ドストエーフスキイ全作品を読む会 読書会通信 No.176
 発行:2019.10.1


2019年10月読書会

 
月 日: 2019年10月12日(土)
場 所: 池袋・東京芸術劇場小会議室7(池袋西口徒歩3分)
時 間: 午後2時00分 ~ 4時45分
作 品: 『カラマーゾフの兄弟』 5回目
報告者: フリートーク ジョイント司会 梶原公子さん&江原あき子さん       
参加費: 1000円(学生500円)
 
第54回大阪「読書会」案内10・19(土)『カラマーゾフの兄弟』第9編
お問い合わせ 小野URL: http://www.bunkasozo.com 



<大波小波> 風変わりな読書会  東京新聞 2019/9/12 夕刊

ドストエーフスキイ全作品を読む会「読書会」が《風変わりな読書会》と題して東京新聞【大波小波】欄で紹介されました。冒頭部分を紹介します。

作品の世界にとり憑(つ)かれる読書は誰でも体験する。作家の強い磁力により四十八年間も続く風変わりな市民の読書会がある。会則なし、代表は置かず事務連絡者だけで、誰でも参加可能だ。二カ月ごとの会に参加した者が、その場限りの会員である。「ドストエーフスキイ全作品を読む会」(読書会)という。参加者は「私の読み」や自分にとっての衝撃を熱っぽく披露する。



10・12読書会 『カラマーゾフの兄弟』5回目

江原あき子さん&梶原公子さんの司会者進行によるフリートーク

5サイクル、最終作品『カラマーゾフの兄弟』も佳境に入ってきました。今年2月から既に4人の報告者が独自の視点から作品論を報告しています。より大勢の皆さまの意見、感想、批評を知るために参加者全員の自由議論の場にします。



世界に拡がり始めた差別主義について考えよう 
カラマーゾフの中の心を病んだ人たち

江原あき子

『渡り廊下にあらわれた長老は、最初まっすぐに民衆のところに向かった。信者たちは低い渡り廊下と広場を結ぶ、三段しかない表階段の方に殺到した。長老はいちばん上の段に立つと、ストールをかけ、つめよせてくる女たちに祝福を与えはじめた。一人の癲狂病みの女が、両手をひかれて彼の方に連れだされてきた。女は長老をひと目見るなり、何やらわけのわからぬ金切り声をあげて、ふいにしゃっくりをはじめ、ひきつけでも起したように全身をふるわせだした。彼女の頭にストールをあてて、長老が短いお祈りを唱えると、女はすぐに鳴りをひそめ、おとなしくなった。このごろはどうか知らないが、わたしの子供のころには、よく村や修道院などでこういう癲狂病みの女を見たり、きいたりしたものである。礼拝式に連れてこられると、そういう女たちは教会じゅうにひびくほどの声で悲鳴をあげたり、犬のように吠えたりするのだが、聖餐が運ばれ、そこへ連れて行かれると、とたんに《狂乱》がやんで、病人はいつもしばらくの間おとなしくなるのだった。子供だったわたしは、非常に感動し、おどろいたものである。しかしそのころそこらの地主たちや、特に町の学校の先生たちなどは、わたしの質問に答えて、こんなものはみな働きたくないばかりの仮病であり、適当な厳格さによっていつでも根治できるのだと述べ、それを裏付ける一口話をいろいろきかせてくれた。だが、その後わたしは専門の医学者たちからきいておどろいたのだが、これはなんら仮病でなどなく、主としてわがロシアに多く見られると思われる、恐ろしい婦人病で、何の医学的な助けもない、正常を欠く苦しいお産のあと、あまりにも早く過重な労働につくために生ずるのであり、いわばわが国の農村婦人の悲惨な運命を証明する病気だということだった。このほか、やり場のない悲しみとか、殴打とか、その他、一般の例から言っても女性の性質いかんではやはり堪えきれぬようなことが原因になるという。』(『カラマーゾフの兄弟』第二編 三 信者の農夫たちより 原卓也訳)

ドストエフスキーの小説にはしばしば、精神を病んだ人物が登場する。『悪霊』のマリヤ、『罪と罰』のカテリーナ、その多くが女性であり、過酷な運命を生き、しばしば親族から暴力を受けている。『カラマーゾフの兄弟』の中で見ると、スネギリョフ夫人、スメルジャコフの母リザヴェータ、イワンとアリョーシャの母、ソフィアである。このうちリザヴェータは周囲に受け入れられているように見えるが、周囲の人々は決して彼女を同等の人間とは見ていない。人々がリザヴェータを仲間に入れたのは彼女の奇妙な行動が彼女の生まれつきで、神が与えた天賦のものと信じ込んでいるからだ。(これはだいぶ、疑わしい)後に息子のスメルジャコフに対する人々の差別的発言を見ると、誰も彼女を対等の人間と見ていなかったことがよく、わかる。生まれつきなら神の思し召しで仕方がない。同情もする。しかし大人になってから病気を発症した人はすべてなまけている、仮病と言われて差別されてしまうのだ。

言うまでもなく『カラマーゾフの兄弟』は十九世紀の作品である。今は二十一世紀である。この間精神病に対する人々の理解は深まったといえる。しかし差別感情は? 私は、私たちの中にある差別感情はカラマーゾフの頃から少しも変わっていないと感じるのだ。

7月18日、アニメ制作会社、京都アニメーションが放火され、35人が死亡。今も生死の境をさまよっている方もいる。犯人は41歳の男、何人かの精神科医が指摘しているように統合失調症をわずらっていたと思われる。統合失調症の特徴は以下のようなものである。

・不思議な体験(幻視、幻聴、幻臭、幻触など)
・事実にないようなことを考えたり、話したりする(妄想)
・自分や他人の考えが伝わる感じがする
・考えの混乱、話題の飛跳
・奇妙な行動
・眠れない
・感情の不安定さ
・病識のなさ(何か変、でも自分は病気ではない)

自宅で一人、大声を出したり、物を叩き壊したりしていたという。多分幻聴をかき消すためだろう。「パクられた」と言っていたという。妄想も始まっていた。ここまでひどくなると病気の自覚はない。当然自殺など考えない。多くの人が「一人で死ねばいい」などと、こういう人間は自殺をすれば済むかのように言っていた。この病気への世間の理解がこの程度だったのかと思って私は絶望してしまった。

この事件の一番の悲劇はこの犯人が精神科を受診しなかったことである。特に日本ではまだまだ精神科受診のハードルが高い。自分ががんばれば治る、とか家族が患者を隠すケースも多い。例えばひどい風邪をひいている人や重傷の人を医者に連れて行かない人がいるだろうか? 自分で治そうとか、家族の力で治そうとする人がいるのだろうか?例えば統合失調症は日本人の100人に1人がかかる病気。ストレスや環境の変化で発症するといわれている。誰でもかかる可能性があり、現在多くの患者が病気とうまくつきあいながら生活している。ただ、彼等は皆、受診している。

京都アニメーションの事件の本質はこの病気がこれほどポピュラーな病気でありながら、周知度が低く、その深刻さも周知されていなかったことにある。犯人には逮捕歴もある。どこかで受診の機会はなかったのかと思う。この原因は精神病が特殊な病気、めったにない奇異な病気との偏見がある。そしてこの偏見の先には必ず差別と排除が存在するだろう。理解しがたいこと、奇異に見える物事や人。これらを理解するためには努力が必要だ。この努力を私たちは決して惜しんではいけない。努力をしなくなった時、破壊と不幸が私たちの世界を覆ってしまうだろう。今、世界は破壊に向かっているように思う。ネオナチの復活、トランプ大統領のイスラム教議員に対する「国へ帰れ」という発言。Me too 運動でわかったのは根強い女性差別である。

『カラマーゾフの兄弟』には多くの精神病患者が登場するが、私はその扱いに嫌悪感を抱いたことがない。今より病気に対する理解もなかった時代に書かれた作品だが、私にはこの作品には病気の人々に対する愛情や、そういう人々を平等に扱っているのを感じる。一番の救いはアリョーシャの母ソフィアの扱いかただ。癲狂病みの母ソフィアをアリョーシャの口から美しかったと語らせ、息子を神のいけにえに捧げようとした彼女を否定せずその後、アリョーシャ自ら自分を神に捧げさせている。

ドストエフスキーの母親も、夫に虐げられていた。そして多分母親も信仰に救いを求めていたのだろう。そして次男のイワン。虐待される子供たちのいるこの世界をそれ故に否定している。イワンは虐待される子供たちのエピソードを収集している。私はよく考えるのだ。この子供たちはどこから来たのだろうと。そしてこう結論する。この子供たちは母ソフィアから来たのだ。幼いころみなしごになり、わがままな将軍婦人からいじめられて自殺しようとし、その後は夫から侮辱を受け続ける。やがて彼女は精神のバランスを失い、病み始める。母がアリョーシャを祭壇に捧げ、女中たちが怯えているその騒ぎの中、イワン(六歳ぐらいだろうか)は、どうしていたのか。アリョーシャがさくらんぼのジャムが大好きだったこともよく覚えているイワンだ。この時のことは鮮明に覚えているはずである。神と信仰、そして虐待される弱者たちへの憐れみはイワンの中で強く、結びついたのだろう。

精神病への理解、というよりも作者ドストエフスキーの自らの経験から得た、決して付け焼刃ではない信仰を通した弱者への憐れみが、病んだ人たちを単なる見世物ではなくこの作品のほかの登場人物と同じ、生き生きとした存在にしている。私はここに救いを感じる。ドストエフスキーの作品ほど沢山の人物が登場する小説はめったにないし、それぞれが実によく語り、行動する。精神を病んだ人も作品に対して重要な役割を演じ、まさに平等、同等の存在として輝きを放っているのだ。「私たちは皆、同じ世界に生きている」ということを理屈ではなく、心底から感じさせてくれる。そこに信仰という観念がいつも存在するとはいえ、この部分は後回しにしてもいいだろう。ただ、ひとりの天才的な才能を持った作者が、(私たち読者にとってだけれど)幸運なことにあまり幸福ではない家庭に育ち、多くの苦難を経験しその経験からリアルな、恐ろしいばかりの存在感のある人物を創造することができた、ということである。そしてその中には多くの病んだ人がいて、作者が自分自身の経験から彼等をも排除せずに大きな存在として創造した、ということである。社会が複雑になり、いろいろな価値観が錯綜し、精神を病む人が多くなっている今、異なった価値観や一見、奇異に見える人のことも決して排除してはいけない。

ドストエフスキーを読んでみよう。価値観が錯綜し、精神を病む人が多く登場し、彼等も大いに活躍してそして、物語は続いていく。全員が共に暮らしている。京都アニメーションを放火した男のことを、事件の前、誰も自分の身近な問題としてとらえなかったことは本当に残念である。事件後、自分とは関係のない変わった人が起こした犯罪としてとらえている人たちが多いことが残念である。ただ、犯人がしたことは消えない。多くの人を傷つけ、遺族の人の心を傷つけたことは決して消えない。この犯人が一刻も早く回復し、自分の病気と向き合い、心から被害者に謝罪することを願っている。



2019年8月読書会


参加者22名のうち初参加の方が3名でした。 記録更新の酷暑、お盆休み前、開催日には最悪の条件だったが、参加者は22名。いつもながらにぎやかで白熱した読書会であった。

報告者・石田民雄さん  
イワン・カラマーゾフ ―その思想と論理構造を探る―

報告者の石田さんは、29頁に及ぶ報告書を作成しそのなかから「場違いな会合」や「兄イワン」についてなど考察を深めた。「神と不死」の存否の問題解決が世界的な課題であるとすることにおいて、イワンとアリョーシャは一致するのだが、イワンは「神は存在しない」と父フョードルに断言しながら、一方で神の存在を認める立場にあるかもしれないとゆさぶりをかける。



連載      

ドストエフスキー体験」をめぐる群像
(第85回)堀田「未来からの挨拶(Back to the Future)」再論 ~『路上の人』

福井勝也

今年(2019年、令和元年)も既に秋口を過ぎ、近未来の歴史的変動が危惧される年周りになって来た。同じ様に元号が代わった平成元年(1989年)が連想されるが、明らかな違いも感じる。前回は冷戦構造の崩壊から楽観的なグローバル化への期待があったが、今回はその幻滅からナショナルな傾向への回帰が強まり(トランプ現象、イギリスのEU離脱)、閉塞的な先行き不安が世界的に醸成されつつあることだ。そしてその変動の中心に、緊迫する香港情勢が絡む中国が大きく存在している。さらに地政学的観点から言えば、今までの欧米露中近東の引き続く問題もあるが、そのうえに中国を含む韓半島・台湾等東アジア地域がその変動要因に付加されている。前回は変動期開始直後に、バブル景気の浮沈を味わっただけの日本であったが、今回は戦後体制の最終的転換を自覚的に迫られる状況が到来していると見るべきだろう。今日、この歴史的変動期をどう見透すべきか?目前の近未来的時間に我々はどう向かい合い対処すべきなのか?

そんな今年、本欄では堀田善衛の文学に注目して来た。3月には、「堀田善衛のドストエフスキー、未来からの挨拶(Back to the Future)」と題して例会で発表もさせて頂いた。奇しくも会発足50周年の年廻りにあって、前回言及したドミトリー・リハチョフの論文<ドストエフスキーの「年代記的時間」>(木下豊房訳)に触発されて、堀田文学にも通ずる「<未来>を見透す<時間論>」に注目してきた。その端的な言い方が、堀田の「未来からの挨拶(Back to the Future)」という表現であった。これは作家の最晩年エッセイ(1995)のタイトルで、当時のハリウッド映画にヒントを得た言葉であったが、実はホメロスの「オディッセイ」が原典で、ドストエフスキーやランボーを「見る人」「歴史の予言者」として位置づける意味まで持った。そして最近気が付いた事でもあるが、この表現は堀田の作家生活最後に突然閃いたものではなく、長年の思索によって徐々に醸成された、言わば堀田の歴史哲学が生み出した内容ということだ。
 
実は多摩の読書会では、堀田の長編最終作『ミッシェル 城館の人』(1994)を読了後に、そのモンテーニュ論から10年程前書かれた小説『路上の人』(1985)を読み始めている。本書はヨーロッパの12~13世紀を時代背景にした書き下ろしの長編であるが、そのクライマックスに異端のカタリ派が当時の教皇十字軍に殲滅される歴史事実(1244年)があって、物語はその前後数年間が描かれる。そこでの最後の舞台が、ピレネー山脈に聳えるモンセギュールの山巓城塞(第9章、全10章の)の攻防である。そして主人公「路上の人」とは、法王庁側の学僧(途中毒殺)と密使の騎士に仕える「ヨナ」という従者で、『ドン・キホーテ』のサンチョを連想させる旅物語のスタイルになっている。そのヨナの眼線から、「時代」が活写されドラマティックな話として一気に読め、円熟した作家の技量が感じられる。その前提には、主人公ヨナが、堀田の乗り移ったような語り手としてあるからではないか。『未成年』のドストエフスキーによるアルカージーの語り口も連想させられた。さらに、堀田(ドストエフスキー)文学が「乱世」を「路上の人」として証言する「ルポルタージュ文学」(フェリエトン)であって、二人の文学的類似性を改めて思った。堀田には、リハチョフがドストエフスキーを「現代の年代記者」として称したことに重なる作家的類縁があると感じた。「ドストエフスキー、リハチョフ、堀田善衛」という主題を貫くものは何か。その核にあるのが、「歴史」「時間」ではないか?この時期書かれた、ウンベルト・エーコの『薔薇の名前』とも比較されるこの小説は、ポストモダンの良き果実でもあって、堀田は世界レベルの文学者として認識されるべきだろう。実はこの作品は、宮崎駿のスタジオジブリでのアニメ化の話題もあった。そう言えば『天空の城・ラピュタ』が連想される。とにかく、『路上の人』は堀田善衛の作家人生に相応しい晩年の佳作だと評価したい。
 
実はここまで、『路上の人』に拘っているのは、その第7章「苦難のトゥルーズ」で異端派対策として法王庁が開いた会議があって、そこでヨナ(堀田)が騎士との会話から次のような思いを吐露する場面があるからだ。ここに「未来からの挨拶」が既に語られていた。
 
「1229年にトゥルーズで開催された会議で、信徒が聖書を読むことを禁止した、つまりは教会だけが聖書を独占しようとしたことは、これは要するに臆病さから発したことだ。聖書のなかの矛盾や撞着を信者に知られてはならぬという恐怖からだ。それぞれの地方語に聖書を訳することまで禁止し、信徒は教会の彫刻や柱頭や聖画だけを見ていればいいというのは、映像と記号だけを受け身に受けてさえいればそれで足りる、その内容の是非や意味内容などを考える必要はない、ということだ。これでは背中から未来へ向って行けというに等しい
騎士の独語のはじめの部分は聞き流していたので、ヨナには漠然としか受け取れなかったが、” 背中から未来へ‥‥ ”という部分は聞き捨てがならなかった。自分でもくるりと後ろ向きに歩いてみると、それはひどく頼りない感じのものであった。

しかし、後ろ向きで歩いてみてはじめてわかったことは、ものを考えるということ自体、ひどく危いことであるらしいということであった。自分がこのところ、セギリウス(ヨナが騎士の前に仕えた学僧、註)をはじめとしてこの騎士もそうであったが、ものを考えることを仕事にしているらしい人々に仕えて来て、彼等が見掛けよりもずっと危なっかしいことをしているのであるらしい、と見えて来ていることに気付いていた。

「またセギリウスが、木版の技術がもっと普及されねばならぬ、と言っていたのも正しい。正しい以上にそれは必要でさえある。映像と記号だけでは、往々にして一方通行になり、支配の道具に化けるだけである」「セギリウス様は、金属板に絵を刻み込んで版画が出来るのに、何故金属を使って印刷が出来ないのか、と言っておられました」騎士が叫び声を挙げた。その声が谷間に長く谺をして、何度も何度も返って来た。
「しかし、その印刷術が発明されて、さまざまな意見が信徒に伝わり出したら、おそらく教会はそれを禁止し、その発明者を毒殺するか、異端として火刑に処するであろう」またしばらくの沈黙がつづいた。  
(『路上の人』新潮文庫版1995、p.215~216 ゴシック部分は筆者)

長目の引用になった。それは、下線部分に「未来からの挨拶(Back to the Future)」という表現が既に語られていると思ったからであった。それにヨナという「路上の人」が、騎士である「主人」と交わす「会話の端々」から体感的に導くものであったことが心憎いと感じた。そしてその感覚に、「ものを考える」と言うこと、それが「危険」を冒すことでもあること、そのことを自覚するのが「ヨナ」と言う「路上の人」であった意味は何か?

ここでの数頁は、読みようによっては、本書のエッセンスとも言える部分のようにも感じた。それは堀田がこの後に最終作的長編として書く『ミッシェル 城館の人』(モンテーニュ論)の前奏的作品として読めるからだけではない。むしろ「ヨナ」のような「路上の人」を主人公とすることで、ヨーロッパの「近代的個人」が<思考する者>として自覚的に誕生して来ている、その萌芽に立ち会っていると感じられるからだろう。

ここで語られる主題こそ、この後の時代に、マルチン・ルター等が引き起こす「宗教改革」を生起させる歴史的因果が明らかにされているのだ。それは、文字という記号を書き付ける印刷、それも聖書の大量頒布を可能にした近代科学が生んだ印刷術の歴史的意味を改めて実感することにもなるのであった。

本書は、西欧キリスト教の「正統と異端」の問題が、「宗教改革」「ルネサンス」を生み、さらに近代国家成立へと発展してゆく歴史的未来が前提になっている。その言わば、歴史のダイナミズムを切り開いてゆくうえで、実は主人公の「路上の人/ヨナ」が自覚したことが、危険を冒しながら、背中から未来へ向って行くことであったのだ。そしてその事を可能にする者は、<現在>に連続する<時間>としての<過去>と向き合う者であって、そのような者がよく未来を見透す者予言者として現れて来るということだろう。堀田は、その歴史の予言者として、後にランボーとドストエフスキーを例示したことは既に触れた。「ランボーは、出て行き、ドストエフスキーは入って来る」(『若き日の詩人たちの肖像』)とは、その対象を<ヨーロッパ近代>に見定めたものと考えられるが、言わば、この<見者・賢者>が、その生きた時代に疎まれながら、人類の未来を真に切り開いて来たということなのだ。

今回はとりあえずここまでにして、次回は堀田のドストエフスキーを越えようとして書いた小説『時間』について、まだ言い残したと思うことを書いてみたいと思う。


                                
寄 稿

歴史はくりかえす(永遠)          

富岡太郎

カントの「純粋理性批判」は人間の知り得るものをクリアにした点で文学へと私達を導く。文学は具体的個別的な出来事から永遠の魂を示してくれるが、その永遠の魂へのアプローチは、「人知を超えているゆえに」学問的には不可能である。感性の対象にならず、人間の思考形式(論理・数式)の枠にもあてはまらないような、そのような永遠性は「物自体」として「私の限界の向こう側に」追いやられてしまう。そのあっちに行ってしまった魂をこちら側へ取り戻してくれるのが文学すなわちドストエフスキーである。ウィトゲン・シュタイレは
戦争中に『カラマーゾフの兄弟』を何度も読み、「科学がいかに進歩しても、人生の問題はいささかも解決しない」と書いた(論考)。男女の愛や親子の愛のもつれは人工知能でも解決することはできない。そもそも論理は頭脳の内部の決算にすぎず、リアリティーの半面しか記録できない。明日の天気を言い当てる人工知能はない。宇宙の星雲のようなカオスもその未来を予測はできない。コスモスとカオスの両面で「リアリティー」が作られており、論理的な2×2=4が通じるのは現実の半分だけである。残りの半分に「人間関係」がひそんでおり、愛すること、信じること、いつわらないこと、「まごころ」などが問題になる。その関係性の中に現れる永遠を出来事を通して具体的に作家は形にする。

カントの議論は自己矛盾に陥る理性を克明にしつつ、アンチノミ―の命題と反対命題に分裂した「人知」の弱点を「きちんと整理してみせた」点にある。主観と客観の一致は、上位の次元である「時間」によって担保させる。また、感性と論理の結合の問題も、上位の次元である「時間」をとりあげて解決する。3次元の難問を4次元に高めて解く方法だ。さらに高次元には「神、あの世」の問題があり、「自由意思戸法則性」のもんだいもあるが、それらの問いに向き合ったのはポストモダン思想(20世紀末)であろう。永遠の問いに答えを出すのは、一人ひとりの生き様であることを私たちは文学から学ぶ。



広  場


カラマーゾフ三兄弟とスメルジャコフの生い立ち

下原康子

三兄弟が、父とスメルジャコフの住んでいる町に集まって物語が始まったときの彼らの年齢とそれまでの生い立ちを簡単にまとめておく。

ピョートル   55歳
ドミートリイ  28歳
イワン     24歳
アリョーシャ  20歳
スメルジャコフ 24歳

ドミートリイ(28歳)

ドミートリイの母アデライーダ・イアーノヴナ・ミウーソフは、郡の地主で裕福な名門の貴族ミウーソフ家の娘で、一時のロマンチックな衝動からフョードルと駆け落ちする。お互い愛情はなかったが、フョードルの懐には2万5000ルーブリの持参金が入った。夫婦の間はけんかが絶えず、ドミートリイが3歳になったとき、アデライーダは貧しい教師と駆け落ちした。足取りをみつける間もなく、彼女はペテルブルグの屋根裏部屋で死ぬ。ほったらかしにされたドミートリイの面倒をみたのは忠僕のグリゴーリイだった。まる1年たったころ、アデライーダの従兄にあたるミウーソフが、パリから帰ってドミートリイを引き取ったが、すぐに従姉にあたるモスクワのさる夫人に託す。やがてこの婦人も死に、こんどはすでに嫁いでいた娘の一人に引き取られた。さらにその後にも一度、落ち着き場所を変えたようだが不明である。彼の少年時代と青年時代は乱脈に流れ去った。中学もしまいまでは終えず、そのあと陸軍のさる幼年学校に入り、やがて飄然とコーカサスにあらわれると、軍務について将校に昇進した。放蕩の限りをつくしたが、遺産を当てにしていたせいか金には無頓着だった。乱脈なくらしぶり、粗暴なふるまいにもかかわらず、人好きのするところがあり、女性に好かれた。成人に達してからフョードルから金を受け取るようになった。領地からの収益の取り分をはっきりさせるために町にやってきたがあてがはずれ、さらグルーシェンカをめぐって父子で争うことになる。

イワン(24歳)

フョードルはドミートリイを追い払うと、そのあとすぐ結婚をした。2度目の妻ソフィア・イワーノヴナはまだ16歳の天涯孤独の孤児で、ある将軍未亡人の養女になっていた。将軍未亡人が結婚を許さなかったので、フョードルはソフィアに駆け落ちすすめた。首つり自殺を図るほどやりきれない状態にあった彼女は、恩人よりもフョードルを選んだ。結婚してからも、フョードルは彼女の前でさえ、あいかわらずの乱痴気さわぎをやってのけた。結婚の1年目にイワンが、それから3年後にアレクセイが生まれた。この結婚は8年つづいた。母の死後、二人はドミートリイの時のようにほっておかれ、やはりグリゴーリイに引き取られた。ソフィアの死後3か月して、突然将軍未亡人がフョードルの元に乗り込み、あっという間に二人の子供を馬車にのせて自分の町に連れ帰った。その後まもなく将軍夫人もこの世を去った。そのあと、二人の子どもは夫人の筆頭相続人のポレノフに引き取られた。この人物はまれにみる高潔で慈悲深い篤志家だった。イワンは成長するにつれて、自分の殻に閉じこもったような気むづかしい少年に育った。しかし、勉強には並外れた才能を見せたので、ポレノフは彼を当時名声の高かった教育家の全寮制学校に入れた。しかしイワンが中学を終えて大学に入ったときには、ポレノフも教育家もこの世にいなかった。将軍夫人が残してくれた遺産の払い戻しが遅れたため、イワンは大学の最初の2年間、自分で生活費を稼ぎながら勉学した。「目撃者」という署名で雑誌社に売り込んだ記事が好評で、雑誌編集者たちに知られるようになり、専門の理系にかぎらずさまざまな分野の論文や書評を書くようになった。大新聞にのった「教会裁判をめぐる問題」に関する論文は、文壇でも話題になり、ゾシマの修道院でも読まれていた。彼はモスクワにいたころから手紙でドミートリイの相談にのっていた。町にきた理由は、父と兄の仲裁やカチェリーナとのかかわりが考えられたが、他にも理由がありそうだった。彼は父の家に同居し、はた目にはなかよく暮らしているように見えた。

アリョーシャ(20歳)

彼は4歳のとき死にわかれた母の顔立ちや愛撫を目の前に浮かべられるほどありありと憶えていた。イワンといっしょに引き取られたポコロフ家ではみんなに愛された。物静かな落ち着いた子どもで、決してめだつふるまいはしないのに全校の人気者だった。ごく幼いころから他人の情にすがって生きていることに苦しんだイワンとは違って、自分が誰の金でくらしているのかに心をくばったことがなかった。彼は中学を残り1年残して、だしぬけに父の家に帰ってきた。ほどなく母の墓をさがしはじめたが、フョードルはその場所を知らず、教えてくれたのはグルゴーリイで、その墓は彼が寄進したものだった。アリョーシャがこの町にきたのは兄たちよりも1年はやく、ゾシマ長老の元で修道僧として暮らしていた。父親を批判することはなかった。フョードルの方もアリョーシャが好きだった。ドミートリイとはすぐに打ち解けたが、幼いころ一緒に育ったイワンはアリョーシャにとって謎だった。

スメルジャコフ(24歳くらい)

スメルジャコフの父親はフョードルであるとうわさされている。フョードルもあえて否定していない。母親はリザヴェータ・スメルジャーシチャヤという白痴の神がかりだった。彼女は町中の人から愛されていた。裕福な商科の未亡人が、身重になった彼女を家に引き取っていたが、5月のある夜こっそり抜け出してフョードルの家の庭園にあった風呂場で出産する。みつけたのはグリゴーリイだった。その日はマルファとの間に初めてできた子ども─6本指だった─の葬式の日だった。リザヴェータの生んだ子供はマルファが育てることになり、ピョートルがスメルジャコフという苗字を与えた。彼はグリゴーリイの表現では<およそ感謝の念を知らずに>に、いつも隅の方からあたりをうかがうような陰気な少年に育った。12歳になり聖書の勉強をさせようとしたが、せせらわらったため、怒ったグリゴーリイが頬をなぐりつけた。それから一週間ほど片隅にもぐりこんでいたが、その間に初めてのてんかん発作が起きた。その後も平均して、程度はさまざまだったが、月に一度程度の発作が起こった。やがて、彼のひどい潔癖癖に目をつけたフョードルは、モスクワに料理の勉強に出した。数年後、町に帰ってきたときは、年に似合わず老け込み、去勢されたように見えた一方で、身だしなみのよい都会的な服装をしていた。料理人としては優秀だったのでフョードルは家のコックとしてやとった。人に対する態度はおしなべて軽蔑的で不遜だったが、イワンだけは尊敬しているようだった。



追悼 田中幸治さん

八月もお盆を過ぎた頃でした。編集室に、薄紫の蘭の図柄が印刷されたハガキが届きました。炎暑の最中です。はじめ残暑お見舞いかと思いましたが、それは田中幸治さんの訃報でした。今日、ネット時代にあって私たちの読書会は、大勢の市民の参加を得て賑わっています。発足時の目的であった研究者と愛読者の融和は、着実にそのあゆみを進めています。今ある姿は、先人たちの賜です。ことし7月に亡くなった田中幸治さんは、黎明期の読書会開催に尽力された愛読者の代表のお一人でした。読書会で以下の報告をされています。
  
・1973年第19回読書会「シベリヤ流刑後『死の家の記録』までの書簡」
・1974年第24回読書会「ロシア文学について土地主義宣言」
・1977年「『おとなしい女』と『百姓マレイ』」
・1978年「米川正夫著『ドストエーフスキイ研究』」
・1981年「『小さな英雄』」、1986年「『罪と罰』3回目」
・1986年「『白痴』1回目」
・1989年「『おとなしい女』」

激変の70年、80年代に会をを支えたのち、「老兵は消え去るのみ」のごとくに静かに去っていかれました。
県職員であった田中さんは剣道家でもありました。豪放磊落にして繊細、気配りの人でしたが、語りはじめたら止まらない仏教談議に、当時はうんざりさせられたこともありました。けれど、あのなかに「アリョーシャ万歳!」が響いていたのです。いま、その声が聞こえます。さらば! 田中幸治さん!  (編集室)           



田中幸治さんを偲んで  下原康子

「ドストエーフスキイの会」発足は1969年3月。第1回例会は4月9日。東大、日大に代表される学園紛争が一応の収束を迎え、一方で人類が初めて月に着陸した年のことです。その年の10月27日、新聞の「催し物案内」で例会の開催を知った私は、会場になっていた新宿厚生年金会館の一室を恐る恐るのぞきました。その時、飛んできて迎え入れてくださったのが田中幸治さんでした。その後も安心して参加できるようになったのは田中さんがおられたからです。田中さんはその年の忘年会にも誘ってくださいました。新谷敬三郎先生と江川卓さんが談笑なさる姿が記憶に焼き付いています。田中さんとの思い出はたくさんあります。今は亡き伊東佐紀子さんがいつもいっしょでした。

田中さんのお誘いで、読書会メンバーの6人で埼玉県寄居の少林寺五百羅漢をめぐったハイキング(1972.11.11)。長野県天狗山ペンションで泊りがけで開催した読書会(1974.8.24)。早稲田大学小野講堂で開催された埴谷雄高氏の文芸後援会(「ドスエフスキー後の作家の姿勢」1989.6.10)。終了後、大隈会館で埴谷さんを囲んだ懇親会の宴たけなわのころ、田中さんが剣道の竹刀の素振りを披露されました。埴谷さんはニコニコしながらごらんになっていました。

田中さんのドストエフスキー理解の核心部分には「剣道と仏教」が存在していたと思います。それに気づくようになったのはほんの最近のことです。当時、田中さんは物足りないお気持ちでおられたことでしょう。それでも、妹さんと同じ名前(康子)ということで、いつも気にして、伊東さんたちと出していた「ぱんどら」という同人誌にも感想をくださいました。伊東さんの「父の思い出」という作品が田中さんのお気に入りでした。退職されたとき、伊東さんと新宿のお店でおいわいをしました。記念にさしあげたガラス製の二羽のスズメをとても喜ばれて、ご自宅の庭に並べた写真を送ってくださいました。

平成7年4月20日。伊東さんが亡くなりました。平成8年4月27日に、田中さん、岡田さん、私たち夫婦の四人で、お墓まいりをしました。お墓からは諏訪湖が見渡せました。開花が遅れた桜が満開でした。田中さんとゆっくりお話したのはそれが最後になりました。

今でも、読書会に初めて来られた若い方たちを見ると、私がはじめて会に参加したときのわくわくドキドキ感と田中さんのあったかい笑顔がよみがえります。(2019.10.1)



NHK文化センター 柏市民講座 ナポレオン生誕250周年に寄せて

下原敏彦 ドストエフスキー『罪と罰』を読む(全6回) (2019年8月~12月)
「ナポレオンになりたかった青年の物語」
 
第一回市民講座 ①ナポレオンとドストエフスキーについて(前号で報告)
        ②講座を開いた動機 (本号で報告)
 
【市民講座を開いた動機】
 
オレオレ詐欺ドキュメント番組を見て
 
なぜいま『罪と罰』の講座を開くことにしたのか。ことし3月NHKテレビで「振込み詐欺」のドキュメント仕立てのドラマがあった。そのなかに詐欺に手を染めている若者たちがでてくる。「出し子」「受け子」と呼ばれる若者たちだが、彼らに罪悪感がない。普通のアルバイトのように、むしろそれ以上に。ある種の使命感さえみせて加担していた。なぜ若者たちは、堂々と悪事を働いているのか。罪の意識が見えないのか。不思議だった。その疑問は、すぐ解けた。若者たちに騙しのテクニックをレクチャーしている詐欺講師の講義を聴いて驚いた。詐欺講師のレクチャーは、『罪と罰』がテーマとする非凡人、凡人思想の話だった。ラスコーリニコフにとりついたナポレオン思想と同じものだった。

酒場でラスコーリニコフが耳にした将校と学生たちの会話はこうである。
「一方には、おろかで、無意味で、くだらなくて意地悪で、病身の婆さんがいる。だれにも必要のない、それどころかみなの害になる存在で、自分でも何のためにいきているのかわかっていないし、ほっておいてもじきに死んでしまう婆さんだ。わかるかい」
「ところがその一方では、若くてぴちぴちした連中が、誰の援助もないために、みすみす見を滅ぼしている。それも何千人となく、いたるところでだ! 修道院へ寄付される婆さんの金があれば何百、何千というを立派な事業や計画を、ものにすることができる!何百、何千という人たちを正業につかせ、何十という家族を貧困から、零楽、滅亡から、堕落から、性病院から救いだせる――これが、みんな彼女の金でできるんだ。じゃ、彼女を殺して、その金を奪ったらどうか。/ひとつのちっぽけな犯罪は数千の善行によってつぐなえないものだろうか?ひとつの生命を代償に、数千の生命を腐敗と堕落から救うんだ。ひとつの生命と百の生命をとりかえる。―」

一方、NHKのドキュメンタリー番組で耳にした詐欺講師のレクチャー(だいたいの内容)は、こんな調子である。
「お金をもっているお年寄りがいます。お年寄りは、お金に不自由していません。お金は、タンスの奥に眠っています。お年寄りが亡くなったら、そのお金は、お金には困らない親族たちがわけて贅沢に暮らすだけです。世の中には、お金を本当に必要としている人がいます、本当に困っている人たちがいます。そうした人たちのために、あるところからないところに流す。これっていけないことでしょうか。間違っていますか。一人のお年寄りのおかげで、大勢の若い人が助かるのです。みなさんは、善いことをするのです。」

甘い、やさしい言葉でのレクチャー。かって連合赤軍は、革命をおこして善い世の中をつくろう、と呼びかけた。幸せな社会をつくろうと呼びかけたのはオウム集団だった。そこに集まったのはほとんど真面目で純粋な若者たちだった。悪霊は、手を変え品を変えて時代のはざまで若者たちを唆す。こんどは人類二分法という小道具を用いいて悪事を働こうとしている。

人類二分法とは何か。ナポレオン三世(1808-1873)「ジュリアス・シーザー伝」序文にはこうある。
「並外れた功績によって崇高な天才の存在が証明されたとき、この天才に対して月並みな人間の情熱や目論みの基準を押し付けるほど非常識なことがあろうか。これら、特権的な人物の優越性を認めないのは大きな誤りであろう。彼らは時に歴史上に現れ、あたかも輝ける彗星のごとく、時代の闇を吹き払い未来を照らしだす。・・・本書の目的は以下の事を証明することだ。神がシーザーやカルル大帝のごとき人物を遣わす。それは諸国民にその従うべき道を指し示し、天才をもって新しい時代の到来を告げ、わずか数年のうちに数世紀にあたる事業を完遂させるためである。彼らを理解し、従う国民は幸せである。かれらを認めず、敵対する国民は不幸である。そうした国民はユダヤ人同様、みずからのメシアを十字架にかけようとする。」
 
『罪と罰』という作品の目的は、ドストエフスキーの他の長編小説と同じ全世界の人類救済と、この惑星に生きる人間一人ひとりの幸せにある。だが、その手段として人間を非凡人と凡人に分ける人類二分法は正しいのか。英雄主義は有効か。何百、何千と人を殺しても、未来が善ければ、永遠がつづけば、結果的にそれは正しかったといえるのか。小説では、ラスコーリニコフの(作者の)視線の先に答えは見えて来なかった。

唆された救済で悪事に手を染めようとしている若者たち。かれらに『罪と罰』の真のテーマを知らせたい。こんな理由から、動機から講座を開きました。しかし、社会一般にはドストエフスキー人気は薄く、集まった受講生の半数は未読者。この先、読んでゆけるかと不安を訴える人も多かった。そこで窮余の策として勝手ながら『罪と罰』を脚色して法廷劇として、受講生全員に役振りし擬似法廷を開いた。ことのほか受講生に受け、講座授業は活発化した。

『罪と罰』擬似法廷劇 
全作品を読む会のHPにリンクしました。(連載継続中)
http://dokushokai.shimohara.net/toshihikotoyasuko/kanekashi.html



公 演
  『白痴』公演 東京ノーヴイ・レパートリーシアター

●下北沢劇場公演
2019・10月26日(土)19:00 /27日(日)14:00
●下北沢劇場公演
2020・5月9日(土)19:00 /10日(日)14:00 



近 刊 


高橋誠一郎著『「罪と罰」の受容と「立憲主義の危機」』
2019年2月27日 成文社 定価2000円+税   
北村透谷から島崎藤村へ 「明治維新」150年を辿る。



掲示板


読書会への提案 『カラマーゾフの兄弟』を惜しむ声と朗読の提案

早いもので『カラマーゾフ』に入って一年があっという間に過ぎました。この間、4人の報告者がありました。が、報告希望者は、まだおられます。ドストエフスキー最大の長編作品、1年間ではもの足りない。『カラマーゾフ』に寄せる多くの感想をもっと聞きたい。そんな声があります。また、『カラマーゾフの兄弟』のなかで、希望者に自分がもっとも好きな箇所を朗読してもらうのはどうだろうか、という提案がありました。。

12月読書会は1月にずれ込み 

今回12月読書会は、抽選予約にはずれて、残念ながら会場が確保できませんでした。次回の読書会は以下の日程で開催します。
2020年1月11日 (土)午後2時~4時45分 第5小会議室
なお、この次は従来通り、2月開催の予定です。

ドストエーフスキイの会 第254回例会 

今後は早稲田大学戸山キャンパスの教室になります。
月 日 : 予定11月16日(土) 午後2時~5時
会 場 : 戸山キャンパス(文学部)32号館2階228教室(定員64名)



編集室

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