実があり、イワン・カラマーゾフの神を呪う叫びが、プーチンへの批難に重なって聞こえて来ても不思議でない。そんななか、戦争開始以来作家ドストエフスキーへの様々な言及が聞こえ始めている。

そして<ドストエーフスキイの会>の次回例会(5/29)では、早大院生町田航大氏の発表「いま、ドストエフスキーの言葉がいかに歪曲されているか」が予定されている。ここに、事前に届いた報告要旨の要点を引用させていただく。「本発表はそのような(歪曲と見られる、注)事例を紹介しつつ、作家・評論家ドストエフスキーの紡いだ言葉が、戦争のもたらす混乱のなかで単純化されてしまう問題について報告する。(中略)従来のドストエフスキー研究では、小説作品に対する多種多様なアプローチがなされてきた一方、『作家の日記』をはじめとする評論作品にはあまり関心が向けられてこなかったように思われる。ロシアの民衆やキリスト教などに関するドストエフスキー自身の見解を『作家の日記』から参照することはあっても、この作品そのものが有する具体的性格や文体的特徴、この作品内で提示された作者の見解の背景などについて、歴史的文脈に照らした綿密な研究が十分なされてきたとは言い難い。本発表ではこうした状況をふまえ、作者自身の意図と無関係に『作家の日記』を引用する行為がいかなる問題を孕んでいるかを指摘しつつ、『作家の日記』自体の専門的研究を行う意義を改めて問い直したい。」(「会」ニュースレター、No.163)

実は当方も、昨年二月のDSJシンポジウムで『作家の日記』を扱った渡辺京二氏の著書『ドストエフスキイの政治思想』を取り上げた(「通信」No.185)。その『作家の日記』の紹介意図がここでの町田氏のそれとほぼ重なっていて、一年後の意外な展開に驚いている。

現在のプーチンの戦争は、これまでの冷戦以後の世界秩序に明らかな亀裂を走らせ、核戦争を含む第三次世界大戦の恐怖すら煽るもので許し難い。日本の75年以上続いた「平和」にも深刻な脅威を及ぼしつつある。そんなまさかの危機に遭遇し、長年親しんで来たドストエフスキー文学の読まれ方が変化、深化してもおかしくないだろう。その点でこの二ヶ月が経過して気になるのは、この戦争への内外特に文学関係者の反応が鈍いことだ。当方が近時読み得たのは、亀山郁夫氏の何本かの記事、「緊急報告 無数の橋をかけなおす-ロシアから届く反戦の声」(奈倉有里「『新潮』2022.5)・「緊急掲載 プーチン-過去からのモンスター」(ウラジーミル・ソローキン、松下隆志訳『文藝』2022.夏号)ぐらいか。

そんななかで町田氏の報告は、今回事態に関連するドストエフスキーへの言及に焦点をあて、特に『作家の日記』への歪曲ともとれる引用表現の時事的研究で興味深い。確かに現在進行中の「プーチンの戦争」は、ドストエフスキーが『作家の日記』で言及した同時代の「露土戦争」(1877-78)に重なる地政学的問題が潜在し、そこには今日予言的に聞こえる作家の言葉も発見し得る。それは、例えば「前から言いたく思っていた、スラヴ民族に関するぜんぜん特殊な一つの言葉。」(『作家の日記』1877.11月号第2章の3)を一読すれば明らかに感じ取れる(なお、この部分の示唆は木下豊房氏による)。

その意味では、「プーチンの戦争」は、確かにロシアの近代史を遠くに引きずっている。しかしだからと言って、ドストエフスキーが「プーチンの戦争」を肯定的に考えるだろうとは推測すべきでない。それは、「作家の日記」を的確に読み取ることが前提になる。確かに、これまで潜在して来た歴史的背景が、今日生々しく浮上している。根本的には、ロシアと周辺スラヴ諸国、それらを含むヨーロッパ全体との地政学的因縁が現代に蘇っているのだ。

しかしとにかく間違ってはいけない、大切な大前提に気付くべきなのだ。すなわち「作家の日記」は<イデオロギー>や<プロパガンダ>を語った政治家の文章ではないということだ。大切なのは、『作家の日記』を含む全作品を、作家の一体的な文学的思想表現として読み取ることだろう。そのことを弁えることさえできれば、町田氏が指摘する歪曲化した事例を正すこともできよう。この点で町田氏は、報告要旨の最後に「『作家の日記』自体の専門的研究を行う意義を改めて問い直したい」と語っていた。その通りだと思う。

ここでは、問題に関連して既にある専門的研究者の優れた実例について触れておきたい。その一つが、先述からの渡辺京二氏の『ドストエフスキーの政治思想』であることは間違いない。しかし、こちらは既に報告した内容なので、ここでは繰り返さない。そしてその発表時に、同じ河合塾で渡辺氏と旧知でおられたとのことで、励ましの連絡を下さり、さらに当方の今回連載稿にも、長文の懇切な「感想」を寄せて頂いた方がおられる。本誌面でもお馴染みの現代ドストエフスキー研究の泰斗、尊敬する芦川進一氏からの「感想」であった。

以下ここで、芦川氏にお願いをして「感想」の一部を引用させて頂く。それは、当方拙文の執筆意図に深く共鳴して下さったことへの感謝もあるが、それよりもその頂いた言葉から、芦川氏が何をドストエフスキー研究の核心とされて来られたか、それを今、改めて皆さんと共有したいと感じたからだ。すなわち、ロシアを震源とする「戦争」が起きて「核戦争」や「第三次世界大戦」という言葉すら聞こえて来る今日、それに応えて「ドストエフスキー」をどのように読み直すべきか、その切羽詰まった問いに応えてくれるものとして、芦川氏の研究は貴重な導きに思えたからであった。但し、芦川氏自身の研究姿勢は元々一貫していて、近頃急に唱えられたものでは全くないことも付記しておきたい。

「今回殊に深く共鳴させられたのは、福井さんが「プーシキン演説」とベルクソンに焦点を当てておいでのことでした。更に小林秀雄にも言及されておいでですね。「プーシキン演説」に於ける、ロシア民衆が抱くイエス。「神秘家」の突き詰まるところにいるはずのイエス。「白痴論」で小林が凝視するゴルゴタに向かうイエス。

福井さんが見つめるドストエフスキイとベルクソンと小林秀雄 ―― 彼等が向かう先はイエスに他ならず、私は以前から強く思って来たのですが、福井さんが改めて正面からイエスに焦点を絞られた時、さらに素晴らしい論考が出現すると思われてなりません。

ロシア民衆が心に宿すイエスについてですが、私が以前書いたものにドストエフスキイの写真を考察したものがあり、その一つが「プーシキン演説」の翌日に撮られたものです。その中に、勝手ですが、福井さんの視点と非常に重なり合うものがあるのを感じさせられ、これと今回の福井さんの論考とを突き合わせることで、互いに生産的議論を展開できるように思いました。よろしかったらご一読下さい。河合文化教育研究所・HP「ドストエフスキイ研究会便り」、「ドストエフスキイの肖像画・肖像写真」・第9回目(ここで「プーシキン演説」について論じました)(ゴシックは、筆者福井によるもの。)

ベルクソンの主著二つ(前回当方が取り上げた、『創造的進化』と『道徳と宗教の二源泉』のこと、筆者注)については、大学以来の愛読書として刺激を与えられ続けています。『カラマーゾフの兄弟』との重なりをお感じになったとの、福井さんのご感想に大いに共感させられました。私は大学で当初はベルクソンで卒論を書くつもりでしたが、「神秘家」の行き着く所にイエスを置かないベルクソンに対して、正面からイエスと向き合うパスカルの方を選びました。その延長戦上にいたのがドストエフスキイです。小林秀雄も、全てではないですが、これらの延長線上で理解することが大切で興味深いですね。」

ここでは、とにかく芦川氏の上記論考を読まれることをお薦めしたい。読まれれば、ドストエフスキー最晩年の「プーシキン講演」が紛れもない作家の遺言だったことが分かるはずだ。そしてそのことは、『カラマーゾフの兄弟』が「信仰告白」<イエス像の探求>として書かれたことに重なっていた。さらに今一つ指摘すれば、先般発刊された『広場No.31』の当方エッセイで触れた、パーヴェル・フォーキン氏の問題意識と芦川氏のそれとが何と近似的であることか(なおこの点で、その後芦川氏からフォーキン氏論考との本質的差異に関する指摘があった。ここで当方の早合点を含め付記しておく、できれば別途触れたいと思う)。いずれ自身にとって、芦川氏との「対話」は避けて通れないものとなるだろう。

それと更に、二月にウクライナ侵攻があって直ぐ、急に読み返したくなった文章に小林秀雄の「政治と文学」(1951.10月)があった。読んでみて、改めて感心した。文章は、日本がサンフランシスコ講話(平和)条約を結び、国際的に主権を取り戻すとともに、第一次日米安保条約を締結した時期に発表されている。その戦後体制が、今揺らぎつつあるのだ。

この時期、小林があえて「政治と文学」というテーマで語ろうとした要点は、政治家の語る「イデオロギー」と文学者の抱く「思想」とは質的に全く違うということなのだ。このことを区別しないところから、混乱が生まれる。どうやら町田氏指摘の「歪曲化」も、そこから派生してくる。小林は、この長文エッセイを「私には政治というものは虫が好かないという以上を出ないと思います。」と述べて書き始めている。しかし同時に「政治に関する理論や教説がどうあれ、政治というものに対する自分の根本の生活態度は決めねばならない。もしこれが自分の虫との相談ずくで決ったのでなければ、生活態度とは言えますまい。」とも言明している。そして、その直ぐ後に語られるのが次の文章であった。

「ドストエフスキイに「作家の日記」という政治論文集がありますが、論じられている当時のロシヤの政治や経済の問題が無意味になって了(しま)った今日になって、これが興味ある有益な著書である所以(ゆえん)は、文学者の政治に対する態度が、厖大な論集を通じ、一貫してまことに鮮やかに現れているという処にある。床屋(とこや)政談(せいだん)でも政治論説でもなく、表題の示す通り「作家の日記」たる処にあります。この本に、「プウシキン論」が載っている。これは一八八〇年にプウシキン記念祭で行った有名な講演の筆記です。この講演の中心点は、プウシキンの「オネーギン」という恋愛劇の分析にあるのですが、ドストエフスキイの考えによれば、「オネーギン」は寧(むし)ろ「タチヤナ」と題すべき作で、オネーギンという教養ある複雑な人物より、タチヤナという単純な田舎娘の方が、実は余程高級な本当の意味で聡明な人間だという洞察に、プウシキンの天才があると言う。」 -中略-
「「神に誓って自賛ではないが、私の(プウシキン)講演の成功は講演中にある一つの動かすべからざる真理の力によるのである。-中略- 総決算の時は必ず来る、誰も想像出来ない様な大戦争が起るであろう。私は断言して憚(はばか)らないが、それはもう直ぐ扉の外まで迫っている。君は私の予言を笑うか。笑う人達は幸福である。神よ、彼等に長命を与え給え。彼等は自分の目で見て驚くだろう。」 ドストエフスキイは、翌年死にました。彼は予言などというものを好まなかった人間である。かように激しい調子の文章は、彼の全作品中、他にはないのであります。注意すべきは、彼は既に一聯(いちれん)の大作によって言いたい事は凡(すべ)て言っていたという事だ。彼は恐らく予言などはしてはならぬ、と考えていたのであり、この強い予覚を、一つの沈黙の力として、自分の創作動機のなかに秘めて来たのである。彼は多くの人々を動かした事を知っていたが、作品の根底にある理想を、明からさまに語れば、お目出度い と笑われるにちがいない事もよく知っていた。この難題は、今日も少しも解けてはおりませぬ。」(「政治と文学」1951年10月『文藝』)

ここで小林は、『作家の日記』への核心的理解とそれまでのドストエフスキー全文業と「プウシキン論」との本質的関係について的確に報告している。それは例えば、プーシキンの「タチヤナ」が、トルストイの「アンナ・カレーニナ」とどう違うか、そんな問題を連想させよう。さらに自分には、「プーチン」が今回戦争で政治的に何を唱えようとも、彼が「オネーギン」に発し「スタヴローギン」に極まり、その歪曲化(西欧化)した果ての「化け物」に見えて仕方ないということである。前回論考末尾で、小林の戦後「スタヴローギン(ヒトラー)論」とベルクソンの『道徳と宗教の二源泉』を引用した理由も、この辺にある。ここでは更にもう一箇所「政治と文学」から、小林が政治家(例えば、プーチン)とドストエフスキーの本質的差異を語ったと思われる文章を引用する。併読して欲しい。

「政治家には、私の意見も私の思想もない。そんなものは、政治という行為には、邪魔になるばかりで、何の役にも立たない。政治の対象は、いつも集団であり、集団向きの思想が操れなければ、政治家の資格はない。だから無論、彼等は、思想を自ら創り出す喜びも苦しみも知らない、いや寧ろ、さような詩人の空想を信ずるには、自分はあまりに現実家だという考えを抱いています。既に出来上って社会に出る思想を拾い上げて利用すればよい。利用というのは、各人の個性などにはお構いなく、選挙権並みに、思想を集団の間に分配する事だ。幸いにして出来合いの思想というものは、こういう不思議な作業に堪えますから、ここに指導したい人種と指導されたい人種との間に、馴合(なれあ)いが生じます。何故政治に党派というものが必至かという事も、元はと言えば、思想のそういう扱い方から来ていると思う。幾人にでも分配の可能な、社会的思想という匿名(とくめい)思想には、無論個性という質がないわけであるから、その効力は量によって定まる他はない。例えば、ドストエフスキイの発明した人間の自由に関する思想には、彼のかけ替えのない体験の質によって保証された現実性によってその効力を発揮するが、ある集団の各人に平均的な自由主義という思想には、頭数が増えるだけが頼みである。」(上記出典に同じ。)

ロシアのウクライナに対する戦争は、プーチンという独裁的政治家のイデオロギーが引き起こし、そのプロパガンダによって、無辜の民人と子ども等が死に追いやられている。

これに対してウクライナ国民は、ドストエフスキーが生んだ人間の自由を自らのものにするために、一人ひとりがその戦争と闘っている。ドストエフスキーは、19世紀ロシアが生んだ文学者である。その表現には、一流の批評精神が孕まれていた。そして時代の影が刻印された時事評論も数多く残した。しかしその本質は、歴史と伝統から民衆(個人)と国家の関係を考える思想であった。それはプーチンのイデオロギーの戦争を許さない。何故なら、それは、ドストエフスキーが唱えた人類の理想を踏みにじるものであり、広くロシアの大地を汚すものであって、イエス・キリストの教えに背くものであるからだ。(2022.5.19)



広 場
 


プーチンによる戦争 

上垣 勝

「ドストエフスキー全作品を読む会」が依然として面白い。4月例会は、「貧しき人びと」を読んで、印象に残った手紙の月日に各自が名前を書き込み、それを月日順に読んで感想を述べ合いました。

やはり、ワーニャの部分ははきはきした若い女性に読んでいただくと心地よくグンと胸に響きますね。貧しさの中にも、若い香りがほのかに馨って作品が引き立ちます。マカールはやはり男性、しかもややくたびれた中年男性でなければいけません。少し若い女性への下ごころを感じさせる読み手がよろしいのでは……。

今回、感想の途中でしばしば話題にのぼったのはプーチン大統領のこと。2月24日にウクライナを無遠慮に侵略し、無差別殺人を各地で繰り広げて見るも残酷なやり方にうんざりする声でした。――個人的には、日本の大陸侵略の姿とダブります。当時の中国の人たちも各地でこういう憂き目にあわれたのでしょう!今こそ日本人はあの侵略戦争を考えるべき時です。

ロシアとウクライナは歴史的に一つの国民だと、プーチンの抱く過去の大ロシアの回復、旧ソ連への復帰は21世紀には大いなる違和感があります。ドストの例会ですから、関心は特に、プーチンはドストエフスキーをどのように読んだのか、ドストが描く精神風土とプーチンの関係はどうなのかであったようです。

いつものように客観性も何もない愚論を書いてしまえば、プーチンの心には、イワンと殺人の実行犯スメルジャコフが住んでいるかも知れません。もっと言えば、「悪霊」のスタブローギンも住んでいるでしょう。6千匹の汚れたむちゃくちゃなことをする悪霊レギオンに憑りつかれて、神がいなければ、何をしても許されると、プーさんの心には神などなく、良心も愛も人間性も、人類への尊敬もことごとく排除されて、ただ権力欲があるのかも知れません。神がいないなら何でも許される。そうした無神論を抱き、今や数千発の核兵器の一斉発射権限さえ持つ彼の前で、人類は恐怖におののき、たじろぐのです。

人類は核戦争をどう位置づけるか。長く正面切った議論を避けて来ましたが、これが今後世界の大問題になるでしょう。プーに戻れば、大審問官がそうであったように、今の時代にキリストが現れても何の発言権もなく、再びキリストを十字架につけて、大審問官ならぬプー大統領が世界支配を果たそうという魂胆です。

一体、ウクライナの人たちはどうなるのか、今後、世界はいかに――。

ブレクジットゆえに、30年間住みなれたロンドン郊外のみどり豊かなケントの町から、息子家族が住むイタリアの古都トリエステに住まいを移した知人が、今週、ウクライナの人々への熱い祈りを込めたメールをくれました。もうそろそろ20年もつき合う素敵なイギリス人女性です。

彼女はポーランド東端の町に生まれ、生後わずか数週間後にナチス軍のポーランド侵略を受け、着のみ着のまま急遽家族で当時の旧ソ連のベラルーシからロシアに逃げ込み、やがて彼らは零下40度になる極寒のシベリアの難民収容所に入れられました。その後、各国を転々として10年にのぼる難民生活を強いられ、やがてオーストラリアで教育を受けた女性で、国際アムネスティでも活躍して来ました。やがては家も土地も親戚もあった穏やかな母国の大地に家族で帰ることを願っていましたが、難民生活の途中で両親が離婚。シベリア、ウクライナ、インド、レバノン、その他、幾つもの難民収容所に住み、最後にオーストラリアに移住でき、やがて成人した彼女はイギリスに渡って長年そこで世界の人々の人権のために働き、息子は、今はイタリアで女医と結婚してトリエステに住むことになり、彼女もイタリアに昨秋移ったのです。

世界はプーチンの病気や追い詰められた精神状態にまで切り込んで今後の出方を注視しています。彼は歴史に名を遺す偉大な大統領になるのか、それとも悪名高い人物として嘲笑と嫌悪の的になるのか。もし神も良心も失えば、何でもできるでしょう。思いがけない事、例えば、核戦争を起こさなくても、ウクライナの原発を破壊して死の国土とし、数千万人の難民を欧米に送って欧米を何10年も苦しめ続けることもできるでしょう。自由を持つ人間は、恨みが契機でいかなることをもなさせるでしょう。

ドストエフスキーの小説では、この種の人物は、「完全に我意を通して」、やがて自殺に追い込まれる可能性があります。スメルジャコフと共に、ウラルかどこかに作った地下壕に愛人と隠れて、「余は、何人にも罪を帰せぬため、自分自身の意志によって、甘んじて自己の生命を断つ」と豪語しながら。

だがこれはまだ小説的楽観です。やはり今は核の時代であり、人類の明日はいかにという危機的状況にあります。        




新 聞
 

ドストエフスキーに言及した記事等
★日本経済新聞夕刊 2022年3月31日(木) コラム<春秋>
★産経新聞夕刊 2022年4月19日(火)
ビブリオエッセー「田園の憂鬱(下原敏彦)
★産経新聞夕刊 2022年4月8日コラム<湊町365>ラスコーリニコフ症候群
★産経新聞夕刊 2021年11月30日 「ビブリオエッセー」 提供=編集室

講 演 

大阪読書会の小野元裕さん、ウクライナについて講演
大阪読書会の小野元裕さんは、5月12日(木)13:30から東京・国会参議院会館に於てロシア軍侵攻で戦争状態にあるウクライナの現状を訴え、平和を願い講演しました。

シンポジウム 

第18回国際ドストエフスキー協会(IDS)シンポジウムは8月まで延期
開催日時:2023年8月23日~8月28日
開催場所:名古屋外国語大学

雑 誌

『武道』4月号 2022年4月発行 日本武道館発行 提供=編集室
 
特別寄稿 「町道場の生き残る道」 下原敏彦

昨年夏の東京2020オリンピックで、日本柔道は金メダルラッシュに沸いた。改めて柔道ニッポンの力を世界に知らしめた。まずは選手の皆さんを讃えたい。だが、喜んでばかりいられない現実がある。町道場の激減である。日本柔道を底辺で支える町道場の衰退。日本柔道にとって憂慮すべき問題である。私が運営する町道場はオンボロながら半世紀近く、住宅街の一角に健在である。今年は再建20年になる。この節目を記念して我がオンボロ道場の「生き残った道」を振り返ってみた。



ドストエフスキ―生誕200周年記念原稿募集 ※常時、受付けます。

「私は、なぜドストエフスキ―を読むのか、読みつづけるのか」



編 集 室


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「読書会通信」編集室 〒274-0825 船橋市前原西6-1-12-816 下原敏彦方