ドストエーフスキイ全作品を読む会  読書会通信 No.141  発行:2013.12.1



第260回12月読書会のお知らせ

月 日 : 2013年12月7日(土)
場 所 : 池袋・東京芸術劇場小会議室5(池袋西口徒歩3分)
開 場 : 午後1時30分 
開 始 : 午後2時00分 〜 4時45分
作 品  : 『夏象冬記』米川正夫訳3巻(河出書房新社) 他も可
報告者  :  大野 智之 氏     

会 費  : 1000円(学生500円)

二次会はJR池袋駅西口付近の居酒屋 

2月の読書会は 2014年2月1日(土) です。
 



12・7読書会の作品について


作品は、『夏象冬記』(米川正夫訳 河出書房新社 ド全集3)
     
ドストエーフスキイのロンドン
(中村健之介訳『ドストエフスキー写真と記録』の「夏の印象をめぐる冬の随想」から)

自意識喪失の過程

 外観からしてからが、パリとは大変な違いです。この昼も夜も小止みなく活動している果てのない、まるで海のような町。機械の高く叫ぶ声、低くうなる声。建物の群れの頭上を走る鉄道路線(それはまもなく建物の下も走るのです)、この大胆不敵な企業精神、本当は最高のブルジョア的秩序であるところのこの外見上の無秩序、この毒に犯されたテムーズ河、この煤煙のしみこんだ空気、この壮麗なと言いたいほどの数々の広場や公園、半裸で飢えて荒れた住民の住む、たとえばホワイトチャペルのような、都会のこの数々の暗い地区。百万の冨と全世界の商業を握るシティ…皆さんは、全世界各地からやって来たこれら無数の人々をそこで結びつけて一つの群れにしてしまっている恐るべき力を感じるでしょう…
 ロンドンでは、世界中ここ以外では決して現実にはお目にかかれないようなすざまじい状態におかれた、ものすごい数の群集を見ることが出来ます。たとえば、私の聞いた話では、毎週土曜の夜になると、50万人もの男女の労働者が、子供も連れて、まるで海のように市全体にあふれ出て来て、あるいくつかの地区にとりわけ密集して、夜通し、朝の5時までも休みの日の来たお祝いをやるのだといいます。つまり、まるで家畜のように、まるまる一週間分、腹いっぱい喰って飲んでおこうというわけです…みんな酔っ払っているのに、楽しさはなく、暗鬱で、重苦しくて、みんな奇妙に黙りこくっています…ここでみなさんがごらんになるのは、民衆というものでさえなく、組織化され、奨励され、反抗もなく進んでいる自意識喪失の過程であります…
(『夏象冬記』参照)


年譜  『夏象冬記』誕生まで (米川正夫訳『ドスト全集』から)

・1861年(40歳)1月『時代』誌創刊。『虐げられし人々』を7月号まで連載。完結
     2月19日 農奴解放令発布。
     4月 『時代』に『死の家の記録』を再連載。断続で翌年まで。
     7月 聖ペテルブルグ検閲委員会より『時代』刊行許可下りる。
9月 ドブロリューボフ『現代人』9月号に『打ちのめされた人々』(『虐げられし人々』論)が発表。『時代』誌にアポリナーヤ・スースロヴァの短編
12月  ツルゲーネフ、『死の家の記録』を賞讃。アントーノヴィチ、『現代人』で『時代』を批判。医大生ナジェージダ・スースロヴァ(妹)と交際。
・1862年(41歳)
1月 1月号より『死の家の記録』第二部連載開始(2,3,5、12月号)
     5月 ペテルブルグ大火。後年『悪霊』に生かされる。
     6月7日 最初の外国旅行に出立。
     6月15日 パリ着。
     6月27日 ロンドンに出発。
     7月4日 ゲルツェンを訪問。ロンドンでバクーニンと知己になる。
          ケルン → スイス → イタリアなどを経て帰国の途に。
     8月末 ペテルブルグに帰る。
     12月 『時代』11月号に『いやな話』を発表。アポリナーリヤ・スースロヴァとの交際深まる。
・1863年(42歳)
2月〜3月 『夏象冬記』を『時代』2月号、3月号に掲載。
8月 アポリナーヤ・スースロヴァと再度の外国旅行。一人下車したヴィースバーデンの賭場で5千フラン儲ける。このとき以来、賭博熱にとらわれる。

・1863年2月、3月『夏象冬記』発表
・1862年6月〜8月末 最初のヨーロッパ旅行

☆ドストエフスキー『夏象冬記』

 私が訪ねたのは、ベルリン、ドレスデン、ヴィスバーデン、バーデンバーデン、ケルン、パリ、ロンドン、リュツェルン、ジュネーヴ、ジェノヴァ、フィレンツェ、ミラノ、ヴェネチア、ウィーン、そのうちのいくつかは2度ずつ行きました。これだけの町を、なんと、ちょうど2ヶ月半で回ったのです !

☆ドストエフスキーのN・N・ストラーホフ宛の手紙 1862年6月26日

 パリは、退屈極まりない都会です。この都会には、実際あまりに見事すぎると言いたくなるものが大和ありますが、それがなかったら、まったくの話、退屈のあまり死んでしまいそうです !

☆N・N・ストラーホフ 「ドストエフスキーの思い出」

 当時、彼(ドストエフスキー)は、ゲルツェンに対して大変穏やかな態度をとっていた。ドストエフスキーの『夏象冬記』には、幾分ゲルツェンの影響がみられる。

☆ゲルツェンのN・P・オガリョーフ宛ての手紙 1862年7月17日

 昨日、ドストエフスキーが訪ねてきた。ナイーヴな男で、言うことはあまりはっきりしないがも大変感じのいい男だ。ロシアの民衆を熱狂的に信仰している。

 ※オガリョーフ(1813-1877)ロシアの革命運動家。ゲルツェンの親友。1867年、ドストエフスキーが妻アンナと西欧旅行に出かけてジュネーヴにしばらく住んでいた頃、同地にいたオガリョーフはしばしばドストエフスキー夫妻を訪ねて、本や新聞を届けてくれ、また金も貸してくれた。




10・26読書会報告 

               
10月読書会、2台強力風通過のなか8名参加
10月読書会は、伊豆大島に大きな被害をもたらした大雨台風につづいての、更なる巨大台風27号、28号の襲来で、読書会開催が危ぶまれた。が、幸いにして二つの台風は、同時刻に房総沖を通過、関東上陸はなかった。これにより読書会は無事開催の運びとなった。が、長引く台風情報の影響か、参加者は、いつもの半数8名に留まった。
予想を超えた自然災害がつづく昨今です。台風不安のなか、参加された8名の皆さんお疲れさまでした。
 
題名『虐げられし』の翻訳についての議論も。 中身の濃い読書会に。
参加者がいつもの半数ということで人数的には、ちょつと寂しい読書会でした。が、その分、中身の濃い読書会となりました。報告者の國枝幹生さんの報告は、率直な感想でよかったと思います。若い風を感じました。
議論は、「文学批評とは何か」、「なぜ『虐げられし』か」などが俎上され、話し合われた。このなかで、とくに題名の翻訳が議論された。
題名の『虐げられし』は「踏んだり蹴ったり」「踏みつけられて」「踏みつけにされ辱められた人々」「哀れな人々」「不幸な人々」「屈辱を受けた人々」。他に人物像に対する激論。




『虐げられた人々』 感想  
         

前島省吾

1、題名の問題
 この小説の原題は、「Униженные и оскорбленные」英語訳は The insulted and injured,Humiliated and insulted.など。日本語訳の殆どが「虐げられた人びと」であるが、「モチュリフスキーの評伝ドストエフスキー」松下裕、松下恭子訳は、「虐げられ辱められた人びと」。寺田透は「虐げられた人々」という題に疑問を感じていて、「誇りを傷つけられ、惨めな思いをし(ている人々と)、また不当な扱いに傷つけられた人々」と解釈する。(ドストエフスキーを読む) 研究社露和辞典によれば、Униженные(ウニージェンヌイエ)は、「辱められた、卑しめられた、卑屈な」で、Унижённыеウニジョンヌイエは、「(不幸や侮辱に)打ちひしがれた、虐げられている、卑屈な」となっている。辞書や文法書ではヨと発音される場合はеではなくёとなるが、小説ではその記号は省略されるので、ドストエフスキーがどちらの発音をしていたかわからない。現代のロシア人の朗読ではウニージェンヌイエと読まれているそうである。оскорбленные(アスカルブリョンヌイエ)の訳は、「侮辱された、(名誉心などが)汚された、(自尊心などが)傷つけられた」である。私のロシア語の先生に聞いたところ、Униженные и оскорбленные(対句)は、「卑しめられ辱められた人々」という意味の慣用句になっているが、「虐げられた人々」がふさわしいかどうかは微妙とのことであった。またこの慣用句がドストエフスキーのこの小説の影響を受けたものなのか、それ以前から使われていたかはわからないとのことであった。
 寺田透は、小説の文章に使われているоскорбленныеやобиженные(侮辱を感じて入る、恨んでいる、立腹した)の用例をいくつもあげているが、униженныеの用例はあげていない。私もざっとそれらしいところを調べてみたが、униженныеが使われていたのは次の二か所だけだった。 第六章の終わり近く、イヴァンがネルリに自分の生い立ちを話してくれ、そうすればイフメーネフがナターシャを赦すだろうと頼むシーン。「なにしろあの人は今日娘がアリョーシャに棄てられたことを、そして娘が踏みつけられ(униженная)辱められて、敵の侮辱から助けてくれる人も、護ってくれる人もなく、ただ一人取り残されてしまったことを知っているんだからね。(小沼文彦訳)」そして第九章のイフメーネフの感激のセリフ「あれはまたこのわしの胸に帰って来た!(略)我々を踏みつけにし(униженные)、辱しめたあの傲慢不遜な連中が、今高らかに凱歌をあげていようと、そんなことはかまいはしない。」小笠原豊樹氏も、敵の侮辱に「身をさらし」とか、「卑しめ侮辱した傲慢不遜のやつら」と訳していて「虐げられた」「虐げる」とは訳していない。
 日本訳の題名からは、ワルコフスキー公爵が悪の権化であって、他の登場人物はすべて「虐げられている人々」というイメージが醸成されるが、私は善意の「虐げられた人々」もまた相手に対して不当な扱いをし傷つけてもいると思うので、寺田透の解釈のほうをとりたい。

2、 ナターシャの愛の問題
 私にとって最も関心のあるテーマは、「ナターシャの愛」の問題である。ドストエフスキーはこう書いている。「芸術の課題は、偶然的な風俗ではなく、その偶然性に共通の理念(イデー)であり、類似した生活現象の種々相の中から目ざとく見出され、正確に取り出された理念(イデー)である....天才的な作家は、その時代に即したタイプを見抜き、提供する。(作家の日記 1873年 10 仮装した人)」
 ナターシャはどんな時代のタイプ(典型)なのか、どんなイデーを担っているのか?
 19世紀中頃の女性が結婚前に男性と同棲することは異常なことである。「罪と罰」のドーニャはスヴィドーリガイロフとの噂だけで門柱に黒いタールが塗られた。結婚初夜の翌朝、花嫁が処女であったことを証明するために血のついた肌着やシーツを窓に掲げる風習があった時代である。そのような娘をだしたらその父母も集中的な非難を受けたに違いない。打ちひしがれ、卑しめられ侮辱されたと感じた父が娘を許すことができず勘当したとしても当然の時代であった。ナターシャは、アリョーシャに誘惑されたのではない。虐げられてもいない。アリョーシャを愛の対象として自ら選んだ聡明な自立した女性である。時代の道徳の枠に束縛されない、いわば解放された女性であった。それだけに社会のすべてからの敵意を一身に受け止めねばならなかった。ナターシャは村から追放された。父のイフメーネフも追放される運命であった。仮に公爵との訴訟がなくともイフメーネフは村には住めなかったであろう。村民の公爵への讒言もそういう敵意の表れであった。
 ナターシャとアリョーシャの愛はメロドラマだとか繰り人形だとか言われるが、私は当時の現実を反映しているのではないかと思っている。私はドストエフスキーの作品はドストエフスキーの目を通して理解すべきだと常に考えている。だから19世紀のドストエフスキーの世界を21世紀に舞台を移して現代的観点でドストエフスキーの心とは無関係に外側から批判することは慎まねばならないと思っているが、その愛の理念なり、普遍性を感じ取るために、あえてナターシャの苦境を現代の愛の問題にひきつけて考えてみることにした。優れた作品のイデーは、時代を超える普遍性を持っていると思うからである。
 先日ある助産婦の話を聞いた。現在の日本では毎年20万件妊娠中絶が行われていて、そのうち15才から19才が20497件、すでに手遅れで出産以外の選択肢がなくなった中高生も数多いとのことである。仮に17歳の高校生の娘が、父親の会社の社長の息子と恋愛し、両方の親の反対を押し切って同棲した末妊娠したとしよう。父親はその社長から業務上の過失を咎められて係争中で、父親にとって社長は今や不倶戴天の敵である。社長の息子は善意でお人好しだが聡明さがまるでなく、しかも浮気者である。自分の父親を尊敬していて自分の意志を持たない。社長は結婚に絶対反対で、女子高校生のほうにこそ責任があるといって脅す。娘はもはや妊娠中絶の時期を失った。相手は結婚する気はあるのだが、他の女性に心を移している。娘は相手の気持ちを理解し、自ら去る以外にないと決意する。この事実を突きつけられた娘の父親は、「深く傷つき惨めな思いで」町を彷徨うことだろう。
 助産婦は、「その女子高校生はどんなに辛くとも自分と自分の子を護るためには、生むしかないのです。はからずも父親となった男子高校生がどんなに善意でも今すぐ結婚はできないし、養育もできないのだから、子を育てる責任は女子高校生が引き受けるしかない。もっとも一人で育てることは不可能だから、両親がその責任の一端を担うしかないのです。」と語る。
 言葉でいうのは簡単だが、未成年の未婚の母と子を受け入れることは父親にとって至難の業である。イフメーネフの苦悩はそういう絶望的な父親の苦悩である。しかし責任の一端を引き受ける以外の道はないのである。娘ナターシャをも赦したイフメーネフは、もしナターシャがアリョーシャの子供を生んだとしてもその子供も引き受けるであろう。そうすることによって家族を取り戻すのである。「自我」を確立するのである(注)。「苦悩のエゴイズム」を脱するのである。
 娘を赦さなかった父親スミスは、娘の子供(ネルリ)も赦すことができなかった。これこそ「偶然の家族」の物語である。イフメーネフはスミス老人になることを辛くも逃れた。ドストエフスキーの「偶然の家庭」という普遍的テーマは、「未成年」「カラマーゾフの兄弟」などの大作となって結実するのである。
 問題はこれに尽きるとは思っていない。「狂気」という言葉の頻出、エゴイズム、特に「苦悩のエゴイズム」の問題など謎はつきない。いつか再読して解読したいと思っている。

(注)「世界を観想する主体は、家の親密性のうちの収縮を前提としている。「自我」であることは、「住み着くことである。「住み着くことで自我は自我となる。」(レヴィナスの愛の現象学 内田樹 文春文庫p207)





評論・連載

「ドストエフスキー体験」をめぐる群像                       (第50回) 三島由紀夫の生と死、その運命の謎
安岡章太郎初期作品、小林没後30年にあたって

福井勝也

 今年も急に寒くなって、師走を迎えようとしている。本欄では小林秀雄没後30年にあたり年始(1/26)に逝去された安岡章太郎氏について書いてきた。安岡氏については、もう少し触れてみたいことが出て来た。それは氏が『海辺の光景』(1959)という代表作を発表する以前に、ドストエフスキーの小説を下敷き(「パロディ」)にした初期作品を書いていることだ。何もここで「安岡章太郎とドストエフスキー」などと大げさなテーマを掲げるつもりはない。しかし戦後になって安岡氏が本格的作家に自立してゆく過程で、カリエスで文字通り病臥しながら、ドストエフスキーが影響していた事実は見逃さない方が良いだろう。多摩の読書会で考えた。
 その作品は、現在の新潮文庫版『海辺の光景』(41刷)掲載の二短編として並列しているもので是非読んで欲しい。ひとつは、『蛾』(1953)という短編で、「苦痛を友とする」「「内」の人間である」「くだらない男」の「私」(当時の作家安岡自身と言える)が主人公で、明らかにドストエフスキーの『地下室の手記』を連想させる。話の中身は、耳の穴に突然とびこんだ「蛾」が「私」を苦しめる寓話だが、近所の芋川という変人医者のあっけない処置で「つまらく終わって」しまう結末の話でもある。終わり方に大げさなものが一切ない。それでいて、不思議な余韻が残る。この作品は無論、大仰な哲学的な自己や自我を問題にしたものでなく、カリエスという病気が脊髄や背骨を通して「私」の神経を刺激する、その「痛いとも、痒いとも、くすぐったいともつかぬヘンテコな感覚」を丁寧に表現した「身体感覚」に焦点が当たっている。その感覚を「蛾」という闖入者を比喩に空想化した作品と言えそうだ。そして「蛾」が耳に飛び込んだ夏の夜、主人公は近所を徘徊しながらある思いに到達する。
 「その晩から私の精神状態は、これまでとはまた変わったものとなった。つまり私は、ついに自分の耳の中に虫がいると、信じるようになったのである。・・・あいかわらず虫の暴れだすたびにウナリ声を上げたり、家中をどたりどたり歩いたりしながら、何か落ちつきをもったアキラメのような気持ち、・・・云ってみれば、叫んだり暴れたりすることが自分の職業で、それをやっている限り自分が自分である、というような安定感が出て来た」 (新潮文庫p232)
 この感慨は、この作品のあっけない結末によってもおそらく影響されない不変の「私」の作家的境地のように読める。すなわちそれは、「蛾」が耳から飛び出すという結末とも無関係に達観されている。ここに安岡氏が戦前から模索してきた作家的自己が秘密裏に宣言されているように思う。そして、この「宣言」で重要だと思うのは、同時期の戦後派文学者等が語ったドストエフスキー文学とは違った中身で、それとは無関係に安岡がドストエフスキー文学を独自に肥やしにしていることだろう。すなわち、ドストエフスキーを抽象的自我を問題にした観念的小説家として理解するのではなく、元来ドストエフスキーが表現しようとした例えば地下室人の身体感覚を、安岡は自身の作家的資質に見合うかたちで対照させて引き出し、そこから自らの小説家として独自性を出発させている。思うに「第三の新人」という大風呂敷の戦後文学史的呼称をそろそろ止めて、安岡章太郎という作家の独自な文学的個性を論ずる時期が訪れているのではないか。そして、それがドストエフスキー(の文学表現)とリンクした出発であった事実を指摘しておきたいと思うのだ。
 さらに、そのことを裏付けるもう一つの作品について次に触れてみようと思う。『雨』(1959)という短編で、実は名作として評価が高い『海辺の光景』にさきだって、同年夏の『文學界』(8月号)に発表されたものである。今年2月の安岡氏逝去に伴って今年の『文學界』(4月号)に偶然再掲された。安岡が作家的自己を確立させた同時期の作品として『蛾』と同様注目すべきものだと思う。冒頭を少し長目に引用してみよう。

 つゆどきにしろ、ばかに雨が多かった。雨量としては、それほどでもないらしいのに、来る日も来る日も、ほとんど絶え間なしに降っている。「これで三日目か ―― 」
 私は、心の中でツブやきかえした。レインコートの内側に重いものを吊しているので、前裾を引っぱられて首筋はぴったり閉まっているのだが、雨滴はコートの襟をつたってナマあたたかく喉もとへしたたり落ちてくる。―― なにしろ、こう降ってはヤリ切れない。むかし読んだ何かの小説で、一人の男がつまらぬ女との恋愛で一生を棒にふってしまう話があったが、その男の育った家が洗濯屋だったということを妙にハッキリ憶えている。 実際、洗濯屋というやつは、アイロンの蒸気とナマ乾きの布地の臭いとを、朝から晩まで一年じゅう浴びているわけだが、生まれたときからそんな家に育ったら、たしかに優柔不断の煮え切らない性格になるかもしれない。戦後すぐのころを騒がした有名なKという、女を買い出しに誘っては殺して次つぎに犯した男も、たしか家業は洗濯屋だったし、そういえば夜ふけまで明るい洗濯屋の窓の中には、なにかしら殺伐な、それでいてジワジワとからみついてくる、へんに熱っぽい情念みたいなものが、もやもやと立ちこめているような気がする。―― この三日間、私のとった奇妙な行動も、かんがえてみれば降りつづいている雨のせいかもしれなかった。なにかしら荒くれた、身も心もひとおもいに突き通すような、思い切ったことを考え出さずにはいられなかったのだ。滑稽にも私はナタを片手に三日間、町をさまよいつづけていた。強盗をはたらくつもりだった。いま「滑稽にも」と云ったが、その動機や決心は別段、軽蔑すべきものだったとは思わない。職もなく、家もなく、田舎へ引き上げようにもその旅費もないとなると、他にどうすることもないわけだ。それに強盗という仕事はそんなに難しいものであるはずはない。探偵小説もどきの計算や策略よりも、落ち着いた行動がとれさえすれば万事はうまく行くときまっているのだ。要するに決心ひとつで、あとはそれを支える忍耐心がありさえすれば、仕事自体はごく簡単なことにすぎない。(新潮文庫p241-2)

 書き出しの二行だけでは無理にしても、ほぼこの二頁分(「同文庫」)を読めばこれがドストエフスキーの『罪と罰』を下敷きにしたパロディであることが感じられる。さらにこの後、主人公の「私」(この短編は、とりあえず「一人称小説」だと言えよう)が犯行のため三日間徘徊する街が「Dの駅」を中心にした「Dの町」とも呼ばれている。ここからも、容易に作家ドストエフスキーが連想させられる。それで、本作の『雨』が『罪と罰』のパロディであるとして、次に『罪と罰』とどこがどう違うのか、その偏差を見てゆきながらこの作品の意図に触れてみたい。
 まず、「探偵小説もどき」という言葉があるように、本作は犯罪(強盗)小説として企図されながら、常にその実行行為が未遂に終わる中途半端な結末になっている点に特徴がある。この点『罪と罰』では、(強盗)殺人(それも複数殺人)が小説冒頭で既遂となっていて明らかに違っている。そして、本作はその題名通りに、強盗の動機において貧困という事情も語られるが、それよりも降り続く「雨」とその湿気にその原因が求められている。それは、引用箇所にも明言されている。この点で、『罪と罰』書き出しが、「七月の初め、異常に暑いさかりの夕方近く、ひとりの青年が、S横町にまた借りしている小さな部屋から通りに出ると、なにか心に決めかねているという様子で、ゆっくりとK橋のほうに歩きだした」(亀山郁夫訳、光文社古典新訳文庫)とあるように、ペテルブルグの真夏の(乾燥した)暑さが問題にされているのと対照的なのだ。さらに犯罪動機と言えば、『罪と罰』ではラスコーリニコフのナポレオン思想、その観念が引き合いに出されるが、本作では「雨」による湿気が生み出す「熱っぽい情念」以上のものはとりあえず出てこない。この点では、引用した前作『蛾』(1953)と同様に表現の中心にあるのが、主人公の身体感覚、生理感覚であることが特徴的なのだ。
 しかし、『雨』を読んでみて、もう一度『罪と罰』について考えてみるとき、ラスコーリニコフの犯罪がペテルブルグの夏の異常な暑さの最中ではあったわけだが、その犯行はラスコーリニコフの生理的な身体感覚とその運命的偶然によるもので、ナポレオン思想による観念的殺人という説明が真の動機でもないことがわかってくる。この点で、安岡の『雨』という短編は二重の意味で元作『罪と罰』を「パロディ化」していることがわかる。すなわち『罪と罰』をという作品環境を19世紀(革命前夜)ロシアから米国占領下(閉塞感漂う)戦後日本に置き換えることによって不発に終わるしかない犯罪が描かれ、同時にこの時期に流布された『罪と罰』という小説の観念的(「哲学思想的」)理解を屈折、脱臼するものとして表現されていることだ。ことは、戦後日本でその実現が叫ばれた「政治的革命」(『雨』は1959年の梅雨時執筆と推定できるが、丁度一年後60年には新安保条約改定が強行された。なお、本作の最終部に「もしもし」と職務質問する警察官が登場するが、前年の1958年には警職法反対闘争があった)の歴史的不発の日本的情況とその核心に触れているようにみえてくる。
 それは、物語の終わり、いよいよ「カモ」になりそうな中年の小肥りの女を目の前にして、その風体(紋付の着物に袴をつけ白足袋に足駄をはいた服装をしている)と怪しげなつぶやきによって、その実行を阻む男の出現によって明らかになる。この男は、木立ちに向かって突然放尿したり、弁当を食いながら「どうもいかんですぞ、どうも。」とか「・・・これではかえれない。・・・これではかえれない」とかつぶやき続けていているのだ。この謎の男(真に、この男の正体どう考えるべきか!)を前に「私」は次のように感じる。
 「いつの間にか私は、この無能そうな神主ふうの男に、すっかり束縛されてしまっていることに気がついた。じつは私自身もさっきから尿意をもよおしているのだが、彼のおかげで身動きができないのだ。いっそのこと、先ずこの男を襲ってやろうかとも思うのだが、彼の繰り言を聞いていると、なぜかそれも出来なかった。同情するわけでは決してないのだが、そのぼそぼそと低くひびく声を耳にしただけで、気が滅入り、体じゅうの力がぬけて、何をする気もしなくなるのだ。」   (同文庫p254)
 結局、この謎の男のつぶやき「これではかえれない、これではかえれない」が、自身のものになってしまった「私」に強盗殺人などできようはずがない。結局、冒頭引用の「雨」の描写に還るかたちで本作は閉じられている。巧妙なエンディングだと改めて感心させられた。しかし同時に、日本近代文学が二葉亭四迷によってドストエフスキーの『罪と罰』を手本に開始されたその文学史的顛末も二重写しにしているようで、その仕掛けにため息が出た。さらに言えば、この結末の戦後的閉塞感こそ、三島由紀夫がその後(1970年)突破を図ろうとしたものであって、そのことは歴史的にも文学的にも現在もなお連続している。
 もう一つ、引用した『雨』冒頭の出だしの文章を子細に読んでほしい。ここで僕が気付いたのは、ドストエフスキーが『罪と罰』という作品で実現したとされる「自由間接話法」という文体のことだ。すなわち、一見「一人称小説」と言える本作でありながら、この作品の冒頭の二行と、そして巧みに使用される記号「――」の後の<洗濯屋>が引き合いに出される部分には、主人公の「私」とは別の「語り手」(安岡とも違う「二次的作者」か)が物語叙述に介入して来ているのがわかる。このことが、本作全体に言えるかは別問題だが、この短編の「私」には確かにドストエフスキー的語り手(≒安岡自身)が口を挟んでいる。この短編が、単なる寓話に終わらずに不思議な(歴史的)奥行きを感じさせるのも、この重層的な語りの仕掛けを安岡が実践しているせいではないか。ここまで書いて来て、ドストエフスキーが語ったとされる「われわれは皆、ゴーゴリの『外套』から出て来た」という科白を日本近代文学に敷衍して、「われわれは皆、ドストエフスキーの『罪と罰』から出て来た」と言い直したい気持ちになった。それはともかく、安岡章太郎という作家は、小林秀雄が終生問題にしたドストエフスキーと初期作品から深く関係し、晩年に到るにつれて小林自身との親交を深めて行った。秋を迎えた10月2日、安岡追悼文を書き、こちらも小林秀雄とドストエフスキーそして三島由紀夫とも縁が深かった、文藝評論家の秋山駿氏が逝去された。次号で触れたい。(2013.11.17)





広  場

演劇 東京ノーヴイ・レバートリーシアター主催
    ドストエフスキー作『白痴』を観劇

 11月14日(木)午後6時30分から、JR両国駅近くにある東京両国シアターXの劇場でドストエフスキーの『白痴』を観た。
 『白痴』劇はムイシュキン公爵がどんなふうに演じられるかが注目される。映画では黒澤の森雅之の演技が光った。この劇では、タレントのサカナクンのようなカン高い声と、男女とも区別がつかない細身の体が特徴だった。ムイシュキン公爵を充分に理解している。そんな熱演だった。なぜか『復活』のカチューシャの愛を思いだした。(下原)

12月は10日(火)午後3時から 終了後アフターミーティングあり
2014年は1月16日(木)夕方6時30分 、2月10日(月)夕方6時30分 、3月2日(日)
午後3時から、4月11日(金)夕方6時30分、5月4日(日)午後3時から 終了後アフターミーティング、6月6日(金)夕方6時30分。料金1000円(全席自由席)





編集室

年6回の読書会と会紙「読書会通信」は、皆様の参加ご支援でつづいております。開催・発行にご協力くださる方は下記の振込み先によろしくお願いします。(一口千円です)

郵便口座名・「読書会通信」    口座番号・00160-0-48024 

2013年10月25日〜2013年11月28日までにカンパくださいました皆様には、この場をかりて厚くお礼申し上げます。

「読書会通信」編集室 〒274-0825 船橋市前原西6-1-12-816 下原方場 所 : 池袋・東京芸術劇場小会議室5(池袋西口徒歩3分)