ドストエーフスキイ全作品を読む会 読書会通信 No.151
 発行:2015.8.4


第270回8月読書会のお知らせ


月 日 : 2015年8月15日(土)
場 所 : 池袋・東京芸術劇場小会議室7(池袋西口徒歩3分)
開 場 : 午後1時30分 
開 始 : 午後2時00分 ~ 4時45分
作 品 : 『罪と罰』5回目 最終回
報告者 :  フリートーク (サヨナラ『罪と罰』)      
会 費 :  1000円(学生500円)

10月読書会は、東京芸術劇場の第7会議室です。作品『賭博者』
開催日 :  2015年10月17日(土) 午後2時~4時45分迄です




第30回大阪「読書会」案内
 9・5『罪と罰』第1編、第2編

ドストエーフスキイ全作品を読む会・大阪読書会の第30回例会は、以下の日程で開催します。9月5日(土)14:00~16:00、・会場:まちライブラリー大阪府立大学 参加費無料 作品は『鰐』〒556-0012 大阪市浪速区敷津東2丁目1番41号南海なんば第一ビル3FTel 06-7656-0441(代表)地下鉄御堂筋線・四つ橋線大国町駅①番出口東へ約450m(徒歩約7分)お問い合わせ 小野URL: http://www.bunkasozo.




残暑お見舞い申し上げます

今年も残暑は厳しくなりそうです。読書会の皆さまには、熱中症に気をつけてお過ごしください。水分と休養を充分にとってドストエフスキーを読書しましょう!

司会進行に変化を 参加者増加に対処 (世話人)

このところ読書会は、参加者が増えてきました。6月読書会参加の若い人たちをみて、新しい風を感じました。そこでこれまで1人負担だった司会進行を見直すことにしました。方法は、参加者主体の連番方式を目指して調整していきます。福井さんには、藤倉さん、横尾さんからバトンを引き継ぎ、20年近くお一人で司会進行を頑張っていただきました。長いこと本当にご苦労さまでした。 

組織なし、指導なし、されど調和有り 

ドスト全作品を読む会は組織ではありません。当日、参加した人が、その日限りの会員です。一人一人が自主独立。それがドストエフスキーの理念です。これからは参加者全員が協力して、調和ある読書会を続けられれば幸いです。

読書会進行の時間配分

目下、皆さまから様々な読書会進行方法が提案されています。ありがとうございます。が、しばらくは、以下の時間割の要領で進めていきます。ご協力ください。
《参加者20名を想定》

2時00分 → 2時10分 「読書会通信」からの報告 進行者
2時10分 → ドと自分 ・参加動機 ・自分の読み方など
3時00分 → 今回、読んでみての感想
4時00分 → 自由討論「年齢・時代のなかでの読み」
4時45分 → 連絡 次回のこと 片づけ




8・15読書会


5サイクル、作品『罪と罰』第4回目(最終回)

『罪と罰』は、今年2月から連続してとりあげ、8月読書会で4回目となります。ドストエフスキー作品のなかでも、とくに人気の高い、想いの深い作品でした。そのため、名残り惜しい気持ちもありますが、そうもいきません。今回で最後にしたいと思います。本日参加の皆さんには、心置きなく感想を述べて頂ければ幸いです。

『罪と罰』に対する作者ドストエフスキーの考え
『ロシア報知』編集長M・N・カタコフ宛の手紙から 1865年9月上旬

 あなたの雑誌『ロシア報知』に私の中編を載せていただけないものでしょうか?…これはある犯罪の心理学的報告です。事件は現代のもので、今年のことです。大学を除籍された町人身分の青年が極貧の暮らしをしているのですが、軽薄で、考えが揺れ動いているために、今流行りのある奇妙な「未完成」の思想に取り憑かれてしまって、自分の忌まわしい境遇から一気に脱出することを決意します。彼は1人の老婆を殺すことを決意するのです。九等官の未亡人で金貸しをしている女です…
 この青年は全くの偶然が働いて、迅速かつ上々の首尾で自分のもくろみを遂げることが出来ます。その後、決定的なカタストロフに到るまで、彼は約1カ月を過ごします。彼には何の嫌疑もかけられません。かけられようもないのです。ところが、まさにそこに、犯罪の心理学的プロセスが隈なく展開されるのです。殺人者の前に解決不可能の問題が立ちはだかり、予想もしていなかった、む思いもかけない感情が彼の心をさいなみます。神の正義か、世の掟か、その力を発揮して、ついに彼は自首せざるをえなくなります。たとえ徒刑地で朽ち果てようとも、今一度人々との繋がりを回復するために、そうせざるをえないのです。犯行をやってのけた直後から彼が感じる、人類との断絶感、その感覚が彼に死なんばかりの苦しみ
をなめさせたのです。正義の掟と人間の本性が勝利を占めたのです…犯行者は己の為したことを償うために、苦しみを受けようと自ら決心します…
 さらに私の小説には次のような考えが示唆されています。すなわち、法律によって課せられる刑罰が犯罪者に与える恐怖感は、立法者たちが思っているよりも遥かに弱いものだということです。その理由の何がしかは、犯罪者が自分から精神的にその刑罰を求めるということにあります

【創作ノート】 この長編小説では、あらゆる問題を一つ残らず掘り返すこと。

『祖国雑報』評(1867年第1号) 知的精神的体制のぐらつき
 最近の文学の最大の事件は、疑いもなく、F・ドストエフスキーの長編小説『罪と罰』の出現である。この小説はあらゆる人によってむさぼり読まれた。刑事事件を扱った話として外的な面白さもさることながら、作者は内的な問題を非常な高さにまで高めた。そのために、外的な関心事は妨げとはならず背後に退いている。この小説の語っているのは、現代のわが国の知的精神的体制のぐらつきであるが、それがさまざまな場面で衝撃的な力をもって描き出されている。


『罪と罰』を書いた頃

・1865年(44歳) 
6月『祖国の記録』編集者クラエーフスキイに『酔っぱらい』(『罪と罰』の原型)の掲載を申し込み断られる。夏に罪と罰』起稿。10月コペンハーゲンから帰る途中、船中で『罪と罰』推敲。11月末 第一稿を焼却。

・1866年(45歳)
 『罪と罰』を「ロシア報知」1月号から連載(2月、4月、6月、7月、8月、9月、12月)6月頃『賭博者』の構想成る。『罪と罰』第5編執筆。「ロシア報知」側の要請を受け入れ、第4編第7章(ソーニャがラスコーリニコフに福音書を朗読する条り)の改稿にやむなく同意。10月4日 速記者アンナ・グリゴーリエヴナ・ストキナ、ドストエフスキーを訪問。 5日~29日(12時~4時迄)『賭博者』口述筆記11月3日 『罪と罰』最終編の速記をアンナに依頼。11月8日 アンナに結婚を申し込む。



時代における読書会での『罪と罰』


5サイクル(1サイクル10年)のなかで、この作品『罪と罰』は、どう読まれてきたのか。

1サイクル 1974年 ~ 1975年 3回取り上げている。

1回目 伊東さん「天狗山ペンションで読む『罪と罰』」
2回目 新谷先生「思想小説であり、観念の実験の物語」
3回目 井桁氏「問題の中心はシンボル」 

もう一つのテーマ ソーニャと父マルメラードフ

「どこへも行きどころのなくなったというか、たえず追いかけられ、追い詰められている男と落ちるところまで落ちて、はいあがる知恵も元気もなくなった女、こうした対応の大変ロマンチックな、というかいわば形而上学的な形象として、『罪と罰』の二人はある。ところで問題は、おそらく、ソーニャと父マルメラードフとの関係にある。この二人の人物というか、モチーフの関係が、恐らくこの殺人物語のもうひとつの主要なテーマなのであろう。」(新谷敬三郎先生)

2サイクル 1985年 ~ 1986年 3回取り上げている。 

1回目 高梨氏「理論はラスコーリニコフにとって外在的にしかかかわっていなかった」
2回目 奥野さん「人間の内面か外面かという問いが無意味に響く所」
3回目 田中さん「不仕合せな人たちのためにどれだけ心を配れるか」

3サイクル 1995年 ~ 1996年 4回取り上げている。

1回目 田中さん「神、パスカル、作品に至るまで」
2回目 藤倉・神舘さん「ラスコーリニコフのニヒリズム」
3回目 下原「金貸し老婆殺人事件」について
4回目 福井さん「魂の復活と救済」

1995年と『罪と罰』 救済をめぐる事件      
 
今年(1995年)ほど『罪と罰』を想起したというか意識した年はなかったように思う。それほど凡人非凡人についてや、人類の救済のことが話題になった。その最も象徴する出来事は、3月から連日マスメディアを独占している一連のオウム事件である。当初も今もそうであるが、この事件は密室の集団がらみから何となく『悪霊』を彷彿させた。70年代はじめに起きた「連合赤軍事件」を思いださせるところがあった。
しかし、テレビや新聞報道で信者の内面や入信動機などを知るにつけ、やはりこの事件は『罪と罰』の領域にあるものだと確信した。では麻原こと松本智津夫は、ラスコーリニコフたりえるのか、というと姿形を問わないとしても到底そうだとは言い難い。麻原はあくまで詐欺師の域をでない。オウム事件にみるラスコーリニコフは、救済を真摯に語る信者の側にあったといえる。(下原)

4サイクル 2006年 ~ 2007年

1回目 江原あき子さん「今回はスヴィドリガイロフについて考えた」
2回目 長野正さん「ドストエフスキー文学との出会い」
3回目 岡野秀彦さん「『オイディプス王』と『罪と罰』」

【「読書会通信97」から】(『罪と罰』報告を終えて 江原あき子)
私たちが今、隣人だと思えるのはラスコーリニコフではなく、スヴィドゥリガイロフである。連日マスコミを犯罪者たちの中に私たちは容易にスヴィドリガイロフを見つけるだろう。
人を傷つけたり、殺したりすることに対して少しも恐怖しない。むしろ喜びを感じて、その行為を追体験しようとする。殺した相手の持ち物をとっておく、何度も同じ方法で殺す、などなど。スヴィドリガイロフは、殺した妻の幽霊と会話を楽しみ、殺した下男と同じ名前の男をまた、下男として使っているのである。ドストエフスキーの卓越した構成力によって、このあたりのくだりは、非常に恐ろしい、印象深いものとなっている。
こういった犯罪者たちは自分の価値観の中でのみ生き、他者への想像力など、まったく欠如している。何故こういった犯罪者たちが増えてしまったのか?
私は、現在の文学の状況と無関係ではないと思う。現在の文学の状況は惨たんたるものである。その葛藤のなさ、問題意識の希薄さには驚き、あきれてしまう。文学だけではなくすべての表現が、グローバリズムの美文のもと、複雑なものを斥け、単純明快なものだけを尊ぶような流れになってしまっている。現実には小国が次々と独立し、情報が氾濫し、人々の価値観はどんどん複雑になっていくのに、である。結果、私たちはどんどん弱く、傷つきやすくなるだろう。単純明快な偽りの世界に逃避し、真実の世界に対する免疫がどんどん、なくなっていくのだから。そしてある者はノイローゼになるだろう。ある者は自殺し、またある者は、他者を傷つけることでしか、自分自身を取り戻せなくなるだろう。かくして、スヴィドリガイロフ型の犯罪者は私たちの世界に現れるのである。
こういった犯罪者が現れるたびに、どこからか評論家がやってきて、教育や社会の矛盾について説き、あたかもその矛盾がこういった犯罪者を生んだかのように論じる。私はこういう物言いに、いつも怒りをおぼえる。矛盾は人間社会につきものだ。その矛盾を知らないこと、その無知こそ犯罪の温床なのである。   

5サイクル 2014年 ~ 2015年  5回とりあげた

1回目 フリートーク「私の『罪と罰』」
2回目 前島省吾さん「『罪と罰』の不思議な言葉とラスコーリニコフの犯行動機」
3回目 小柳定次郎さん「ラザロの復活から見えてくるもの」
4回目 フリートーク、初参加の皆さんの感想・意見と自己紹介
5回目 参加者全員

【「読書会通信148」から】(前島報告「不思議な言葉は二度現れる」から)
 
 ドストエフスキーは言葉の魔術師である。不思議な言葉(キーワード)にあふれている。その言葉は二度現れる。時には頻出する。例えば部屋、斧、石、墓穴、夢、生命、花、水、茂み、15,6歳の少女(上83,下366 新潮文庫 工藤精一郎訳 以下同じ)、馬殺しのミコルカと無実の罪をひきうけようとするミコルカ。「貧は罪ならず(上22,上172)」「ラザロの復活(上456.下88)」など。マルメラードフの「わかりますか、どこへも行き場がないことが?」(上29)は、二度目はラスコーリニコフの脳裏に現れる(上81)、
やがてそれは「逃げ場がない」(上115)となり、「出口が見つかった」(下304)に転換する。無数に現れる「卑劣(卑怯、意気地なし、しらみ)」もキーワードである。特に「人類全体が卑劣でないとしたら、他のことはすべて偏見だ(上48)」は、小説の核心ともいえるほどの最重要語だ。皮肉なことにこのセリフは小説の最後で、「こいつらはどれもこれも生来は腹の底は卑怯者で強盗なのだ。」(下439)「おれは乞食だ。ゴミだ。おれは卑怯者だ。(下446)」という正反対の言葉に変換する。 


(編集室)

『罪と罰』次の再会は、2025年頃です

これまでの「読書会」をみると、1サイクル10年の周期で全作品の読みが進んでいます。これから推測すると、こんど、『罪と罰』と出あうのは10年後、西暦2025年頃と予想されます。東京オリンピックが閉幕して5年後、世の中はどのように変化しているでしょう。非凡人、凡人思想のひろがりから格差社会は、より深刻化しているのか。それとも非凡人など必要としない、公平で平等な社会に近づいているか。

仮空余談    
最近、気がついた『罪と罰』の矛盾

『罪と罰』は、理想のための犯罪を問う作品である。10人を100人を1000人を救うためなら1人のくだらない人間を殺してもかまわない。ナポレオンしかり、織田信長しかりである。ラスコーリニコフは、立証するために論文まで書いた。が、犯行後は、犯行声明をださないで完全犯罪を考えている。立派な理念理想があるのに。なぜか。イスラム国の連中でさえ、自分の正当性をアピールするのに、ラスコーリニコフの沈黙はなぜ ?! 




6・20読書会報告 

               
6月読書会、28名参加で大盛 

若い女性陣多数参加で新しい風
この日は、20~30代の女性が多数参加。彼女たちは、皆さん文学サークルに属し、ドストエフスキーもかなり読みこまれていて、活発な感想、意見があった。新しい時代の出現を感じた読書会となった。

新旧混同の読書会
折よく、この日は、前に司会進行者だった藤倉孝純さん、横尾和博さんも参加しており、図らずも新旧参加の読書会となった。読書会発展のために忌憚のない意見、提案が積極的に出された。

『罪と罰』4回目は、初めての参加者を中心にフリートーク
 
はじめ神戸の少年Aの出版物が話題としてでた。が、読んでいない人がほとんどで、議論されることはなかった。この問題は言論の自由、被害者感情など複雑な要素が絡み合い今、批評するのは難しいといえる。
作品『罪と罰』に出された感想は、次の通りであった。
「ソーニャを中心に読んだ」「10年前は、ソーニャのキャラクターだった」「再犯はしない」



「ドストエーフスキイの会」情報

ドストエーフスキイの会の第228回例会は、7月25日(土)午後2時から千駄ヶ谷区民会館で開催されました。今回は、先頃出版の会雑誌『広場 24号』の合評会でした。




ドストエフスキー情報
 2015・前半 提供=佐藤徹夫さん

〈図書〉

ロシア語で読む『罪と罰』〈IBC対訳ライブラリー〉
    ドストエフスキー(原作)、ユーリア・ストノーギナ(リライト)、
    及川功(翻訳-語註)、木寺律子(解説)
    IBCパブリッシング 2014.12.5  ¥2800+ 213Pp 21㎝

声に出して読みづらいロシア人 松木章太郎著 なかむらゆき(イラスト)
    ミシマ社京都オフィス 2015.5.25 ¥1000+ 87p 18.9㎝
    (オモシロイヨ 珈琲と一冊 3) 
    第6章 書いて書いて書きまくる 作家・ドストエフスキーの罠
    スヴィドリガイロフ(080-081);ドストエフスキー
    真骨頂スメルジャコフ(p082-083);実は二ートの三兄弟
    カラマーゾフ(p084-085);  
    それでこそロシア人ドストエフスキー(p086-087)

生きると言うこと なかにし礼著 毎日新聞出版 2015.6.25 ¥1600+ 261p
    第3章 異端として生きる。・異端という名の自由(p112-116)
    ドストエフスキーについて;
    第5章 ドストエフスキーと至高の不良たち(p257-261)
    初出:「サンデー毎日」未確認

〈余談〉

歳時記に準ずる季語集、『俳句の魚菜図鑑』(復本一郎監修、柏書房2006.4.25 ¥2800+)の「落花生」(p216)の例句に次の2句を発見。

     
落花生喰らいつつ読むや罪と罰   高浜虚子

    
南京豆墓前に噛み噛み未成年    中村草田男

※さて、この『罪と罰』と『未成年』は共にドストの作品でありましようか?




評論・連載

「ドストエフスキー体験」をめぐる群像

(第60 回)21世紀 、ドストエフスキーは救済原理たり得るか?

元少年Aの『絶歌』について
                                 
福井勝也

 前回は、「イスラム国」(IS)や「オウム事件」の問題を論じながら、「21世紀 、ドストエフスキーは救済原理たり得るか?」という命題を掲げ、ドストエフスキーの文学に人間救済への方途があるにしても、それは「毒をもって毒を制す」という類の危惧を孕むものかもしれないとのペシミズムを語った。そこから、一旦話題を迂回させ中里介山(1885-1944)の『大菩薩峠』(1913~)とそれを批評した安岡章太郎の『果てもない道中記』(1995)に転じ、主人公机龍之助の「罪と罰」をドストエフスキー文学に比較しつつ、再度命題について考えてゆく道筋を述べた。
今回その続きの準備もあるが、上記命題にも係わる、喫緊の著作に遭遇した。標題の『絶歌』(発売日は6/28付)である。読書会当日(6/20)にも少し触れたが、その時点では出版直後の状況もあり未読であった。しかし偶然翌日に入手でき、やや躊躇しながら読み始めて一気に読了した。ここにその「感想」を記すことにする。ただし初めに断っておきたい点がある。それは当方が長年ドストエフスキー文学を読み続けて来た者であり、今回コメントもその観点からのものにしたい。やや迂回しながらこの視点を外さずに話を始めたいと思う。

 秋山駿というドストエフスキーや三島由紀夫を論じた小林秀雄直系の批評家が数年前(2013)逝去した(83歳)。すでに本欄でも秋山について何度か触れてきたが、彼が小林のドストエフスキー論の延長でやろうとしたテーマが「犯罪と文学」であった。これは秋山に「日本近代文学の七不思議」と言わせたものの一つ「犯罪あるいは犯行者を主題にしての創造的な作品が日本にない」からであった。そして当時講義をしていた数ヶ所の大学では、連続射殺事件(1968)の永山則夫の犯行について語ることにしていて、獄中出版された『無知の涙』を読めと学生に勧めたとのことだ。その際のセリフが「あなたがた昼間ぬくぬくと大学へ来ている者は(私も含めてだが)、はっきり背中を指差され、否定され、非難されているのだよ」というものであったという(「自己発見としての犯行」(1990)、『内部の人間の犯罪』秋山駿評論集、講談社文芸文庫所収)。

 確かに秋山は、『罪と罰』や『悪霊』で犯罪を論じた先駆者、小林秀雄の直系であったが、さらにそれを独自に深化させたのは「少年犯罪」の分野であった。この点で、戦後彼の文学的出発が『白痴』の「イッポリート告白」であったことも十分に頷ける。秋山が拘った少年犯罪が「小松川女高生殺し事件」(1958)や「連続射殺事件」(1968)で、そこから「動機なき、理由なき殺人」「内部の人間の犯罪」というキイワードを抉り出した。それによって、当時未成年者であった犯人の「心の闇」を深く掘り下げた。彼が17、8歳の少年犯罪に拘ったのは、その年齢特有の「新たに出現してくる奇怪な「私」という存在に目覚めるために、おそろしい生の混乱」が発生する事に着目したからだろう。そして「そんな生の混乱が耐えきれぬほどの緊張に達し(略)、一瞬磁場が裂け、放電が発するように、その裂け目から出現してくるのが、少年の人殺し、つまり「犯罪」である、(略)その犯罪の本質は、自己の内部にある「私」という存在の、その存在性さえ果たしてそれは真なるものかと疑わしく思う程度に達した人間の、或る苛烈な自己証明の方法である」というのが秋山の到り着いた少年犯罪の核心であった。(「犯罪」について(1982)、上掲評論集同文庫所収)
 
 当方の批評文引用は、少年Aの犯罪を秋山の思考から説明しようとするものではない。何より14歳という年齢、事件が起きた1997年(平成9)という時代背景を振り返る時、むしろAの犯罪の特徴が際だっていて、秋山の問題とした犯罪が70年以前の戦後近代型だとすれば、Aの犯罪は世紀末を跨がる今日型であるとの本質的差異も感ずる。しかしこの間の時代の変貌は、所謂の常套句による一般化を峻厳に拒むもので、少年犯罪の闇は今日底知れぬ程強度を強めている。安易な社会学、精神分析的用語では言葉が不足している。

 ここ一カ月程集中して『絶歌』を読み、再度「酒鬼薔薇」を名乗った「少年A」の犯行を遡及的に振り返ってみて、時代の結節点にAが立っていたと感じた。その彼が、「元少年A」として社会復帰(2004)を果たし、さらに11年が経過し、なお今日になって生々しい「手記」を公開した。この事実を私たちはどう受け止めるべきか。偶々、前回の読書会では『罪と罰』のラスコーリニコフがシベリアから社会復帰したら、その後の社会的更正は可能かという議論が降って来た。話を聞きながら、非常にタイムリーな議論だと一瞬思った。しかし考えてみれば、懲役8年の判決から服役を始めて10ヶ月経過したラスコーリニコフと約7年間の保護観察期間を終え、本退院後すでに11年以上生活する「元少年A」を単純に比較できるはずもない。しかしさらに巷では、「元少年A」の更正が真に果たされたかが無責任に囁かれている。服役中のラスコーリニコフは「エピローグ」の途中で、語り手(ドストエフスキー)にこんなことを言わせている。

 現在は対象も目的もない不安、そして未来は何の実りももたらさぬ、たえまないむだな犠牲、― これがこの世で彼のまえにあるすべてだった。8年すぎてまだやっと32だから、まだ生活のやり直しができるといったところで、それが何の慰めになろう!何のために生きるのだ?何を目標におくのだ?何に突き進むのだ?存在するために、いきるのか? <略> 一つの生命だけではいつも彼には足らなかった。彼はいつももっと多くの生命がほしかった。<略> ああ、せめて運命が彼に悔恨をあたえてくれたら ― 心をひきちぎり、夢を追い払う、やけつくような悔恨、その恐ろしい苦痛のために首吊り縄や深淵が目先にちらつくような悔恨!おお、彼はそれをどれほど喜んだことだろう!苦痛と涙 ― これも生活ではないか。しかし、彼は自分の罪に悔恨を感じなかった。

 小説というフィクションと現実を安易に結びつけるつもりもない。しかし『絶歌』を読みながら感じたのは、人間の「心の闇」とは元来フィクショナルなものなのに生々しく実在しているという事実だ。ドストエフスキーは生涯をかけて小説の言葉を使って、この「心の闇」と格闘した。そしてAの「心の闇」の深さに戸惑えば戸惑う程、結果として秋山の言葉が痛切に響いて来るのも確かだった。言葉の力の必要を痛感させられた。それはおそらく秋山自身が、(小林経由で)ドストエフスキー文学から学び、さらに自分の「心の闇」に徹底して拘ったからだろう。ここに「21世紀 、ドストエフスキーは救済原理たり得るか?」という命題が僕に迫ってきた。そしてその時、僕はある思いに捉えられた。前回読書会でも話したが、我々のフリーな読書会に「元少年A」がすでに参加しているのではないかという「妄想」であった。僕はそれを受け入れている読書会を「空想」した。今回最初にこのことを述べておきたいと思った。

 日本中を震撼させた95年「オウム事件」の時も思ったことだが、97年5月に当時14歳の少年Aの猟奇的殺人の中身が明らかになるに従って、「ドストエフスキー的文学世界」が当時の世紀末日本に現象化しつつあるという感触(危惧/畏怖)を抱いた。その不気味な感覚は、その時期3サイクル目の後半で『悪霊』あたりを読んでいた当読書会周辺でも共有されていったと記憶している。それは「酒鬼薔薇聖斗」を名乗った犯行声明文に連続した新聞社宛ての挑戦的な第二声明文によってより強く実感させられたと記憶している。

 少年Aはその挑戦状で、第一声明文の「酒鬼薔薇」を間違って「鬼薔薇」と誤報したメディアを揶揄告発し、その醜悪な犯罪が「透明な存在」の自己主張であり、「酒鬼薔薇聖斗」の唯一の友人である「透明な存在」との内的対話から生まれたものであるという回りくどい宣言をしてみせた。つまり自分の犯行が「君の趣味でもあり存在理由でもありまた目的でもある殺人を交えて復讐をゲームとして楽しみ、君の趣味を殺人から復讐へと変えていけばいいのですよ」との「透明な存在」の教唆(「そそのかし」)によって惹起されたものだと説明したのだった。ここで先程触れた秋山駿の少年犯罪を捉える言葉がリアルなものとして響いてこないか。時代を越えて、「酒鬼薔薇事件」を言い当てる表現のように僕には聞こえる。そして犯行から2年後(1999)の6月に「会」発足30周年記念シンポジウムで、少年Aの内部に巣くう「透明な存在」を分析してみせたのが当会の下原敏彦氏であった。勿論そこでは、ドストエフスキーの文学の言葉が重なって議論がなされた(「透明な存在」「広場」9号所収、2000)。16年後に読み返す廻り合わせを得た。問題の原点はおそらくここらにある。

 同時にこの文脈で合わせて断っておきたいのは、少年Aの醜悪な犯罪がその「透明な存在」によるものだとしても、言わば分裂した人格にその責任を求める議論ではないということだ。少年Aの神戸家裁での最終審判(97.10月)は、そのことに法律論として言及した。しかし抑も当方(おそらく下原氏も)が問題にするのは、そのような法律論、精神鑑定の問題ではないということだ。ここに、秋山が少年犯罪を「動機なき、理由なき殺人」「内部の人間の犯罪」として語ったように「文学の言葉」として反芻してみる根拠があると思う。そのためには、われわれには「A」の語った言葉に戻る必要性があるのだと思う。

 『絶歌』が今回出版されて、その是非が直後から議論されているが、当方が思うのは、『「少年A」14歳の肖像』(1998)を書いた高山文彦氏の言を借りれば、遺族感情を理由にAに「書くな」というのは間違っているだろうとの思いだ。これは遺族の承諾なくして行われた出版の責任が、「元少年A」と太田出版社に問われないでいいということではない。むしろ道義的にも法律的にもそのことは厳しく問われて然るべきだろうと思う。しかしすでに出版が為されてしまった今、その中身を無視するのも一つの個人的選択だが、当方はその犯行時からのドストエフスキーとの接点を通して再度思考を巡らしたいと考えた。

 『絶歌』の第二部(p.251)には、関東医療少年院時代、独房での読書体験を語った箇所がある。「独房では、一分が一時間のように感じた。砂時計の中に閉じ込められたような気分だった。休みなく、朝と夜の砂時計は緩やかに反転し、容赦なく降り注ぐ透明な時間の砂が僕を生き埋めにした。回し車で走り続けるハムスターのように、カラカラトと虚しく時間を空転させる僕に、少年院のスタッフは「読書療法」という名目で本を差し入れた。ヘルマン・ヘッセ『車輪の下』、メルヴィル『白鯨』、ドストエフスキー『罪と罰』、ヴィクトル・ユーゴー『レ・ミゼラブル』、島崎藤村『破壊』、夏目漱石『三四郎』、武者小路実篤『友情』・・・。他にやることもなく、僕は与えられた本を、一頁一頁、映画を撮るような感覚で映像を思い浮かべながら貪り読んだ。『車輪の下』のハンスとともに神学校に入学し、エリートコースから落ちこぼれ、川で溺れ死に、『罪と罰』のラスコーリニコフとともに罪を犯し、ソーニャと出逢い、改心して大地に接吻し」と書いていた。

 医療少年院だけに「読書療法」という精神治療が実際行われ、それをきっかけに「取り憑かれたように読書にのめり込んだ」少年院時代を回想するAの文章を好ましく読んだ。今回、『絶歌』の第二部で関心を持ったのは、神戸家裁の審判に基づき開始された、関東医療少年院での「手厚い(国の威信をかけたとも言われる)」更正保護の内容だった。残念ながら、院内での更正教育についての言及は少なく、むしろ仮退院以降(2004.3)の保護観察期間(9カ月)に多くの頁が割かれていた。この間里親になった方の献身的見守りにはとりわけ感動した。そしてAがこの里親含め保護観察官達に感謝を込めて言葉を綴っていることに何より救われた。Aはその後本退院(2005)となり、文字通り一人立ちして世間の荒波にもまれる辛い経験を書いて今日に至っている。無残に絶たれた被害者の方々の人生について考えると、強い憤りや批判もあるだろうが、このAの更正過程が綴られた文章を素直に受容したいと感じた。それは事件の無残な悲惨さを語った第一部との表現上の断裂まで指摘する向きもあるが、彼には審判でも指摘された「直感像素質者」という特異な才能を確かに持っていることも分かった。これをどう生かすかが今後重要だと感じた。ラスコーリニコフの更正には、「今後の大きな献身的行為の贖い」が必要だと書かれていた。「少年A」の更正をもう少し見守りたいと感じた。元神戸家裁で決定文を書いた判事が書いている。
「成人だったら死刑になっていた少年を、少年院で教育・保護して更正させ、そして社会が、死ぬまで彼を再犯なしに立派に生きさせることができるか。これは世界にも類を見ない挑戦です。もし成功すれば、この時こそ本当に、日本の少年司法の勝利と言っていい。<略>社会がAを見守り、贖罪行動をさせられるかどうか ― 私たちは経験したことのない闘いに挑んでいるのです」(『文藝春秋』2015.8月号)   (2015.7.29)


関連図書について (編集室)


高山文彦著『「少年A」14歳の肖像』1998.12.5 新潮社
『「少年A」この子を生んで』父と母 悔恨の手記 1999.4.10 文芸春秋

 あの「少年A」が本を出した。テレビのワイドショーで知った。現在32歳になっているという。何か得体のしれない驚きがあった。が、意外とは思わなかった。やはりそうか、と妙に納得するものがあった。そうして、泥水を飲まされたような、不快な気持ちになった。
 彼のことは、命日がくるたびに被害児童の父親のコメントで知り得ていた。毎回、謝罪の手紙が届いている、とあった。Aの心にとり憑いた悪魔は、どうなったか。知る由もないが、手紙を書いているなら存在と戦っているのかも。そんな淡い期待があった。だがしかし、Aは、印税をどうのとかの言い訳を旗印に出版した。それで、すべてが吹き飛んだ。
 昨年だったか、振込詐欺犯の仲間を捕まえたら、綾瀬女子高生コンクリート殺人事件の主犯者だった。自転車で帰宅途中の女子高生を不良グループが拉致監禁し、暴行強姦の末に殴り殺しコンクリート詰めにして空き地に捨てた、主犯格のAは、前例と少年法に守られて、極刑にはならなかった。既に刑期を終えて社会復帰していたらしい。
しかし、更生はしていなかったようだ。嫌疑不十分で、釈放となり、夜の闇に消えて行ったという。重犯罪を起こした二人だが、神戸のAと、女子高生殺しのAと違うのは、綾瀬のAは、背中しか思い浮かばないのに、神戸のAは、(顔はみえないが)、いきなり正面から堂々入ってきた。まるで、この社会に挑戦するように…今度の出版は、そんな印象がある。彼の中で「透明な存在」が、ふたたび、蘇ったのか…。それにしても、人を殺してみたい。近頃そんな事件が多い。不気味である。(編集室)




連載7

『罪と罰』の世界 ―人間性の深みをめぐる優越感と負い目
 
渡辺 圭子

〈前号まで〉特権者がいないのだから、○○する権利がある、は成立しなくなる。迄。

 犯罪など、決して、人間や人生の深みにせまれるものなのでも何でもく、いたずらに人を傷つけただけの、卑劣な行為である。だからこそ、ラスコーリニコフを、人間や人生の矛盾を考えた、高潔な人間のように描きながら、巷の不適応者と同じ結果を出せた。ポルフィーリーが与えた評価や助言は、人間や人生を広く深くみる力をめぐる優越感と負い目から、自由になるヒントである、といえる。人は皆、人間や人生を広く深くみる力における優越願望という点で、つながっている。高潔も卑劣も、精神面における優越願望という点で、つながっている。皆同じ、という視点をもつこと、さらに、自分の中に潜む無意識世界(成り立ちや本質を知ろうとする力に満ちている)をもっと知り、その力を高めること、人間の力で理解できない人間や人生の深遠さ(神とよぶもの)をみつけること。

 あなたという人は、たとえ腸をひきちぎられても、微笑を浮かべて迫害者を見ていられる人だ。もちろん、信念か神かをみつけられたらの話ですがね。まあせいぜいみつけて生きてくださいよ。(26)

 人間の力で理解できない人間や人生の深遠さ(神とよぶもの)、そんな解けない謎を前にしたら、人は皆同じである。傲慢になることも、卑屈になることもない。優越感と負い目から自由になれれば、負い目につぶされ、挫折感、絶望感をあじわうこともなかった。どんなつらいことでも、乗り越える力がわいたかもしれない。

 あなた必要なのは空気、とっくに入れ替えなくてはなりません。(27)あれこれ考えこまないで、すなおに生活に身をまかせる。そうすれば、心配はいりません。(28)

 追求したい物事と少し距離をおくことで、よりみえてくることがある。高潔も卑劣も、同じ願望でつながっているのだから、自分の卑劣に気づくことが、時に高潔につながる道のヒントになることがある。

ソーニャの信仰

 聖書の中には、『報いを、見返りを求めてはならない。』という言葉がある。

 あなたは施しをする場合、右の手のしていることを左の手に知らせるな。それは、あなたのする施しが隠れているためである。すると、隠れたてを見ておられるあなたの父は報いてくださるだろう。(マタイ福音書 6章 3)(29)
 偽善な律法学者、パリサイ人たちよ、あなたがたはわざわいである。はっか、いのんど、クミンなどの薬味の十分の一を宮に納めておきながら、律法の中でもっとも重要な、公平とあわれみと忠実とを見逃している。(マタイ福音書23章)この章には、人によく見られ、人に尊敬される様にわざと振舞い、そして、人の前に高ぶった、さも信仰深く見せかけて、心は神にそむいていた、そんな様子が描かれている。(30)
 敵を愛し、迫害する者のために祈れ、こうして天にいますあなたがたの父の子となるためである。天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らせて下さるからである。あなたがたが、自分を愛する者を愛したからとて、なんの報いがあろうか。そのようなことは、取税人でもするではないか。(マタイ福音書5章)(31)

 これらの言葉は、そのまま、優越感を戒めることに、つながらないだろうか。相手が報いてくれる、それは、相手のために、○○してあげた、という充実感が得られる、ということ。人は、前置きでも述べたが、互いの力を発揮し合い、受け止め合う、エネルギー交換で生きている。自分のしたことが、何かの役に立っている。こうした充実感は、決して否定されるものでなどない。むしろ、生きる支えであり、命綱でさえある。だが、その充実感が優越感に変わり、傲慢になった時、これまで述べてきた、優越感と負い目による、人間関係の破綻が生じる。『左手に告げるなかれ』は、施しをしてあげている、という様子が目立ってしまうと、人に負い目を与えることになる。だから、人に知らしめるようにふるまってはならない。それどころか、自分自身にさえ知らせてはならない。『パリサイ人への批判の章』は、優越感を抱き、傲慢になってはいけない。『汝の敵を愛せ』は、人間にとって不可能なことを思い知らせることで、人間の力で理解できない、人間や人生の深遠さの前では、皆同じ、ということを表している。聖書は、敵を愛し迫害する者のために祈れ、と人間に命じる根拠に、天の父(神)は、良い者にも悪い者にの、同じように太陽を昇らせ、雨を降らせてくれるから、と述べている。人間は太陽を昇らせることはできないし、雨を降らせることもできない。

 どんなに優れた才能を持った者でも、天の父と同じことなどできない。人間や人生の深遠さの前では、皆同じである。敵意の原因は様々であり、必ずしも、優越感と負い目の問題ばかりではないだろうが、こうした共通点のことを思えば、敵に対しても、違った眼差しを注げるのではないだろうか。自分の眼差しが変わった時、相手の眼差しも変わる。聖書の言葉は、様々な受け取り方があるだろうが、優越感と負い目から自由になるヒントがある、といえないだろうか。

 ラスコーリニコフが、ソーニャに関心をもったのは、ラスコーリニコフの犯罪のところでもふれたが、彼が、母や妹に負い目を感じていたからである。家族を救うために、自己を犠牲にするドゥーニャやソーニャに、嫉妬とも憎悪とも何ともつかない感情を抱いていた。ソーニャの部屋を訪問した時、家族のこと、生活のことを話題にしたが、彼が本当に聞きたかったのは、「あなたの犠牲は、結局生活を楽にすることにはつながらなかった。あなたの愛は報われていない」、といってもいい。それでも愛せるのか。「聖書の愛を実行できるのか。自分は、救ってあげた、という優越感、ないといいきれるのか」ではないだろうか。ソーニャはカテリーナを次のように評した。

 聡明な、心の広い、本当にやさしい人だった(32)
 あの人が求めているのは正義なんです。きよらかなひとだから、何ごとにも正義があるはずだと心から信じていて、それを要求するんです。どんなに苦しい目にあって、まちがったことのできる人じゃありません。あの人は、世の中がすべて正義だけで成り立つわけにはいかないことが自分ではわからなくて、それでいらだっているのです。まるで赤ちゃん、赤ちゃんなんです。正しい、正しい人なんです。(33)、

ソーニャは、カテリーナの心を理解し、赦していた。その姿は、まさに聖なる少女を、聖人を思わせる。しかし、その後の、父の「本を読んでくれないか」という頼み、継母の、しゃれた模様のブラウスの襟を、「私にくれないか」という願いを、つい何の気なしに断ってしまう話は、ソーニャといえども聖人ではなく、人間ということを表している。聖らかすぎて、この世の者ではないような感じを与えないために、人間くささをもたせている、と共に、聖書の愛を実行することは、ソーニャといえども大変困難である、不可能であることを示している、といえないだろうか。ソーニャは、父や継母に、何てむごいことをしてしまったのだろう、なぜ、たったそれだけの願いを聞いてあげられなかったのだろうとひどく悔やむ。その悔やみは、自分の中の優越感(私は家族を救ってあげた)への反省に思えてならない。仮に、そんな優越感があったとしても、それが、生きる支え、命綱でさえあるのだから(もし、ソーニャの犠牲がなければ、その時点で、野たれ死にの危機にあり、それが現実になれば、ソーニャが負い目に苦しむことになる)、パリサイ人を批判したようにソーニャを批判することなどできない、と思えるが。多くの人間は、優越感を抱いたことさえ気づかないのに、ソーニャは、自分の中の優越感に気づき、悔やむことができた。誰が、何を根拠に主張したのか忘れてしまったが、『罪と罰』は幻想小説だというせつがある。大抵の登場人物たちは皆、何かしらの幻想を抱き、現実に裏切られている。
 
 マルメラードフ夫婦の幻想は、「誠実に生きれば、まじめに働けばなんとかなる、心の正さ、正義の実現を信じている」である。しかし、現実には裏切られ、ソーニャを犠牲し負い目を抱えて生きることになってしまった。ソーニャは、そんな両親を支えることを、自分の心の支えにしている。ラスコーリニコフの目には、ソーニャこそ、幻想を抱いて、現実に裏切られている、と映っていた。あくまでもラスコーリニコフの目を通してだが、ソーニャの幻想は、「神様がお許しにならない」、「神様が何とかして下さる」であり現実は、身を売ったことが、生活を楽にすることにはつながらず、神様などいない、とおもわせられるほどの辛いことに、たくさんあっている、である。ラスコーリニコフにとっての幻想は、「○○(みんなの幸福といったような誰も反対できないこと)のため、というそそのかし、正義の危険性に、環境や法を整えてやればといったような、人間はそんな単純なものではないことに、自分は気付いている、精神面における優位性、独創性」であり、現実は、巷の犯罪者と同じく、犯行の発覚を恐れている、ただ人を傷つけただけの、卑劣な結果になっている、である。ラスコーリニコフにとって、神は、そそのかしの道具でしかなかった。





面白インターネット情報
 
ツイッターより(情報提供:黒野優菜さん)

方言ドスト「ドストエフスキーの台詞を方言で言ってみる」http://togetter.com/li/486607
一部紹介

・わいは病んだ人間や…
・ゆーたかて僕、大将の蛆虫やで!?
・あんたにはなんか、秘密の悲しみがあるんやな
・一生のうちほんまに一回…みんながみんなっちゅうわけやなかったけど、あんただけとは意気投合したんや!……せやけど、その結果なにが生まれたと思う?何もないんや!あんたがおれを軽蔑するようになったっちゅうだけの話や!
・生はあんねんけどな、死なんて全然あれへんねやんか。
・どいつが殺した?…そりゃオメェだっぺよ、ロジオン・ロマーヌヴィチ、オメェが殺したんだっぺ。
・せや、でたらめはめっちゃ好きや。うちはいつも家に火ィつけてみたいと思ってんねん。よう想像するわ、こっそり忍び寄って火ィつけんねん。ここはな、絶対にこっそりやないとあかん。皆が消そうとすんねんけど、家はめっちゃくちゃ燃えててな。うちは知ってんのに、黙ってんねん。

三島由紀夫原作のドストエフスキーにありがちなこと
もしも三島由紀夫原作であった場合にある描写を想像しています。
http://togetter.com/li/613280
一部紹介

・スメルジャコフが、動揺するイワンを招いておいて不遜にもベランダから手を振ってこっちへ来いみたいなことをやり、「まだ生きてたんですか?」と微笑んで言う
・恋がかなった美少女には容赦しないことでおなじみの三島由紀夫なので、リーズの車いすこそ後のリーズにとってただの凶器に 転がる車輪の描写が行われるだろう




新谷敬三郎先生没後20周年に寄せて


今年、2015年は、ドストエフスキーの会を発足させた新谷敬三郎先生没後20年です。

『ドストエフスキイ論』冬樹社 昭和43年

『創作方法の諸問題 』M・バフチン著 新谷敬三郎訳

【はしがき】
 この研究は、ドストエフスキイの創作方法の諸問題を扱い、彼の創作をもっぱら、この観点の一角からのみ検討しているものである。
わたくしはドストエフスキイを創作の形式の最も優れた革新者のひとりであると見なし、藝術的な思索の全く新しいタイプだと考える。そしてこのタイプをここで仮にポリフォニイと呼んでおいた。この芸術的思索は、ドストエフスキイの小説にその全貌を現しているが、その意義は小説の枠内にのみ止まらず、ヨーロッパの美学の基礎的原理のいくつかにも相渉ものである。ドストエフスキイは世界の新しい創作の手本を創りだしたが、それによって古い創作の形式はその基本を根本的に変革せざるを得なかったとさえいえよう。この研究の課題は、ドストエフスキイの原理的な革新性を文学理論に則って分析を行おうとする点にある。
 ドストエフスキイに関するおびただしい文献の中には、彼の創作方法の基本的な性格はもちろん指摘されていないわけではない(この本の第1章で、その問題をめぐるこれまでの主要な主張は概観してある)が、その性格の根本的な新しさやドストエフスキイの創作の世界全体に渉る有機的な統一性の解明にはまだ程遠いのである。ドストエフスキイ文献はとくに創作のイデオロギイ敵問題をのみ扱い、この尖鋭で移り気な命題は彼の創作の眼の奥にひそむ不易の構造的要因を隠蔽してきた。ドストエフスキイはなによりもまず芸術家(しかも独特なタイプの)であって、哲学者や評論家ではない、ということがしばしば殆ど全く失念されてきた。
 ドストエフスキイの方法の専門的研究が、アクチュアルな課題である所以である。
 この本は最初1929年『ドストエフスキイの創作の諸問題』と題して出されたものの再版で、改訂とかなりの増補がなされている。だがもちろんこの新版においてもポリフォニイ小説という問題の如き組織的な問題提起を根本から再検討することはできなかった。

【あとがき 訳者・新谷敬三郎】
 この本はあるいは読み易い本とはいえないかもしれない。ことに(芸術と実生活)とを直接に結びつける私小説敵発想に培われた批評や、作者のイデエではなく、主人公のイデオロギー(しかもそれを作者の思想だと誤認して)をあげつらう批評しか知らない人たちにとっては。が実はバフチンはそうしたアプローチの無効あるいは破産という自覚から出発しているのである。文学を実生活における生き方(作者や読者の)の問題に還元したり、またそこから生み出されるイデオロギーの産物であるという(モノローグ)的な考えは言葉を思考の用具だとする考え方に根ざしている。――




話 題
 

出 版
写真・熊谷元一『黒板絵は残った』編纂・文 下原敏彦 (D文学研究会)
芦川進一著『「罪と罰」における復活』ドストエフスキイと聖書
芦川進一さんのカラマーゾフ論、近日、出版 ! 
(2014年12月早稲田大学で記念講演。早大露文のHPご覧ください)

戯 曲 
高堂要作『酔っぱらいマルメラードフ』
国際ドストエフスキー演劇祭特別賞受賞

東京ノーヴイ・レパーリーシアター
ただいま、秋からの活動を企画中です。ご期待ください。


追 悼 


7月27日、印鑑工房「愛幸堂」社長・豊島高士氏が逝去しました。83歳でした。
「読書会通信」印刷をお願いして10余年、多忙の時期でも、いつも快く引き受けてくださいました。れまおだやかな人柄と紳士然とした風貌、お伺いするたびロシア文学者、昇曙夢の話をするのが楽しみでした。何の縁故もなしに、全く知らずに飛び込んだお店でした。が、社長さんと洋子奥様が奄美出身で、しかもあのロシア文学者の昇曙夢の血縁とわかったときは、感動しました。ちょうど『虐げられし人々』のときで、不思議な因縁を思いました。昇曙夢に関する貴重な資料やご本をいただき感謝しています。いまだお借りしたままになっている本もあります。ご容赦ください。連日の猛暑ですが、青い空に故郷奄美の空を思い出したかも知れません。ご冥福をお祈り申し上げます。合掌



掲示板

ドストエーフスキイの会第229回例会

月 日 : 2015年9月22日(火)午後2時~5時 予定
会 場 : 千駄ヶ谷区民会館 JR原宿駅徒歩7分 予定
報告者 : 冷牟田幸子氏 予定


ドストエーフスキイ全作品を読む会、大阪読書会(メール連絡から)

7/18は『鰐』で盛り上がりました。
最近、鰐に食べられる体験をした人のビデオがテレビで放映されたらしいです。
この人はきっと『鰐』を読んでいたのでしょう。次回(第30回)は9/5(土)、『罪と罰』第1編、第2編です。時間と会場は同じです。



編集室


カンパのお願いとお礼

年6回の読書会と会紙「読書会通信」は、皆様の参加とご支援でつづいております。開催・発行にご協力くださる方は下記の振込み先によろしくお願いします。(一口千円です)

郵便口座名・「読書会通信」 口座番号・00160-0-48024 
 
2015年6月10日~2015年8月3日までにカンパくださいました皆様には、この場をかりて厚くお礼申し上げます。

「読書会通信」編集室 〒274-0825 船橋市前原西6-1-12-816 下原方