ドストエーフスキイ全作品を読む会 読書会通信 No.182
 発行:2020.10.20


10月「読書会」のお知らせ


月 日 : 2020年10月31日(日)
場 所 : 池袋・東京芸術劇場小会議室7(池袋西口徒歩3分)Tel.03-5391-2111
開 場 : 午後1時30分 
開 始 : 午後2時00分 ~ 4時45分
報 告 :  私とドストエフスキー
報告者 :  参加者全員



大阪読書会10月「読書会」について
第60回大阪10月「読書会」は10月26日(月)に開催予定です。(10月10日の予定が延期)
時間:14:00~16:00、会場・東大阪市役所(東大阪市荒本北1-1-1)ローカル記者クラブ 
作品:『作家の日記』5~94頁 参加無料
小野URL: http://www.bunkasozo.com 



開催にあたってのお願い
(世話人代表 下原敏彦)

開催はコロナ感染の状況に影響されます。ご心配な方は当日、東京芸術劇場03-5391-2111)にご確認頂ければ幸いです。
参加にあたっては検温とマスクが必須です。体調管理はしっかりと。会場では、連絡先(電話番号)の記入をお願いします。



8・29読書会報告 


コロナ禍の中で、通常時の参加者の約半数の13名の参加者がありました。

報告は「ドストエフスキーのてんかんについて」。報告者は下原康子さん。
以下の項目に添って検証した内容でした。

1.てんかん発作とは
2.ドストエフスキーのてんかん
3.医学文献
4.てんかん発作の記録
5.小説のなかのてんかん者
6.スメルジャコフの詐病てんかん
7.あらゆる種類の発作
8.医学論文に見られる見解 ①~⑥
9.「ロマンチック・リアリズム」と「ロマンチック・サイエンス」

報告の全文を「全作品を読む会」ホームページに収録しています。
http://dokushokai.shimohara.net/meddost/dokushokai.html



連 載      

ドストエフスキー体験」をめぐる群像
                                  
(第91回)三島由紀夫没後50年(2020/11/25)にあたっての「感想」
~渡辺京二著『神風連とその時代』『北一輝』に触発されて

福井勝也

秋口を過ぎても感染収束が見通せないまま、新型コロナの慢性的危機が世界を覆っている。この間日本では、7年9ヶ月目の第二次安倍政権が、総理の持病悪化で菅政権へと急遽交替した。また昨日(10/3)、丁度一ヶ月後に選挙を控えたトランプ大統領の感染情報が世界を驚かし、その影響が懸念されている。どうやら今年も残り数ヶ月となって、「コロナ旋風」が止まず、「百年に一度」とも言われる歴史的変化が顕在化して来ている。

前回は、そんなコロナ禍危機の中で廻り合った渡辺京二という、ロシア文学にも精通した思想家を紹介した。そしてその著作中、特に『ドストエフスキイの政治思想』に強く惹かれたことを述べた。なお今も、渡辺氏の著作に親しんでいるが、どれも19世紀ロシア近代化の宿痾と闘ったドストエフスキーを意識させるものがあって、その民衆的・共同体的な視角から独自の思索を紡いで来た思想家渡辺京二への感心を一層強めている。

ちなみに、この間新たに読んだ著書を列挙してみる。『案内 世界の文学』(1982.日本エディタースクール、この『ドン・キホーテ』を含む全23小説のうち、ロシア文学はトルストイ『戦争と平和』・ドストエフスキー『罪と罰』・チェーホフ『黒衣の僧』・ソルジェーニツィン『マトリョーナの家』の4作品が紹介されている。どれも単なる専門家的解説と印象が違い、著者の人生観と不離の読書体験、今日小説を読む意味がやさしく語りかけられている。なおこの著書には、新版(2012)『ちくま学芸文庫』版もある。)/『幻影の明治』(2018.平凡社ライブラリー)/『近代の呪い』(2013.平凡社新書)/『神風連とその時代』(2011.洋泉社新書、底本は1977年の.葦書房版)/『北一輝』(2007. ちくま学芸文庫、底本は1985年の朝日選書版)などだ。ただし読みかけのものを含めると、現在当方の机廻りは渡辺京二ライブラリー状態だ。

ここからが標題に掲げた、来月25日に没後50年を迎える三島由紀夫についての「感想」ということになる。そのきっかけが、前掲最後の二つの著書(『北一輝』と『神風連とその時代』)であった。そして結論的に言えば、長年謎であった三島の最期(「決起と切腹」)への道筋が、おぼろげながら分かったように思えたのだ。さらに告白すれば、この渡辺の二著の読後、かつて読んだもう一冊の名著が気になって改めて手にした。それは野口武彦著『三島由紀夫と北一輝』(1985.福村出版)なのだが、渡辺の著書と相性が良いというか、今回とにかく渡辺の二著の問題意識に呼応したように一気に読めて、さらに内容の確認を手助けしてくれた。いずれにしても、両者の議論で特徴的なのは、ともにしっかり事実を踏まえた明快な論述であることだろう。それでいて、学者の冷たい客観主義的論文と異なり、批評家としての熱い思いがしっかりと正確に伝わってきた。

そして渡辺が『北一輝』の中で度々その不正確さを批難したのが、北についての先行著書がある松本健一と松本清張の論述に対してであった。例えばそれは、北の若書きの著作『国体論及び純正社会主義』(1906、23歳)の読みと評価に端的で、北一輝像がこれらに如何に歪められて来たかを具体的に指摘している。ちなみに、渡辺はこの大著『国体論及び純正社会主義』を次のように明解に位置づけている。本著の核心的記述の一つだろう。

「日本の近代政治思想史上、まず五指に屈すべき著作であろう。われわれが、個-共同体-国家-世界という、日本の近代政治史を貫通する問題関連、今日なお十分に解かれきってはいない難問について、たんなる文献学関心ではなく、生きているがゆえに思考せざるをえない人間として関心を寄せるとき、明治・大正・昭和の三代にわたる厖大な政治思想的著作のうち、精魂をこめてとりくむに値するものはそんなに多くはない。北のこの著作はそういう数少ないもののひとつで、彼がこの国の近代政治思想史上もっとも重要な人物のひとりであるのは、ただこの本の著者であるためである。私の考えでは『国体論及び純正社会主義』は思想家北のすべてである。『支那革命外史』も一個の名著であり、『日本改造法案大綱』もまた問題的な文書であるにちがいないが、北の政治思想家としての本質的な意味は、この一冊にすべて含まれている。」(前掲著、p.105)

渡辺は、ここまで言い切ってこの著書を評価する。当方は、渡辺の本著で北一輝評価を一変させられるとともに、三島由紀夫が何故に北の政治思想に拘り、それを否定してゆかねばならなかったか、その逆説的な道筋も理解できた気がした。その要因こそ、日本の民衆・共同体そして天皇という存在にどう接近し、自分の思想にどう位置づけるかと言う問題と係っていた。このことは、例えば19世紀ロシアのドストエフスキーが生きた時代の思想状況にも似ていて、あのスラヴ派と西欧派の論争を思い浮かべることができる。

しかしこれら渡辺の二著には、ちょっとした、だが本質的と思えるドストエフスキーへの言及はあっても、三島由紀夫への実質的な議論は見られない。但し、小説第二巻『奔馬』の「神風連史話」(第九章)では、「」という決起に当たり神意を問う秘儀が具体的に書かれている場面があり、渡辺はここに眼を止める。秘儀には書き残されたものはないので、三島はこれを誰かから聞き出して書いたのだろうと素っ気なく推測しているのだが。さらに「」とは「熱誠神に通ずる法」であって、まさにそのようなものとして描かれていると述べ、三島の叙述を渡辺はそれなりに評価している。(p.209-210)

とにかくこの程度の言及なので、渡辺の二著から三島を本格的に論ずる根拠は薄弱のようだが、実はそうでもなさそうだ。それは底本発行年から推測すれば、市ヶ谷の三島事件以降の執筆なので、渡辺がこれらの主題を論ずる際に三島を全く度外視していたとは考え難い。むしろ意識的に「無視」したか、「あえて踏み込まない」でいると考えるのが妥当ではないか。おそらく後者であろうが、その微妙な真意が気になるところだ。

ここでの問題は、実は渡辺の北一輝への高い評価と三島へのそれが一応裏腹であることが推測されることだ。そしてそれは、先述のドストエフスキーへの言及とも微妙に関係するように思える。渡辺が『神風連とその時代』でドストエフスキーについて語る箇所は、神風連の思想的祖師とされる国学者の林櫻園(1798-1870)という人物との比較においてである。明治九年の神風連の決起時、櫻園はすでに死去していて「櫻園の思想はまさしく熊本敬神党(神風連の正式名称、注)の首領太田黒伴雄(1835-1876)ひとりによって継承された。(P.17)」と渡辺は書いている。ここではまず、ドストエフスキーを引き合いに出した箇所へ繋がる、林櫻園という興味深い人物を紹介する渡辺の言葉を抜き書きしてみる。

「ペリーが浦賀に入った嘉永六年(1853年、注)には彼は五十六歳になっていた。このことは、彼が幕末の激動期をすでに確立した思想的立場をもって迎えたことを意味している。(P.104)」/「櫻園の思想は幕末の現実をとうてい包摂しきるものではなかった。ただ彼の思想の根底性、それによって規範された思想者としの時流への対応ぶりは独自というべきであり、注目にあたいする。彼の思想の核心は上代の史実に対する詩的直感にもとづく神秘主義的ユートピズムであり、その形相はわずかに「いかばかり今日の別れの惜しからむ散らぬ花咲くこの世なりせば」という辞世歌あたりにとどめられている。この種の凄絶なユートピズムは当然強烈な反政治主義、反時代主義に帰結して行かざるを得ない。(P.15-16)」/「彼は学者・思想家というより道を説くあの東洋的聖者のひとりであって、自分の達した認識と境地を古代アジアの宗教の開祖たちがそうしたように、たんなる言葉ではなく自分の人格的形象によって弟子たちにしめそうとしたようである。(P.103)」/「これは常人とは異なる見神者の体質であって、彼はこの世にはわれわれから匿されている存在があることを体感することができ、またそれを幻視することが可能なのである。櫻園は疑いもなくこういう見神者に属する人で、そのことは『遺稿』に収められている歌や日記抜粋からもあきらかに看取される。(P.131)」

さらに、幕末の激動期に櫻園がどのような思想で、どう行動したかを語った箇所から引用してみる。無論、それは「神風連」を動かす原動力になった。この後に、渡辺は櫻園とドストエフスキーとの類似(露土戦争期の発言・「作家の日記」)を指摘することになる。

「櫻園は開国という選択のまえに、一度はおのれの原則に立って西欧列強の強迫を斥けるという精神過程があるべきだというのであって、その過程をふむということは当然戦いを覚悟するということだというのが、彼の攘夷戦争の論理構造なのである。彼の攘夷論は、〔‥‥〕「結局の覚悟」を戦争と定めて、こちらの原則を曲げずに外国と応対せよというのである。そうすればこれまでの行動様式からみて、彼らはかならず戦争を挑んで来るが、この戦さは絶対に勝てるというのである。(P.131)」/「櫻園は当時の志士たちに、このような国民攘夷戦争の意味を体得した革命者であれ、政治プランを操作する運動屋たることなかれと求めたのである。(P.155)」/「彼の言う攘夷戦争とは、老朽腐敗した支配層を一掃して民族の血をよみがえらせるような、きわめて内面的な更新過程なのである。そのような国民的な瀉血によって再生する民族社会の姿を、具体的にどのようなものとして櫻園が描いていたかということは、もとより明らかではない。(P.156)」/「もし彼のいう国民攘夷戦争が徹底的に行われたとしよう。〔‥‥〕ただひとつ断言できることは、もし櫻園がいうようにわが国がそような抵抗を経て自ら主体的立場で開国したのであったならば、先の大戦の敗北のさいの日本人の態度は決定的にちがっていただろうということである。革命的とはこのようなちがいのことをいう。櫻園は何ら革命的な社会変革方策のもちぬしではない。ただ彼は日本人の自律的な気性という一点だけを考え、それ以外に当面する政治課題はないとすることで、あらゆる政治者の対極に立つ革命者だったのである。〔‥‥〕私には、このような櫻園の思考(「焼土戦争論」、注)がほとんど即座に、次のようなドストエフスキイの言葉を連想させる〔‥‥〕ドストエフスキイと櫻園は、政治的課題に反政治的に対応せざるをえない強烈な偏向において、奇妙な一致を示している。この偏向はいうまでもなく、危機の認識のしかたが深刻かつ包括的であり、その解決に必要な要因が表層的な政治的必要よりはるかに底部においてとらえられていることから生じている。(P.157-159)」

ここからやや結論めいた三島への「感想」を述べれば、この二著を読むうちに三島由紀夫が「神風連」を意識して創設した「楯の会」なる民(私)兵組織のことが気になった。さらに陸上自衛隊への度重なる体験入隊を繰り返したこと。最後には、市ヶ谷駐屯地のバルコニーから隊員達へ呼びかけた最後の「檄文」。これらは、三島にとっての民衆の中へ身一つで飛び込もうとした捨て身の行動であったことだ。しかし結局、その行為は実を結ばずに悲劇に終わった。しかし同時に残ったのは、それらの行動と平行して書き継がれた『豊饒の海』四巻であって、それらは自決割腹の日に言葉として遺された(「文武両道」)。

この執筆時期を子細に辿れば、『豊饒の海』第二巻の「奔馬」が『新潮』に掲載された時期は昭和42年の2月から翌年の8月までであった。すなわち三島が初めて久留米陸上自衛隊幹部候補生学校等に体験入隊したのが、昭和42年の4月から翌月にかけてで、翌年三月には、「楯の会」母体の「祖国防衛隊」を創設し、学生隊員とともに自衛隊の体験入隊をこの間に繰り返えすことになる。つまり「奔馬」執筆の時期と平行した、これら体験入隊と「楯の会」創設から市ヶ谷での最期の顛末(S45.11.25)まで三年九ヶ月であった。この期間は重要で、三島は戻りようのない運命の曲がり角を一気に疾駆することになる。

この時期、その思想的展開を裏付ける他の執筆活動も旺盛だ。「憂国」「英霊の声」「十日の菊」の三作を合わせて一冊にした『英霊の声』、その後書きには「二・二六事件と私」という文章まで付している(S41.6)。ここでは、二・二六事件陰の首謀者として死刑になった北の思想、天皇機関説的政治思想(天皇を擁した国家社会主義)を否定してかかる。

さらに二・二六事件への独自の思い入れ、すなわち天皇への恋闕に殉じた青年将校を道義的革命の論理で基礎付けた(「『道義的革命』の論理-磯部一等主計の遺稿について」(S42.3))。そこで焦点を当てられたのが北の『日本改造法案大綱』であり、その一字一句の訂正を認めないと言明した磯部浅一大尉(北のクー・デタ計画最大信奉者)であった。但し、三島は磯部を北から切り離し『英霊の声』などに取り込もうとした。

それらの跳躍台になったのが四部作『豊饒の海』の第二巻「奔馬」で、その核心が第九章「神風連史話」であったと思う。これによって三島の運命は、さらに終局へ向け駆動してゆく。この「史話」は主人公の行動を支えるように、三島の行動をも支配する原動力となった。第一巻の松枝清顕が転生した第二巻の飯沼勲が最後に割腹を遂げるこの物語は、昭和十年前後の複数のテロやクーデタ計画を模した架空の歴史的事件であると三島はある時期明言したという。しかしその以前には、第二部の主人公について「昭和の神風連」と称し、(そのモデルを)北一輝の息子だと述べたりしたらしい(村松剛の「奔馬」新潮文庫解説から)。この前段「昭和の神風連」との表現は、この「史話」が最後まで飯沼勲のバイブルであったのだから、最後までそのとおりであったと思う。この点で飯沼勲は三島を最期まで駆動させたキャラクター(分身)で、それは三島自身をも「昭和の神風連」となることを運命付けた。一方後段のモデル論は、先術の三島の北の思想的否定から、まずは否定的に受け取れよう。ただしモデルが一輝でなく、息子(確か、大輝)だと言うのが微妙だ。例えば父親の思想に反抗する息子像?ここには、北的な国家思想に基づく2.26事件を否定しようとした三島の意図が伺える。いずれにしても、三島に北一輝は反対の極の巨魁であった。さらに北の優れた法理論家としての実像を考える時、物語全般のもう一人の主人公(語り手=三島自身)で法律家(裁判官)でもある本多繁邦のイメージが浮かぶ。勲が自身にとっての反面教師、本多にエディプス的反抗をすることもよく分かる。

このように読んで来ると、三島は幾重にも分裂した分身を内部に抱えて、そのキャラクターの倫理的追撃に過激な行動を促され、それと美事に心中する結末となった。しかしこれは、三島個人の内部的な問題に止まらず、日本近代史の宿痾を真正直に引き受けた者の宿命であった。そこに、私たちも「ミシマの死」から逃れられない理由を分有している。
 没後20年の時、文芸評論家の秋山駿が、埴谷雄高がドストエフスキーについて「死後成長する作家」と称したことを借りて、三島由紀夫もまさしくそういう作家であると書いていた(「死後二十年・私的回想-その「不在」が輝く」1990年)。没後50年経た今も、その通りだと思う。すでに本欄のスペースを超えたので、この辺で今回の「感想」を終える(2020.10.9)



広 場 

ドストエフスキー生誕200周年記念 前夜祭

2021年はドストエフスキー(1821~1881)ドストエフスキー生誕200周年です。この節目を記念して「私は、なぜドストエフスキーを読むのか、読みつづけるのか」を連載しています。
投稿は、到着順に掲載します。(多数の場合は、次号掲載となります。)

「私は、なぜドストエフスキーを読むのか、読みつづけるのか」2020

いやしとしてのドストエフスキー        

富岡太郎

理性を中心に世界を解読する近代社会には「他者」がいない。理性は自分の頭脳の内側の演算なので、自閉的であり、つまり対話的ではない。モノローグのようなインテリをドスト氏は苦悩の中に置き、思考実験させ、そのエゴイズムをあばく。君主、神、恋人などなど、「他者」は何を考えているか自分の頭脳の中ででは分からない。ソーニャやゾシマ長老は対話的であり信じている、自分以外の精神タ体を。それはライプニッツではモナド、カントでは物自体である。ドスト氏のいやしは「他者」の声が心に届くことである。



今から20年前の2000年ミレニアムの年に同じ企画を行っています。
以下のページに掲載しています。

私は、なぜドストエーフスキイを読むのか、読み続けるのか 2000
ミレニアム記念寄稿 3サイクル&30周年記念特集 (2000.2.12)
http://dokushokai.shimohara.net/henshushitsu/nazeyomunoka.html



掲示板


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「ドストエーフスキイの会」のお知らせ 
コロナ禍を受けての活動方針について。
「例会」は当面の中止。開催のめどが立ちしだい通知します。
『ドストエーフスキイ広場』の発行は継続します。
次年度の『広場』については、会員からひろく論文・エッセイを募集します。



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