ドストエーフスキイ全作品を読む会 読書会通信 No.173
 発行:2019.4.10


第292回4月読書会のお知らせ


月 日 :2019年4月20日(土)
場 所 :池袋・東京芸術劇場小会議室7(池袋西口徒歩3分)
開 場 :午後1時30分 
開 始  : 午後2時00分 ~ 4時45分
作 品  :『カラマーゾフの兄弟』 2回目
報告者  : 江原あき子さん     
会 費  : 1000円(学生500円

6月読書会は、15日午後、東京芸術劇場第7会議室です。
開催日: 2019年6月15日(土) 午後2時~4時45分迄です

第52回大阪「読書会」案内6・15(土)『カラマーゾフの兄弟』第8編



『カラマーゾフの兄弟』とは何か
 (編集室)  

『カラマーゾフの兄弟』とは何か。たくさんの評論や研究書はあります。が、やはり本家本元の米川正夫解説が最高峰です。毎回ですが、見逃している人の為に『ドストーフスキイ
全集 別巻』から氏の解説を何回かに分けて紹介します。

第十五章 

① 全人類の、全宇宙の象徴

すべてすぐれた文学作品は、それ自身の中に独立した生命を有していて、一個の小世界を構成している。この意味において、ドストエーフスキイの長編はことごとく、それ自身の生命をもつ独立した世界であるに相違ないが、彼の最後の長編である『カラマーゾフの兄弟』ほど、この定義が完全に当てはまる場合は、世界文学の中でも例が少ない。これも『未成年』とおなじく、偶然の家族ねというより、偶然性の極限にまで達した家族の歴史であって、名もない田舎町(スターラヤ・ルッサをモデルにしたといわれている)を舞台にした、一つの殺人事件にすぎないけれど、その中には驚くべき普遍性と総合力が蔵されていて、カラマーゾフの世界はただちにロシヤ全体を抱擁するばかりではなく、全人類の象徴ともなっているのである。いな、それどころか、地球圏を脱して未知の世界に通じようとするコスミックなものさえ、そこには感じられる。

『カラマーゾフの兄弟』は、ドストエーフスキイの芸術と思想の一大総合であるばかりではなく、作者の精神的自伝でもあり、その芸術的告白である。しかし、作者の偉大な普遍化の力によって、読者は国籍のいかんを問わず、カラマーゾフ兄弟の運命の中に、おのれの運命を感取するのである。この際、注目すべきことは、三人の兄弟が一つの精神的統一として構想されていることである。その点が、在来のドストエーフスキイの長編と、根本的に異なっている。『罪と罰』においてはラスコーリニコフ、『白痴』においてはムイシュキン公爵、『悪霊』ではスタヴローギン、『未成年』ではヴェルシーロフ、――これが作品の主体であって、事件はすべて一人の主人公をめぐって生起し、発展していく。それに反して、『カラマーゾフの兄弟』においては、三人の兄弟が、それぞれ重要な役割を与えられていて、いずれを真の主人公とすべきや、読者は判定にくるしむ。作者は明らかに、末弟のアリョーシャを主人公と名ざしてはいるけれど、作者の宣言をそのまま受け取ることを拒む読者も少なくない。ならば、その行動性によって小説中の事件の原因となっているドミートリイが真の主人公か、それとも平凡な頭脳によって無神論の新しいシステムを樹立した次兄のイヴァンか ? それは読者の好みによって、それぞれ選択を異にするであろろう。しかし、彼らは作者の意図によると、分かちがたい精神的な一体であって、これを無視しては『カラマーゾフの兄弟』を正しく理解したとはいえないのである。

ドストエーフスキイが、人間性を形成する知・情・意を、三人の兄弟にわかち与えたことは、疑うまでもない。知を具現するイヴァンは合理主義者であり、生まれながらの懐疑家であり、否定者である。情はドミートリイによって代表される。彼の内部には「虫けらの卑しきなさけ」とともに、真・善・美の融合であるエロスの神が宿っている。最後に、意の体現者はアリョーシャである。彼は自己の志した実行的な愛の道を、ひたむきに進んでいる。しかし、彼らは三人とも血によって結ばれ、おなじ根源から成長したのである。この根源、すなわちカラマーゾフ的要素が、父フョードルに蔵されているのはいうまでもない。しかし、フョードルには正統の子供らのほかに、一人の私生児スメルジャコフがいる。



4・20読書会 『カラマーゾフの兄弟』2回目

アリョーシャの学校


平成の子供たちと、未来の子供たちへ

江原あき子

平成という時代が終わろうとしている。色々なことがあった時代だった。その中でも特筆すべきことは、子供たちをめぐる状況である。いじめ、虐待、性犯罪、教師やコーチなどによる暴力とパワハラ。子供たちのいる環境はどんどん荒廃していった。これは、そのまま大人たちのいる環境の荒廃も意味している。この世界を美しくするために、どうしたらいいのだろうか?私自身あきらめかけているし、世の中の人々の無力感も感じている。唯一の希望は素晴らしい教育者が現れて、まず、子供たちを荒廃した世界から救ってくれることである。

その教育者はどんな人なのだろう? 私はその人はアリョーシャのような人なのではないか、と思う。コーリャをはじめとする子供たちへのアリョーシャの言葉の数々はとても力強く、今もその輝きを失っていない。今回はアリョーシャが、子供たちに語った言葉を紹介しながら、次の時代に必要なものは何かを皆さんで考えていきたいと思います。

以下の項目でお話します。

1 アリョーシャの教育者としての才能
2 コーリャとニーノチカ
3 みんなが同じでも、決して同じにならないこと
4 あなたはとても不幸な人になるでしょう―震災とこどもたち―
5 ドストエフスキーの教育論 



2・16読書会報告 

               
2019年2月読書会から『カラマーゾフの兄弟』に突入しました。一回目の参加者23名。

報告者は野澤高峯さん、司会進行は梶原公子さん。テーマ〈「大審問官」を読む二つの視点〉に意見、議論白熱!!報告者の野澤高峯さんは、綿密なレジメに添ってテーマ〈「大審問官」を読む二つの視点 「無神論」について〉を発表された。「参加者の忌憚のない意見を」との希望で、30分報告のあと、この日、参加した全員の感想・意見を聞かれ、丁寧に答えられた。

【質疑応答でだされた意見・感想、その他の言葉】

・「奇跡が疑問」 → 最初の疑問 (冷牟田幸子著『ドストエフスキー 無神論の克服』)
・「社会主義」=神に代わるもの。
・無神論 =ニーチェ 根っこは同じ。
・ロマン主義は温存 → 神がいなくなったら、別なものが必要。
・トランプ政権と似ている。
・キリストを理想にしている。人間を超えたもの。
・チェーホフの方が今の時代にヒットしている。
・大審問官と近代日本の構造。
・大審問官だけ読んできたので一方的な見方しかできない。
・根源的自由―究極。
・神における自由。真理における自由。



連 載      

ドストエフスキー体験」をめぐる群像
(第82回)堀田善衞のドストエフスキー 「未来からの挨拶 (Back to the Future)」

福井勝也                                 

先日(3/16)の第250回例会では、予告したテーマを越えた内容もあり、堀田善衞という作家のスケールの大きさを報告者自身が再認識する機会になった。参加者に改めて感謝するとともに、ここに当日の発表タイトル(上記標題)と資料目次を再掲し、今後に引き続く主題として堀田の「未来からの挨拶-Back to the Future」について記しておきたい。

1.いくつかの前提、やや長い前置き
2.「時代とともに成長する作家」(埴谷雄高)- 共通する作家像(1)
3.「越境<国境越え、ジャンル越え、時間越え>する作家」- 共通する作家像(2)
4.堀田の出発点としての東京大空襲から上海へ、何故に堀田は中国へ渡ったのか?
5.『若き日の詩人たちの肖像 』(1968)におけるドストエフスキー作品(『白夜』他)
6.堀田善衛の『大菩薩峠』論(中里介山著、1913・大正2年 ~1941・昭和16年、未完)
7.上海時代(1945.3.24~1947.1.4)「上海日記」(没後10年、2008)
8.新発見文書「上海と南京」「文学の立場」(生誕100年・没後20年、2018)
9.「未来からの挨拶-Back to the Future 」(1995)

当日は、上記目次2.以降の本題に入る前に、締めくくりの9.「未来からの挨拶-Back to the Future 」を中心的テーマとして先に説明をする手順をとった。この成り行きは、資料を準備する段階で『未来からの挨拶』(1995)という堀田最晩年著書に巡り会い、そこに作家の全文業を振り返る核心的な言葉を見出したと思ったからだ。それは、ハリウッド映画「Back to the Future 」題名への堀田の「異常な関心」から始まり、下記のホメロスの『オディッセイ』の言葉とその注釈へと作家を導いた。以下堀田の言葉を引用する。
 
「- the only one who sees what is in front and what is behind ― この人だけが前の方にあるものと、背後にあるものとを見る(ことが出来る。)ところで、この一句につけられた訳注によると、古代ギリシアでは、過去と現在が(われわれの)前方にあるものであり、従って(われわれが)見ることの出来るものであり、(われわれが)見ることの出来ない未来は、(われわれの)背後にあるものである、と考えられていた、というのである。これをもう少し敷衍すれば、われわれはすべて背中から未来へ入って行く、ということになるであろう。すなわち、Back to the Futureである。」
そして、
「ソフォクレスの『エディプス王』を読んでみると、そこにも[‥‥]同様のものを見出した。― not seeing what is here nor what is behind ― ここにあるものも見えなければ、背後にあるものも見えない。つまり、ほんの少数の賢人だけがわれわれの背後にあるもの(未来)を見ることが出来るのだ、ということになるであろう。」
 そして堀田は、この少数の賢人(「未来を予言する予言者」)としてランボオとドストエフスキーを引き、それを例証する以下の文章を残して著作のエッセーを閉じている。
 
「ドストエフスキーが『悪霊』のなかで、 ― 人は自由を欲することからして発して、ついに警察国家を形成するにいたる。と書いたことがあったが(この『悪霊』からの引用は、シガリョーフ主義と称されるもの、筆者注)、これをしも予言として解するとすれば、それはドストエフスキーが、ロシアの歴史と眼前の現在(の現実)を明確に、如何なる偏見にも、また希望にも恐怖にも動かされることなく、眼前の歴史と現実を見て見て見抜いていたことを意味するであろう。かくして、彼は彼の背後に一つの未来像を見出したのであった。ドストエフスキーはソヴィエト時代にはほとんど忌避されていた。

『地獄の季節』の詩人アルテュール・ランボオが次のように言ったことがあった。― Il faut etre absolument moderne. ― 絶対に現代(人)であらねばならぬ。と。ヨーロッパの現代を見抜いたかに思われた、見者ランボオは、ヨーロッパを捨ててしまった。[‥‥]予言者故郷に容れられず‥‥。

過去と現在が眼前にあって、未来が背後にあるものとすれば、この未来にはいささかオンブお化けじみた魔物がいるかに思われて来るのであったけれども、現在と過去・歴史にも魔物めいたものに事欠きはしないのであった。歴史の恒常的な現存在性(presence)が信じられているところへ、おそらく未来からの挨拶がとどけられているものなのだろう。―Back to the Future!(1994年2月)」

実は、発表が終わった今も当方がこの件に拘る理由がいくつかある。それは堀田文学からドストエフスキーを見通す中心的な回路、報告でも指摘した二人の作家像の共通性を導く根幹にこの「時間論」があると思うからだ。そして、現在多摩の読書会で読み進めている南京事件を扱った堀田の小説『時間』(1955)が、そのことを改めて意識させる特別な作品として目の前にあるからでもある。この作品については、別途後述したいと思う。

その前に報告資料でも触れた、本邦初訳(木下豊房訳)のドミトリー・リハチョフの「年代的時間」で詳説されたドストエフスキー的時間、その前提として語られるフェリエトン的叙述も含め、堀田作品にも通底する説明がなされていると感じる。さらに、そこから発する両者の予言者的表現の問題も、堀田の言葉に拠れば歴史の恒常的な現存在性(presence)への信頼に依拠するものだろう。ここで改めて、資料に掲載したリハチョフの論文の一節を再引用しておく。なお、「広場」最新号で全文を是非読んで欲しいと思う。

「ドストエフスキーは時間を追いかけるが、後の時代のプルーストのように、かつてあり、過ぎ去り、いまや追憶の中にある「失われた時」ではなく、現在の、生成過程にある時間を追いかける。ドストエフスキーが書くものはまだ冷めやらない過去であり、現在であることをやめない過去である。彼の年代記は「かけ足の年代記」(《быстрая летопись》)で、彼の雑報記者はレポーターにそっくりである。[‥‥]ドストエフスキーは年代記記者として、意味深いものにも、つまらないものにも同等の意義をあたえ、主要なものと二次的なものをその叙述のなかで結びつける。それが彼に、些細なものに永遠の印を、未来の予感を、まだ誕生に至らない未来そのものを見透かしさせるのである。[‥‥]出来事はある者にはそのように見え、他の者には別様に見える。しかし出来事についての見解の多様性からいえるのは、出来事が存在したこと、それは幻ではなく、さまざまの視点の間に共通するものが一般的で客観的なものであるということである。事件の跡を追っての語り手の素早い追跡を背景にして、未来に向けての作者の関心の転換は、予言として、予見として、生起しつつあるものの永遠の本質への確証として受け止められる。」(「広場No.28」50周年記念号 21世紀・近未来のドストエフスキー所収/2019.4)

さらに資料で 新発見文書の「文学の立場」(1946.3)に触れておきながら、紹介できなかった批評文をここで引用しておきたい。前号「通信」で紹介した「上海と南京」(1945.5)と同様、フェリエトン的叙述で上海当時の空気感を伝える強度ある文章だ。ここで堀田が、敗戦という時代の転換期に自身の足場にしようとしたのが、党派的な「政治的立場」でなく、人間の本質を見極めようとする「文学的立場」であった。そしてその特徴は、堀田は「ドストエフスキー以上のものが出なければ到底間に合わないのだ」と語ることで、ドストエフスキー文学を更新する意欲を示していることだ。深い絶望とそれ故の希望を文学に賭けようとする堀田の乱世を生きる強い意気込みを感じる。この時期、戦後文学者としてドストエフスキーについて、ここまで言い切った作家があったろうか。それが今年になって、『すばる』(3月号)に新発見の上海文書公開という僥倖に恵まれた。当方の報告資料作成中のことであった。堀田の言葉は、現代にまで届く「未来からの挨拶」として蘇った。以下一部を引用してみる。こちらも是非全文にあたって欲しいと思う。なお付言すれば、当方読書中の『時間』(1955)という小説が、今回新発見の「上海と南京」と「文学の立場」の延長に書かれた作品であると確信しつつあることだ。
 
「私は先日タラワ島上陸戦を実写した米国映画を見たが、その中で私が最も烈しく打た
れたのは、捕虜にされた日本兵が二人真裸にされて砂上にうずくまり、米国兵の訊問をうけているらしい光景であった。その中の一人は、髪を伸しかなりきちんと分けていた。そしてその顔は、確かに大学を出た若者の顔であった。映画館を出て直ちに私が襲われた考えは、こうした恐ろしい体験を経た若者が多数帰国した後の、日本の思想と文学についてであった。文学も、最早やドストエフスキイ以上のものが出なければ到底間に合わないのだ。」/「恐らく文学は敗戦によって虚脱したような人々や何処かの山奥で所謂物を考えていたいような人々、又戦時にあって戦争というものとどうしても合致して生きることの出来なかったような人々や速かにうまく世渡りできる便利な人々などを描くであろうが、それらの作品が飽和点に達した時に、一つの危機が来る。そうした幾多の危機を予見出来るからには、ここでもドストエフスキイ以上の無気味な作品、そうした作品が生まれない限り、日本の先鋭な思考力は収りがつかない。まして世界の均衡、世界の比重を自らの問題とすることが出来ない現状である。我々は世界と人間の運命について深く考えざるを得ない立場についに置かれてしまったのだ。」/「まことの苦悩に鍛え抜かれた人間像を我々は生まなければならぬ。近代の超剋はそこに完成する。しかし今世紀はあまりに人間に仕合わせな時代ではないらしい。」/「地殻の変化にも似た歴史の緩慢な動き程恐ろしいものはないであろう。これと共に、歴史を創造せんとする人間の決意。私はそこに頃日、神と呼ばれるものを感得するかと思うことが屡々ある。遂に我々の文学もやがてかかるものの思いへ、人間世界の中心へ肉薄しなければならぬ。苦悩の錬金術にほかならぬデカルトの決断力、パスカルの業苦絶望これらもまた頃日私の脳裏に再び新しく訪れて来た先人であり、もてなす術も未だに分からぬ途方もなく重苦しい客人である。」(「文学の立場」『新生』第1号(1946.3)、『すばる』(2019.3月号)


今回本欄の残りスペースも少なくなって来た。新発見文書をこれまで引用してきて思うのは、堀田が拘った「ドストエフスキイ以上のもの」「ドストエフスキイ以上の無気味な作品」を、その後誰かが書き得ただろうか?ということだ。当方は、先述している小説『時間』(1955)が、堀田自身が意欲し仕上げようとした「作品」であったろうと推測している。

この作品は、南京事件(1937.12)という、今日なお日中国家間の「棘」のような歴史事実、そのほぼ一年間の「時間」経過(1937.11/30~1938.10/3)を「日記体」で書き記した問題作である。無論読みながら、読者は酷い場面に直面させられる。但し、その日記の構成は、12月13日(Xデー)前後については直接描かれず、半年後位からの「記憶語り」となっている。一読後、所謂「戦争の悲惨」を書いた「反戦小説」の類いとは全く異なる印象を抱いた。そのせいかどうか、本作品は今まで本格的に論じられて来ていない。それは題材の問題以前に、ドストエフスキー文学をも射程に入れた「メタ小説」であるからだと感じた。

堀田は、主人公に欧州に留学経験のある中国知識人を当てている。その語り手でもある陳英諦は、30代前半で10年前の1927年(4/12)国民革命/上海暴動の際には、蒋介石の弾圧に抗して学生として闘った経歴も持つ。彼は、愛する妻(莫愁、本名清雪)も息子(英武)も「日軍」に既に殺された事実を書き記してゆく。奇跡的に生き延びた主人公は、南京陥落後接収された邸宅で、特務機関の桐野大尉に「奴僕(ボーイ)」として仕えている。と同時に、その地下室の無電機から機密情報を打電する諜報員として二重の役割を生きている。打電し、その傍らのノートに書き印す「日記」が本小説というわけだが、それは「地下室の手記」とも言える。彼は、こんな風に語っている。「これを書くについて、わたしの心掛けていることは、ただ一つである。それは、事を戦争の話術、文学小説の話術で語らぬこと、ということだ。」(『時間』岩波現代文庫、p.47)この言葉は、おそらくもう一人の語り手、作家(堀田)自身の言葉とも聴き取れる。この件は確かな伏線でもある。(2019.4.1)



ドストエフスキー情報


新聞 毎日新聞 2019.2.14  提供= 小野元裕さん

表象文化としてのドストエフスキー講演      

国際ワークショップ・講演「表象文化としてのドストエフスキー」(名古屋外国語大主催)
16日午後1時、東京都文京区本郷7の東京大本郷キャンパス(法文2号館)
『カラマーゾフの兄弟』など、現代まで読み継がれる文豪・ドストエフスキーの作品と、映画や絵画、演劇などとの関わりについて第一線の研究者が話し合う。第Ⅰ部のワークショップは「ドストエフスキーと映画、その歴史」(亀山郁夫名古屋外国語大学長)、『白痴をめぐる変奏』(沼野充義・東大教授)などをテーマに取り上げる。第2部では、伊ベローナ大のステファノ・アローエ准教授が講演。(毎日新聞 2019.2.14)

新聞 毎日新聞 夕刊 2019.2.25  提供=小野元裕さん

舞踊 カラス公演「白痴」白夜の底の暗闇

文豪ドストエフスキーの長編を、勅使川原源三郎が「無謀」にも舞踊化。2016年の初演以来更新を重ね、原作執筆から150年にあたる昨年は、パリで絶賛された。出演は勅使川原自身と佐東利穂子。佐東は滑らかな身のこなしに白刃のような鋭さをひらめかし、絶世の美女ナスターシャの痛々しさを体現する。誇り高いアグラーヤの面影も見え隠れするようだ。対する勅使川原はてんかんの発作を思わせる動きなど「聖痴愚」と呼ばれたムイシュキン侯爵そのもの。筋を追うというよりは、関係性の変容がつづられていく。2人は共に踊りながら、向き合うことはない。ワルツに乗ってそれぞれの旋回を繰り返すのみ。魂の底で共振しつつ、同極の磁石のようにはじき合わずにはいられないのである。チャイコフスキー「弦楽セレナーデ」第2楽章の甘美な旋律が不吉に響く、この場面の美しさは忘れがたい。破滅をもたらす男ロゴージンは登場しない。だが舞台の同縁は常時、闇に包まれている。(照明も勅使川原)。そもそも開演前から明りが乏しく、観客はほぼ手探りで着席するうち、まんまと作品世界に落とし込まれているのだ。会場は、舞踊団カラスのスタジオ競劇場。振付家の本拠ならではの空間演出であり、闇にうごめくロゴージンの存在が、確かに感じられた。終幕。壁際を黒衣のネズミがむはい回り、精神を浸食していく。シュスタコービチ「ジャズ触曲」ワルツ第2番に騒音が混じる中、一人残された主人公は壊れたからくり人形のようにけいれんし、上着の羽織り方さえ忘れてしまう。ついに崩れおちる無垢な魂――。鬼気迫る勅使川原の演技は、殉教者を思わせた。白夜の底の暗闇が凝縮されたような1時間。来月には、ロンドンでのロングラン公演が決まっている。【斉藤希史子】



広  場 

19世紀ロシアの風俗史料としての作家の日記
  

榊原誠人

先日は読書会で作家の日記の三つの短編を読みました。ところで作家の日記は何かと人気がない。それは冗長な内容だったりドストエフスキー特有のあのクドクドとした言い回しが続く、または長編と違って推敲の浅い短文が出てきたりして長編に親しんだ読者にすると物足りなかったり退屈に思える為でしょう。ところで自分は歴史好きですが、歴史好きの目線からするとこの作品は19世紀ロシアや欧米の風俗を知る上で大変重要な史料であり、そこから見出されることはいずれも驚くべきものです。この文章では歴史資料として、またエッセイとして作家の日記が如何にエキサイティングなものであるかを述べます。要は先日の読書会の感想を改めて書く、というだけのものです。ちなみに、論文や文章の類はブランクがあるため、書き方などに色々誤りなどが見られるはずですが、その点はご笑覧いただくかご指摘を頂戴できたらと思います。

『キリストのヨルカに召された少年』で初めに目に付いたのが、少年が目を覚ました地下室についてです。

「この少年はじめじめした冷たい地下室で、朝、目を覚ました」(p.180)

ここで示したページは読書会で使った資料のもので、以下でページ数を示した場合、同様のものです。この地下室というものが、よくドストエフスキーの作品に出てきますが、どんなものなのか自分にはいまいちピンと来ません。まず19世紀に電球は存在してないか、していても庶民に普及はしていないはずなので(ウィキペディアのエジソンの記事によると1879年発明となっている)、我々が見慣れた電気で照らされた地下の階ではないはずです

そこで「19c underground room slum」などのキーワードでGoogle検索をかけて、画像検索を見ると天井に近い部分だけ明かり窓がある地下倉庫みたいなのがでてきます。「朝、目を覚ました」とあるので日が入るような、恐らくこの様な半地下式の倉庫みたいなところなのでしょうか。他の作品でも地下室の手記とかあるので、貧乏な人がよく暮らしている賃貸でこういうタイプがあったのかもしれません(ちなみにスラムのことをロシア語ではТрущобы またはбидонвилиと言うそうです)。

また、ウィキペディアで『地下室』について調べてみました。以下引用になります。引用した記事のバージョンは「 2018年1月20日 (土) 02:13 」です。

「また、地上階では果たせない地下ならではの役割もある。暖かい空気は上へ昇るという性質から、地下室の内部は地上よりも温度や湿度が低い。」「ただし、木造家屋・壁が薄い場合・新築RC建築物・地下水の存在などの条件下では湿度が高くなり、完成から1年程度は様子を見ながら使用する。特に地下水の多い都市や川沿いの土地の場合、地下室は地下水の浸透による壁面のひび割れなどの恐れがある」要は地下水などの関係で湿度が高く、地上よりも低い位置にあるため、寒い場所のようです。穴蔵みたいな感じなのかも知れません。ペテルブルクはネヴァ川河口の湿地帯なので伏流水は多いでしょうから地下室はさぞかしジメジメしたことでしょう。おまけにそこは屋内なのに息が白くなり、病気の母親が板の上で薄い布団で寝ていて、他の貧困層の人たちと雑居している様子が伺えます。

「息が白い蒸気になって吐き出される。」p181
「朝から幾度も寝板のそばへ近寄って見た。そこには煎餅のように薄い敷物を敷き、枕の代わりに何かの包みを頭にあてがって、病気の母親が横になっている。」同
「なにしろ祭日のことなので、間借人たちもちりぢりばらばらになってしまい、たった一人残ったバタ屋も、祭日の来るのを待たないで、へべれけに酔っ払ってしまい、もうまる一昼夜というもの、死んだように寝込んでいる」同
「部屋の向こうの隅では、八十からなる老婆がリューマチで唸っている。これはかつてどこかで子守りに雇われていたのだけれど、今では一人淋しく死んでいきながら、唸り声を立てたり、ため息をついたりして、少年にぶつぶつ、小言ばかりいっていた。」同

冬のロシアで暖房もない穴蔵の底で、ベッドもなく板の上で病人が寝ていて、他にも酔いつぶれた個人経営の男性から孤独死を待つ老婆まで一緒に雑魚寝で暮らしている、我々からしたらずいぶん異常な状態で暮らしているわけです。いわゆるドヤ街みたいな場所なのでしょうが、比較的イメージしやすい例として、自然災害の避難所があげられると思います。避難所も、複数の家族が同じスペースに雑魚寝していますが、プライベートがない、冬に寒くて夏に暑い過酷な環境です。避難所を体育館からもっと小さいスペースに移したような、そんな雰囲気なのではないでしょうか。この親子がこんなところで暮らしているのも、どうも生活の安定を求めて都会に出てきたためのようです。

「よその町からやってきたところが、急に病みついたものに相違ない。」p181

農奴解放の関係で19世紀の60年代70年代は貧困層が都会に溢れて大混乱したと聞きますが、この親子もそうした例なのでしょう。農奴解放による経済的混乱は自分などよりもっと良い文章がたくさん書かれているはずですので詳細は述べませんが、このような親子がそうした経済的混乱のために都会で路頭に迷うことも恐らくよくあって、それで作家が書いたのではないでしょうか。

先ほど避難所を類似の例に挙げましたが、それ以外の例として今日のネットカフェ難民をも彷彿とさせます。雑魚寝でこそなく、冷暖房もあり、パーティションで区切られていますが、当時の貧困層の雰囲気としては若干近いのかもしれません。

ちなみにこれを書く際に19世紀ロシアの住宅事情を調べたのですが、たまたま19世紀のパリとペテルブルグにおける貧困住宅に関するロシア語のページを見つけました。参考までにここにリンクを載せます。そのうち、機会と余力があったら訳して投稿したいものです。
https://arzamas.academy/materials/591

男の子が外に出ることで町の描写になりますが、ここも当時の都会や繁華街の雰囲気がよく伝わります。
「ほろほろした雪を通して、舗石にあたる蹄鉄の音がかつかつと響き、人々はお互いに無遠慮に突き当たっている」

この時代、車道は石で舗装されていたことはなんとなく知っていましたが、馬車が走るところ、つまり車道で使うのは現代人としては意外に感じるのではないでしょうか。自分は特に、蹄鉄の音がカツカツ鳴る辺りに、今日とは全く違う風俗を感じました。昔の風俗というとまずは視覚でイメージしますが、聴覚的にも相違があったのかと。あと文中には書かれておりませんが、19世紀の街だと馬糞や石炭の匂いもかなりしたと思います。

また、歩きながら人にガツガツぶつかるなんてことは我々はやることはないと思います。自分が海外で日本との違いを強く感じるのが、すれ違いざまの対応です。都会などの人混みで体が当たりそうになったり、手などが他の人をかすったりした場合、普通現代の日本人は「すみません」と謝罪したり、会釈で謝罪の意を伝えたりするものです。ところがアジアの国などに行くと、それが全くない。ましてやこの時代のロシア人は、「無遠慮に突き当たって」とあるのでかなり異様な光景です。実際20年ほど前に自分がウラジオストクに行った時は、ぶつかりこそしませんでしたが、やはりすれ違いざまの会釈などは全くなく、変に思ったものです。街に出た少年がヨルカを祝うお宅に見とれて入っていく場面。ここで少年はそのお宅の人たちにさんざん怒られます。

「少年はそっと忍び寄り、不意に扉を開けて中へ入った。その時の騒ぎ、みんな手を振り回しながら、かれをどなりつけた。一人の奥さんが大急ぎでそばへ寄って、彼の手に一コペイカ銅貨を握らせると、自分で入り口の戸を開けて、外へ追い出した。」

なんだって貧しい身なりの子供にこの人たちは怒鳴りつけたりするのでしょうか?そんなこと起こり得るのでしょうか?

20年ほど前に自分はウラジオストクに短期留学したことがあります。この時期はロシア財政破綻の直後で、町には浮浪児やホームレスが溢れており、繁華街に行くと子供や赤ん坊を連れた女性の物乞いをよく見かけました。そして、子供の物乞いに絡まれたりした優しそうな青年が怒鳴って追い払ったのを見たことがあります。暮らしが貧しいと浮浪児に施しをあげる経済的余裕もなくなり、優しそうな人でも仕方なく追い払ったりするのだろうと思ったものです。引用の少年を怒鳴りつけた人たちや銅銭を渡した奥さんも同じような心境だったのでしょう。社会が貧しいと困っている子供を助けることも我々が思う以上に困難だと言うことなのでしょう。

読書会でフランダースの犬に言及した人たちがいましたが、その作品に限らず19世紀の作品は子供の貧困が出てくるものが少なくないように思えます。マッチ売りの少女などは良い例ではないでしょうか。この手の話はそうした子供の貧困を、生きていくために見て見ぬ振りしていた19世紀人の良心の呵責が現れているのかも知れません。話の後半、少年がキリストのヨルカの祝いに招かれた場面で、非業の死を遂げた子供たちの例をドストエフスキーが挙げます。



予備校graffiti

―ドストエフスキイ研究会で出会った青春(2)―
      ― 心優しき東大生 ―


芦川進一 

★長い間予備校で教えている間に、東大に送り出した浪人生は随分の数に上りますが、I君ほど謙虚で心優しい東大生も珍しいのではないかと思います。「天下の東大」に入ったということで、「世に勝った!」などという、とんでもない思い違いをする若者も少なくなく、下着にまで「東大××」と名前を記す幼稚な学生もいたり、「いやー」という謙遜の言葉の裏に、無限の自負心をチラつかせる「エリート」候補生もいたりする中で、今回紹介するI君は、傲慢・虚飾とはほど遠いところにいる学生でした。

★私は授業の合間に、ドストエフスキイが十年の「シベリア浪人」だったという話をしたり、佐野洋子さんの『百万回生きた猫』や、S.シルバースタインさんの『大きな木』(“ The Giving Tree ”)や、山口勇子さんの『おこりじぞう』、そしてアンデルセンの『すずの兵隊』などの絵本を読んだりするのですが、ある時ふと気がつくと、最前列の端の席で目を真っ赤にして涙を拭いている生徒がいるのです。それがI君でした。

★I君は予備校で無二の友人を得ました。ところがこの友人、医学部志望のW君が或る大変な難病にかかってしまい、生死を賭けた大手術を受け、長い入院生活を余儀なくされるという悲劇が起こってしまいました。I君は時間の許す限り病院に見舞いに行き、苦しみと絶望の底にいるW君を励まし続けました。残念ながら、この年W君は受験自体が出来ず、I君も試験に失敗してしまいます。心配されたご両親から、当然のことですが、勉強に一層集中するよう厳しく迫られると、I君はただ涙するしかなかったようです。しかしその涙の後で、なお彼はW君を見舞い続け、以前に増して勉強に打ち込み、翌年は東大・理科Ⅰ類への合格を果たしたのでした。

★大学へ通う一方、I君は河合文化教育研究所の私のドストエフスキイ研究会にも参加し続けました。毎年この研究会が始まる時、私はまず参加者に自由に自己紹介をしてもらい、その自己紹介の仕方によって各人がどう個性を表現するのか、楽しみに聴いています。ところがこの時、「僕、今一応、〇〇大学の××学部にいます」とか、ただ「僕、△△大学です」とか、「私、◇◇です」とか、一見シャイさの内に実は誇らしげに、また嬉しそうに自分が入学した「有名大学」の名を口にして、それ以外のことは自己紹介が出来ない人たちが少なくありません。その心理を理解出来なくもないのですが、やはり幼稚と言うしかなく、こういう人たちは、残念ながら大抵ドストエフスキイと長く取り組む縁はないようです。I君は自分の大学名を口にすることはありませんでした。「僕、星が好きで、天文学をやりたいと思っています。よろしくお願いします」。彼はこの時、およそ語るべき全てを語ったのです。

★I君は今或る専門機関に属し、研究に打ち込んでいます。世界各地の天文台へもしばしば赴き、巨大望遠鏡の設置をし、夜空と睨み合っています。彼自身の課題は、ビッグ・バンから放射された電波を電波望遠鏡で捉え、宇宙の始まりを究明することだと言います。ドストエフスキイを愛読する天文学者が、やがてどのような「宇宙創造説」を提唱するのか、私は楽しみにしています。心優しき彼が宇宙を見つめる望遠鏡には、無数の星々と共に、きっと天界の天使たちの姿も映し出されているに違いない、そして電波望遠鏡には天使たちの囁きが響いているに違いない、私はこんな勝手な想像もしています。

★I君の友人W君の、その後のことも記しておきます。上に記したように、彼は医学部志望の、やはり優しく鋭い頭脳を持つ若者でした。しかし大変な肉体的ハンディを背負ってしまったことから薬学に転じ、体を大切にしつつ、今は薬剤師として働いています。彼の夢は、人間を苦しめる様々な病への特効薬を一つでも発見することです。このW君を天使たちは見つめ、きっと彼を素晴らしい発見に導いてくれることでしょう。

★★★
 前回に続いて河合文化教育研究所HP、「ドストエフスキイ研究会便り」の新連載「予備校graffiti(グラフィーティ) ― 私が出会った青春 ―」からの一部です。三十年余りの間に、ここで聖書とドストエフスキイとに誤魔化さず対峙し続けた若者たちの中からは、新しい「ドストエフスキイ世代」が確実に生まれつつあることを感じさせられます。半年にわたる連載で、約四十人について報告をする予定ですが、ドストエフスキイの肖像画と肖像写真についての考察・デッサンも掲載中ですので、よろしかったらこれもご覧下さい。(芦川)



ドストエフスキイの肖像 
   

室生犀星

深大なる素朴         耐え忍んだ永い苦しみ
鈍い恐ろしい歩調で      迫る君の精神  そのひたいには
ペテルブルグの汚れた空気が  くもの巣のようにかかっている。
騒音がする  叫びが聞こえる 悩んだものの美がある
強いねんばりした人間性    ねちねちした声明  
無窮な憐愍 あ ―― 寛大
肩はばの廣い おこりっぽいような此人
この人は迫る 温かい呼吸で迫る
あなたは貧乏に打勝った あなたはシベリアの監獄に4年も居た
あなたの葬式に露西亜の大学生が
その棺のあとから 鎖や手錠を曳いて
参詣しやうとして 官憲から停められた
ああこの耐えがたい  愚鈍のような顔
精神の美しさに  みなぎった顔
何を為したか 伝記学者も解らない
この人の暗黒時代 此の人の前で勉強しろ
我慢に我慢をかさね 勉強しろ
どのような苦しみも 此の人の前では誓える
この人は万人の物だ
万人の魂に根をはってゆく大地だ
誓え
ほんとうによく生き
よく勉強していくことを
おお

(『感情』大正6年4月)



資 料 
     

「青空文庫より」 提供=下原康子

インターネット電子図書館「青空文庫」では著作権の切れた文学作品を読むことができます。
ドストエフスキーに関しても翻訳の他にドストエフスキーに言及した作家の作品や随想などが数多く見出せます。そのいくつかを全作品を読む会HPに「青空文庫より」としてリンクしました。

以下の作品です。(2019.3.28現在)

宮本百合子「ツワイク「三人の巨匠」ドストイェフスキーの部」1981
北条民雄「覚え書」1980
北条民雄「独語 ―癩文学といふこと―」1980
夏目漱石『思い出すことなど』(ドストエフスキーに言及した箇所)(抜粋)1971
豊島与志雄「作家的思想」1967
倉田百三「善くならうとする祈り」
倉田百三『愛と認識との出発』の中のドストエフスキー(抜粋)1950
林芙美子「浮雲」1949
坂口安吾「精神病覚え書」1949
太宰治 「人間失格」1948
坂口安吾「俗物性と作家」1947
太宰治「わが半生を語る」1947
織田作之助「わが文学修行」1943
三木清「西田先生のことども」1941
岸田國士「ドストエーフスキイ全集」推薦の辞 1941
片上伸「ドストイェフスキーに就いて」1939
坂口安吾「フロオベエル雑感」1936
萩原朔太郎「初めてドストイェフスキイを讀んだ頃」1935
堀辰雄「スタブロギンの告白」の譯者に」1935
南部修太郎「気質と文章」1934
坂口安吾「ドストエフスキーとバルザック」1933
小林多喜二「独房」1931
中井正一「探偵小説の芸術性」1930
芥川龍之介「侏儒の言葉」より(抜粋) 1923-27
芥川龍之介「歯車」1927
室生犀星「また自らにも与へられる日」(抜粋)1918
和辻哲郎「自然」を深めよ 1917
横光利一「犯罪」1917
和辻哲郎「生きること作ること」1916
和辻哲郎「転向」1916
芥川龍之介「羅生門」1915(言及はないが影響あり?)
北村透谷「『罪と罰』の殺人罪」1893



編集室雑感

「令和」とドストエフスキー
(編集室)

出典は自然の美と人間の幸福を詠った歌。新年号に希望をこめたという。幸福でありたい、平和でありたい。千余年も前も、現代も人間の思いは変わらない。そのことを改めて思った。同時にドストエフスキーが作品にこめた願いとモチーフが「令和」に重なった。「善い思い出は人間を救う」ドストエフスキーの根本理念を生んだトゥーラ県のダーロヴィエ村の「黄金時代」美しい自然と、『百姓マレー』の純朴なやさしさ、懐かしさ。

※「あの百姓のマレーは私の頬をべたべたとたたいて、小さな頭をなでてくれたっけ」/懲役へ行って初めて思い出した。あの思い出のお陰で、懲役暮らしを耐え抜くことができた。(ノート)。ドストエフスキーが願ったのは、調和と融和ある社会。人間一人ひとりの幸福だった。全人類救済のためにドストエフスキーは挑んだ。数々の作品で、楽園実現の方法を試みた。だが、その理念達成を阻むものがいた。人間だった。虐待、いじめ、詐欺、暴力、差別、そして戦争。人間の悪は尽きることがない。16世紀160万人、17世紀600万人、18世紀700万人、19世紀1940万人、20世紀10780万人(米国報、世界の推定戦死者数)「地球は、地殻から中心まで、人間の涙でびしょぬれになっている」なぜ人間は、こうなのか。ドストエフスキーは、作品世界にあらゆる人間(主に、異常な人間たち)の見本を登場させ、人類に問いかけ謎かけていた。「令和」の時代が、ドストエフスキーが目指す宇宙調和の一端を担ってくれることを祈る。

『万葉集』で、改めて驚いたこと(編集室)

新年号「令和」の出典が『万葉集』ということで、1260年前の、この歌集がにわかに注目されている。書店の店頭に山積みされたテレビニュースをみた。この『万葉集』で思いだしたことがある。一昨年、2017年だが、8月16日~17日に実施した読書会旅行。行き先は、南信州伊那谷山中にある阿智村。峠一つ越した向こうは島崎藤村の『夜明け前』の舞台、妻籠、馬篭がある。「木曽路はすべて山の中である」の言葉通りの山奥である。読書会旅行では、日にちの都合から、前年天皇・皇后様が訪問された「満蒙開拓平和記念館」しか見学できなかった。そのときは、こんな山の中から、遠く満州に国策で送りだされた人たちがいた。そのことに驚いたが、郷土史家・ガイドの話からもう一つ知ったことがある。この木曽山中の山村は古事記・日本書紀に登場、『源氏物語』でも知られているということだった。加えて、改めて驚かされたことは、この土地の若者が詠った歌が『万葉集』に収録されていたことだ。

※巻20、防人の歌の中に、(この土地の)神坂峠で詠んだという次の歌がある。(『阿智村誌』)
ちはやぶる神のみ坂に幣奉(ぬさまつ)りいわふ命は母父(おもちち)がため (万葉集20巻)
【解説】防人は朝廷の命により筑紫(九州)北辺の守備に徴用された兵士のことで、東国の若者に限られ、年令は17~20歳であったという。この歌は埴科郡の郡書記であった青年が、命令に従って故郷信濃国と別れを告げるときの歌である。これが見納めになるかも知れない危惧の念にかられながら、荒ぶる神の領域である峠神の前にぬさをたむけて身の安全を祈るのは、ふるさとに待つ父母のためであるという、現代人にも共感できる心情である。(村誌)
■この歌で驚いたのは、日本は、なんと1200余年も前から鉄壁の管理国家であったということだ。あんな山奥にも朝廷の命は届いていたのである。
■1186年が過ぎた。あの戦争が終わる三カ月前、1945年5月1日、この村の若者たちは故郷を後にした。満州に王道楽土の理想国家をつくるためと。
■1940年生まれの歌人 小林勝人さんは、遠く離れた二つの時代の若者たちの悲劇を思って、こんな歌を詠んでいる。(『伊那の谷びと』小林勝人 信濃毎日新聞社2015.8.15)
意毛知知我多米(おもちちがため)と防人、国が為と満州に行きし伊那の谷びと
全国で最も多きは長野県 3万3千人満州に行きぬ
むら人の5人に一人が満州に行きし村あり この伊那谷は


※『万葉集』 全20巻の歌集。歌数4500首 仁徳天皇~天平宝字三年(759)迄作者は天皇から農民、兵士、こじきに至るまで多彩。



掲示板

ドストエーフスキイの会
 第50回総会・第251回例会  

月 日 : 2019年5月18日(土)午後1時30分 ~ 5時00分
会 場 : 千駄ヶ谷区民会館(JR原宿駅徒歩7分)
総 会 : 午後1時30分~40分程度、終わり次第 例会~5時
報告者 : 高橋誠一郎氏
題 目 : 堀田善衛のドストエフスキー観―『若き日の詩人たちの肖像』を中心に

新 刊 

高橋誠一郎著『「罪と罰」の受容と「立憲主義の危機」』成文社 2019年2月27日 
北村透谷から島崎藤村へ 「明治維新」150年を辿る



編集室


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