ドストエーフスキイ全作品を読む会 読書会通信 No.189
 発行:2021.12.7


第307回12月読書会のお知らせ

月 日 : 2021年12月14日(火) 火曜日開催です
場 所 : 池袋・東京芸術劇場小会議室5(池袋西口徒歩3分)03-5391-2111
開 場 : 午後1時30分 
時 間 : 午後2時00分 ~ 4時45分
プログラム : 口演 模擬法廷「フョードル・カラマーゾフ殺害事件」
口演終了後はフリートーク
会場費 : 1000円(学生500円)



次回読書会は、2022年2月13日(日)開催予定です。
会場は、東京芸術劇場小5会議室14:00~17:45
6サイクルスタートです。作品は処女作『貧しき人々』

「大阪読書会」は、2022年1月28日(金)に第67回大阪読書会を開催予定です。
時間は14:00~16:00 作品は『作家の日記 上』349-376頁
会場は、東大阪ローカル記者クラブ 



【お願い】
会場の東京芸術劇場は、コロナ感染のため、直前まで開催は不確実です。心配な方は当日、東京芸術劇場(03-5391-2111)にご確認ください。会場では姓名と連絡先(電話番号)の記入をお願いしています。参加される方は、検温と体調管理を。発言・朗読の際にもマスク着用が必須です。



ドストエフスキ―生誕200周年記念


2021年は、ドストエフスキー生誕200年です。読書会は発足50年になります。12月14日は、5サイクル最後になります。この節目を記念して文豪最後の作品『カラマーゾフの兄弟』を裁判劇で行う予定です。配役は、当日の参加の皆様にお願いします。14日は火曜日です。

フョードル・カラマーゾフ殺害事件裁判 
脚本 下原敏彦  監修 下原康子
dokushokai.shimohara.net/toshihikotoyasuko/kara12hen.html
参考・引用 
亀山郁夫訳『カラマーゾフの兄弟』光文社文庫(第十二編 誤審)
原卓也訳『カラマーゾフの兄弟』新潮文庫(第十二編 誤審)


参考資料
フョードル・カラマーゾフ殺害事件当日の4兄弟の動き
編集:下原康子
典拠:江川卓訳 『カラマーゾフの兄弟』第5編~第7編
dokushokai.shimohara.net/meddost/karajikan2.html



私は、なぜドストエフスキーを読むのか 生誕200年記念


アンドリーコヴァルチュク(オデッサ日本語教師)   提供=小野元裕さん

他の小説家と比べようがない

「ドストエフスキーは好きな小説家ですか」と聞かれたら、答えるのは難しい。親しい友達、親戚、兄弟、あるいは先生のような存在ですから、他の小説家とは比べようがありません。 実はドストエフスキ―はモンスターなのです。キリスト教のニーチェと呼ばれていますが、まさにその通りです。ドストエフスキ―ほど大きく、人間の情や愛を描いた小説家は他にいません。



10・24読書会報告


「金貸し老婆とその妹強盗殺人事件」第5回法廷の口演者のみなさまご苦労さまでした。
今回の口演は、5回公判だったので物足らなく感じた面も多々あったかと思います。「ド全作品を読む会」HPには第1回公判からUPしてあります。興味ある方は、第4回公判まで通して読んでいただければ幸いです。



『カラマーゾフの兄弟』の謎 (編集室)

ドストエフスキ―の最後の作品『カラマーゾフの兄弟』には、謎が多い。この作品を完成昨という人もいるし、13年後があるという人もいる。空想の羽根をひろげて13年後、アリョーシャが革命的指導者になってコーリャたちと皇帝暗殺を計画、失敗して死刑になるという人もいる。実に様々だ。いったいこの物語は、なにをテーマにした物語か。テロリストの話か、父親殺しの話か、裁判の話か、性格が違う3兄弟の話か。読めば読むほど混乱する。こんなときは、出発点に戻るのが良策だ。

【著者より】米川正夫訳『ドストエーフスキイ全集12』

わたしは自分の主人公アレクセイ・フォードロヴィチ・カラマーゾフの伝記に着手するにあたって、一種の疑問におちいっている。ほかでもない、わたしはアレクセイを自分の主人公と呼んでいるけれど、彼が決して偉大な人物でないことは、自分でもよく承知している。したがって、「あなたがアレクセイを主人公に選んだのは、何かえらいところがあるからですか?」いったいこの男はどんなことをしたのです?だれに、なんで知られているのですか?どういうわけでわれわれ読者は、この男の生涯の事跡の研究に、暇をつぶさなければならないのですか?」といったふうの質問の避くべからざることを予見している。

ここまで読んでわかることは、作者は、アレクセイという人物の全生涯を知ったうえで、この物語をかいている。そこから想像できるのは、主人公、アリョーシャは生涯、あくまでも平凡な一市民として人生を終えたということである。この作品に限らず、ドストエフスキーは、偉大な人物を主人公にはしていない。大人物は、けっして社会を平和にしないし、人間を幸福にしない。大河ドラマで、主人公が大言壮語をはいている。だが、歴史をみれば行きつく先は虐殺か粛清か戦争の繰り返しだ。



連 載 ドストエフスキー体験」をめぐる群像(第98回)


日本ドストエフスキー協会(DSJ)生誕200年記念のつどいzoom(2021.12.5)
「私たちの、魂の同時代人ドストエフスキー」~ リレーメッセージ「ドストエフスキーと私たち」

―― 石牟礼道子とドストエフスキー ――

福井勝也

ご紹介頂いた福井です。まずもって、ドストエフスキー生誕200年おめでとうございます。百年に一度の記念すべき集いに、このようなかたちで参加できましたこと、真に光栄に存じます。今年二月末にも、プレシンポジウムの研究報告ということで、渡辺京二氏の著書を紹介する「ドストエフスキーの政治思想について」を発表させて頂きました。

今回は、その報告のリレー・メッセージではないですが、前回報告で触れた渡辺氏が公私にわたり最後まで支援を惜しまなかった盟友で、代表作『苦海浄土』の作家、石牟礼道子氏とドストエフスキーとの文学的関連について、若干の「感想」を述べさせて頂きます。

実は今年の秋口、これまでも長年参加して来ました多摩地区の市民サークルの読書会で、石牟礼さんの『苦海浄土』の当初刊行部分第1部を読了致しました。小説『苦海浄土』は、最後第3部まで書き継がれて全体が完結しています。そのすべてを、一気に読み通すのは、やはりしんどい、ということで一旦小休止になりました。

それで現在は、作品の序章と初め2章が『苦海浄土』が書き始められた時期(昭和30年代)に重なる『西南役伝説』という作品を新たに読み始めています。題名通り、こちらは西郷隆盛の西南戦争(明治10年、1877年)に触れる内容で、それを実際経験した土地の古老(当時でも百歳を越える農漁民)からの「聞き語り」です。(その内実は、石牟礼氏に独特な感性による「憑依的創作」だとも指摘されます)それは、現時点から考えても貴重な歴史文学であります。結果、「通史」とは異なる民衆が心に刻んだ西南戦争の真実が語られています。そしてご存知の通り、『苦海浄土』も、水俣病被害者の患者さんからの「聞き語り」を軸にした小説で、同時期に書き始められた、同じ文体の連続的作品と言えましょう。

ここでさらに話が飛び、なかなかドストエフスキー出て来ず恐縮ですが、そのような文体から、『戦争は女の顔をしていない』で2015年のノーベル文学賞を受賞したベラルーシのロシア語女性作家スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ(1948~)が思い出されます。そして、彼女の文学を今夏NHKの番組で紹介された沼野恭子氏は、その作品を「声を記憶する膨大な証言による<苦しみ>の交響曲」と表現されました。この点で、石牟礼氏の作品も基本的に同じように評価できる文学だと思います。しかし同時に、両者は微妙に異なるものだとも感じています。ともかく、大筋において20世紀の近代化の極みの大戦争の悲劇や、甚大な惨禍を今も人類に及ぼしつつある環境汚染の直接の被害者の「声を文字化した作品」ということでは、同じ流れのなかの文学表現と考えられます。

石牟礼文学の特徴をもう少しだけ言及すれば、石牟礼さんの小説は、『苦界浄土』もそうですが、あんなに悲惨な中身の話でありながら、道子流ユーモアに満ちていると言うか、その明るさが作品を支えているのです。そしてそれは、遙か昔の古代に遡り、その天草や不知火の海底の人類発生以前の生き物たちが乱舞する宇宙的な生命感覚に溢れた世界が描かれているからなのでしょう。そして実はこのようなお二人の「聞き語りの声の文学」に本質的影響を与えているのが、その「多声性」が指摘されるドストエフスキー文学ではなかったかというのが、今回僕の感想的報告になります。そして更にその要点には、石牟礼文学の特徴と言える人類発生以前に遡る古代ユートピア的世界の幻視、それは前回渡辺京二氏の著書『ドストエフスキーの政治思想』で紹介したドストエフスキーの古代ルーシにおける「ロシア民衆の有する教会」への渇望、「共同性の夢想ともいうべき根源的な衝迫」と言った表現に重なるものがあるからだと思えます。前回『作家の日記』の引用を含む、渡辺氏著作の文章を繰り返しておきます。

「ロシア民衆の教会とは何か。彼はおどろくべき言葉を口にする。<ここで私がいうのは、教会の建物でもなければ、教会につとめる僧侶でもなく、わがロシアの社会主義のことである。>(中略)それは彼がよく口にする<人類の全世界的更新>、すなわち国家と市民社会を止揚する人間結合の、いわば夢想的な表現なのである。<社会的理想とは何か。できるだけ誤りのない、万人を満足させるような社会組織の公式を発見せんとする人間の希求である。人々はこの公式をしらない。人々は有史時代の六千年間これを求めているが、まだ発見することができないのである。蟻は自分の蟻塚の公式を知り、蜂はその蜂窩の公式を知っている。人はその公式をしらぬ>と、彼は暗鬱なおももちで語る。」

ここには、ドストエフスキーが当時の「ロシア民衆」に抱いた共感と石牟礼氏の「水俣病の漁民」への共感とが基本的に同根であったこと、その根底の思想が語られているように思えます。特に今回は、赤字下線部最後のドストエフスキーの言葉が気になりました。これらの言葉の背景には、おそらく既に公開されたダーウィンの『種の起源)』(1859)の影響が考えられます。たとえなかったにしても、ドストエフスキーはより根底的に動物(脊椎動物の人類と節足動物の蟻や蜂)における知性と本能が基本的に等価であること、人間は極度な知性動物故に危険にさらされていることについて、ベルクソンの『創造的進化』(1907)や『道徳と宗教の二源泉』(1932)を先取りするかたちで洞察していたことが分かります。そこから導かれるのが『カラマーゾフの兄弟』(1880)のイワン(悪魔)が語る「地質学的変動」や『悪霊』(1871)のキリーロフが語る「地球と人類の物理的変化」による<人類の全世界的更新>(『作家の日記』)という希望への道筋だろうと思えるのです。そのような意味合いからドストエフスキーと石牟礼道子氏は、人類の遠い過去の進化の記憶から現在を見る視点において、未来を逆向きに辿ろうとしていたと思えるのです。Back to the Future !

最後に、『西南役伝説』(一章・二章)で聞き書きに応えている、当時(昭和37-38年)104歳の漁民老爺と106歳の農民老婆の姿が、『作家の日記』の掌編『百歳の老婆』(1876)に根本のところで重なって感じられて仕方のないことに触れます。言い換えれば、日本近代化の百年の歴史を超えて、その生きた時代の記憶を語る二人の「声」を小説化した石牟礼道子氏の姿が、百年の年齢差はありながら二人と同時代人でもあったロシアの「百歳の老婆」(104歳)の「伝聞」を「後日譚物語」に創作したドストエフスキーとが同じように見えるということでしょう。それは、両作家が「小さきものの生と死」という人類の普遍的な光景を描いているからだと思います。ドストエフスキーは、生誕二百年を祝福される人類の偉大な愛の作家に今なお成長して来ていますが、彼が『百歳の老婆』で最後に書いていたのが、次のような言葉であったことを記して、今回僕のリレーメッセージを終えたいと思います。

子供らはびっくりしたような顔をして、片隅に小さく縮こまりながら、遠くのほうから死んだお祖母さんを眺めている。ミーシャ(曾孫、注)はこのさきどれくらいいきのびるにしても、この老婆が自分の肩で手を握りしめたまま死んだことを、生涯おぼえているに相違ない。けれど、いったんこの少年が死んでしまったら、かつて昔こうした老婆が存在していて、なんのために、またどんなふうにか知らないが、百四年も生きのびていたということを、この地球上にだれひとりしっているものも、覚えているものもなくなるわけである。それに、またなんのために覚えている必要があろう。そんなことはどうでも同じではないか。こうして、幾百万の人がこの世を去って行く、―― だれの目にも入らぬ生活をして、だれの目にも入らないように死んでいくのである。ただこういう百歳からの老人や老婆の臨終の瞬間には、なにかしら一種人を感激させるような、静寂に充ちたあるものが含まれている。いや、それどころか、平和をもたらすような重大なものがひそんでいる。百歳という年は今日まで、なにかしら一種の恐怖をもって人間に働きかけている。神よ、単純にして善良なる人々の生と死を祝福したまえ!  (『ドストエフスキー後期短編集』、米川正夫訳、福武文庫)



広 場

投 稿
  

素人の目に写った「罪と罰

上垣 勝

ドストエフスキー文学のずぶの素人が雑文を書くのですから、厚顔無恥ともお里が知れるともいうもの。まるで他人の誕生日の豪華な晩餐会に無断で闖入した「二重人格」の主人公、ゴリャートキンのような気持です。10月例会の「罪と罰」模擬法廷Ⅴとその後の貴重な諸発言に触発されて、素人だから笑われて元々という気になって愚かにもパソコンに向かいました。

① 突然ですが、私にはドストエフスキーの信仰観はスタティックでなく実にダイナミックなものだという気がします。浅読みですが。もしスタティックなら、ソーニャの信仰をもっと完成した、岩のように強固なものに描いたでしょう。しかし彼女は悩みつつ、躊躇しつつ、また顔を赤らめつつ信仰をやっと表現するだけでなく、信仰を表現しつつ相変わらず黄色い鑑札の女として生活しているのですから、そんな紋切り型の信仰理解からすれば、彼女ほど偽善者か口先だけの信仰者はいないでしょう。いや、その内省もあり、彼女はおずおずして顔を赤らめもするのでしょう。遠藤周作風に言えば、信じているのか信じていないのか自分でもよく分からないので、きつく問い詰められるとオロオロしかねないのが彼女の信仰と言えるかも知れません。 

ドストエフスキーは信仰を、生きた人の姿の中で捉えているのでしょう。だから不信と懐疑の間で揺れ動く信仰になって当然で、もし信仰がダイナミックに活きていなければ、飛ぶ矢は静止しているわけで、空中で止まって静止した矢ほど死んだものはありません。それはどれほど人の目を誤魔化せても、やがて必ずポトンと眼前で落下するでしょう。化けの皮が剥がれます。その様な矢もその様な信仰も何の力もないに違いありません。だが、ソーニャのそれはおどおどしつつ活きていて飛ぶのです。単にアンビバレントではありません。

ソーニャの信仰と言っても、「その信仰で彼女の生活は何も変わらないじゃあないか。無力だ、ロジオンを追ってシベリアに行っても、彼女のような狂信の信仰を幾ら振りかざしても何も問題は解決しないよ」と、うそぶくことはできます。だが、そういう信仰理解こそドストエフスキーの信仰理解から遥かに遠いように見えるのですが、いかがでしょう。

いやむしろ、ドストエフスキーは「罪と罰」の最終場面で、ロジオンの「病み疲れた蒼白い顔にはすでに、更新された未来の曙光、新生活に対するまったき復活の曙光が輝いていた」と書き、長年彼にこびりついていた「弁証法のかわりに、生活が来たのだ」と書きます。ロジオンはシベリアで、やっとたっぷり「空気」に触れたのです。しかも著者は、「そこにはすでに新しい物語、一人の人間が次第に新しくなっていく物語、次第に更生していく物語、一つの世界から他の世界へと次第に移ってゆく物語、これまで全然知られなかった新しい現実を知る物語がはじまろうとしている」と記して小説を閉じることからも窺われます。ロジオン・ラスコーリニコフにも今、夜明が始まろうとしているのです。

完全な夜明と言えなくても、夜明が始まろうとしている。「そんなもんが『完全』な夜明か」と厳しく迫り、絶対性の論理を振りかざして、夜明の始まりは不完全だと混ぜっ返せば小説はぶっ壊しです。それだと作者の意図の強引な歪曲です。人間は皆、謎であり、曖昧で、チョボチョボではないですか。悲しくも、毛状虫は「完全」には死にません。ノアは箱舟に、清い生きものだけでなく、清くない生き物も比率は少ないですが乗せたというじゃありませんか。だからこそ、ソーニャの唇には祈りが現われ、それなしには彼女は生きられないと語るのでしょう。よく分かりませんが、活きた信仰は多分不完全の完全の姿をしているんじゃありませんか。

② 寂聴さんが亡くなりました。以前、田辺訳の「源氏物語」から日本人のことを色々考えさせられました。確か11世紀初頭の作。その500年ほど前、アウグスチヌスは「神の国」を著しました。「キヴィタス・デイ」と言われる大著です。動機は、ローマ帝国の首都ローマにゴート族が雪崩を打って侵入し、何百年も続く永遠の都ローマを略奪して多数が殺戮されます。ローマの旧勢力はすかさず、これは「キリスト教がローマの国教になったからだ」と猛攻撃し、彼はヒッポからそれを駁して膨大な書を書きます。

文明崩壊の音が聞こえ、痛々しいことが方々で次々と起こりますが、騒々しく途方もない略奪が続く中で、神に身を献げた修道女らが犯されることも起こります。彼はこう書きました。「自分の意志が確固不動であり続けるならば、他人が肉体に対して何をしようと、被害者に責任はない。」今では当然でしょうが、当時は自殺を持って矜持を保つべきだとされていました。だが彼は、たとえ被害者に恥ずかしい気持ちを起こさせたとしても、敵が情欲を抱いていかに彼女らに淫らな行為をし、肉体を陵辱しても、主に仕える彼女たちの清い魂まで汚し、陵辱することはできないと言ってこう書きます。「二人がその場にいたが、姦淫を犯したのは一人だけだ。」そしてアウグスチヌスは彼女らに、生き続けよ、自殺するな、主は憐れみ深くその恵みは大きいと書き、励ましたのです。

ロジオンがソーニャの前で床の上に突っ伏し、いきなり彼女の足に接吻」した後、「僕はお前に頭をさげたのではない。僕は、人類全体の苦痛の前に頭をさげたのだ」と語る謎めく場面があります。その後彼は、ソーニャの中に、「汚辱や賤劣」と共に正反対の「美しく清い感情」が同居しているのに驚き、それと共に彼女にはこれまで幾度も「絶望の極」があったかも知れないと思います。ただそれにも拘らず彼女を支えて来たものは何かと問い、「淫蕩でないか」とさえ書いた後、「いやいや、こうした汚辱はすべてただ機械的に彼女に触れたばかりで、真の淫蕩はまだ一滴も彼女の心を侵してはいない――彼はそれを見抜いた」と著者は書くのです。魂への凄い洞察です。彼らの凌辱はいささかも魂を凌辱できず、真の淫蕩は一滴も彼女の心を侵せなかったのです!

識者の中には、ロジオンとソーニャの肉体の結びつきを云々する人もあるようですが、ドストエフスキーは目もくれません。彼が甘美な性の霊肉一致に浸るディテイルを書いたとしても、その秘め事が人の本質を一段と掘り下げることにはならなかったでしょう。著者が見るのはそれを遥かに超え、淫蕩を遥かに超えたところです。そうでなければ、「罪と罰」はおろか、そもそもドストエフスキー文学は成立しなかったでしょう。ドストエフスキーの魂の核を真摯に探って、どうしてその次元でまごまごできるでしょう。これは彼に特徴的な、いと小さき人びとへの愛の視点とも密接に関係しています。素人にはそうとしか思えません。

③ 私が更に興味を持つのは、ソーニャが心の純潔を保ち、気が狂わず、家族を支えて来たのは、彼女が「奇跡」を待っているからでないか、発狂の兆候でないかとロジオンが考える場面です。そこで彼女に、「神によく祈るのかい」と尋ね、彼女が、「神さまを離れて、私がどうして生きられるでしょう?」と答えると、彼は鋭くさらに突っ込んで、「それで、神さまはそれに対してお前に何をして下さるかね?」と問います。すると、「もう黙って下さい!聞かないで下さい!あなたにそんな権利はありません……」と叫び(この時のソーニャは実に断固としています。これは単なる拒絶でなく、いと小さき者の魂の尊厳の叫びだと、作者は言いたいのでしょう)、更に「神さまは何でもして下さいます!」と伏し目勝ちに早口で答えます。それを聞いてロジオンは心の中で、「狂信者だ!狂信者だ!」と繰り返して呟いたと作者は書くのです。

作者はロジオンの思いをこう記しますが、これがドストエフスキーのソーニャに対する考えかというと、そうとは言えません。いや、むしろ私には、「ここに真の信仰者がいる」と、背後から叫ぶ著者の声が聞こえます。日本人一般のように宗教をご利益から考えるなら、彼女の信仰はいささかも経済生活を改善したり、自力で淫売からの卒業へと導くことはありませんから、現実生活には無力だと言いたくなるでしょう。だがそれは皮相的な理解で、ここが著者の考える信仰の核心、最も大切な部分ではないでしょうか。ここを誤解すればいかに優れた批評も元も子もないように素人には見えます。

彼女がロジオンからラザロの復活の場面を読むように求められた時、戸惑いながら読み始め、いつしかそれを、「自分の信仰を告白でもしているように」読んで行きます。

彼女にとって、信仰は現実生活に実利的ご利益として関わって来るものではないでしょう。いや、あるのかも知れませんが、直接のご利益などいいのです。彼女は誰の目にもすっかり行き詰っているのは明らかです。気が狂い始めた肺病末期の義母を支え、残される子らを養い、自分は肉体を売る夜の仕事。ロジオンに言わせれば、「掘割へ飛び込むか、瘋癲病院へ入るか、淫蕩の中へ身を投ずるか」しか道はありません。だが、彼女の信仰は彼女に希望を与え、勇気を授け、不思議な喜びとなり、愛ともなり、明るさともなって、いかなる絶望をも担って行く力を授けているのは確かです。リザベータもそうだったでしょう。

彼女は深くため息をつくでしょう。顔は曇るでしょう。一日が終わると肉体も心もボロボロに疲れ果てているでしょう。だが彼女は、イエスの言葉によって現に日々生かされているらしいのです。「一日の苦労はその日一日だけで十分である。」彼女の信仰は私たちが考える知的な体系的思想とはほど遠く、貧弱な木の十字架を首にかけ、人の後ろに隠れて神に祈るような類です。微風にも転びそうな信仰です。それにも拘らず彼女の「新世界」は、既にそこにおいて、現実的に始まっている気がします。だからシベリアに行けるのでしょう。現実に始まらないならどうしてシベリアに行けるでしょう。

素人目には、ドストエフスキーはロジオンをもソーニャをも、信仰という幻想へ飛躍させようとはしていません。彼が考える信仰は、人を飛躍させることでなく、幻想へ飛躍するとすればその飛躍はやがて必ず地上に落下するでしょう。落下するのであれば幻想ですが、彼女の信仰は飛躍せず光を仰ぐものです。地獄の底から天を、神とキリストを仰ぐのです。「光は闇の中に輝いている。そして闇はこれに勝たなかった。」そのことによってのろのろと一歩ずつ歩いています。飛躍ではなく、「信じ、仰ぐ」のです。彼女は単純にそれのみです。主観的なピスティス=信仰でなく、向こうから来るピスティス=真実でしょう。すなわち己の信仰心でなく、神の側からの真実を受けて、あるいは永遠から来る光に照らされて仰いでいるのでしょう。

ソーニャは人間を断罪し差別する、毛状虫による自己絶対性にいささかも蝕まれていません。彼女は黄色の鑑札を持っているが、毛状虫を不思議と持っていません。むしろいつの間にか、荒くれたシベリヤの囚人たちが皆、ソーニャを慕うようになり、帽子をとり、おじぎまでして、「お母あ、ソフィア・セミョーノヴナ。お前はおれ達のお母あだよ。優しい、情けぶけえお母あだよ!」と言うようになったのです。ごろつきがそう呼ぶのです!

作者は囚人らのこの言葉に最高のアクセントを込めて描いています。これを信仰の実りと言わずに何と呼ぶでしょう。文学は虚構とはいえ、著者はここに人生と世界の真理を表現したのでしょう。彼女が巧みに囚人を手なずけてこうなったのではありません。奇跡が起こったのです。ドストエフスキーが歌手なら、ファンファーレの響きと共にカウンターテノールで高らかに歌ったでしょう。神は何もしてくれないのでしょうか。何もしてくれないように見えるのは、私にその経験がないので目が曇って見えないだけではないでしょうか。見えないのに、私は見えると言い張っているからかも知れません。ドストエフスキーが、愛も無力だと考えていたとはどうも考えにくいですね。これほどいと小さき名もなき者の愛の確かさを描いた作品はないと思います。

だから、ロジオン、バンザイ!ソーニャ、バンザイ!「罪と罰」バンザイ!そもそもソーニャが淫売を続けながらどうしてイエスを、神を、信じ続けてはいけないのでしょう。地獄の底からどうして神を見上げてはいけませんか。そういう信仰って、「絶対」、いけないものでしょうか。絶対禁止ですか。誰が禁止しますか。神?それとも毛状虫?それとも誰か人間?



ドストエフスキ―情報


新 聞 

読売新聞 夕刊 2021年11月13日 ドストエフスキ―生誕200年
露各地祝う【モスクワ=田村雄】

ロシア各地で11月11日、19世紀のロシアの文豪ドストエフスキー(1921~1981)の生誕200年を祝う記念行事が行われた。生誕地のモスクワでは、ドストエフスキーが幼少期から10年異常暮した建物にある博物館が大規模改修を終えて新築開館した。プーチン大統領も視察に訪れ、作家の子ども時代などに関する展示について説明を受けた。メッセージノートには「ドストエフスキーは天才的な思想家だ」と書き込んだ。

東京新聞 2021年11月30日(火)《考える広場》 
ドストエフスキ―生誕200年
ロシアの文豪・ドストエフスキーの生誕から200年、彼が残した小説は、今も世界中で読み継がれている。19世紀のロシアを舞台にした作品は、21世紀を生きる私たちに何を語りかけているのか。

「人間の精神の極限を描く」亀山郁夫さん(名古屋外国語大学長)
ドストエフスキ―の小説に登場するのは、心を病んだ人間たちです。健康に見える人間も出てきますが、健康と病の間に境界線はほとんどありません。健康でありつつ病んでいる。そういう二極性を持つ人間の精神の極限を彼は描きました。略(聞き手・越智俊至)

「今もなお共通コード」島田正彦さん(作家)
ドストエフスキ―は、ロシア語学習者が必ず通らないといけない関所のようなもの。学生時代に日本語訳の全集を読破し、最初に好きになったのは『地下室の手記』です。都会で独り相撲をとる頭でっかちのネズミのような、ある種ユニークで現代でも身の回りにいそうなタイプの主人公、その後の後期の傑作群の序曲のように感じます。略(聞き手・清水祐樹)

「暗い人格 解放される」三宅香帆さん(作家・書評家)
ドストエフスキ―の中では『カラマーゾフの兄弟』に一番思い入れがあるのですが、実は高校生の時に読もうとして登場人物の名前が覚えられず途中で挫折しました。大学に入って、先に新潮選書の「世界文学を読みほどく、スタンダールからピンチョンまで」(池澤夏樹著)を読んで、テーマやあらすじを頭に入れてから再挑戦しました。登場人物の会話や議論がとても面白いことに気づき、感動しながら読み通すことができました。略(聞き手・中山敬三)

産経新聞 夕刊「ビブリオエッセー」

池淵修 ドストエフスキ―著『悪霊』江川卓訳(新潮文庫)
 「ロシア文学の重厚長大に酔う」2021.11.12
荻原靖史 池淵修著『つん読を読むー書評集』
 「世界文学の巨匠ずっしり重い」2021.11.13
下原敏彦 『貧しき人々』木村 浩訳 新潮文庫 2021.11.30
 「わが世界文学の旅、船出の一冊」

図 書

亀山郁夫著『ドストエフスキーとの旅-遍歴する魂の記録』岩波現代文庫
亀山郁夫訳未成年1』光文社古典新訳文庫
『ドストエフスキー表象とカタストロフイ』亀山郁夫・望月哲夫・番場俊・甲斐清高編
名古屋外国語大学出版会
佐藤優著『生き抜くためのドストエフスキ―』新潮文庫
亀山郁夫著『ドストエフスキー黒い言葉』集英社新書
佐藤優著『ドストエフスキーの予言』文藝春秋

雑 誌

『現代思想 2021年12月臨時増刊号 総特集=ドストエフスキ―』
ユリイカ・現代思想 青土社 発売日2021.11.26

季刊雑誌 『全作家120号』 発行2021.9.30 
「三島没後五十年に際して」羽鳥吉行(長野正)
「宮崎駿監督の堀田善衛観」(高橋誠一郎)

読書会参加者の著作

詩集 常木みや子『遺丘』(テル)思潮社 2021.10.31 

常木さんがはじめて読書会に参加されたのは、いつごろだったか。ご主人は考古学者でシリアで研究されていると知った。そんなことから詩人の常木さんはシリアの詩を多く詠まれていた。古代ロマン漂う平和で神秘な国、シリアだが、いつのまにか残虐な争いが起きて久しい。(編集室)

横尾和博:2021年文芸回顧:何気ない日常に潜むもの 「コロナ」「震災10年」背景に 
時事通信社  フィーチャー 2021年11月27日(土) 

2年つづけて世界を覆った新型コロナウイルスで人々の鬱屈は飽和状態となった。閉塞状況は人間関係の希薄と経済的困窮を生む。不気味な電車内の事件や児童虐待の増加がそれを象徴する。文学はこれまで憂い、自閉、やり場のない思いを描き、また異様な出来事を通して人間の本質を見詰めてきた。今年の文学を解く鍵は「コロナ」「震災から10年」である。

シンポジウム

第18回国際ドストエフスキー協会(IDS)シンポジウム
https://www.ids2022n.jp/ コロナで下記日程に延期しました。
開催日時:2022年8月22日~8月27日
開催場所:名古屋外国語大学




編集室

カンパのお願いとお礼

年6回の読書会と会紙「読書会通信」は、皆様の参加とご支援でつづいております。開催・発行にご協力くださる方は下記の振込み先によろしくお願いします。(一口千円です)
郵便口座名・「読書会通信」番号・00160-0-48024 

2021年10月20日~2021年12月5日までにカンパくださいました皆様には、この場をかりて厚くお礼申し上げます。

「読書会通信」編集室 〒274-0825 船橋市前原西6-1-12-816 下原敏彦方